プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月2日)
首都の郊外にも足を踏み入れたことがない人々が、首都の中心部にある宮殿に住む皇帝の外観や栄光について論争している、それが今日の学問の哀れな現状です。あるとき、ブルドワン(バルダマーン)のマハーラージャが会議を開いて、シヴァとヴィシュヌの優れた点を検討したことがありました。対立するパンディト(学僧)たちはそれぞれ、シヴァのパンチャークシャリー(5文字のマントラ)と、ヴィシュヌのアシュタークシャリー(8文字のマントラ)について説き、賞賛しました。マハーラージャは、偉大な学者であり、サーダカ(霊性修行者)でもある宮殿の司祭長に判定を下してもらうことにしました。司祭長は「パンディトたちは皆、シヴァやヴィシュヌを代弁する準備ができているけれども、彼らの中で誰一人としてシヴァやヴィシュヌを見たことがある人はいません」と言いました。そして「どちらかを見たことがある人は、自分が見たことだけでなく、自分が見なかったことについても沈黙を守るはずです」と断言したのです。この言葉で論争は終わり、皆、己の未熟さを恥じて帰っていきました。
―1965年1月30日の御講話
神の本質を理解するためには、人は普遍的な視野を持ち、広がる愛という包括的な概念を育まなければなりません。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月3日)
ハートを清めるためには、シャマ(心の平静)とダマ(感覚の制御)、そして知覚感覚と行動感覚を制御できる他のサーダナ(霊性修行)を実践しなければなりません。これらは初期の段階では難しく感じられるかもしれません。しかし、やりがいのある仕事というものはどれも難点があるものです。自転車に乗ることを例に挙げましょう。あなたが、バランスをとりながら真っすぐにペダルをこぐことを身につけるまでには、何度も転んで擦り傷を負い、いくらかの皮膚が失わなければならなかったでしょう。しかし、ひとたびその技を習得すれば、ハンドルを握らなくとも安全に走ることができるようになります。車の運転を学ぶ人にとっても同様です。最初は、クラッチに足をかけたり離したりすると、ハンドルが握れなくなり、ハンドルを握って(ハンドルとクラッチの)両方を管理しようとすると、今度はブレーキのことを忘れてしまうのです。三つすべてに注意を払っていると、今度は道を走って渡ろうとする歩行者を見逃してしまいます。しかし、やり方を習得すれば、足の上げ下げ、止まり方、ライト、道路の状況などを自然に認識できるようになり、左側や後部座席に座ってい�
�る人と会話したり、誉めてもらおうと歌を歌ったりしていても、安全で速い運転をすることができるようになります。
―1981年4月13日の御言葉
実践なしには何事も成し遂げることはできません。同様に、ウパニシャッドの教えも、実践したときに、その真理が明らかになります。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月4日)
人は、行為を通して意識の純粋さを手に入れます。実際、人はこの目的を考慮して、行為を歓迎しなければなりません。では、なぜ純粋な意識を手に入れようと努力するのでしょうか? 汚れた泥水がたまっているために底が見えない井戸を想像してみなさい。同様に、人間のハートの内部、意識の深みには、アートマン(神霊)〔真我、アートマ〕が存在します。けれども、アートマンは、意識が浄化されたときに、初めて認識できるのです。あなたの想像、推論、判断、先入観、熱情、情緒、利己的な欲望は、その意識を濁らせ、不透明にします。では、どうすれば、まさしくその基底にあるアートマンに気づけるようになるのでしょう? エゴをなだめる欲望のない、他者の幸福だけを考えたセヴァ(奉仕)を通じて、意識を浄化し、アートマンを顕現させることができます。
―1977年3月6日の御講話
奉仕は愛から湧き出して、愛を豊かに撒き散らすべきです。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月8日)
見えるもの、実際に存在するように見えるものは、時の流れの中で過ぎ去る運命にあります。現象界の中で見えているものはすべて、いつか消え去る運命にあります。私たちは、目に見えない不滅なるものを知るために、あらゆる努力を払うべきです。計り知れない能力を授かっている人間が、肉眼で見えるもので満足するのは正しいことではありません。そのような目は、野獣にも鳥にも、昆虫にも病原菌にも、等しく備わっているのです。それでは、人間に与えられた視覚の独自性は何でしょうか?確実に人として誕生することは難しいのだということを、理解しなければなりません。この特権を得ているのですから、人間は肉眼で見えるもので満足してはなりません。人間は叡智の目を獲得しなくてはならないのです。肉眼でさえも、知識を得る助けとなるではないかという議論があるかもしれません。目はすべてを見ますが、自分自身を見ることはできません。自分自身を見ることのできない目が、どうやって心(マインド)を見たり、マーダヴァ(主)を見たりすることができるでしょう?主を見るためには、肉眼は役に立ちません。そのためには、英知の目を獲得しなければなりませ�
�ん。
ー1995年10月22日の御講話
変化する宇宙を支えている不変の神性原理を認識した場合にのみ、あなたは全宇宙のあらゆる秘密を容易に理解することができます。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月9日)
体温は一定の基準に保たれなければなりません。体温がその基準を上回ったり下回ったりすれば、それは病気の兆候です。同様に、自然環境を構成している五大元素のバランスが保たれていれば、世界は健全な状態で存在します。もし、このバランスが乱され、元素が汚染されてしまったら、その国はさまざまな意味で苦しむことになります。科学と技術の産物が大気や河川や海を汚し、大自然のバランスを乱れさせるならば、たくさんの有害な結果が生じます。汚染は多くの新しい疾病を生じさせます。現代では、きれいな空気ですら希少品となってしまいました。地球の四分の三は水で覆われています。海底には多くの鉱物があります。しかしそれらを採取するときには、限度を守るべきです。さもなければ、たとえ陸と一線を画している大海でも、その境界を越えて押し寄せて来ることがあります。地震や火山の噴火すらも、自然界の生態系のバランスを乱した結果によって起こるのです。
―1983年6月16日の御講話
人間性が衰えているのは、人間が生活のバランスを欠いているからです。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月10日)
最近私はボンベイで開かれた「科学と霊性」に関するシンポジウムに出席しました。そのとき著名な科学者が「大国が保有している核兵器には、地球を十回以上破壊できるだけの原子爆弾が含まれています」と発言しました。このような兵器製造所を建設する感覚とはどんなものなのでしょう?一回地球を破壊したならば、残りの爆弾は何を破壊するために残されるのでしょう?その過程で、あなた方は自分自身を破壊してしまうでしょう。研究に従事している人々は、己の研究の結果によって人々の幸福を促進することよりも、己の名声や評判を高めることに、より多くの関心を持っているように見受けられます。自分が発見した結果生じた有害なものごとについて、悩んでいるようにも見えません。他の人に害をもたらすことは、偉大なことでも何でもありません。たった一つの爆弾で百万人を壊滅させることは、全然偉大ではありません。この世界の中で、一人の人間に対し善を行うほうが、はるかに賞賛価値があります。私たちが得る科学的知識は、私たちの隣人の益のために使用されなければなりません。正しい教育とはただ一つ、学生たちが公正無私にふるまえるよう準備を整えるこ�
�とです。至高の霊性科学を探求すること(バラータ・ヴィグニャーナ・シャーストラ)は、物理学(パダールタ・ヴィグニャーナム)に関わるよりも、もっと大切なことです。
―1983年6月16日の御講話
平和を確保するためには、科学を正しい路線で推進しなければなりません。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月13日)
知識の真の姿は謙虚さです。プライドと自惚れを捨て、正しい目標を追い求めなさい。今日の学生たちは相当な科学的知識を身につけています。それは現象界における文明的生活を促進するためにのみ役立ちます。しかし、今日の学生たちに必要なのは、ハートを純化させることです。これは内面的プロセスによってのみ可能となります。現代文化を身につけた学生たちは、知性を磨くだけでなく、広い視野も養わなければなりません。この時代、学生たちには二つの義務があります。ひとつは現代文明の課題に立ち向かうこと、もうひとつは古来からの霊的遺産や文化的遺産を保護し保全することです。学生たちは、理想的な国家市民として輝くべきです。完全な教育は、人を情け深くします。学生たちは、身体に適切な運動を与えるだけでなく、ハートを育て、ハートを純粋に保つよう努めるべきです。
―1993年3月4日の御講話
人は、自然科学の知識と共に、謙虚さ、規律、善良な人格を身につける必要があります。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月14日)
摂取する食べ物に熱心であること以外に、ダイヴァ・チンタナ(神の黙想)もすべきです。神のことを考えないため、人々は多くの不幸に見舞われやすいのです。神聖な思いを持たない人間は、二つの悪い性質を持っています。ひとつは多くの欠点や邪悪な性質を自分自身の中に隠していること、もうひとつは他人の些細な欠点さえも拡大解釈してしまうことです。このような人間の悪い性質のために、病気も増えています。たとえ人間の努力があったとしても、神の恩寵があればこそ、良い結果が得られるのです。ダルマールタ・カーマ・モークシャナム・アーローギャム・ムラム・ウッタマム(Dharmartha Kama Mokshanam Arogyam Mulam Utthamam(人生の四つの目標を達成するためには、健康が不可欠である)というサンスクリット語の格言があります。たとえ世界中の富を持っていたとしても、健康が損なわれていたら、その人は不幸です。村人であろうと都会人であろうと、有意義な人生を送るために最も重要なものは、健康なのです。
―1994年1月29日の御講話
高潔な想念、思想、感情を育むなら、その人の心(マインド)はきらめく純粋性で輝きます。心(マインド)の純粋性を育むことによってのみ、行動の純粋性を確保することができます。純粋な行為だけが、純粋な結果をもたらすのです。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月15日)
サイの帰依者は、私たちの文化の本質を理解すべきです。犠牲と奉仕がその二つの基本要素です。神我実現には二つの方法があります。一つは、帰依者が自らを神の召使いとみなす信愛の道です。「ダーソーハム(私はあなたの召使いです)」と繰り返し言明することによって、世俗的な執着という束縛が抜け落ちるまで己のエゴを減らし続けるのです。もう一つの手段は、ジニャーナ・マールガ(英知の道)です。「シヴォーハム(私は神である)」という神との一体感を常に育むことによって、普遍的意識と一体化するまでその人の意識が広がり、あらゆる世俗的束縛は断ち切られます。この広大な宇宙における己の位置を調べれば、自分が無限に小さいことに気づくでしょう。エゴイズムは無知から生じます。エゴを追い出して、愛を育みなさい。愛と共に、犠牲の精神を育みなさい。犠牲だけが不滅をもたらすことができると、ウパニシャッドは述べています。犠牲は至福と健康をもたらすことができます。分かち合う喜びを体験しなさい。健全な健康への鍵は、放棄です。
―1997年4月11日の御講話
犠牲から生じる愛が現れるとき、奉仕は意味あるものとなります。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月19日)
本当のことを言えば、人間の生命は神々しく、崇高で、神聖で、常に新しく、常に新鮮です。人間がエゴと欲望に包まれ、無知の中でまどろんでいるため、ウパニシャッドは人間を目覚めさせて、この真理の意識を呼び覚まそうとしています。「目覚めよ、太陽を崇めよ、そしてその光の中で己の実在を認識せよ」―これがウパニシャッドから響き渡る呼びかけです。しかし、人間はその懇願に耳を貸しません。三つのエーシャナ(熱烈な欲望)が人間を押しとどめています。人は富と妻と子に夢中です。これらの障害物は霊的進歩の各段階のハンディキャップとなります。もちろん、生活していく上で金銭は必要不可欠であり、そのために労働することは避けられません。しかし、限度を超えた富は心(マインド)を汚し、傲慢さを育てます。富は、美徳と幸福を促進し、ダルマ(徳)を育み、神聖な道に沿って己の義務を果たすという、善良な目的のために使われなければなりません。刹那的な欲望を実現するために富を費やすなら、決して足りることはなく、エゴがより新しく凶悪な稼ぎ方や使い方を発見するようになります。
―1981年4月13日の御講話
常に目標に心を集中させながら人生を送りなさい。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月20日)
人間と悪魔の違いは性質にあるのみです。悪魔には映画や本で描かれるような独特な身体の特徴はありません。悪魔は人間でもあるのです。人間が悪魔になるのは性質によってのみのことです。『バーガヴァタム』に素晴らしい一例があります。クリシュナは神でした。クリシュナの両親、デーヴァキーとヴァスデーヴァは、正真の人間でした。そして、デーヴァキーの兄のカムサは悪魔でした。このように、神と人間と悪魔という三種のすべてが一家族の中に存在することさえできるのです!カムサはその怒りと残酷さゆえに悪魔でした。デーヴァキーとヴァスデーヴァはその優しさと思いやりゆえに人間でした。あらゆる属性を超越する神の特性を具(そな)えていたクリシュナは、神でした。
―『1995年夏期講習シュリーマド・バーガヴァタム』第8章
世俗的な心の持ち主や、悪魔的な性質に染まった人々と付き合うのはやめなさい。賢明で善良な人々との交際を常に探し求めなさい。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月21日)
善も悪も、すべては神の意志です。善悪に差異を設けるべきではありません。人々は、良い出来事は神の意志であり、不幸な出来事はそうではないと信じています。この世には、甘い食べ物だけを食べる人も、苦い食べ物だけを食べる人もいません。誰も皆。甘い食べ物と苦い食べ物の両方を食べます。言い換えるなら、誰もが善と悪の両方を味わうということです。よく調べてみれば、苦い経験も必要なのです!そうあって初めて、平和と安らぎと至福の価値に感謝することができるのです。苦楽は相伴います。誰もそれから逃げることはできません。どこであれ、幸福は単独では存在しません。幸福は困難を超えたときの報いなのです。赤ちゃんは次第におじいさんになっていきます。けれども、両者は別人ではありません。それと同様に、私たちの中にある善が悪に変わることもあれば、悪が善になることもあるのです。両方が一体であることを実感すべきです。この一体性を理解させてくれるものは、私たちの神性です。神性からとおざかったとき、私たちは悪魔的状態、動物的状態へと堕落するのです。
―『1995年夏期講習シュリーマド・バーガヴァタム』第8章
等しい心で善悪を受け入れることは、あなたをブラフマンの悟りへと導く最高位の美徳です。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月22日)
私が降臨した目的は、小さな欲望を満たすためでも、あなた方が今しがた聞いたような小さな出来事に携わるためでもありません。私には、私が確立しなければならない崇高な真理があります。私がもたらさなければなければならない人間の前途の著しい変化があります。私がそのために降臨した任務、すなわち、唯一なる永遠の真理の確立を果たすことを、阻止したり、思いとどまらせたりできる者は誰一人いません。私たちの前途にあるサイの使命を達成させるにあたって、皆さんには担うべき役割があります。ダルマの確立は、私たちが直ちに精力を注がなければならない任務であり、サイの仕事を達成させるにあたって、あなた方が皆、それがどれほど小さなものであっても、自分の役割を果たすことを私は望んでいます。万物は真理に依存しているのですから、真理は何者かに譲らなければならないようなものではありません。非真実は、接触したほぼすべての人から、ないがしろにされなければいけません。真理は決して誰にも屈従することはありません。この姿は、真理の権化である、サティヤ サイの姿です
―1974年夏期講習、第32章
サイの愛と恩寵は、美しい花の姿や無邪気な子供の甘い微笑みよりも心を癒し、安らぎを与えます。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月26日)
御名は、あなたに世俗の人生という海を越えさせる小舟であると信じなさい。御姿を観想するよりも、御名の方がもっと効果があります。ドラウパディーは、クリシュナが彼女を救いに現れるために戦車を送りませんでした。彼女は苦しみの中でクリシュナの御名を口にしました。そしてクリシュナがそれに応えて、彼女を差し迫った不名誉から救ったのです。トレーターユガにおいては、ラーマーヤナの物語が進行していたとき、ナラと猿たちが、海の向こうのランカーへ渡る橋を作っていました。彼らはラーマの御名を刻んだ巨石を海に浮かべましたが、風と波のため巨石は流れていってしまいました。これでは軍隊が渡るためのつながった橋を造ることができません。ある頭のいい人物が、一つの巨石に「ラー」と書き、もう一つの巨石に「マ」と書くことを提案しました。すると二つの石はしっかりとくっついたのです。あなたにとっても、御名は浮き輪の役割を果たすでしょう。それはあなたを神にくっつけ、あなたに神の恩寵をもたらすでしょう!
―1965年10月24日の御講話
訳注:ナラは、猿軍(ヴァーナラ)の一員で、神々の建築家であるヴィシュワカルマの息子。ラーヴァナの王国であるランカーへ渡る橋作りを指揮した。
あなたの命の息吹そのものである御名があれば、あなたは堕落を恐れることなく、人生のあらゆる活動に従事することができます。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月27日)
満足、謙虚、無執着―これらがあなたを真理の道にい続けさせます。ある露天商が、空の瓶でいっぱいの籠を頭に載せてバザールまで歩いていました。彼はこれを売って十ルピーの利益を得るつもりでした。そして十日後には百ルピーの儲けになると計算しました。それを元手にして、もっと儲かる取引に乗り換えることを計画していました。そうすれば、数カ月で十万ルピーを稼ぐことができて、素敵な庭付きの一軒家を建て、使用人たちが喜んで家中の世話をしてくれるだろうと想像していました。そこで彼は、緑の中のソファの上で孫たちと遊んでいる自分の姿を見ました。その魅力的な光景に夢中になっていると、突然、孫たちの中に使用人の子供が入り込んでいるのが見えたのです。彼はこの望んでいなかった侵入者に怒りました。その空想が現実のものであると信じ込んでいた彼は、いきなりその子供をつかむと、力を込めて素早く突き飛ばしました。すると空き瓶の入った籠は道路に落ちて、すべての希望も、十ルピーさえも失ってしまったのです!貪欲という貧弱な土台の上に築かれた夢は、こうして終わりを迎えました。
―1965年10月24日の御講話
無知な人は満足を得られません。彼は、次々と願い事を重ね、次から次へと計画を立て、年がら年中思い悩み、いつも心配し、ハートを貪欲で燃え上がらせています。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月28日)
人は常に落ち着いて考えなければなりません。そうして初めて、人は心(マインド)を平静を保つことができます。それは単純に心(マインド)の修練の問題です。初めのうちは困難ですが、ひとたび身につけば、あらゆる悩みや心配事に打ち勝つことができるようになります!波立つことのない心(マインド)は、前に向かって進んでいるすべての求道者にとってなくてはならないものです。それはとても有益な特質です。そのような心(マインド)は真の力と幸福を与えてくれます。それを得るために努力しなさい。たとえ災難に見舞われたとしても、ハートを失ってはなりません。心(マインド)は常に純粋で、汚れることなく、穏やかで、勇気に満ちていなければなりません。過去を悔やまず、目の前の仕事をこなすことに躊躇しないこと―それが求道者のしるしです。儲かったり、喜んだり、喝采を浴びたときには有頂天になり、損したり、困ったときには意気消沈する。―これらはすべての人間に共通する自然な性質です。それでは、求道者の優れている点は何でしょう?原則を忘れてはなりません。注意深くありなさい。そして、避けられない事態は喜んで受け止めなさい。困難や�
�損失に打ちのめされているときには、正気を失ってやみくもに行動してはなりません。気を落ち着けて、なぜそうなったのかを瞑想しなさい。平安の雰囲気の中で、それらを克服するか回避するシンプルな方法を見出そうと努めなさい。
– Ch 6, Prasanthi Vahini.
知性を研ぎ澄ますためには、平安が不可欠です。焦りと心配は知性を混乱させます。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月29日)
愛の化身である皆さん!どのような分野においても、どのような時であっても、どんな人物であっても、これら六つの貴重な資質すべてを授けられたなら、成功が約束されます。これらの資質は、人間のあらゆる幸運に寄与します。すべての成功は、これらの六つの資質を備えた者にもたらされます。しかし、これらの資質はときにさまざまな困難に直面する。学生がさまざまな試験に立ち向かわなければならないように、これらの資質も試練にさらされます。このような試練は、高い成果を得るための足がかりとして考えるべきです。これらの試練は、損失、トラブル、痛み、苦しみ、中傷といった形で現れます。人は勇気と自信をもってこれらの試練を乗り越え、前に進まなければなりません。特に学生は自信を養わなければなりません。自信がなければ、六つの資質を身につけることはできません。もっとはっきり言うならば、自信がすべての人の生気となるべきです。
―1997年1月14日の御講話
訳注:六つの資質とは、熱意、決意、勇気、知力、能力、勇敢な行動。
自信を人生における最も重要な財産とみなすべきです。自信がなければ、決して至福を得ることはできません。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月30日)
ヴィシュワーミトラ王は、己の知力、体力、武力を頼りにして、神の力を頼りにする聖者ヴァシシュタに戦争をしかけました。最終的に彼は、霊力に対抗しても、自分の力は何の役にも立たないという真理を悟り、王国を放棄して厳しい苦行に明け暮れました。武勇があっても、全く何の力にもなりません。それは本当は弱さの表れなのです。あらゆる物理的な力は実に無力です。この世の富はすべて無常です。今日の人間は、己に内在する神性を忘れて、一時的な快楽を追い求めています。学生諸君は自信を培い、自分の発言や歌やスポーツや全ての活動の中に己の神性を顕現させるべきです。しかし、時には彼らの中の弱さが表に出ることもあります。例えば、悩みに屈したり、悲しみに打ちひしがれたり、喪失に立ち向かえないとき、彼らは内なる弱さを見せます。学生諸君は、不屈の精神でそのような状況に立ち向かうべきです。恐れることなく、勇気をもって困難に立ち向かえば、あなたは必ず成功するでしょう。それゆえ、自分に自信を持ち、人生のあらゆる分野において成功を収めなさい。
―1997年1月14日の御講話
自分自身を信じれば、自分に満足できるようになり、自分を犠牲にすることができるようになります。そして最終的には真の自分を実現できるようになるのです。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月2日)
16歳から30歳までの年齢は非常に重要です。というのも、この期間に人生は甘美さを増し、才能と技術と態度が備わってゆき、洗練され、そして神聖なものとなるからです。この時期に無私の奉仕(セヴァ)という強壮剤を心に投与するなら、人生の使命は果たされます。なぜならこの強壮剤によって、純化と聖化のプロセスが早まるからです。報酬のため、注目を集めるため、感謝を得るため、あるいは技術や富や地位や権威において自分が優れているというプライドから、奉仕をしてはなりません。自分が愛に促されているから、という理由で奉仕をしなさい。成功したときには、その成功は、あなたの中にある愛として、あなたを促してくれた神の恩寵なのだと思いなさい。失敗したときには、その失敗を自分自身の力不足や偽善、あるいは無知のせいにしなさい。行動の源泉が何だったのかをよく調べ、そこからエゴの痕跡をすべて消し去りなさい。セヴァの受け取り手、あなたに協力してくれた人、あなたと共に働く人々、あるいは神に責任をなすりつけてはなりません。
―1969年5月19日の御講話
喜んで手放し、苦しむ準備が整っていて、あらゆるすすり泣きやうめき声に反応する思いやり深いハートから、奉仕が生じなければなりません。―ババ
(訂正)
昨日配信した御言葉は2023年7月3日のものでした。
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月4日)
今あなた方は、新しい社会を建設しようという計画を世界中で耳にしているでしょう。その運動の目的として明言されているものの中には、日々の生活必需品と生活を便利にするさまざまなものを広く供給すること、そして、富を等しく分配することがあります。これは望ましいことでしょう。しかし、果たしてこれは実行可能でしょうか? 財産、所有物、生活を便利にするもの、生活を快適にするものを等しく分配することは可能かもしれません。けれども、すべての人の欲望を等しく制限することは可能でしょうか? もし欲望が等しく制限されないなら、不満が起こるのは必至です。社会主義者のドクトリンは不可能な概念です。一方、神は世界のすべての物の根源であるという事実を認識すること以上に不可欠なことはありません。インドの聖賢たちによれば、人が摂取する食物の源泉、すべての生き物を支える力、あらゆるものの創造の基盤は、神です。この根源的真実が忘れ去られているために、今日の世界は、飢餓や紛争、戦争や動乱にひどく苦しめられているのです。
―1984年7月13日の御講話
神はすべてのエネルギーの源泉です。このことに気づかなければ、私たちが呼吸する空気、私たちが享受する光、生活を維持している熱の、本当の源泉に感謝できないでしょう。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月5日)
サットサングとは、「サット」に会う、という意味です。「サット」とは、サット・チット・アーナンダとして神を賛美するときの「サット」です。「サット」とは実在原理であり、宇宙の根本的真理である「イーシュ」(主)です。真実、あなたの中の「サット」、光を見ることのない心(マインド)によって課せられたミッティヤー(虚偽)の上にあるサティヤ(真実)、あなたの中にある「サット」、真理と協調しなさい。その「サット」の中に棲むことによって、炎が灯り、光が明け、闇が去り、ジニャーナ・バースカラ(叡智の太陽)が昇ります。地下に硬い岩がある場合、いつも地下を流れている清らかな水を汲むためには、より一層深く掘らなければなりません。地中の土が柔らかければ柔らかいほど、より早く成功します。あなたのハートを柔らかくしなさい。それが地盤を柔らかくするプロセスです。慈愛と共感を育み、奉仕に従事し、貧困や病気、苦悩や絶望にある苦しみを理解し、涙も歓声も他の人々と分かち合いなさい。それがハートを柔らかくし、サーダナの成功を助ける方法です。
―1969年5月10日の御講話
あなたの人生が拡大すると、同じ割合で、あなたの至福も拡大するでしょう。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月6日)
自然の中にあるすべてのもの、時間の中で起こるすべての出来事は、本当はあなたに教訓を伝え、教えているのです。ある朝、ダクシナームールティは海辺に沿ってゆっくりと歩いていました。彼は波に目をやり、そこからある教訓を得ました。波は、一本の麦わらが岸辺に打ち上げられるまで、一つの波頭から別の波頭へと移動させながら、手順よくゆっくりと運んでいました。海は広々としています。海は深く、強大です。しかしそれでも海は、自分自身から、自分とは無関係な物事を常に取り除こうとしています。欲望とは、つまらない一本の麦わらである、という単純な理由から、欲望をないがしろにしてはならないことを、海は知っています。欲望は、害を及ぼすことのできない岸辺へと、押し戻されなければなりません。絶えず警戒することが、平安と幸福の代償です。ダクシナームールティは「素晴らしい!海は私に大いなる教訓を教えてくれた!」と叫びました。それは、欲望が頭をもたげたときには、危険が隠れている、という教訓です。
―1969年7月29日の御講話
己の欲望を減らし、犠牲を促すことによって、私たちは栄光の高みへと昇り、自国のために善をなすことができるようになります。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月5日)
サットサングとは、「サット」に会う、という意味です。「サット」とは、サット・チット・アーナンダとして神を賛美するときの「サット」です。「サット」とは実在原理であり、宇宙の根本的真理である「イーシュ」(主)です。真実、あなたの中の「サット」、光を見ることのない心(マインド)によって課せられたミッティヤー(虚偽)の上にあるサティヤ(真実)、あなたの中にある「サット」、真理と協調しなさい。その「サット」の中に棲むことによって、炎が灯り、光が明け、闇が去り、ジニャーナ・バースカラ(叡智の太陽)が昇ります。地下に硬い岩がある場合、いつも地下を流れている清らかな水を汲むためには、より一層深く掘らなければなりません。地中の土が柔らかければ柔らかいほど、より早く成功します。あなたのハートを柔らかくしなさい。それが地盤を柔らかくするプロセスです。慈愛と共感を育み、奉仕に従事し、貧困や病気、苦悩や絶望にある苦しみを理解し、涙も歓声も他の人々と分かち合いなさい。それがハートを柔らかくし、サーダナの成功を助ける方法です。
―1969年5月10日の御講話
あなたの人生が拡大すると、同じ割合で、あなたの至福も拡大するでしょう。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月6日)
自然の中にあるすべてのもの、時間の中で起こるすべての出来事は、本当はあなたに教訓を伝え、教えているのです。ある朝、ダクシナームールティは海辺に沿ってゆっくりと歩いていました。彼は波に目をやり、そこからある教訓を得ました。波は、一本の麦わらが岸辺に打ち上げられるまで、一つの波頭から別の波頭へと移動させながら、手順よくゆっくりと運んでいました。海は広々としています。海は深く、強大です。しかしそれでも海は、自分自身から、自分とは無関係な物事を常に取り除こうとしています。欲望とは、つまらない一本の麦わらである、という単純な理由から、欲望をないがしろにしてはならないことを、海は知っています。欲望は、害を及ぼすことのできない岸辺へと、押し戻されなければなりません。絶えず警戒することが、平安と幸福の代償です。ダクシナームールティは「素晴らしい!海は私に大いなる教訓を教えてくれた!」と叫びました。それは、欲望が頭をもたげたときには、危険が隠れている、という教訓です。
―1969年7月29日の御講話
己の欲望を減らし、犠牲を促すことによって、私たちは栄光の高みへと昇り、自国のために善をなすことができるようになります。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月7日)
毎日の生活の中の一つひとつの行いを、神に信愛を捧げる行為へと変えるべきです。カーシー〔現在のヴァーラーナスィー〕で市当局が街灯に火を灯す職務に数名を任命しました。その雇用者の中に、ある一人の霊性修行者(サーダカ)がいました。彼の仕事は、ランプに給油し、火が消えないようにランプの火屋(ほや)を取りつけることでした。彼はラーマの栄光を歌いながら一つひとつ街灯を点(つ)けてまわりました。彼は、火屋を磨いて火を灯している最中にも歌っていました。当局は、その霊性修行者が火を点けた道のランプは、他の場所のランプよりも明るく光っていることに気がつきました。そして、その原因は、その偉大な帰依者が神への信愛を込めて火を灯していたためであることがわかりました。この話の教訓は、どんな行為も献身の心で神への捧げ物として行うならば、人は喜びを体験し、満足感を得ることができるということです。
―1984年7月13日の御講話
主への捧げものとして活動すると、あなたにとっての善(スワールタ)、より高次の善(パラールタ)、最高善(パラマールタ)は、すべてひとつになります。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月8日)
スワミの神聖な愛(プレーマ)には、ほんのわずかな私欲もありません。それは完全に純粋です。スワミが知っているのは与える方法のみであり、受け取る方法は知りません。スワミの手は、何かを授けるために持ち上げられますが、何かを求めて伸ばされることはありません。さらに、ひとたびスワミが「あなたは私のものです」と言ったなら、その相手がどれほど悪い道に進んだとしても、スワミはその人を見捨てません。「あなたは私のものです」といってスワミに受け入れられた人が、なぜ困難やトラブルに見舞われるのか? という問いがあがるかもしれません。そうしたトラブルは、その人自身の行為(カルマ)の報いです。彼らは自分の行いが正しいかどうかを見なければいけません。たとえば、主から百年の寿命という恩寵を授かった人が、いい気になって、自分は一世紀生きるのだと、自信満々に木から飛び降りたとします。その人は百年生きるかもしれませんが、木から落ちて足を骨折したまま生きるのかもしれません。ですから、神の恩寵を受け取ったなら、正しい生活を送るよう努めるべきです。
―1984年7月13日の御言葉
あなたが何をしようとも、どこにいようとも、私があなたと共に、あなたの内にいることを覚えておきなさい。―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月9日)
それぞれの宗教は、神の一つの御名と一つの御姿を強調し、それを受け入れるよう勧めます。神はそれ以外の御名や御姿を持っていない、と主張する人々さえいます。しかし、実在は名と姿を超越しています。その特徴はアクシャラ(不滅、永遠)であり、その姿はオームです。あなた方は三段階のサーダナ(霊性修行)を経て、無属性の境地、アクシャラの境地に到達します。 (一) 私はあなたのものです。(二)あなたは私のものです。(三)あなたは私自身です。サーダナを通じて、「私」と「あなた」という二元性を超越しなければなりません。「私」とは、この肉体の中にある「あなた」の反映でしかありません。二元性を手放したとき、成就に到達します。「教会の中で生まれるのは良いことだが、教会の中で死ぬのは良くない」と言われてきたのは、そのためです。つまり人は、人生を終える前に、制度化された宗教によって定められた限度を超えて、すべてに遍満しているアートマンの広大な無限の広がりに到達しなければならないのです。
―1969年7月29日の御講話
神はあらゆる時代とあらゆる姿を超越しています。愛だけが神の真の姿です。あなたが目にするすべての姿の中に、同一の愛が存在しているのです―ババ
プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月10日)
私が誰かに約束したなら、もしその相手が私に敵対するようになったとしても、私はその人に対して悪意は抱きません。たとえその人が私をののしっても、私はその人を愛し続けます。私は、私の堅い約束を最後の最後まで守り通します。いつの日か、その人は正しい道に戻ってくるでしょう。状況に強いられて、何らかの変化が起こることもあるでしょう。それらは永続するものではありません。私は、そのようなものが起こったからといって、自分の進路を変えません。これは私の二つ目の決意です。次は、私の三つ目の決意です。私が何かに従事するとき、それは、万人の幸福のためになることだ、社会全体にとって善いことだと思うからであり、何が起ころうと私はそれをあきらめません。たとえ全世界が私に敵対したとしても、私は後戻りすることなく、前進するのみです。これらが私の三つの決意です。前に出した足を引っ込めることはありません。私は、自分が約束した言葉を反故にすることはありません。私は与えるのみで、受け取りません。
―1984年7月13日の御講話
一歩だけ前に進みなさい。私はあなたに向かって百歩進むでしょう。―ババ