Japanese, 2023年6,7月

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月2日)

首都の郊外にも足を踏み入れたことがない人々が、首都の中心部にある宮殿に住む皇帝の外観や栄光について論争している、それが今日の学問の哀れな現状です。あるとき、ブルドワン(バルダマーン)のマハーラージャが会議を開いて、シヴァとヴィシュヌの優れた点を検討したことがありました。対立するパンディト(学僧)たちはそれぞれ、シヴァのパンチャークシャリー(5文字のマントラ)と、ヴィシュヌのアシュタークシャリー(8文字のマントラ)について説き、賞賛しました。マハーラージャは、偉大な学者であり、サーダカ(霊性修行者)でもある宮殿の司祭長に判定を下してもらうことにしました。司祭長は「パンディトたちは皆、シヴァやヴィシュヌを代弁する準備ができているけれども、彼らの中で誰一人としてシヴァやヴィシュヌを見たことがある人はいません」と言いました。そして「どちらかを見たことがある人は、自分が見たことだけでなく、自分が見なかったことについても沈黙を守るはずです」と断言したのです。この言葉で論争は終わり、皆、己の未熟さを恥じて帰っていきました。

―1965年1月30日の御講話

神の本質を理解するためには、人は普遍的な視野を持ち、広がる愛という包括的な概念を育まなければなりません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月3日)

ハートを清めるためには、シャマ(心の平静)とダマ(感覚の制御)、そして知覚感覚と行動感覚を制御できる他のサーダナ(霊性修行)を実践しなければなりません。これらは初期の段階では難しく感じられるかもしれません。しかし、やりがいのある仕事というものはどれも難点があるものです。自転車に乗ることを例に挙げましょう。あなたが、バランスをとりながら真っすぐにペダルをこぐことを身につけるまでには、何度も転んで擦り傷を負い、いくらかの皮膚が失わなければならなかったでしょう。しかし、ひとたびその技を習得すれば、ハンドルを握らなくとも安全に走ることができるようになります。車の運転を学ぶ人にとっても同様です。最初は、クラッチに足をかけたり離したりすると、ハンドルが握れなくなり、ハンドルを握って(ハンドルとクラッチの)両方を管理しようとすると、今度はブレーキのことを忘れてしまうのです。三つすべてに注意を払っていると、今度は道を走って渡ろうとする歩行者を見逃してしまいます。しかし、やり方を習得すれば、足の上げ下げ、止まり方、ライト、道路の状況などを自然に認識できるようになり、左側や後部座席に座ってい�
�る人と会話したり、誉めてもらおうと歌を歌ったりしていても、安全で速い運転をすることができるようになります。

―1981年4月13日の御言葉

実践なしには何事も成し遂げることはできません。同様に、ウパニシャッドの教えも、実践したときに、その真理が明らかになります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月4日)

人は、行為を通して意識の純粋さを手に入れます。実際、人はこの目的を考慮して、行為を歓迎しなければなりません。では、なぜ純粋な意識を手に入れようと努力するのでしょうか? 汚れた泥水がたまっているために底が見えない井戸を想像してみなさい。同様に、人間のハートの内部、意識の深みには、アートマン(神霊)〔真我、アートマ〕が存在します。けれども、アートマンは、意識が浄化されたときに、初めて認識できるのです。あなたの想像、推論、判断、先入観、熱情、情緒、利己的な欲望は、その意識を濁らせ、不透明にします。では、どうすれば、まさしくその基底にあるアートマンに気づけるようになるのでしょう? エゴをなだめる欲望のない、他者の幸福だけを考えたセヴァ(奉仕)を通じて、意識を浄化し、アートマンを顕現させることができます。

―1977年3月6日の御講話

奉仕は愛から湧き出して、愛を豊かに撒き散らすべきです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月8日)

見えるもの、実際に存在するように見えるものは、時の流れの中で過ぎ去る運命にあります。現象界の中で見えているものはすべて、いつか消え去る運命にあります。私たちは、目に見えない不滅なるものを知るために、あらゆる努力を払うべきです。計り知れない能力を授かっている人間が、肉眼で見えるもので満足するのは正しいことではありません。そのような目は、野獣にも鳥にも、昆虫にも病原菌にも、等しく備わっているのです。それでは、人間に与えられた視覚の独自性は何でしょうか?確実に人として誕生することは難しいのだということを、理解しなければなりません。この特権を得ているのですから、人間は肉眼で見えるもので満足してはなりません。人間は叡智の目を獲得しなくてはならないのです。肉眼でさえも、知識を得る助けとなるではないかという議論があるかもしれません。目はすべてを見ますが、自分自身を見ることはできません。自分自身を見ることのできない目が、どうやって心(マインド)を見たり、マーダヴァ(主)を見たりすることができるでしょう?主を見るためには、肉眼は役に立ちません。そのためには、英知の目を獲得しなければなりませ�
�ん。

ー1995年10月22日の御講話

変化する宇宙を支えている不変の神性原理を認識した場合にのみ、あなたは全宇宙のあらゆる秘密を容易に理解することができます。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月9日)

体温は一定の基準に保たれなければなりません。体温がその基準を上回ったり下回ったりすれば、それは病気の兆候です。同様に、自然環境を構成している五大元素のバランスが保たれていれば、世界は健全な状態で存在します。もし、このバランスが乱され、元素が汚染されてしまったら、その国はさまざまな意味で苦しむことになります。科学と技術の産物が大気や河川や海を汚し、大自然のバランスを乱れさせるならば、たくさんの有害な結果が生じます。汚染は多くの新しい疾病を生じさせます。現代では、きれいな空気ですら希少品となってしまいました。地球の四分の三は水で覆われています。海底には多くの鉱物があります。しかしそれらを採取するときには、限度を守るべきです。さもなければ、たとえ陸と一線を画している大海でも、その境界を越えて押し寄せて来ることがあります。地震や火山の噴火すらも、自然界の生態系のバランスを乱した結果によって起こるのです。

―1983年6月16日の御講話

人間性が衰えているのは、人間が生活のバランスを欠いているからです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月10日)

最近私はボンベイで開かれた「科学と霊性」に関するシンポジウムに出席しました。そのとき著名な科学者が「大国が保有している核兵器には、地球を十回以上破壊できるだけの原子爆弾が含まれています」と発言しました。このような兵器製造所を建設する感覚とはどんなものなのでしょう?一回地球を破壊したならば、残りの爆弾は何を破壊するために残されるのでしょう?その過程で、あなた方は自分自身を破壊してしまうでしょう。研究に従事している人々は、己の研究の結果によって人々の幸福を促進することよりも、己の名声や評判を高めることに、より多くの関心を持っているように見受けられます。自分が発見した結果生じた有害なものごとについて、悩んでいるようにも見えません。他の人に害をもたらすことは、偉大なことでも何でもありません。たった一つの爆弾で百万人を壊滅させることは、全然偉大ではありません。この世界の中で、一人の人間に対し善を行うほうが、はるかに賞賛価値があります。私たちが得る科学的知識は、私たちの隣人の益のために使用されなければなりません。正しい教育とはただ一つ、学生たちが公正無私にふるまえるよう準備を整えるこ�
�とです。至高の霊性科学を探求すること(バラータ・ヴィグニャーナ・シャーストラ)は、物理学(パダールタ・ヴィグニャーナム)に関わるよりも、もっと大切なことです。

―1983年6月16日の御講話

平和を確保するためには、科学を正しい路線で推進しなければなりません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月13日)

知識の真の姿は謙虚さです。プライドと自惚れを捨て、正しい目標を追い求めなさい。今日の学生たちは相当な科学的知識を身につけています。それは現象界における文明的生活を促進するためにのみ役立ちます。しかし、今日の学生たちに必要なのは、ハートを純化させることです。これは内面的プロセスによってのみ可能となります。現代文化を身につけた学生たちは、知性を磨くだけでなく、広い視野も養わなければなりません。この時代、学生たちには二つの義務があります。ひとつは現代文明の課題に立ち向かうこと、もうひとつは古来からの霊的遺産や文化的遺産を保護し保全することです。学生たちは、理想的な国家市民として輝くべきです。完全な教育は、人を情け深くします。学生たちは、身体に適切な運動を与えるだけでなく、ハートを育て、ハートを純粋に保つよう努めるべきです。

―1993年3月4日の御講話

 人は、自然科学の知識と共に、謙虚さ、規律、善良な人格を身につける必要があります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月14日)

摂取する食べ物に熱心であること以外に、ダイヴァ・チンタナ(神の黙想)もすべきです。神のことを考えないため、人々は多くの不幸に見舞われやすいのです。神聖な思いを持たない人間は、二つの悪い性質を持っています。ひとつは多くの欠点や邪悪な性質を自分自身の中に隠していること、もうひとつは他人の些細な欠点さえも拡大解釈してしまうことです。このような人間の悪い性質のために、病気も増えています。たとえ人間の努力があったとしても、神の恩寵があればこそ、良い結果が得られるのです。ダルマールタ・カーマ・モークシャナム・アーローギャム・ムラム・ウッタマム(Dharmartha Kama Mokshanam Arogyam Mulam Utthamam(人生の四つの目標を達成するためには、健康が不可欠である)というサンスクリット語の格言があります。たとえ世界中の富を持っていたとしても、健康が損なわれていたら、その人は不幸です。村人であろうと都会人であろうと、有意義な人生を送るために最も重要なものは、健康なのです。

―1994年1月29日の御講話

高潔な想念、思想、感情を育むなら、その人の心(マインド)はきらめく純粋性で輝きます。心(マインド)の純粋性を育むことによってのみ、行動の純粋性を確保することができます。純粋な行為だけが、純粋な結果をもたらすのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月15日)

サイの帰依者は、私たちの文化の本質を理解すべきです。犠牲と奉仕がその二つの基本要素です。神我実現には二つの方法があります。一つは、帰依者が自らを神の召使いとみなす信愛の道です。「ダーソーハム(私はあなたの召使いです)」と繰り返し言明することによって、世俗的な執着という束縛が抜け落ちるまで己のエゴを減らし続けるのです。もう一つの手段は、ジニャーナ・マールガ(英知の道)です。「シヴォーハム(私は神である)」という神との一体感を常に育むことによって、普遍的意識と一体化するまでその人の意識が広がり、あらゆる世俗的束縛は断ち切られます。この広大な宇宙における己の位置を調べれば、自分が無限に小さいことに気づくでしょう。エゴイズムは無知から生じます。エゴを追い出して、愛を育みなさい。愛と共に、犠牲の精神を育みなさい。犠牲だけが不滅をもたらすことができると、ウパニシャッドは述べています。犠牲は至福と健康をもたらすことができます。分かち合う喜びを体験しなさい。健全な健康への鍵は、放棄です。

―1997年4月11日の御講話

犠牲から生じる愛が現れるとき、奉仕は意味あるものとなります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月19日) 

本当のことを言えば、人間の生命は神々しく、崇高で、神聖で、常に新しく、常に新鮮です。人間がエゴと欲望に包まれ、無知の中でまどろんでいるため、ウパニシャッドは人間を目覚めさせて、この真理の意識を呼び覚まそうとしています。「目覚めよ、太陽を崇めよ、そしてその光の中で己の実在を認識せよ」―これがウパニシャッドから響き渡る呼びかけです。しかし、人間はその懇願に耳を貸しません。三つのエーシャナ(熱烈な欲望)が人間を押しとどめています。人は富と妻と子に夢中です。これらの障害物は霊的進歩の各段階のハンディキャップとなります。もちろん、生活していく上で金銭は必要不可欠であり、そのために労働することは避けられません。しかし、限度を超えた富は心(マインド)を汚し、傲慢さを育てます。富は、美徳と幸福を促進し、ダルマ(徳)を育み、神聖な道に沿って己の義務を果たすという、善良な目的のために使われなければなりません。刹那的な欲望を実現するために富を費やすなら、決して足りることはなく、エゴがより新しく凶悪な稼ぎ方や使い方を発見するようになります。

―1981年4月13日の御講話

常に目標に心を集中させながら人生を送りなさい。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月20日)

人間と悪魔の違いは性質にあるのみです。悪魔には映画や本で描かれるような独特な身体の特徴はありません。悪魔は人間でもあるのです。人間が悪魔になるのは性質によってのみのことです。『バーガヴァタム』に素晴らしい一例があります。クリシュナは神でした。クリシュナの両親、デーヴァキーとヴァスデーヴァは、正真の人間でした。そして、デーヴァキーの兄のカムサは悪魔でした。このように、神と人間と悪魔という三種のすべてが一家族の中に存在することさえできるのです!カムサはその怒りと残酷さゆえに悪魔でした。デーヴァキーとヴァスデーヴァはその優しさと思いやりゆえに人間でした。あらゆる属性を超越する神の特性を具(そな)えていたクリシュナは、神でした。

―『1995年夏期講習シュリーマド・バーガヴァタム』第8章

世俗的な心の持ち主や、悪魔的な性質に染まった人々と付き合うのはやめなさい。賢明で善良な人々との交際を常に探し求めなさい。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月21日)

善も悪も、すべては神の意志です。善悪に差異を設けるべきではありません。人々は、良い出来事は神の意志であり、不幸な出来事はそうではないと信じています。この世には、甘い食べ物だけを食べる人も、苦い食べ物だけを食べる人もいません。誰も皆。甘い食べ物と苦い食べ物の両方を食べます。言い換えるなら、誰もが善と悪の両方を味わうということです。よく調べてみれば、苦い経験も必要なのです!そうあって初めて、平和と安らぎと至福の価値に感謝することができるのです。苦楽は相伴います。誰もそれから逃げることはできません。どこであれ、幸福は単独では存在しません。幸福は困難を超えたときの報いなのです。赤ちゃんは次第におじいさんになっていきます。けれども、両者は別人ではありません。それと同様に、私たちの中にある善が悪に変わることもあれば、悪が善になることもあるのです。両方が一体であることを実感すべきです。この一体性を理解させてくれるものは、私たちの神性です。神性からとおざかったとき、私たちは悪魔的状態、動物的状態へと堕落するのです。

―『1995年夏期講習シュリーマド・バーガヴァタム』第8章

等しい心で善悪を受け入れることは、あなたをブラフマンの悟りへと導く最高位の美徳です。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月22日)

私が降臨した目的は、小さな欲望を満たすためでも、あなた方が今しがた聞いたような小さな出来事に携わるためでもありません。私には、私が確立しなければならない崇高な真理があります。私がもたらさなければなければならない人間の前途の著しい変化があります。私がそのために降臨した任務、すなわち、唯一なる永遠の真理の確立を果たすことを、阻止したり、思いとどまらせたりできる者は誰一人いません。私たちの前途にあるサイの使命を達成させるにあたって、皆さんには担うべき役割があります。ダルマの確立は、私たちが直ちに精力を注がなければならない任務であり、サイの仕事を達成させるにあたって、あなた方が皆、それがどれほど小さなものであっても、自分の役割を果たすことを私は望んでいます。万物は真理に依存しているのですから、真理は何者かに譲らなければならないようなものではありません。非真実は、接触したほぼすべての人から、ないがしろにされなければいけません。真理は決して誰にも屈従することはありません。この姿は、真理の権化である、サティヤ サイの姿です

―1974年夏期講習、第32章

サイの愛と恩寵は、美しい花の姿や無邪気な子供の甘い微笑みよりも心を癒し、安らぎを与えます。―ババ

 

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月26日)

御名は、あなたに世俗の人生という海を越えさせる小舟であると信じなさい。御姿を観想するよりも、御名の方がもっと効果があります。ドラウパディーは、クリシュナが彼女を救いに現れるために戦車を送りませんでした。彼女は苦しみの中でクリシュナの御名を口にしました。そしてクリシュナがそれに応えて、彼女を差し迫った不名誉から救ったのです。トレーターユガにおいては、ラーマーヤナの物語が進行していたとき、ナラと猿たちが、海の向こうのランカーへ渡る橋を作っていました。彼らはラーマの御名を刻んだ巨石を海に浮かべましたが、風と波のため巨石は流れていってしまいました。これでは軍隊が渡るためのつながった橋を造ることができません。ある頭のいい人物が、一つの巨石に「ラー」と書き、もう一つの巨石に「マ」と書くことを提案しました。すると二つの石はしっかりとくっついたのです。あなたにとっても、御名は浮き輪の役割を果たすでしょう。それはあなたを神にくっつけ、あなたに神の恩寵をもたらすでしょう!

―1965年10月24日の御講話

訳注:ナラは、猿軍(ヴァーナラ)の一員で、神々の建築家であるヴィシュワカルマの息子。ラーヴァナの王国であるランカーへ渡る橋作りを指揮した。

あなたの命の息吹そのものである御名があれば、あなたは堕落を恐れることなく、人生のあらゆる活動に従事することができます。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月27日)

満足、謙虚、無執着―これらがあなたを真理の道にい続けさせます。ある露天商が、空の瓶でいっぱいの籠を頭に載せてバザールまで歩いていました。彼はこれを売って十ルピーの利益を得るつもりでした。そして十日後には百ルピーの儲けになると計算しました。それを元手にして、もっと儲かる取引に乗り換えることを計画していました。そうすれば、数カ月で十万ルピーを稼ぐことができて、素敵な庭付きの一軒家を建て、使用人たちが喜んで家中の世話をしてくれるだろうと想像していました。そこで彼は、緑の中のソファの上で孫たちと遊んでいる自分の姿を見ました。その魅力的な光景に夢中になっていると、突然、孫たちの中に使用人の子供が入り込んでいるのが見えたのです。彼はこの望んでいなかった侵入者に怒りました。その空想が現実のものであると信じ込んでいた彼は、いきなりその子供をつかむと、力を込めて素早く突き飛ばしました。すると空き瓶の入った籠は道路に落ちて、すべての希望も、十ルピーさえも失ってしまったのです!貪欲という貧弱な土台の上に築かれた夢は、こうして終わりを迎えました。

―1965年10月24日の御講話

無知な人は満足を得られません。彼は、次々と願い事を重ね、次から次へと計画を立て、年がら年中思い悩み、いつも心配し、ハートを貪欲で燃え上がらせています。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月28日) 

人は常に落ち着いて考えなければなりません。そうして初めて、人は心(マインド)を平静を保つことができます。それは単純に心(マインド)の修練の問題です。初めのうちは困難ですが、ひとたび身につけば、あらゆる悩みや心配事に打ち勝つことができるようになります!波立つことのない心(マインド)は、前に向かって進んでいるすべての求道者にとってなくてはならないものです。それはとても有益な特質です。そのような心(マインド)は真の力と幸福を与えてくれます。それを得るために努力しなさい。たとえ災難に見舞われたとしても、ハートを失ってはなりません。心(マインド)は常に純粋で、汚れることなく、穏やかで、勇気に満ちていなければなりません。過去を悔やまず、目の前の仕事をこなすことに躊躇しないこと―それが求道者のしるしです。儲かったり、喜んだり、喝采を浴びたときには有頂天になり、損したり、困ったときには意気消沈する。―これらはすべての人間に共通する自然な性質です。それでは、求道者の優れている点は何でしょう?原則を忘れてはなりません。注意深くありなさい。そして、避けられない事態は喜んで受け止めなさい。困難や�
�損失に打ちのめされているときには、正気を失ってやみくもに行動してはなりません。気を落ち着けて、なぜそうなったのかを瞑想しなさい。平安の雰囲気の中で、それらを克服するか回避するシンプルな方法を見出そうと努めなさい。

– Ch 6, Prasanthi Vahini.

知性を研ぎ澄ますためには、平安が不可欠です。焦りと心配は知性を混乱させます。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月29日)

愛の化身である皆さん!どのような分野においても、どのような時であっても、どんな人物であっても、これら六つの貴重な資質すべてを授けられたなら、成功が約束されます。これらの資質は、人間のあらゆる幸運に寄与します。すべての成功は、これらの六つの資質を備えた者にもたらされます。しかし、これらの資質はときにさまざまな困難に直面する。学生がさまざまな試験に立ち向かわなければならないように、これらの資質も試練にさらされます。このような試練は、高い成果を得るための足がかりとして考えるべきです。これらの試練は、損失、トラブル、痛み、苦しみ、中傷といった形で現れます。人は勇気と自信をもってこれらの試練を乗り越え、前に進まなければなりません。特に学生は自信を養わなければなりません。自信がなければ、六つの資質を身につけることはできません。もっとはっきり言うならば、自信がすべての人の生気となるべきです。

―1997年1月14日の御講話

訳注:六つの資質とは、熱意、決意、勇気、知力、能力、勇敢な行動。

自信を人生における最も重要な財産とみなすべきです。自信がなければ、決して至福を得ることはできません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年6月30日)

ヴィシュワーミトラ王は、己の知力、体力、武力を頼りにして、神の力を頼りにする聖者ヴァシシュタに戦争をしかけました。最終的に彼は、霊力に対抗しても、自分の力は何の役にも立たないという真理を悟り、王国を放棄して厳しい苦行に明け暮れました。武勇があっても、全く何の力にもなりません。それは本当は弱さの表れなのです。あらゆる物理的な力は実に無力です。この世の富はすべて無常です。今日の人間は、己に内在する神性を忘れて、一時的な快楽を追い求めています。学生諸君は自信を培い、自分の発言や歌やスポーツや全ての活動の中に己の神性を顕現させるべきです。しかし、時には彼らの中の弱さが表に出ることもあります。例えば、悩みに屈したり、悲しみに打ちひしがれたり、喪失に立ち向かえないとき、彼らは内なる弱さを見せます。学生諸君は、不屈の精神でそのような状況に立ち向かうべきです。恐れることなく、勇気をもって困難に立ち向かえば、あなたは必ず成功するでしょう。それゆえ、自分に自信を持ち、人生のあらゆる分野において成功を収めなさい。

―1997年1月14日の御講話

自分自身を信じれば、自分に満足できるようになり、自分を犠牲にすることができるようになります。そして最終的には真の自分を実現できるようになるのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月2日)

16歳から30歳までの年齢は非常に重要です。というのも、この期間に人生は甘美さを増し、才能と技術と態度が備わってゆき、洗練され、そして神聖なものとなるからです。この時期に無私の奉仕(セヴァ)という強壮剤を心に投与するなら、人生の使命は果たされます。なぜならこの強壮剤によって、純化と聖化のプロセスが早まるからです。報酬のため、注目を集めるため、感謝を得るため、あるいは技術や富や地位や権威において自分が優れているというプライドから、奉仕をしてはなりません。自分が愛に促されているから、という理由で奉仕をしなさい。成功したときには、その成功は、あなたの中にある愛として、あなたを促してくれた神の恩寵なのだと思いなさい。失敗したときには、その失敗を自分自身の力不足や偽善、あるいは無知のせいにしなさい。行動の源泉が何だったのかをよく調べ、そこからエゴの痕跡をすべて消し去りなさい。セヴァの受け取り手、あなたに協力してくれた人、あなたと共に働く人々、あるいは神に責任をなすりつけてはなりません。

―1969年5月19日の御講話

喜んで手放し、苦しむ準備が整っていて、あらゆるすすり泣きやうめき声に反応する思いやり深いハートから、奉仕が生じなければなりません。―ババ

(訂正)
昨日配信した御言葉は2023年7月3日のものでした。

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月4日)

今あなた方は、新しい社会を建設しようという計画を世界中で耳にしているでしょう。その運動の目的として明言されているものの中には、日々の生活必需品と生活を便利にするさまざまなものを広く供給すること、そして、富を等しく分配することがあります。これは望ましいことでしょう。しかし、果たしてこれは実行可能でしょうか? 財産、所有物、生活を便利にするもの、生活を快適にするものを等しく分配することは可能かもしれません。けれども、すべての人の欲望を等しく制限することは可能でしょうか? もし欲望が等しく制限されないなら、不満が起こるのは必至です。社会主義者のドクトリンは不可能な概念です。一方、神は世界のすべての物の根源であるという事実を認識すること以上に不可欠なことはありません。インドの聖賢たちによれば、人が摂取する食物の源泉、すべての生き物を支える力、あらゆるものの創造の基盤は、神です。この根源的真実が忘れ去られているために、今日の世界は、飢餓や紛争、戦争や動乱にひどく苦しめられているのです。

―1984年7月13日の御講話

神はすべてのエネルギーの源泉です。このことに気づかなければ、私たちが呼吸する空気、私たちが享受する光、生活を維持している熱の、本当の源泉に感謝できないでしょう。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月5日)

サットサングとは、「サット」に会う、という意味です。「サット」とは、サット・チット・アーナンダとして神を賛美するときの「サット」です。「サット」とは実在原理であり、宇宙の根本的真理である「イーシュ」(主)です。真実、あなたの中の「サット」、光を見ることのない心(マインド)によって課せられたミッティヤー(虚偽)の上にあるサティヤ(真実)、あなたの中にある「サット」、真理と協調しなさい。その「サット」の中に棲むことによって、炎が灯り、光が明け、闇が去り、ジニャーナ・バースカラ(叡智の太陽)が昇ります。地下に硬い岩がある場合、いつも地下を流れている清らかな水を汲むためには、より一層深く掘らなければなりません。地中の土が柔らかければ柔らかいほど、より早く成功します。あなたのハートを柔らかくしなさい。それが地盤を柔らかくするプロセスです。慈愛と共感を育み、奉仕に従事し、貧困や病気、苦悩や絶望にある苦しみを理解し、涙も歓声も他の人々と分かち合いなさい。それがハートを柔らかくし、サーダナの成功を助ける方法です。

―1969年5月10日の御講話

あなたの人生が拡大すると、同じ割合で、あなたの至福も拡大するでしょう。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月6日)

自然の中にあるすべてのもの、時間の中で起こるすべての出来事は、本当はあなたに教訓を伝え、教えているのです。ある朝、ダクシナームールティは海辺に沿ってゆっくりと歩いていました。彼は波に目をやり、そこからある教訓を得ました。波は、一本の麦わらが岸辺に打ち上げられるまで、一つの波頭から別の波頭へと移動させながら、手順よくゆっくりと運んでいました。海は広々としています。海は深く、強大です。しかしそれでも海は、自分自身から、自分とは無関係な物事を常に取り除こうとしています。欲望とは、つまらない一本の麦わらである、という単純な理由から、欲望をないがしろにしてはならないことを、海は知っています。欲望は、害を及ぼすことのできない岸辺へと、押し戻されなければなりません。絶えず警戒することが、平安と幸福の代償です。ダクシナームールティは「素晴らしい!海は私に大いなる教訓を教えてくれた!」と叫びました。それは、欲望が頭をもたげたときには、危険が隠れている、という教訓です。

―1969年7月29日の御講話

己の欲望を減らし、犠牲を促すことによって、私たちは栄光の高みへと昇り、自国のために善をなすことができるようになります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月5日)

サットサングとは、「サット」に会う、という意味です。「サット」とは、サット・チット・アーナンダとして神を賛美するときの「サット」です。「サット」とは実在原理であり、宇宙の根本的真理である「イーシュ」(主)です。真実、あなたの中の「サット」、光を見ることのない心(マインド)によって課せられたミッティヤー(虚偽)の上にあるサティヤ(真実)、あなたの中にある「サット」、真理と協調しなさい。その「サット」の中に棲むことによって、炎が灯り、光が明け、闇が去り、ジニャーナ・バースカラ(叡智の太陽)が昇ります。地下に硬い岩がある場合、いつも地下を流れている清らかな水を汲むためには、より一層深く掘らなければなりません。地中の土が柔らかければ柔らかいほど、より早く成功します。あなたのハートを柔らかくしなさい。それが地盤を柔らかくするプロセスです。慈愛と共感を育み、奉仕に従事し、貧困や病気、苦悩や絶望にある苦しみを理解し、涙も歓声も他の人々と分かち合いなさい。それがハートを柔らかくし、サーダナの成功を助ける方法です。

―1969年5月10日の御講話

あなたの人生が拡大すると、同じ割合で、あなたの至福も拡大するでしょう。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月6日)

自然の中にあるすべてのもの、時間の中で起こるすべての出来事は、本当はあなたに教訓を伝え、教えているのです。ある朝、ダクシナームールティは海辺に沿ってゆっくりと歩いていました。彼は波に目をやり、そこからある教訓を得ました。波は、一本の麦わらが岸辺に打ち上げられるまで、一つの波頭から別の波頭へと移動させながら、手順よくゆっくりと運んでいました。海は広々としています。海は深く、強大です。しかしそれでも海は、自分自身から、自分とは無関係な物事を常に取り除こうとしています。欲望とは、つまらない一本の麦わらである、という単純な理由から、欲望をないがしろにしてはならないことを、海は知っています。欲望は、害を及ぼすことのできない岸辺へと、押し戻されなければなりません。絶えず警戒することが、平安と幸福の代償です。ダクシナームールティは「素晴らしい!海は私に大いなる教訓を教えてくれた!」と叫びました。それは、欲望が頭をもたげたときには、危険が隠れている、という教訓です。

―1969年7月29日の御講話

己の欲望を減らし、犠牲を促すことによって、私たちは栄光の高みへと昇り、自国のために善をなすことができるようになります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月7日)

毎日の生活の中の一つひとつの行いを、神に信愛を捧げる行為へと変えるべきです。カーシー〔現在のヴァーラーナスィー〕で市当局が街灯に火を灯す職務に数名を任命しました。その雇用者の中に、ある一人の霊性修行者(サーダカ)がいました。彼の仕事は、ランプに給油し、火が消えないようにランプの火屋(ほや)を取りつけることでした。彼はラーマの栄光を歌いながら一つひとつ街灯を点(つ)けてまわりました。彼は、火屋を磨いて火を灯している最中にも歌っていました。当局は、その霊性修行者が火を点けた道のランプは、他の場所のランプよりも明るく光っていることに気がつきました。そして、その原因は、その偉大な帰依者が神への信愛を込めて火を灯していたためであることがわかりました。この話の教訓は、どんな行為も献身の心で神への捧げ物として行うならば、人は喜びを体験し、満足感を得ることができるということです。

―1984年7月13日の御講話

主への捧げものとして活動すると、あなたにとっての善(スワールタ)、より高次の善(パラールタ)、最高善(パラマールタ)は、すべてひとつになります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月8日)

スワミの神聖な愛(プレーマ)には、ほんのわずかな私欲もありません。それは完全に純粋です。スワミが知っているのは与える方法のみであり、受け取る方法は知りません。スワミの手は、何かを授けるために持ち上げられますが、何かを求めて伸ばされることはありません。さらに、ひとたびスワミが「あなたは私のものです」と言ったなら、その相手がどれほど悪い道に進んだとしても、スワミはその人を見捨てません。「あなたは私のものです」といってスワミに受け入れられた人が、なぜ困難やトラブルに見舞われるのか? という問いがあがるかもしれません。そうしたトラブルは、その人自身の行為(カルマ)の報いです。彼らは自分の行いが正しいかどうかを見なければいけません。たとえば、主から百年の寿命という恩寵を授かった人が、いい気になって、自分は一世紀生きるのだと、自信満々に木から飛び降りたとします。その人は百年生きるかもしれませんが、木から落ちて足を骨折したまま生きるのかもしれません。ですから、神の恩寵を受け取ったなら、正しい生活を送るよう努めるべきです。

―1984年7月13日の御言葉

あなたが何をしようとも、どこにいようとも、私があなたと共に、あなたの内にいることを覚えておきなさい。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月9日)

それぞれの宗教は、神の一つの御名と一つの御姿を強調し、それを受け入れるよう勧めます。神はそれ以外の御名や御姿を持っていない、と主張する人々さえいます。しかし、実在は名と姿を超越しています。その特徴はアクシャラ(不滅、永遠)であり、その姿はオームです。あなた方は三段階のサーダナ(霊性修行)を経て、無属性の境地、アクシャラの境地に到達します。 (一) 私はあなたのものです。(二)あなたは私のものです。(三)あなたは私自身です。サーダナを通じて、「私」と「あなた」という二元性を超越しなければなりません。「私」とは、この肉体の中にある「あなた」の反映でしかありません。二元性を手放したとき、成就に到達します。「教会の中で生まれるのは良いことだが、教会の中で死ぬのは良くない」と言われてきたのは、そのためです。つまり人は、人生を終える前に、制度化された宗教によって定められた限度を超えて、すべてに遍満しているアートマンの広大な無限の広がりに到達しなければならないのです。

―1969年7月29日の御講話

神はあらゆる時代とあらゆる姿を超越しています。愛だけが神の真の姿です。あなたが目にするすべての姿の中に、同一の愛が存在しているのです―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年7月10日)

私が誰かに約束したなら、もしその相手が私に敵対するようになったとしても、私はその人に対して悪意は抱きません。たとえその人が私をののしっても、私はその人を愛し続けます。私は、私の堅い約束を最後の最後まで守り通します。いつの日か、その人は正しい道に戻ってくるでしょう。状況に強いられて、何らかの変化が起こることもあるでしょう。それらは永続するものではありません。私は、そのようなものが起こったからといって、自分の進路を変えません。これは私の二つ目の決意です。次は、私の三つ目の決意です。私が何かに従事するとき、それは、万人の幸福のためになることだ、社会全体にとって善いことだと思うからであり、何が起ころうと私はそれをあきらめません。たとえ全世界が私に敵対したとしても、私は後戻りすることなく、前進するのみです。これらが私の三つの決意です。前に出した足を引っ込めることはありません。私は、自分が約束した言葉を反故にすることはありません。私は与えるのみで、受け取りません。

―1984年7月13日の御講話

一歩だけ前に進みなさい。私はあなたに向かって百歩進むでしょう。―ババ

 

 

Japanese, 2023年5月

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月3日)

もし傲慢であったら、どんなに裕福でも、どれほどの地位にあっても、どんなに知的でも、妻や子供たちですらもその人を愛さないでしょう。自分本位のプライドを捨てた暁には、すべての人が彼を愛するようになります。もし、あなたが世の中から愛されたいと願うのであれば、アハムカーラ(私が行為者である)という自分本位のプライドを捨て去りなさい。エゴのない人だけが、世の中から愛されるに値します。怒りや憎しみで満たされている限り、人は幸せになれません。悲しみや不幸を取り除くために、人々はあらゆる種類の霊性修行(サーダナ)を行います。しかし、どのような苦行、読誦、供犠を行っても、不幸を取り除くことはできません。その理由は、彼らが己の憎しみを取り除くことができないでいるからです!ラーヴァナは勇敢な人物であり、非常に才能豊かで、高い教養がありました。しかし、彼は憎しみで満たされていたため、不幸だったのです。憎しみを抱くことによって、人は己の人生を不幸にします。「怒れる者はあらゆる企てに失敗する」。怒りは、あらゆる種類の悪評をもたらします。悪評に取り付かれたら、幸福を得ることができません。

―1997年9月23日の御言葉

謙虚さは、真の教育の品質証明書です。正しく適切に教育された人間の中に、傲慢、妬み、誇示が入り込む余地はありません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月4日)

欲望を克服することで、あなたは無私無欲になります。欲望に打ち負かされると、あなたは満足することができなくなります。飽くなき欲望に夢中になれば、感覚が制御できなくなるでしょう。もちろん、欲望を回避することはできません。しかし、節度を設けるべきです!無制限の欲望は破滅を招きます。そのような人に繁栄はやって来ません。欲望を制御できるようになった瞬間、すべてのものがひとりでにその人の元にやって来るでしょう!ローバム・ヒトヴァ・スキ・バヴァティ(強欲を克服すれば、幸福を実感する。)人間の不幸のもう一つの原因は強欲です。強欲はあらゆる種類の幸福(物質的幸福、知的幸福、霊的幸福)からあなたを遠ざけます!ドゥルヨーダナとドゥッシャーサナが、多くの富と権力を持ちながら幸せに暮らせなかったのは、強欲が原因です。ですから、あなたのハートから強欲を追い出しなさい。どうしたらいいのでしょうか?犠牲の精神を育てれば、強欲は消えてなくなるでしょう!強欲でいっぱいのハートに、喜びが入り込む余地はありません。水でいっぱいのコップにミルクを入れることはできません。まず、コップを空にしなさい。そうすればミルク�
�がいっぱい入ります!同じように、強欲を取り除いて、あなたのハートを犠牲でいっぱいにしなさい!

―1997年9月23日の御講話

欲望に打ち負かされると、満足を得ることができなくなります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月5日)

あなた方は、涅槃(ニルヴァーナ)または解脱の達成を目指さなければなりません。涅槃(ニルヴァーナ)とは、人生の最期の瞬間に至福を体験することです。人間は、自分が何を求めるべきであり、何を拒絶すべきかを理解していません。人生において為すべきことは三つあります。あなたを傷つけた人に対して善を行いなさい。他人から傷つけられたことと、あなたが他人に対して行った良いことを忘れなさい。忘れる必要があるものを忘れ、覚えておかなければならないことだけを覚えておきなさい。覚えておくべきものとは何でしょうか?他人があなたに対して行った良いことです! あなたに対して行われた良いことを神聖なものとして覚えておかなければなりません。そして相手に感謝の気持ちを伝えなければなりません。正義に従って、すべての行動を行いなさい。神を思い起こしながら行えば、どのような行動も神聖なものとなるでしょう! 悪を見ずに善を見なさい。悪を聞かずに善を聞きなさい。悪を語らず、善を語りなさい。悪を思わず、善を思いなさい。悪を行わず、善を行いなさい。これが神への道です。これが仏陀の御教えの真髄なのです。

―1998年5月11日の御講話

仏陀は「正見」「正思」「正聞」「正語」「正業」という五つの義務を定めました。これら五つの義務が本当の霊性修行を構成しているのです!―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月6日)

子どもたちの偉大さをもたらすものは、母親の崇高な道徳的人格と行動です。ラーマの偉大さをもたらしたのはカウサリヤーの美徳です。同様に、シータが育てたからこそラヴァとクシャは素晴らしい人物に育ちました。このように有徳の母親のお陰で、理想的な子どもたちが育つのです。私は、イーシュワランマに約束してからは、決してプッタパルティを見捨てませんでした。全世界がここに集まってくるかもしれませんが、私がプッタパルティを捨て去ることはありません。母性の力は言葉では説明できません。母親が、道徳的価値を正しく守り、それに厳しく従うことが、子どもの中の優れた性質として現れるのです。母親は、教育を受けていないかもしれません。彼女らの偉大さは、教育や書物による知識によって決まるのではありません。教育のないイーシュワランマの美徳が、プッタパルティにこのような名声をもたらしたのです。イーシュワランマの息子が褒め称えられているのに、イーシュワランマが忘れられているのは、嘆かわしいことです。イーシュワランマがいなければ、どうしてこのように驚くべき力が生まれることができたでしょうか? 皆さんは、決して両親を粗�
�末にしてはなりません。

―2003年11月23日の御講話

母性は、最も貴重な神の贈り物です。国の幸不幸を決めるのは母親です。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月7日)

あなたの悪い性質、悪い思い、悪意を取り除きなさい。非暴力(アヒムサー)を実践しなさい。非暴力の意味は何でしょうか?アヒムサーとは、思い、言葉、行動によって他を傷つけないという意味です。一瞬たりとも、思いと言葉と行動の一体性から離れてはなりません。あらゆる努力を払って、思いと言葉と行動の一体性を守ったときに初めて、あなたの中に神聖な気持ちが現れるでしょう。非暴力の原理は非常にとらえにくいものです。ほとんどの人はその正しい意味を理解していません。必要以上に食べることさえも、暴力となります。なぜでしょうか?食べ過ぎによって自分自身を傷つけるからです。不必要なおしゃべりも、暴力に加担していることになります。必要なことだけを話す、それが非暴力です。神から与えられた能力を悪用するなら、あなたの富も権力も地位もすべて無意味になるでしょう。あなた方は、つまらない世俗的な物事を追い求める泥沼にはまっているがため、無限のアートマ原理を悟ることができないのです。

―1996年7月29日の御講話

もしあなたが悪に対して悪を返すのなら、どうして善人と呼ばれることができるでしょう?悪に善を返すことによってのみ、より高い境地へと自分自身を向上させることができるのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月8日)

バクティ(神への愛、信愛)は、状況に応じて着たり脱いだりできる懺悔の制服ではありません。勤務中の警官は、紋章やメダルの付いた制服を着ています。しかし、勤務を終えて帰宅すれば、制服は脱いで別の服に着替えます。バクティとは、一定の間だけ生じて、通常に戻ったら離れ落ちることのできるものではありません。バクティとは、途切れることのない不断の心の状態であり、確固たる態度であり、細心の注意を払って選んで貫く道です。今、人は、朝にはヨーガ(信愛の行)をかじり、日中にはボーガ(祝宴や贅沢、五感を楽しませること)にふけり、夜にはローガ(病気)に七転八倒します! バクティとは、毎日一定の時間だけ「演じる」ものではなく、他の流行に取って替えられるものでもありません。バクティとは、途切れることのない不断の心の傾向であり、思考の習性であり、生き方です。バクティとは、不名誉、苦境、失望、損失、快楽、繁栄、権力、虚飾など、何があっても、忠実に貫かなければならないものです。

―1968年7月8日の御講話

常に神の御名を唱え続けなさい。そうすれば、どんな時にも決して神を忘れることはできないでしょう。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月10日)

真の帰依者は、この世の成功の儚さを十分に承知しています。真の帰依者は、死が最終裁決者であり、神が唯一の施与者であるということを知っており、それゆえ、嫌なことに対しても、正当なことに対しても、落ち着いていて穏やかです。真の帰依者は、何があっても落ち込むことはなく、舞い上がることもありません。真の帰依者は、自分が崇めている神は草の葉にも一番遠い星にも宿っていることを知っています。神は、どの言語で表現される祈りにも、さらには、沈黙の静寂から湧き起こる祈りにも、耳を傾けます。神には怒りも心配のかけらもありません。あなた方にも怒りや心配を募らせる理由はありません。あなたの歯があなたの舌を噛んだら、自分は傷を負ったといってあなたは怒りますか? あなたは自分に傷を負わせたその歯を折りますか? いいえ、折りません。なぜなら、歯も舌もあなたのものであり、どちらもあなただからです。それと同じように、あなたを傷つけた人とあなたは、どちらも同一の体の手足、同一の神の手足なのです。その一体性を感じて、憎しみを避けなさい。

―1968年7月8日の御講話

手、足、目、耳、鼻、口といったさまざまなパーツが私たちの身体にあるように、この世であなたが見つけるすべての姿は、神のさまざまなパーツなのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月11日)

感覚に従うことから得られる快楽のすべては一時的なものであり、その後には苦難の道が続いていることを、人は悟るべきです。神聖な目的のため、そして人間的価値を実践するために、感覚を活用すべきということを、人は悟らなければなりません。 そうして初めて、人間として存在する真の目的を理解するようになるでしょう。 感覚は、人間が理想的な生活を送るために、神から授けられたものです。善を見なさい。善を考えなさい。優しい言葉を話しなさい。善を聞きなさい。善でありなさい。善を行いなさい。古代インドの賢者たちは、マウナム(沈黙)から得られる無数の恩恵に気づき、霊性修行として、沈黙を実践しました。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、十日間延々と話し続けた結果、自分が身に付けたシローカ(詩節)をすべて忘れてしまったことに気付き、貴重な教訓を得ました。それから彼は完全な沈黙を二週間実践し、記憶力を取り戻しました。神の恩寵は、神によって人間に与えられた感覚を神聖に使うことによって保証されることを、人々は悟らなければなりません。

―1997年10月6日の御講話

これほど稀有で神聖な人間として誕生する境地に達したというのに、自分で自分の感覚を制御できないと口にするとは、なんと愚かなのだ!―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月12日)

あなたは富を蓄え、深い学識を持ち、健康と強さを得たかもしれません。しかし、それらに加えて、あなたが至高の統治者のヴィジョンを得て、そのヴィジョンがもたらす法悦につねに浸りたいという強い思いを持っていないなら、あなたが手に入れたすべてのものは、がらくたにすぎません。カウラヴァ兄弟は、軍事の財源と人員において優勢でした。カウラヴァ兄弟は、助けを求めて神の化身であるクリシュナのもとに行って、大規模な軍隊と膨大な軍備を授けてもらうことで満足しました。パーンダヴァ兄弟は、ただクリシュナの恩寵のみを求めました! クリシュナ神はそれに同意し、一人きりで武装もせずに、パーンダヴァ陣営に向かいました! クリシュナは鞭一本だけを持ち、アルジュナの戦闘馬車の御者となって馬を操りました! それだけでした。しかし、勝利のために必要なものはそれだけだったのです。カウラヴァ兄弟は大敗を喫しました。パーンダヴァ兄弟は王国と不滅の名声を手に入れました。もし神があなたに味方するなら、あなたは世界を手中に治めます。

―1968年7月8日の御講話

金銭や物質的な利益ではなく、善良で神聖なものを好むように、あなたの心(マインド)を訓練しなさい。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月13日)

聖者ジャヤデーヴァは、甘美で神聖な主の御名を唱えるために神から与えられた舌を使わない人々を叱責しました。舌は、真理を語り、優しく語り、身体に心地よく健全なものを摂取するためだけに使われるべきです。人は、酩酊するような飲み物や非菜食の食べ物を摂取し、喫煙にふけることで、自分自身を堕落させています。 これらの有害な習慣は、脳にも影響を及ぼします。聖者スールダースは、神から与えられた耳で神を讃える賛歌を聴こうとせず、神から与えられた視覚で主の美しい姿を見ようとしない人々の振る舞いを嘆きました。道を行く人はその道に集中すべきであり、壁に貼られているポスターや店のウインドウに目を奪われてはなりません。すべての人が、感覚器官の正しい役割を認識し、それらを正しく使うことが必要です。

―1997年10月6日の御講話

解脱とは、感覚を制御することです。己の感覚を制御しない限り、解脱は不可能です。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月14日)

マーヤー(迷妄)を捨て、マーヤーの影から逃れるためには、太陽に向かって歩かなければなりません。そうすれば、影はあなたの後ろに来ます。太陽(理性や知性の源)が高く昇れば昇るほど、影はどんどん短くなります。最終的に太陽が天頂に昇ると、影(マーヤー)はあなたの足元にうずくまり、あなたは影を踏みつけることができます。あなたの知性が最高位にある時、マーヤーはあなたに魔術をかけることができません。何万という人々が日に三度唱えているヴェーダのガーヤトリー讃歌〔ガーヤトリーマントラ〕は、知性が天頂の太陽のように明るく輝くことによって迷妄の霧が晴らされるよう、知性の目覚めを祈願します。すると、あなたを困惑させ、否認し、かき乱す、不決断と決断の波のうねりは静まります。これは、パタンジャリ〔六派哲学のヨーガ学派の開祖〕が何世紀も前に定義したヨーガのプロセス、すなわち、さまよう心を止めるものです。

―1968年7月8日の御講話

マーヤーは、マーヤーの主であるマーダヴァ(神)と手を組むことによってのみ、征服することができます。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月15日)

今や、人間の行動基準は「それぞれが自分のために」となってしまいました!これは、「神の中ではすべてが一つ」という事実が知られておらず、理解されていないためです。この理解は、サーダナ(霊性修行)の産物です。その確信はゆっくりと大きくなりますが、必ず獲得しなければなりません。偉大な聖者ドゥルヴァーサは、叙事詩の中では、苦行を重ねたことで有名ですが、他者から軽んじられたり妨害されたりしたときに激怒することでも知られています!彼は「神の中ではすべてが一つ」であることを忘れて、とても神経質で、自分本位で、思い上がっていました!彼の膨れ上がったエゴを無視する人が現れると、ドゥルヴァーサは恐ろしい呪いをかけようとしました!長年の苦行も何の役にも立ちません。あなたが持っているもの、得たものをすべて主に明け渡しなさい。余分な現金を持っていると、ときに信頼できる友人に「私のためにこれを取っておいてください。自分で持っていると、使ってしまいそうで心配なのです。私は自分で自分が信じられないのです」と言って、それを渡すことがあります。あなたが信頼を置くべき友人は神です!ですから、あなたが持っているも�
�のをすべて神に渡し、自由で幸せになりなさい。信仰が足りないので、あなたは今それをしていません。

―1967年5月24日の御講話

神を信じる雰囲気の中で初めて、美徳が培われるのです。あなたは、神は遍在であり、照覧者であり、導き手であり、守護者であるという信念を持たなければなりません。―ババ

 

忠誠を尽くさなければならない義務を知りたいと切望する者だけが、(アヴァターがもたらす)メッセージを理解することができます。 さもなければ、それは空虚で機械的な、蓄音機レコードの戯言のように聞こえるでしょう。しかし、その切望によってハートが耕され、種を蒔く準備を整えれば、必ず収穫が得られます。アルジュナはクリシュナの義兄弟であり、親しい仲間であり、何十年にもわたる仲良しでもありました。しかしそれでも、戦場で初めて、バガヴァッド・ギーターのメッセージがアルジュナに伝えられたのです。なぜでしょう?アルジュナはそのとき初めて、そのメッセージを受け取り、記憶するために必要な態度を示したのです。まずアルジュナは、己の義務について悩み、それに光を当てて欲しいと強く願っていました。彼は二つの道の間で思い悩み、あらゆる識別心と無執着を働かせたにもかかわらず、己のダルマが何であるかを見出すことができないまま、途方に暮れていました。第二に、彼は己の判断を神に委ね、筆舌に尽くしがたい苦悶の中で、ハートの奥底からこのように宣言しました。「私はあなたの弟子です。私は私という全存在をあなたのご意察
�屬吠獷欧泙后�笋�燭鬚垢戮④�△�辰靴磴辰討�世気ぁ�修里箸�蠅砲い燭靴泙后���

―1970年7月の御講話

人間は、神の恩寵にふさわしい強さと意志力を培わなければなりません。ひとたび神の恩寵を得れば、あなたはカルマの束縛から解放されるでしょう。-ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月19日)

あるところに一人の王がいました。王は「最高の奉仕とは何か?それを提供する最も良い時はいつか?」と、多くの学者や聖賢に質問しましたが、納得のいく答えは得られないでいました。ある日のこと、王は深いジャングルの中で、敵対する王の軍勢を追いかけている間に、自分の軍勢とはぐれてしまいました。彼は長い間馬を走らせ、疲れ果て、空腹になりました。そしてようやく一軒の庵にたどり着きました。一人の老僧が親切に王を出迎え、一杯の冷たい水を供しました。少し休んだ後、王は老僧に自分を苦しめていた質問を尋ねました。「最高の奉仕とは何でしょうか?」その出家者は「喉が渇いている人に一杯の水を与えることです」と答えました。「奉仕をするのに最良の時はいつですか?」答えは「喉が渇いている人が遠方からやってきて、必死に水を探している時」でした。奉仕という行為は、コストや知名度によって判断されるものではなく、水を提供するだけでもよいのです。しかし、受け取る人の必要性、提供する人の気持ちーこれらがその行為が金か鉛かを決めるのです!あなたの行為の一つ一つを愛で満たしなさい。あなたの思い、言葉、行動の結果として誰にもほ�
�んのわずかな苦痛も感じさせることがないようにしなさい。これをあなたのサーダナ(霊性修行)としなさい!

―1967年5月24日の御講話

奉仕は、祈りと苦行の最高の形です。犠牲から生じた愛を示すと、それは意義深いものとなります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月20日)

人類の歴史においては、何回もアヴァター(神の化身)がやってきて、人を目覚めさせました。しかし、動物的な過去と悪魔的な迷妄が人を泥沼の中に引きずり込みます。そこで人は愚かにも、官能的で肉体的で一時的なつまらない物事に興じているのです。今生は、あなたの人間としての存在価値を高める素晴らしいチャンスなのです。親族や富や世俗的名声から得ようとするアーナンダ(至福)は、神が宿るハートという泉に棲むアーナンダの薄い影にすぎません。その泉とつながろうと試みなさい。その源泉そのものに向かいなさい。アートマもしくは内なる神に集中しなさい。真のアーナンダを求める人はほとんどいません。多くの人は、感覚、知性、マインドから成る似非(えせ)アーナンダに夢中になっています。真のアーナンダが湧き出すのは、真理からだけです。そして、各自が自分自身に対して負っているダルマ(義務)が真理なのです。真理を求め、真理に奉仕し、真理になりなさい。ハートが愛で満たされたとき、真理が自ずと明らかになるでしょう。

―1970年7月の御講話

真の至福は、純粋で愛に満ちたハートから流れ出します。そのような至福を経験するよう努めなさい。他のすべての幸福の形は一時的なものです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月21日)

心(マインド)は、何であれそれが接触するものに融合するという生来の傾向を持っています。心(マインド)はそれをしたがります。ですから、心(マインド)は常に動揺して落ち着きません。しかし修練と訓練の積み重ねによって、心(マインド)をプラナヴァ(オーム)に向かわせること、プラナヴァに融合するようにと心(マインド)に教えることができます。また、心(マインド)は音のするほうへ自然と引き寄せられます。心(マインド)が蛇に例えられるのは、まさにそのためです。蛇には二つの粗野な性質があります。一つは蛇行すること、もう一つは邪魔なものには何でも噛みつく習性です。この二つは人間の特徴でもあります。人間も、自分が目を付けたものをすべて手に入れて自分のものにしようとします。人間も曲がりくねって進みます。しかし、蛇には一つ賞賛に値する習性があります。蛇の本能がどれほど有毒で致命的でも、蛇使いの音楽が奏でられると、蛇は鎌首を広げてその音の甘さに溶け込んで、それ以外のことはすべて忘れてしまいます。同様に、人間も修練によってプラナヴァの至福に溶け込むことができます。こうした音(シャブダ)を通じた礼拝(シ�
�ャブダ・ウパーサナ)は、ヴェーダにおけるプラナヴァであるパラマートマを悟るための第一の手段です。

―「ギーターヴァーヒニー」第12章

すべてのマントラの中で、最高位にあり、最良のものはオーム(プラナヴァ)です。それはまさに、すべてのマントラの頂点であり、王冠なのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月22日)

クリシュナを描写している讃歌「カストゥーリー・ティラカム」を例に挙げましょう。一見すると、それは美しい御姿を記述し、クリシュナの装飾品を描写しています。しかし、それぞれの言葉には、見逃してはならない深い意味があるのです。クリシュナの額にあるカストゥーリー(ムスク、麝香)のティラカム(点)は、シヴァ神の額にある第三の目のように、英知の目、内なる目、内面に向かうビジョン(視覚)の象徴です。カストゥーリーは英知を意味します。それからその讃歌は、クリシュナの胸にある宝石カストゥバについて語ります。それはハートの中のアーナンダ(至福)、至福を体現している主のけがれなき至福を意味しています。次は、クリシュナの鼻輪の上で輝く真珠です。クリシュナのナーサーグラ(鼻先)にあるナヴァマウクティカム(九つの真珠)は、主の栄光に一心に集中した後でやって来る成功を暗示しています。というのは、ヨーガの熟練者が集中する上で助けにしているのが鼻先であるからです。 真珠は、雨粒から生み出されます。天からの貴重な贈り物を長いこと待ちわびている貝が、最初の、純粋で汚れなき雨を飲み込むのです。このことは、宗
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―1965年1月30日の御講話

主の御手の中にある横笛を目にしたときはいつでも、自分自身を物質的な欲望がまったくない空洞の葦にすることを覚えておきなさい。―ババ

訳注:「カストゥーリー・ティラカム」は、13世紀にビルヴァマンガラムによって書かれた328節から成るシローカー「シュリ・クリシュナ・カルナームルタム」の中の1節。

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月23日)

私は簡素さを好みます。優しい言葉やちょっとした奉仕、助けの手を求めてあなたに近づいてくる人々を落胆させないような服装を、私は好みます。それは、風変わりで奇妙なものではなく、清潔できちんとしたものでなければなりません。注目を集めるために着るのではありません。体のために清潔で快適な服を着たいと思うように、ジャパム(神聖な言葉の繰り返し)やディヤーナム(瞑想)など、きよらかで心(マインド)を元気づける訓練を欲するようにしなさい。健全なものを見るために目を使いなさい。神の家に行くために足を使いなさい。人間としてあなたの周囲を歩いている神の化身に奉仕するために手を使いなさい。苦痛をやわらげ、美徳を誉め、神を讃えるために舌を使いなさい。脳を低俗化するために目を使ってはなりません。有害な映画の列に並ぶために足を使ってはなりません。教育からの最も大切な贈り物は人格です。私が一番大切な要素だと考えているのは感謝、とりわけ、この人生という贈り物を与えてくれた両親に対する感謝です。

―1970年7月23日の御講話

教育を受けた人と教育を受けている最中の学生は、どちらも簡素さを培わなければなりません。虚飾を捨てなければなりません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月25日)

片足を前に出すだけでも、人には内面からの要請、目的、促しが必要です。願望によって意志が動かされるのです。それゆえ人は、より高次でより神聖な目標を願うよう努めなければなりません。人の心(マインド)は、願望の束です。人は、それぞれの願望の指示によってあちこちに振り回され、己に与えられた時間や授けられた能力を無駄使いしています。人は、自分が正しく行動していると信じて、良心の呵責(かしゃく)に耐えています。しかし、人間は時間の貴重さを認識しなければなりません。一秒たりとも無駄にしてはならないのです。常に自分自身の真理と自分自身に対する義務の探究に取り組まなければなりません。人生は、水漏れしている壺から一滴ずつ、したたり落ちていきます!時間は、致命的な一撃を負わせる準備を整えて、鋭利な剣のようにすべての人の頭上にぶらさがっています。しかし、人間は、この絶えず存在する災難に注意を払っていません!

―1981年4月13日の御言葉

時間を無駄にしてはなりません。時間を無駄にするなら、あなたは自分の人生を無駄にすることになるでしょう。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月26日)

社会において、あなたが高い地位と良い立場にいるなら、皆があなたの後を追いかけ「こんにちは」「こんにちは」と声をかけてくるでしょう!しかし、運悪く、地位を失って失脚したら、全員があなたのもとから逃げ出すでしょう。これは真の友情とは言えません。真の友情とは何でしょう?真の友とは、喜んでいる時も苦しんでいる時も、得しても損しても、影のようにあなたについてきてくれる人のことです。水槽が水で満たされていると、何千匹ものカエルがその中に入ってきます。しかし、水槽が乾くと、そこには一匹もカエルが見られなくなります。同じように、あなたが良い立場や高いランクにいる時には、誰もがあなたに従うでしょう。しかし、あなたが困っている時には、誰も見つかりません。そのような友情は真の友情ではないのです。「こんにちは」「こんにちは」と挨拶してくる人全員と友達になってはいけません。これは大きな間違いです。友だちになろうとしている人の素性、習慣、振る舞い、規律、その他の資質を知っておくべきです。また、その人が誰と付き合い、どのような付き合いをしているのかも知るようにすべきです。

―1996年7月8日の御講話

神を友とし、ハートを師とし、世界を大いなる書とみなして、あなたが望む限りの知識を身につけなさい。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月27日)

川は、砂漠の砂ではなく、海に到達しなければなりません。水は水と融合しなければなりません。それが成就―カイヴァッリヤ(完全なる一体性)もしくはサーユッジヤ(神と完全に一つになること)―です。その最終目標を常に見据えておくためには、揺れ動く心(マインド)を常に鎖でつないでおく必要があります。太陽が空にあるとき、月は見えないところで輝いています。研ぎ澄まされた知性であるブッディは太陽であり、薄暗い衛星であり満ちたり欠けたりする月は心(マインド)です。ですから、知性を十分に発揮しなさい。心(マインド)は、情熱ではなく、理性の指示に従わせなさい。感覚の奴隷ではなく、感覚の統治者になりなさい。クリシュナの呼び名の一つである「フルリシーケザ」は「感覚器官の支配者」という意味です。アルジュナの呼び名の一つである「グダーケザ」も同じ意味です。だからこそ、二人は仲間になったのです。感覚はあなたを自然界という密林の中に引きずり込みます。飢えで諸感覚が狂っている状態で、あなたが密林の中に逃げ込んだところで、何の役に立つのですか?聖賢たちはなぜ密林の中に入ったのでしょう?森の静かな静寂の中に心(マ�
�インド)を沈め、他のすべての声が聞こえなくなった時に聞こえる神の思念の中に、常に身を置くためです。他の声が入って来る窓を閉めれば、あなたの家は解脱の森、苦行の庵に変容することができます!

―1965年1月30日の御講話

放棄とは、妻や財産を捨てて森に逃げ込むことではありません。それは否定的な感情や欲望や迷妄を手放すことです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月28日)

ダイヤモンドは、カットして、ファセット(カット面)を作ることによって、その価値を高めます。同様に、大地から鉱石として掘り出された黄金も、精製された後に、純粋で価値あるものとなるのです。同様に、人生をつまらないものから崇高なものへと昇華させるためには、サーダナ(霊性修行)が必要となります。生まれながらにして学がある人、徳がある人はいません。さまざまな努力をして初めて、人は学者や有徳者になるのです。万物の中には、生まれながらにして悪いものがたくさんあります。その悪いものの中から、善が生まれるのです。人が何かを欲するとき、その欲望は他のものに対する嫌悪と結びついています。人間の生活は、好きと嫌い、善意と悪意、結合と分離と、切っても切れない関係にあります。それゆえサムサーラ(世俗の人生)は、波が絶えず結合と分離をもたらす大海原に例えられるのです。同じ大海原には真珠や宝石も眠っているのです。ですから、人生の試練や苦難に立ち向かい、それを乗り越えなければなりません。もし、これに失敗したら、私たちの人生は無駄になってしまいます。人生は試練に満ちています。もしこのような困難がな�
�かったら、人生にはほとんど価値がないでしょう!

―1991年6月1日の御講話

不幸がそうであるように、幸運は己の平常心に対する挑戦です。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月29日)

カルナには、肉体の力、知性の力、武器の力がありました。実際、彼はあらゆる力を授かっていたのです。これらすべての点において、カルナはアルジュナよりはるかに優れていました。またアルジュナには、カルナが持っていたような寛容さがありませんでした。カルナは自分のした約束を決して破りませんでした。あらゆる美徳と犠牲の精神に恵まれていたにもかかわらず、カルナが4人の邪悪なカウラヴァたち(ドゥルヨーダナ、ドゥッシャーサナ、シャクニ、カルナ)の一員となったのは、邪悪なドゥルヨーダナとの約束を反故にすることができなかったからです。あなたの仲間について私に教えなさい。そうすればあなたがどんな人であるか言ってあげましょう。邪悪な人と一緒にいると、邪悪な性質があなたの中に入り込んでくるのです。同様に、善良な仲間と一緒にいると、善良な資質が身につきます。石炭は、火に触れると火のように輝きます。あなたの仲間のとおりに、あなたはなります。小麦粉のとおりに、チャパティは出来上がります。食べた物のとおりに、ゲップが出るのです。

―1996年7月12日の御講話

訳注:カルナは、叙事詩『マハーバーラタ』の登場人物。パーンダヴァ兄弟の母であるクンティー妃と太陽神の息子。カウラヴァ兄弟の仲間となり、クルクシェートラの戦いでは三人目の総指揮官としてパーンダヴァ兄弟と戦い、最終的にアルジュナに倒された。

埃の粒子は、風と一緒になると空に舞い上がり、雨水と一緒になると排水溝の中に落ちていきます。上昇と下降のどちらも、一緒にいる仲間の影響で起こるのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月30日)

ヴィヴェーカ(英知)とヴァイラーギャ(無執着)を得るための第一歩として、これからナーマスマラナ(主の御名を通してひたすら神を憶念すること)の修行に入りなさい。この修行を好まない人たちが口にする流行中の言い訳が「時間がありません」です。特別な時間や余分な時間を割り当てる必要はありません。それは、起きている間、入浴中や食事中、歩いているときや座っているときなど、いつでもできることです。うわさ話に費やす時間、スポーツや映画を視聴する時間、中身のない会話に費やす時間はすべて、主の御名と御姿と光輝を黙想するために使うのが最良です。さて、あなたは神に対して食欲がないと訴えています。食欲がないのは、あなたが不健全な食べ物を食べたからであり、良い食べ物を食べ過ぎたからではありません。あなたには、どの食べ物が健全なのか、その成分は何なのか、などの知識がありません。あなたは、感覚という不純な入り口から得た不健全な食べ物が、己の健康を保つと信じています!ここでこの学びを得、より良い知識を身につけて、あなたの場所へ戻りなさい。

―1965年1月30日の御講話

あらゆる街路に神の栄光を響かせなさい。あなたの体の細胞すべてを神の神聖な御名で満たしなさい。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月31日)

知性や知的能力を持たない愚者であっても、罪に対する恐れがあるなら、それで十分です。富や黄金や世俗的な財産をいくら持っていても、罪に対する恐れがないのなら、無知者としか見なされません。あるとき、プラフラーダは父に言いました。「なぜあなたは、森で野生動物を狩るように、罪のない人々を殺すのですか?あなたは自分の王国を拡大するために暴力行為に耽っています。こんなにも多くの人を殺して何の得があるのですか?これは、あなたがすべきことではありません。内なる敵の奴隷となった者が、どうして外敵を征服できましょう?あなたの中には、たくさんの大きな敵がいます。それらは何ですか?欲望、怒り、貪欲、迷妄、高慢、嫉妬です。この六つの内なる敵に屈したあなたは、外で罪のない人たちを殺しています。それは大きな罪なのです」。何よりもまず、欲望、怒り、貪欲など、あなたの内なる敵を倒しなさい。そうして初めて、罪に対する恐れを抱くことができます。今日、この国に蔓延している不安の原因は何でしょうか?その理由は、罪への恐れと神への愛が欠如していることにあります。

―1996年7月12日の御講話

あなた方は、あらゆるチャンスを見逃さず、心(マインド)に高潔な思想を考えさせ、高尚な仕事を行い、エゴが下落するのを抑えなければなりません。―ババ

Japanese, 2023年4月

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年4月1日

神なる愛の化身である皆さん!主はその無数の手足、目、顔、耳によって、宇宙のすべてに行き渡っています。しかし、人間はその事実を認識せず、自分が行為者であると推測して、誰も知らないと思いながら、あらゆる類の憶測にふけっています。主はすべてを見ています。誰一人として主に隠し事をすることはできません。主は生きとし生けるものすべての内と外に宿ります。それゆえ、主から隠せるものはないのです。神は、生きとし生けるものすべての中に、同一の姿で宿っています。生きとし生けるものは互いに異なるかもしれませんが、神は一つであり、それを分かつことはできません。太陽は湖の水も、井戸水も、器に入った水も、川の水も、海の水も照らします。太陽は一つですが、さまざまに反射します。器はさまざまですが、万物の中にある神は同じものであり、一つです。世界の中で神よりも人間に近いものはありません。あなたにとって神は、母親よりも近く、父親よりも親しい存在です。そのような神を忘れるわけにはいきません。この良き助言を心に留めておきなさい。

―1991年1月14日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年4月2日

人が持っている役職は一時的なものです。もしその役職に価値を置くのであれば、引退して公園のベンチに座り始めた途端、人々から認識されなくなり、挨拶もされなくなるでしょう。外側だけを磨くような学校教育は、機会の無駄遣いです。教育は単なる生活のためではなく、人生のため、より充実した人生のため、より意義深く、より価値ある人生のためにあるのです!就職のためでもあるというのなら、害はありません。しかし、教育を受けた者は、生計を立て、高収入の職を得ることだけがすべてではないということを知っておかなければなりません。繰り返しますが、教育とは、議論や批判の能力を伸ばしたり、敵対者に反論して勝利したり、あなたが言語や論理に熟達していることを示すためにあるのではありません!この輪廻転生に打ち勝つことを教え、死の予感に襲われることなく、運命という不幸や祝福にかき乱されることなく、心に平静をもたらす学問こそが最上です。その学問は、あなた方のこの学業が終わったところから、その学問が始まります!

―1963年9月12日の御講話

真の教育は、真理と愛にあふれています。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年4月3日

エゴという悪徳、貪欲という邪悪、妬みという毒を取り除きなさい。あなたが外側の何かから喜びを求める時、それよりもはるかに大きな喜びがあなたの内側の意識の中で待っている、ということを思い出しなさい。もしあなたが、あなたの外側の誰か、あるいは、何かを恐れているならば、その恐れはあなた自身の心の中で生まれ、かき立てられ、大きくなるということ、そして、あなたはその恐れを否定することによって恐れを克服することができる、ということを思い出しなさい。恐れが霊性の求道者の道に立ちはだかることなどどうやってできるでしょう? 恐れはどんな影にも隠れることはできず、自分のハートに神を有するサーダカ(霊性の求道者/霊性修行者)を苦しめることはできません。
全能の神を信じることは、サーダカが身につけることのできる、決して射抜かれることのない甲冑です。そして、自覚している、いないにかかわらず、どの国の人もサーダカです。不動であり、揺らぐことなく、まっすぐに進み、絶望することなく理想を固守しなさい。神が憐れむまで祈りなさい。もしあなたが期待している時に神が恩寵の雨を注いでくれなくても、悲しんでそっぽを向いてはなりません。

―1976年10月1日の御講話

あなた方は、世俗的な感情や思考を捨て去り、一体性の原理を完全に信じる心を培うべきです。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年4月4日

仏陀は、人間の生につきまとう苦しみについてたいそう思い悩んでいたので、人の心と理知の行動を調べて、それらを矯正する修行を見出しました。仏陀は、人を欲望の渦へと引き込む心の気まぐれな動きを分析しました。仏陀は、理性の傾向も分析し、偏見が根付く領域を突き止めました。そして、何にもまして、仏陀は、ダルマへの全託、慈悲への全託、そして、ブッダ(悟りを開いた者の総称)への全託を説きました。マハーヴィーラが全インドに及ぶ運動を展開させた宗教であるジャイナ教は、ジナ(五感を征服した英雄/勝利者)、熱情、そして、理知の戦略をこの上なく称賛します。マハーヴィーラは、各人の地位と職業に見合った義務を確固たる信仰と熱意を持って遂行するよう皆に呼びかけました。マハーヴィーラは、無生物も生物も、すべてはその存在自体が聖なるものであり、悟りへの道を歩む巡礼者にほかならないと宣言しました。それらのいずれかに与えられるいかなる傷害も、その神聖な旅路への介入であるため、細心の注意を払って避けなければなりません!

―1976年10月1日の御講話

諸感覚を野放しにすると、あらゆる種類の反応が起こります。諸感覚が統一された制御下に置かれたときに初めて、神の本質を理解することができるのです。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年4月5日

自分の好き嫌いを他の人の好みに合わせることを身に付けなさい。犠牲と奉仕という心優しき術を身に付けなさい。覚えておきなさい、義理の母に対して怒りをもって返すなら、あなたも義理の娘から同じような仕打ちをされる日が来るということを! 義理の母の観点に感謝するようにしなさい。義理の母は、あなたよりも深い思慮、豊富な経験、大きな責任感を持っていることでしょう。家事については新米のあなたよりも、人や物事についてよく知っていることでしょう。結婚してあなたが入ることになる夫の家庭は、よい訓練の場、霊性修行の場(サーダナ クシェートラ)です。欠点を指摘されても怒り出してはなりません。自分の行いをよく調べて、自分の誤りを見つけなさい。自分を調べることは、自己改善と平安への第一歩です。他の人の欠点は過大視せず、許容範囲を広くして、小さなものと見なしなさい。自分の欠点は過大視し、大きなものと見なして、早くなくすよう努力しなさい。あなたの欠点を探す人は誰もが友人であり、自分の幸福を願う人だと思いなさい。

―1963年9月12日の御講話

帰依者に期待される最も重要な資質は忍耐です。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年4月6日

やさしい性格とやさしい言葉を育みなさい。やさしい言葉はやさしい性格があれば自然と出てくるものです。怒りと悪意のない言葉、取り繕ったものでも形だけのものでもない、ハートから直接出てくる言葉を話しなさい。そうすれば、あなたはすべての人に喜びと愛を拡げることになるでしょう。あなたの両親が、あなたに望みの服を着せてやれなくても、あなたがとても欲しいと思っているきらびやかな装飾品を与えられなくても、腹を立てて両親と口論してはなりません。一般大衆からのプレッシャーに身を任せてしまおうという誘惑に負けないくらいの度胸を持ちなさい。善い性質を養うこと(グナ ポーシャナ)は、体を養うこと(デーハ ポーシャナ)と同じように大切なことだということを覚えておきなさい。あなた方は、人目を引く服装をして、何冊もの本を抱えて、バスに乗って出歩いていますが、私に言わせるなら、女性にとって最も効果のある化粧品は有徳の振る舞い(シーラム)です。ナスタ(朝食)を重んじるのではなく、ニシタ(修行)を重んじなさい。朝食は抜いてもかまいませんが、修行を抜いてはなりません。今後は規則正しい修行の生活を送りな�
�さい。それを習慣にして、それをあなたを危害から守ってくれる鎧にしなさい。

– 1963年9月12日の御講話

人格を育むことなく、友人の輪や富や力を増やしても何の役にも立ちません。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年4月7日 

磔の時、母マリアはイエスのそばに来て泣き始めました。「なぜ泣いているのですか、お母さん? この肉体は水の泡のようなものです。この肉体を彼らの望むようにさせましょう。お母さんは彼らが私を殺そうとしていると思っています。私に死はありません。だれも私を殺すことはできません」と言って、イエスはマリアを慰めました。マリアは尋ねました。「あなたは私の肉体の息子ではないのですか?」。イエスは答えました。「もちろんです! 肉体レベルでは、私はあなたの息子で、親子の関係があります。けれども、『私は私』に他なりません。すべての人は私の子です。すべての人は神性の化身です」。このようにして、イエスはあらゆる試練を経て、最高レベルの霊性に到達しました。イエスは単なる人間の姿ではありません。彼は、本当に神我の化身そのものだったのです。けれども、その神性に気づくことができない人々がいました。今でもなお、一部の人は神を信じていますが、それ以外の人は信じていません。ある人は神を褒め称え、ある人は批判します。すべてはその人の信仰次第です。もし、あなたが石を神と見なすなら、石は自然と神になるでしょう�
�。

―2007年12月26日の御講話

心の病である無知は、英知によって取り除かれなければなりません。自分が肉体ではなくアートマであることを思い出せば、あなたは英知へと導かれるでしょう。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉(2023年4月11日)

この世界にいるすべての人は、ある人を、あるいはそれ以外の人を愛しています。しかし、そのような愛には違いがあります。すべての身体の中には、一なる神が存在しています。神はすべての人間の中に存在するのですから、すべてを愛し、すべてに奉仕しなさい。この全世界に、神が存在しない場所はありません。空の中にも、水中にも、音の中にも、光の中にも、神が存在しています。このように、この全世界に存在する万物は、具現化された神なのです。私たちは、このような遍在する神を見捨てて、寺院にある偶像の姿をした神を礼拝しています。もちろん、これらの偶像を礼拝してよいのです。そのことには何の問題もありません。しかし、その偶像の中にいる神と、すべての人間、いえ、生きとし生けるすべての中に存在している神と同一であるという真理を、あなた方は悟らなければなりません。まずあなた自身を神と見なしなさい。それから、生きとし生けるすべての中に同一の神を見ることを始めなさい。あなたの身体は寺院です。その寺院には神性エネルギーがあります。

―2007年7月28日の御講話

あなたのすべての行為の目撃者として、神はあらゆる場所にいます。あなたが出会い、奉仕するすべての存在の中に神はいます。あなたがそのような考え方を実践するなら、きっと主のビジョンという見返りが得られるでしょう。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉(2023年4月12日)

あなた方は「至福が欲しい」と言います。この至福はどこから来るのでしょうか? 市場の店で購入することができるでしょうか? あるいはホテルで食べることのできるものでしょうか? いいえ、まったくそうではありません。至福は内から生じるものです。実際のところ、あなた方は至福の化身そのものなのです。誕生した時、あなたは至福に満ちています。しかし、ひとたび世の中に執着するようになると、泣き始めるのです。それゆえ、世俗への執着を減らす必要があるのです。あなたは今、世俗に対するたくさんの執着心を抱いています。それによって自分の身体を弱めているのです。最終的には悲しみの中で人生を終えることになるでしょう。心配は非常に悪い性質です。性急さと心配と油分の多い料理、これら三つが集まると、心臓が弱くなります。ですからこれらから離れなさい。困難に遭遇したときには、これらは過ぎ行く雲のようなものであり、きっといつかは過ぎ去るのだと、確信すればよいのです。ですから、心配する必要はありません。来たものは何であれ、いつかは去っていくのです。それらは一時的なものです。

―2007年7月28日の御講話

逆境に遭遇しても絶望してはなりませんし、成功に恵まれても有頂天になってはいけません。どのような逆境も、永遠の至福につながる飛び石の一つです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月14日)

愛の化身である皆さん!お正月が真理と正義という新しい原理をもたらすのではありません。それらは永遠不変です。それらが実践されると、全世界が守られるでしょう。ですから、私たちは常にこの2つの原理を心に留めておかなければなりません。人間にとって、真理と正義は己の両目です。実際のところ、これらは生命原理そのものです。人は、どんな活動に着手してもよいし、どんな仕事やビジネスをしてもかまいませんが、すべての努力の底流には真理と正義が流れていなければなりません。人間は、より新しい道を歩まなければなりません。何年も過ぎましたが、人間は古臭く卑屈な気持ちを捨てていません。人は、己のハートを浄化しなければなりません。ハートが変容して初めて人間性が花開くのです。(お正月に)ただ新しい服を着るだけでは十分ではありません。己の性格や行動を変えなければなりません。人間の振る舞いは、真理と正義に基づいているべきです。

―2003年4月14日の御講話

神の恩寵を得れば、あなたはどんな障害も乗り越え、いかなる種類の富をも手に入れることができます。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月15日)

些細でつまらない物事を神に求めたり、望んだり、祈るべきではありません。最も尊く、望ましいものは、神の愛以外にありません。もしあなたが神に何かを求めたいのなら、神にこう祈りなさい。「おお主よ!私にあなただけを得させてください。」あなたが主を確保すれば、何でも欲しい物が得られます。だからこそミーラーは「私は神の愛という宝石の富を手に入れました」と歌ったのです。神の愛を手に入れることができれば、それ以外のものを渇望することは、カルパタル(願望成就の木)にコーヒーの粉を求めるようなものです!あなたが神に求めるべきものは、神そのものであり、小さく価値のない利益ではありません!神の恩寵を求めて祈るときでさえも、神に認められ、好意を抱いてもらうために、大袈裟に賛美したりお世辞を言ったりしてはなりません。このような好意を得るための賛美には、商業的な色合いがあります。このような賛美によって助けを得ることも、まったく適切ではありません。このような賛美に頼ったがために、古のリシやヨーギたちは、神のビジョンを得るために数百年もの苦行をしなければならなかったのです。

―1989年10月9日の御講話

神の愛を求めて祈りなさい。愛というメッセージを広めながら人生を送りなさい。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月18日)

今やダルマは、他人から利益を得るための便利な口実となっており、他人に対する義務を果たす機会ではなくなっています!他人から何らかの利益を搾り取ろうとするとき、あなたは他の人にそのことを思い出させているのです。ダルマが与える権利だけでなく、ダルマが課す義務のことも覚えておかなければなりません。 利己心と誤った価値観を受け入れることが、ダルマを無視しようとする誘惑へと成長します。低次の欲望を満たしたいという願望が、アダルマ(不正)の根源です。この願望は、夜中の泥棒のように、あるいは、あなたを助けに来る同志のように、あるいは、あなたに付き添う使用人のように、あるいは、あなたに警告するカウンセラーのように、ずるずると、静かに、あなたを捕らえていきます!邪悪は、あなたのハートをとらえるために千のトリックを持っています!誘惑に対して、あなたは常に警戒していなければなりません。願望は、あなたの意識の中に隙間を作り、そこに入り込んで定着し、その種族を増やして、あなたが苦労して築き上げた人格を食い荒らします。そうなると、その砦はもはやあなたの制御下にはありません。あなたは、己の内なる敵ぁ
�冒爐蕕譴襦∩爐蠖遊舛棒�蟆爾�辰討靴泙辰燭里任后�

―1964年4月15日の御講話

起きている間はずっと、自分はダルマの教えに従っているのか、それとも外れているのかを、調べなければなりません。― ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月21日)

現代においては、真理、正義、平安、愛に関するスピーチが行われ、価値を広めるための展示会が催されています。しかし、実生活の中でこれらの価値を実証しようとする試みはなされていません。価値が実践されないのであれば、スピーチや展示会が何の役に立つのでしょう?宣伝活動によって世界が変容することはありません。これらの理想の生きた模範があって初めて、その理想は意義深く、奮い立たせるものとなるのです。世の中のあらゆる混乱は、人々が二重生活を送っていることに起因しています。言行不一致なのです。思いと言葉と行動が一貫していなければなりません。調和のとれた生き方を通して人類の一体性を促進し、すべての人と喜びを分かち合うことの中に、真の霊性があります。バジャンやあらゆる形の礼拝は、単なる善行にすぎず、霊性においてはどうでもいいことです。信愛は、万物に対する愛を表現することにあります。スピーチによってハートの変容をもたらすことはできません。それらはしばしば混乱と対立を招きます。スピーチよりも優れているのは、神への信仰を伴った愛の実践です。

―1989年3月24日の御講話

神を信じていながら、神の言葉や命令を無視することは、あなた自身を否定していることになります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月23日)

空気は空気と、火は火と、水は水と容易に混ざり合います。同じように、神は光の姿そのものなのですから、あなた自身が光となりなさい。あなたは宇宙の光と一つになるでしょう。神には姿形がありません。無相の神に融合するためには、身体とあなた自身を一体視することを止めなければなりません。常に身体に執着しているのであれば、どうして宇宙原理であるアートマを悟ることができるでしょう?アートマに集中しなさい。そうして初めて、あなたの良心が宇宙意識に溶け込むのです。この一体化を「サーユッジヤ(神との融合)」と呼びます。エーカートマ サルヴァ ブータンタラートマ(唯一なるアートマが万物に宿っている)。ただ一つの存在しかありません。しかしそれにはさまざまな名と姿があるのです。存在するものは1つだけです。ゼロに価値があるのは、先に1があるからです。世界、生命、太陽、月、空、その他すべてのものはゼロです。1つだけの存在がヒーローです。それが神です。本質的には神である人間は、神を忘れればゼロになります。愛の化身である皆さん!神はあなたとは別の存在ではありません。あなたが神なのです。この真理を探究し、理解し�
�なさい。人生のすべてを研究や実験に費やすのであれば、いつ実践するつもりですか?一人ひとりの名、姿、属性は異なるかもしれません。しかしアートマは変わらないままです。

―1998年11月23日の御講話

無相の神に、どうして姿形の制限があるのですか?神はどのような姿をしていても、どのようなグナ(属性)をもっていてもいいのです。世のためになるのであれば、どんな行動をしてもいいのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月24日)

参照するための便宜上、私たちは同一の原理に対してさまざまな名をつけています。たとえば、この肉体はサティヤと名づけられています。しかし、この名前は私の肉体に関係しているのであって、私とは関係ありません。私は肉体ではありません。私は心ではありません。私は知性ではありません。私はチッタ(心素)ではありません。私は想像の産物ではありません。バガヴァン(尊者、尊神)はバガヴァンです。このような固い信念を養いなさい。食習慣や余暇の過ごし方の変化に影響されやすい心(マインド)を持つ人々がいる可能性があります。また、このような人々は、友人の影響を受けやすいものです。それゆえ私は、高潔な魂の持ち主の仲間に加わりなさいと、皆さんにアドバイスするのです。誰でも解脱(ムクティ)を得ることができます。しかし、いつでしょう?あなたの中に「私はアートマである」という真理が確立された瞬間、あなたは解脱を得るでしょう。常に「スワミは私の中にいる。私はスワミの中にいる」と考えなさい。しかし、揺れ動く心(マインド)で「私はスワミ、私はスワミ」と繰り返しても、何の役にも立ちません。「私はスワミ、私は神、私は神」�
�を確信しなさい。その確信が得られたときに初めて、皆さんは、ニルグナム(無属性)、ニランジャナム(無垢)、サナータナ ニケータナム(最後の住居)、ニッティヤ(永遠)、シュッダ(純粋)、ブッダ(大悟)、ムクタ(自由)、ニルマラ スワルーピナム(神聖さの権化)である神に到達するでしょう。

―2007年7月28日の御講話

時間があるときにはいつも、スワミのことを思いなさい。私は必ずあなたの前に姿を現します。それだけでなく、私はあなたに話しかけさえするでしょう。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月25日)

愛の化身である皆さん!皆さんの名前と姿形は様々ですが、皆さん全員の中にある愛の原理は同じです。だからこそ、私は皆さんに「愛の化身である皆さん」と呼びかけるのです。愛は常に一つです。愛は分割されてはならないものです。神は一つであると考えて、心の底から神を愛しなさい。そのような、神に向けられた一意専心の愛こそが、真のバクティと呼べるのです。ジャヤデーヴァ、ガウランガ〔チャイタニヤ〕、エークナートといった帰依者たちは、そのような愛を深めて人生を聖化しました。同様に、ミーラーとサックバーイーも、揺るぎない愛と神へのバクティを持っていました。彼らが様々な御名と御姿を礼拝することはありませんでした。彼らは一つの道を歩みました。彼らは一つの御名と一つの御姿をハートに据えて、自分が選んだ神を絶え間なく憶念しました。二心(ふたごころ)を持ち、しばしば道を変える人は、人生をだめにすることになります。ですから、決して二心を持ってはなりません。一意専心(エーカートマ・バーヴァ)をもって神を体験しなさい。ラーマ、クリシュナ、イーシュワラ等々、どんな御名を選んでもかまいません。その御姿を瞑想しなさい�
�。必ず人生の目的地に到達することでしょう。

―2005年4月13日の御講話

訳注:

ジャヤデーヴァ: 12世紀インドの詩人。クリシュナへのラーダーの熱情を歌ったサンスクリット語の詩『ギータ・ゴーヴィンダ』で知られる。

ガウランガ: 1486-1533。神の化身と賞賛された聖者チャイタニヤの本名。白い肌を持つものの意。24歳のときに入門式を受けてサンニャーサとなり、つねにクリシュナ神の名前を唱えて至福に浸りながらインド全土を回った。

エークナート: 1533-1599(?)。バクティを重視するワールカリー派の宗教詩人。マラーティ語で『バーガヴァタ・プラーナ』の注釈書『エークナーティー・バーグヴァト』を著した。

ミーラー: 1547-1614あるいは1498-1563。メワール王国の都チットール(ウダイプルに遷都される前の都)のマハーラナ(藩主)の妃で、クリシュナ神の偉大な帰依者。

サックバーイー: 義母と夫に苦しめられたが、それに耐え、純粋な「バクティ」(信愛)をヴィッタラ神に捧げた偉大な帰依者として知られている。

ブラフマ・タットワ(無相の実在)を、悟るためには、無相に到達するための足がかりとして、一つの御姿を選ばなくてはなりません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2003年4月26日)

愛の力は比類なきものです。それは人間の理解の範囲を超えています。愛は、愛を通してのみ理解できます。ミーラーの夫であったラナは、クリシュナのために寺院を建立しました。ミーラーは神の偉大な信者であったため、いつも寺院の中で恍惚となって神の栄光を歌っていました。そして、それがラナの怒りを買うこととなりました。ラナはミーラーに寺院を離れるよう命じました。ミーラーにそれに大変なショックを受けました。ミーラーは心の中で考えました。「クリシュナは遍在で、この寺院に閉じ込められているわけではないのだから、ラナが私をクリシュナから引き離すことなどどうしてできるでしょう?」ミーラーは家を出て家庭を去り、マトゥラー〔クリシュナが統治した都〕に向かいました。マトゥラーとはどこでしょうか? それは地理上のどこかの場所ではありません。甘美な愛に満たされたハートこそが、マトゥラーです。ミーラーは歌いました。「チャロー レー マン ガンガー ヤムナー ティール(おお、心よ! ガンジス河とヤムナー河の合流地点へお行きなさい)」。ここでのガンジス河とヤムナー河とは、イダーぁ
�肇團鵐�蕁次蔑酖�糞い��譴觝険Δ領邊鼻砲鮠歡��飽嫐�垢襪發里任后�ぅ澄爾肇團鵐�蕁爾�鬚錣詒�屬涼羆獷魯泪肇ゥ蕁爾鯢修靴討い泙后�海譴�修硫里糧覽慧�憤嫐�任后��

―2005年4月13日の御講話

神を賛美するだけでは十分ではありません。あなた方は神を愛さなければなりません。全宇宙を愛することができるように、あなたが愛そのものにならなければいけません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月27日)

すべての生き物とすべての物事は神です。しかし、知的な分析によって、あなた方は自分を助けてくれる人と物事を選び、自分を妨げる人と物事は避けなければなりません。これは英知の道です。電流や火や鋭いナイフを例に取りましょう。これらは皆、使い方を知らなければ危険ですが、慎重に扱う方法を知っていれば役に立ちます。これらは敵にもなれれば、味方にもなれます。諸感覚も同じです。感覚にあなたを支配することを許してしまえば、感覚は不倶戴天(ふぐたいてん)の敵となりますが、あなたが感覚を支配すれば、感覚は目的地に到達するのを助けてくれます。人は、外界に注意を引きつける諸感覚を支配しなければなりません。感覚に引っ張られている限り、輪廻(りんね)の二元(苦楽、悲喜など)の鎖から自由になることはできません。諸感覚は、人を外界にではなく内なる意識へと連れていってくれる霊性の道の、障害物です。鳥や獣は魂の渇きに苦しめられることはありませんが、人は苦しめられます。人は、神の恩寵によって、この偉大な贈り物を授けられているのです。

―1970年11月20日の御講話

人間性の価値を決めるのは識別力だけです。人はあらゆる物事を所有することができるが、識別力がなければ何の役にも立ちません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月28日)

霊的進歩と至福は、習練を重ねる努力次第です。それは、楽しく安易な道によってではなく、厳しく困難な苦役によってのみ到達できるものです。習練を重ねる習慣と心の集中、感覚の喜びの放棄、アートマ(真我)への信仰を身につけたとき、初めて人生は生きる価値のあるものとなります。習練と集中は、氾濫(はんらん)した川の水を制御し、無害で有益な水路へと方向づける堤防のようなものです。皆さんは霊性修行(サーダナ)に従事して真我を探求していますが、この崇高な任務において、この二つは大きな助けになるでしょう。道を知らない者は、誰も目的地に到達できません。目的地を知らない者は、誰も道を選んで歩いていくことはできません。皆さんは、旅を決意する前に、旅の目的地と、行く道についての正しい理解を得ていなければなりません。

―1970年11月20日の御講話

あなたが行うすべての行動において、愛があなたを神へと導くはずです。これ以上の道や目標はありません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月29日)

この世では、何かを活用するには、何らかの方法でそれを変化させなければ、活用は不可能です。米は、稲を米粒に変え、それから炊かない限り、食べることはできません。同様に、布は、綿を糸に変えて、それから布に織らなければできません。それと同じように、人間には三つの点における変容が必要です。第一は肉体的な変容です。第二はマインド(マナス、思考の束、心)に関する変容です。第三はアートマ(神なる魂)に関わる変容です。アートマは不変です。変容が必要なのは体とマインドだけです。どうすれば変容は起こるのでしょう? たとえば、「銀は神になれるのか?」、「石は神になれるのか?」と問うならば、答えは「イエス」です。彫刻家が岩の塊を聖堂で礼拝する美しい神の像に変えると、不活性で価値のなかったものが神聖なものになります。これが変容です。同様に、銀で作った神の像も礼拝の対象になります。それと同じように、つまらない、あらゆる世俗的なものも、時が経てば神聖で神々しいものに変わり得るのです。人間にはこうした変容が必要です。

―1984年7月14日の御講話

私たちに必要なのは、さまざまな種類の「情報(インフォメーション)」ではありません。必要なのは「変容(トランスフォーメーション)」です。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年4月30日)

この世界は、万人に生来備わっているアートマの力によってのみ、救われることができます。アートマの力を、個人の霊性修行(サーダナ)によって、そして、愛と純粋さと奉仕によってのみ得られる神の恩寵によって、引き出さなくてはなりません。もしこの二つがなければ、崩壊(プララヤ)は確実です。それは避けられないことです。 今、最も不足しているものは愛です! 家庭においても、父と息子、夫と妻、兄弟同士の間に愛がありません。あなた方は、自分の行動と態度を通して、また、万人に内在する一なるアートマの認識を基盤として、愛が世界の問題を癒すことができるということを、証明しなければなりません。生活が、とても人工的なものになっています。人は、次の段階で何が起こるかわからないまま動いています。人々を正しく導くランプとなるために、準備を整えなさい。愛のランプになりなさい。それには一切が含まれています。そうであれば、ジャパや苦行(タパス)をする必要はありません。愛、他の人々(神がまとった姿)への愛のこもった奉仕は、あなたに神の恩寵を授けるでしょう。ですから、あなたのハ�
�ートの中に愛を祀(まつ)り、その愛を育てることを、今日、決意しなさい。その愛を、全人類のためのものに、利己的な欲望のないものにしなさい。愛の化身(プレーマ スワルーパ)になりなさい。

―1970年11月20日の御講話

私は、あなた方のハートに愛の灯をともし、それが日々輝きを増していくのを見届けるために来たのです!―ババ

 

Japanese, 2023年3月

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月1日

あらゆる心(マインド)の動揺を静止させた結果である平安を、常に享受しなさい。心(マインド)があちらこちらに動き回るのを許してはなりません。静かに落ち着いていられるように訓練しなさい。外界との接触によって生じる心理的反応から距離を置きなさい。そうすれば、あなたは存在そのもの(サット)になることができます。それが聖賢の境地であり、感覚の領域を超えた状態であり、感覚の及ばないところです。それが、人生の最終目標である真の自己実現です。「沈黙を実践しなさい」と言われます。しかし、沈黙とは何でしょうか。単に口をつぐむことではありません。それは、五感の影響を受けずに、常に実在意識を確立することです。永遠の至福は、永遠の平安でもあります。心(マインド)が外界から遠ざかると、舌も静かになり、すべての感覚がそれに従うようになります。それが本当の静寂です。 – Prasanthi Vahini, Ch 24.

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月2日

カウラヴァ兄弟は、ダルマ(正しい行い)とモークシャ(解脱)を実践することなく、アルタ(富)とカーマ(欲望)という究極の目標を追い求める人々を待ち受ける災難を示すのに役立つ実例です。カウラヴァ兄弟は権力に酔い、貪欲とプライドに圧倒され、飽くなき欲望を抱いていました。そのため、とてつもない苦境に追い込まれ、滅ぼされました。『ラーマーヤナ』においては、アルタ(富)を蓄積しようと努め、カーマ(強欲)に流されたため、ラーヴァナは打ち負かされたのです。彼の「十の頭」は、彼が四つのヴェーダと六つのシャーストラに精通していたことを示しています。しかし、その学識が何かの役に立ったのでしょうか?アンジャネーヤ(ハヌマーン)の報告によると、ランカにはヴェーダの読誦が響き渡り、供犠の煙が立ち込めて先が見通せないほどでした。しかし、供犠を行っていたにも関わらず、ラークサシャ(悪鬼)たちは邪悪でした。儀式は正義をもたらすものでなければなりません。そうでなかったら、それはただの煩雑な手続きにすぎないのです。ラーヴァナはプルシャ(全能の神)ではなくプラクリティ(大自然)を、ラーマではなくシーターを手に入�
�れようとしました。そうして、彼の人生は不毛なものと化したのです。

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月3日

埃(ほこり)がついている鉄は錆び、その結果、その強度が失われます。しかし、火の中に入れると、その強度は回復します。まず、あなたの心(マインド)から埃を取り除かなければなりません。その埃とは何でしょう?埃は、悪い仲間と付き合うことによって生じる悪い感情のことです。悪い仲間がいるために、悪い想念を抱くのです。だからこそ「あなたの仲間を教えなさい、そうすればあなたが何者であるかを教えてあげよう」と言われているのです。時間をかけて吟味し、善良な人々との交友だけを求めなさい。あなたが良い地位にあるときには、誰もがあなたのことを「良い子だ」と呼び、あなたのところへやって来るでしょう。しかし、あなたが没落したら、一人残らず、さよならさえも言わずに、あなたから離れていくでしょう。このようなものは真の友情ではありません。真の友情とは何でしょう?困難や苦難の時期であっても、影のようにあなたから離れない存在が、真の友なのです。

– 1996年7月23日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月5日

人間は至福を求めます。でも、どうすればそれが得られるのでしょう? 信仰があるところには愛があります。愛があるところには平安があり、 平安があるところには真理があります。真理があるところには神がいます。神がいるところには至福があります。霊性の道は信仰から始まり、至福で終わります。至福は、物質的な快楽や世の中の人々によって得られるものではありません。至福は、五つの感覚が正しく使われるようになって、初めて得られるものなのです。今日人々は、至福を得ようとして聖典を読みますが、書物には書物としての限界があります。聖典を研究することによって無限の至福を得ることはできません。無限の至福を得るためには、「無限の書物」を読まなければなりません。この世界そのものが「無限の書物」です。この世界には、学ぶべきことが実にたくさんあります。 皆さんの友達は誰ですか? 同学年や、同室の友人などではありません。神だけが、皆さんの真実の友であり、永遠の友なのです。皆さんは、この神という友達の助けを得たときに、初めて「無限の書物」を研究することができるのです。

– 1999年5月30日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月7日

あなた方は、「バガヴァッドギーター」が治せる病気、すなわちモーハ(迷妄)という病気に苦しんでいます。この病気はあなたの価値観を覆い、視力を曇らせ、ものの見方を曲げさせます。しかし、薬に効き目を持たせるには、アルジュナが感じたヴィシャーダ(憂鬱)、アルジュナに受け入れる余地のあったプラパッティ(帰依全託)、アルジュナが身につけたヴァイラーギャ(無執着)、アルジュナがはっきりと示したエーカーグラタ(集中力)を持たなければなりません。アルジュナは、同族の者たちと師と年長者たちを殺した後、王位には就かずに物乞いをして生きるつもりでいました。それほどの熱烈な切望を持ちなさい。そうすれば、「バガヴァッドギーター」は、モーハを滅ぼして、あなたを解放することができるでしょう。自分が霊的にどのような発達段階にあるのか、それは学校のどのクラスに当てはまるのかを、独力で見出しなさい。そして、そのクラスから、その上のクラスへ進むことを決意しなさい。ベストを尽くして努力しなさい。そうすれば、神の恩寵を勝ち得るでしょう。投げ出したり、絶望したりしてはいけません。一度に一歩で十分です。ただし、それはゴ�
�ールへと向かう一歩であって、ゴールから遠ざかる一歩であってはなりません。

– 1966年2月19日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月8日

何人かの人々が「彼はサソリに刺されたのでサイババになった」と話しているのを聞いたことがあるかもしれません。では、誰でもいいから、サソリに刺されてサイババに変身してごらんなさい。いいえ、サソリは関係ありません。実際、サソリなど、まったくいなかったのです。私は、ダルマ(正義)の復興を願う賢者や聖者、霊性志願者たちの祈りに応えてやって来たのです。ちょっとでも騒動が起こりそうな兆しがあれば、巡査が現場に現れます。もし人々が暴徒化したら警部補が駆けつけます。暴力沙汰になれば警視が自ら現場に出てきて鎮圧しなければなりません。しかし、もし危険な事態に陥ったら、監察官自らが出動しなければならないのではありませんか。これは、監察官が全責任を負う状況です。賢者たち、学者たち、聖者たち、ヨーギたち、神聖な人物たちは努力をしてきました。そして彼ら全員が協力し合いながら、正義を再確立し、世界が絶対的平和(シャーンティ)に到達するための地ならしをすることになるでしょう。

– 1958年2月23日の御講話

あなた方が本当は何者であるかを思い出させるために私が来たのだということを理解しなくてはなりません。あなた方は一人残らず、サット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)の化身なのです。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月9日

もし心(マインド)とその気まぐれに屈し、心(マインド)が五感とその幻想の奴隷と化すのであれば、人は災難から逃れることができません。心(マインド)は幸福を求め、不幸を避けるよう人間を促します。それは区別を生み出し、活動を惑わせます。それは生涯を通じて、人間を前後に揺り動かし、押し出しては引き戻します。多くの場合、快適さの一形態に過ぎない幸福という概念は、心(マインド)の中に浮かぶと、飛行機やラジオ、憎しみに満たされた心(マインド)を荒廃させ喜ばせる爆弾のように、人間の手と頭脳によって物体として形成され、具体化しています。概念、欲望、渇望、切望――これらは実現するのです。ですから、世界は心(マインド)の産物に過ぎません。実際のところ、宇宙そのものが「エーコーハム バフッスヤーム(私は一である。私は多になりたい)」と意志した神の心(マインド)の現れなのです。宇宙は神の心(マインド)の中に生じ、そこで芽生え、伸びました。それ以来、心(マインド)は強力になり、広がったのです。あなた方一人ひとりにとって、世界を彩っているのは心(マインド)です。それが純粋であれば世界は心地よく、汚れて�
�いれば世界は危険に満ちています

-1971年7月23日の御講話
心は、人の束縛と解脱の原因であると言われています。悪い思考は束縛を生みます。善良な思考は解脱へと導きます。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月11日

善良な資質を持つ青年だけが、善良なリーダーになることができます。リーダーシップを発揮するための準備として、社会奉仕に参加しなければなりません。誰もが、自分の幸福が社会全体の幸福につながることを理解すべきです。親や教師は、生徒たちにそのような姿勢を身につけさせなければなりません。人間は、物理的な世界においてさまざまなことを成し遂げてきましたが、どこまで人間としての資質を高めることができたでしょうか?これは、今日の世界が直面している問題です。バーラタの古代史を勉強すれば、古代の人々が真理をいかに重要視していたかがわかるはずです。個人レベルでは違いがあるかもしれませんが、国益に関わることであれば、その違いを忘れて、全員が一致団結して行動すべきです。これは、ダルマジャ(パーンダヴァ兄弟の長兄)が従兄弟のカウラヴァ兄弟たちに対して取った態度です。彼は言いました。「私たち5人のパーンダヴァ兄弟は、個人レベルでは100人のカウラヴァ兄弟と敵対する立場にいるかもしれません。しかし、もし国が危機に瀕しているならば、私たちは105人となって戦います。国を守ることは我々の義務な�
�のです。」

– 1993年11月22日の御講話

勉学と共に、謙虚さと畏敬の念を培い、模範的な振る舞いを身につけなさい。ーババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月12日

学生諸君!国の未来は、良くも悪くもあなた方にかかっているのです。古い世代に国を改革することはできません。規律正しく、よく教育された若い世代だけが、将来のリーダーとして、十分に国に奉仕することができるのです。全世界を広大な邸宅として扱いなさい。バーラタ(インド)だけでなく、各国の安寧のために等しく努力しなさい。他人が何と言おうとも、自分の原理原則と信念を貫きなさい。ゴーピカー(クリシュナを愛した牧女)の例を心に留めておきなさい。彼女たちがクリシュナに対して抱いていた信愛は固く、揺るぎないものでした。真理はあなたの命の息吹であると見なしなさい。真理を語り、正義を実践するならば、あなたは最高の境地に到達するでしょう。生計を立てるにしても、人生で何かを経験するにしても、真理に忠実でありなさい。不正に得た富は、同じやり方で失われるでしょう。教育や医療やその他の分野で、社会的に有益な活動に従事しなさい。お金を稼ぐことよりも、手放すことの方がもっと大切です。このような奉仕の精神を身につけた学生は、どんな国に行ってもよいのです。卒業証書を就職するための物乞い道具に使ってはいけません。国に�
�奉仕し、高潔な人生を送るために、あなたが受けた教育を正しく活用しなさい。これが、皆さんへ贈る私の祝福です。

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月13日

学問や名声といった物事を蓄積しても、得たものが自分自身や他の人々にとって実際に役に立たない限りは、何の価値も生み出しません。人間の中で英知が目覚める必要があります。それは、自分自身であると信じている肉体が、自分によって操られている道具に過ぎないということを理解する英知です。それが、より高い霊的意識への第一歩となるのです。すべての人の中には、常に自由で、常に無執着で、常に純粋なアートマが存在します。それがブラフマン(絶対的実在)であり、宇宙意識であり、すべての人の中に潜在し、顕在しているのです。見事な無関心で世界を眺めるとき、ヨーガ(神との交流)が目覚めます。これこそが至高のアーナンダ(神聖なる至福)の源です。放棄や無執着がどうして歓喜につながるのか、と問われるかもしれません。活動に従事している間、自分中心の感覚を捨てなさい。感情や反応を経験している間、自分がその享受者であるという感覚を捨てなさい。そうすれば常に歓喜の中にいることができます。そのとき、ボーギ(享受者)は本当にヨーギ(霊的に進歩した人)となるのです。

– 1983年4月21日の御講話

活動を行う時にエゴを排除し、有形物を使う時に執着を持たなければ、ティヤーガ(放棄)とボーガ(享受)の違いはなくなるでしょう。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月16日

私たちは、カリ・ユガという今の時代を最大限に活用し、良いことをして、この世界で幸せに暮らすよう努めなければなりません。過去は過去であり、二度と戻って来ませんし、私たちに未来はわからないのです。現在は永遠ではなく、常に変化し動いています。だからこそ私たちは「善良でありなさい。善行を為しなさい。善を見なさい。それが神への道です。」と言うのです。善良であろうと努め、あなたのハートを善で満たし、善良な人生を送りなさい。そうすればその結果も良いものとなるでしょう。病気になったときには、それを悔やんでいても仕方ありません。必要なのは、どうにかして適切な薬を手に入れて服用し、その病気を治すことです。病気になったと嘆き悲しむよりも、その病気を治して、体が元気になるように努力する方がよいのです。ですから、このカリ・ユガに悪が起きていることを嘆くのではなく、常に善であるよう努め、この世界から悪を取り除く努力をしなければなりません。

– Summer Showers 1972, Ch 11.

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月17日

もし、プラーラブダ・カルマ(過去の行いによって宿命づけられた結果)の影響が避けられないと思うのであれば、神を崇拝することに何の意味があるでしょう?プラーラブダ(宿命)があったとしても、神の恩寵が、その悪影響の大部分を確実に取り除いてくれるでしょう。ここで小さな例を紹介します。一本の注射筒(シリンジ)があります。そこには、中に入っている薬は1970年まで使えると書いてあります。1972年、まさにそのシリンジが残っていて、その中の薬も残っています。しかし、その薬にはもう効果がありません。目的を果たすことができないのです。同じように、私たちの運命の中にはその薬のようなもの、プラーラブダのようなものがあるかもしれません。しかし神の恩寵は、その効果を弱めたり、鈍らせることができます。たとえそれらがあったとしても、それが私たちを悩ませることはありません。私たちは神の恩寵を受け取ることができます。プラーラブダもサンチタ(蓄積)もアガーミ(未来)も、恐れる必要はないのです。神が私たちの礼拝に喜ぶのであれば、必ずこれらの悪影響を取り除いてくれるでしょう。したがって、私たちが努力しなけれ�
�ばならない最も重要なことは、神の恩寵を得ることであり、それによってこれらの悪影響すべてを乗り越えることができるのです。

– 1972年夏期講習、第11章

罪の山は、神の恩寵によって霧のように消え去ります。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月19日

利己心を持ったまま、百万本の花を供えてプージャー(礼拝)をしてごらんなさい。どの花も拒絶され、一本たりとも受け取られることはないでしょう。一輪の蓮の花を、あなたのハートを、とても清々(すがすが)しいハートを供えなさい。サティヤ サイはそれを受け取り、愛と平安を授けます。あなたの美徳を花として供えなさい。美しさと芳香を放つ美徳を。強欲、怒りや憎しみといった害虫の付いていない、蓮の花のようなハートを捧げるのです。神性という種子は、人の努力と、たゆまぬ気遣いによっ て、大切に育てなければなりません。そうして花は咲き、実を結ぶのです。思いと言葉と行動によって他者を傷つけるような欲望を、あなたの心からすべて取り除き なさい。そんな一時の満足を与える行為に耽(ふ)けることで得る報いは、悲惨なものとなるでしょう。そうした行為の一つひとつは、あなたの心に種として植え付けられ、雑草のようにはびこって、あなたの平安と喜びを壊すことでしょう。ですから、油断大敵です。あなたの思いと言葉と行動をきれいにして、神となる定めに向かって進む人として振る舞いなさい。それに成功してゴールにたぁ
����り着くよう、私はあなた方を祝福します。

– 1983年4月21日の御講話

サイは、石やレンガやモルタルの建造物の中に住んでいるのではありません。普遍的な愛が香り、慈愛によって温かくなっている、優しいハートの中に住んでいるのです。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月20日

愛の化身である皆さん!人生は尊く、気高く、高潔です。嘆かわしいことに、人間はこのことを理解していません。人生の目的・目標は、自分が本当は何者であるかを知ることです。人は、自分が何者であるかを忘れて、世俗的な問題に巻き込まれ、不幸に陥ります。古代の賢者たちは、人類を救済するために進むべき道を示しました。彼らは、九種類の礼拝を推奨しました。そのどれか一つでも行えば、至福がもたらされ、人生を贖(あがな)うことができます。神の近くにいることを体験するために、最も容易な道はナーマスマラナ、すなわち、神の御名を絶えず思い起こすことです。このカリ・ユガにおいて、神を悟るためには、ハリ(神)の御名を唱えること以上に素晴らしいものはない、と、聖者ヴェーダ・ヴィヤーサは宣言しました。それは、学者であろうと、無学であろうと、裕福であろうと、貧乏であろうと、すべての人にとって最も容易な道なのです。

– 1996年10月3日の御講話

あなた方は、身体を道具として使いながら、内在者を悟るべきです。そしてこの真理を世界に広めるべきです。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月21日

まず、あなたのハートを神への愛で満たしなさい。あなたのハートはタンクのようなもので、諸感覚は蛇口のようなものです。あなたのハートというタンクを愛で満たせば、愛という甘い水が諸感覚という蛇口から流れ出すでしょう。行動は、ハートの中の気持ちのとおりになります。あなたのハートが愛で満たされていれば、あなたの行動はすべて愛で満たされるでしょう。井戸の中に石を投げ入れると、井戸全体に波紋が広がります。同じように、あなたの心(マインド)という湖の中に、良い思い、または悪い思い、という石を投げ入れると、その影響が体のすべての手足に広がります。悪い思いがあなたの心(マインド)の中に入り込むと、あなたの目は悪いものを見、あなたの手は悪いことを行い、あなたの話す言葉は悪くなり、あなたの耳は悪いことを聞き、あなたの足は悪い場所ばかりに歩いていくようになります。その思考の影響は、頭のてっぺんからつま先まで、全身に広がるでしょう。ハートが一番大切なのです。心が清らかでないと、人生は無意味になります。

– 1996年7月23日の御講話

あなたのハートから湧き出す神性という泉は、神々の食べ物よりも上等です。あなたのハートの甘さも、偉大さも、パワーも、そうなのです。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月22日

すべてを愛しなさい。すべての中に神が存在すると信じなさい。皆を幸せにしなさい。そうして初めて、あなたは幸福を手に入れることができます。他の人を幸せにすることなしに、あなたが幸せを得ることは不可能です。このウガーディの日に、己のハートを清めることを固く決意しなさい。過去は過去です。それをやり直すことはできません。道を歩いているときは、前にある道を見るべきです。後ろを振り返ることに、何の意味があるでしょう。それと同じで、過去について思い悩むのは無意味です。未来は不確実です。明日まであなたが生きているという保証は、どこにありますか?ですから、将来のことを心配する必要はありません。現在を生きなさい。それは普通の現在(オーディナリー・プレゼント)ではありません。過去の結果も、将来への種子も含まれているという意味で、それは遍在(オムニプレゼント)なのです。ですから、現在を適切に活用すれば、自分の将来は安全かつ確実であると安心できるのです。

– 2002年4月13日の御講話

霊的探究は、時間を活用する正しい方法です。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月23日

時代は流れ、世界はさまざまな変化を遂げましたが、人間のハートには変容がありません。教育が人間に変化をもたらしていると言う人々がいます。疑いなく、変化をしてきました。しかし、それはどのような種類の変化ですか?それは、人間のハートを変容させるのではなく、人間の心(マインド)を悪化させる異常な変化です。実際のところ、現代教育は人間の混乱に拍車をかけています。人間は本来学ぶべきことを学んでいません。人間は、獣のような性質を育て、悪魔的な行為に耽ることによって、人生を浪費しています。バーラタ(インド)の文化は、多様性の中に潜在する一体性に重きを置いています。それは、私たちがこの一体性の原理を理解し、自らを救済するために働くことを求めています。しかし、私たちは古の文化に反する物事に従っています。そのため、現代においては、一体性をさまざまに分断しようとする、いわゆる教養ある知識人の数が増えており、多様性の中に一体性を見出す高潔な魂の持ち主たちの数が減っています。古のインドの人々(バーラティーヤ)は、すべての人の幸福に大きな関心を寄せる生き方をしていました。彼らは、他の人々を幸福にするこ�
�とに充実感を見出していたのです。

– 2002年4月13日の御講話

多くの技術的、科学的な変化が起きている世界においては、近代性と霊的伝統と国の文化的遺産のバランスを保たなければなりません。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月24日

あなたを通して語っているの はラーマであり、ラーマだったらそう言うだろうと考えるようにして、一語一語を大切にしなさい。決定的に重 大な状況においてラーマとの約束どおりに行動しなかっ たことを、ラクシュマナがどれほど後悔したことか考えてごらんなさい。ラーマはラクシュマナに決してシー ターを庵に一人残してはいけないと頼んでいましたし、 ラクシュマナもそれに同意していました。ですが、ラクシュマナはその場を立ち去り、そのせいでラーヴァナはシーターを誘拐して自分の島へと連れ去ることができたのです! ラーマはアートマ ラーマ、すなわち、内なる神の声です。それに背いたり、それを避けたりしてはいけません。いつもその声が自分に警告を与えてくれますようにと祈りなさい。謙虚に祈りなさい。そして、その忠告に託すのです。そうすれば、ラーマは慈悲深くあなたを正しく導いてくれるでしょう。バドラーチャラムのラームダースは、牢屋に入れられ、 容赦なく鞭で打たれました。けれど、決してラーマへの 信仰を失いませんでした。彼は悲しげに恩寵を求めて祈りました。そして、拭
�世硫霪�砲茲辰胴虧笋�薺澆そ个���れることができたのです。揺るぎない信仰は霊的な成熟の証しです。それは、自らの内なる実体、揺るぎない核 心、すなわち、人の中に在る神に気づいたことによって もたらされたものです。 

– 1983年4月21日の御講話

主の命令に従う者は実に安らかであり、ヨーギである。主の命令に従わない者は病人(ローギ)である。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月25日

ダルマというものは、一人一人が思いつきで決められるものではありません。自分のハートから出てくるダルマが自分のダルマであり、どうしてそれが神のダルマになるのか、と言う人もいるかもしれません。ですから、あなたのハート、すなわち、肉体的なハート(心臓)ではない霊的なハートの中に、真我の原理を見出し、認識するよう努めなければなりません。「私が」という言葉はアートマに属しており、決して肉体には属していません。それゆえダルマは、私たちのハートから生まれて、私たちによって実践されるべきものなのです。ヴィヤヴァハーリカ ダルマ(法律に定められた義務)や日常生活に関するダルマは、日々変化します。日々変化するものは、真のダルマではありません。ダルマは永遠であり、不変であり、真理です。もしそれが変わりやすいものであるなら、なぜそのようなダルマを確立しなければならないのでしょうか。私たちはそれに従って行動すべきですか?『ラーマーヤナ』の中で、ラーマは「ラーモー・ビグラハヴァン・ダルマハ」(ラーマはダルマの体現者である)と表現されています。たとえラーマが肉体を持っていたとしても、ラーマが生き 
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�厩群年夏期講習、第11章

ダルマ的活動の流れは決して干上がってはなりません。その冷たい水が流れなくなると、確実に災害が起こります。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月26日

喜びでハートを満たすことによってハートを清浄にし、その喜びを他の人々と分かち合いなさい。この魅力的な姿をとった神を崇めなさい。セヴァに必要な資格を吟味してみると、自惚れ、貪欲、妬み、憎しみ、競争心などに汚染されていない、純粋なハートが肝要であることがわかります。また、生命力、美徳、そして正義の源である神への信仰が、必須であるということがわかります。セヴァは、万人のハートに内在する神に捧げる礼拝です。人に、どの州の出身かを尋ねたり、どのカーストや信条に属しているかを聞いたりしてはいけません。あなたが他人と思うその人の中に、あなたが最も愛する神の御姿を見なさい。実を言うと、その人は「他人」などではありません。その人は、神の生き写しであり、あなたも同じくそうなのです。あなたは、ある「個人」を助けているのではありません。あなたは、その人の内にいる「私」を愛しているのです。私は、その人の姿をとって、あなたの目の前に立っているのです。ですから、エゴが頭を出す隙間がどこにあるでしょうか?義務は神であり、仕事は礼拝です。どんなに小さな仕事であっても、それは神の御足の前に供えられる一輪の花�
�です。

– 1970年3月4日の御講話

神を愛する最良の方法は、すべてを愛し、すべてに仕えることです。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月27日

あなたには、何百万人もの人々を助ける計画に参加する機会がないかもしれませんが、足の不自由な子羊を持ち上げて塀の向こう側に渡したり、盲目の子どもの手を引いて混雑した道路を渡してあげることができます。これらも礼拝の行為なのです。セヴァは、霊性修行者に通常勧められる、ジャパや瞑想、礼拝や犠牲の儀式よりも、効果的です。その理由は、セヴァは、エゴを消滅させること、至福を手に入れること、という2つの目的を果たすからです。あなたの近くに座っている人が悲しみに沈んでいるときに、あなたは幸せでいられますか? いいえ、それはできません。赤ちゃんの痛々しく泣く声が聞こえたとします。あなたは可哀想に思って、涙ぐんでしまいます。それはなぜでしょうか? 両者の間に目に見えない絆があるからです。人間のみが、そうした思いやりの性質を所有しています。人間のみが、他の人が幸福なときに幸せに感じ、他の人が不幸なときに不幸に感じることができるのです。人間が万物の霊長であり、動物的進化の頂点であるのは、そのためです。人間のみが、セヴァをすることができるのです。それが人類特有の栄光であり、固有の能力ぁ
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�厩薫年3月4日の御講話

誰かに奉仕することは、私に奉仕することです。なぜなら私は万人の中にいるからです。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月28日

ラーヴァナは世界に大いなる教訓を与えました。彼は叫びました「おお、人間たちよ!私が生きてきたように生きて、そなたの人生を台無しにしてはならない!」 ラーヴァナが破滅した根本的な原因は何でしょうか?己の欲望に打ち勝つことができず、己の衝動を捨てようとしなかったラーヴァナは、一族全員を破滅させました。彼の息子たちは殺され、弟や他の近親者も死に、最終的には彼の国そのものが灰燼に帰しました。ラーヴァナは告白しました。「最終的に私は私自身を破滅させた」。これが、ラーヴァナが同胞たちに最期の瞬間に残したメッセージです。欲望を押さえることによって、初めて人間は自分が人間であることを明らかにするのです。己の欲望に引導を渡すことができない人間は、自分自身に引導を渡すことになるのです。善良な人は、その善行によって偉大になります。ラーヴァナは偉業を成し遂げようとしましたが、善良な人生を送る努力はしませんでした。ラーマの経歴は異なります。ラーマは善良な人間になることだけを志し、偉大さは求めませんでした。

– 1997年4月16日の御講話

世界を征服することによって、人は世界を統治する最高位の支配者となることができます。しかし、己の感覚を制した者は、あらゆる支配者よりも優れているのです。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月29日

市場で売られているさまざまな砂糖菓子を食べることによって、あなたの健康は損なわれてしまいます。これらの菓子はおいしいかもしれませんが、あなたにとって有害です。その代わりに、偉大なリシたちによってラーマの御名という砂糖菓子が用意されました。この菓子は、あなたの心に素晴らしい効果 をもたらします。けっして古くなったり腐ったりすることはありません。ラーマの御名という砂糖菓子を食べれば食べるほど、より多くの喜びがそこから引き出されます。それは砂糖よりも甘く、カード〔凝乳〕よりも美味なのです。ラーマの神聖な御名は甘美さに満ちており、その甘美さは永遠に変わることはありません。これまで、地上には多くの神の化身が降臨しています。けれどもラーマの神聖な御名は、永遠に不変です。古の時代から、ラーマの御名は万人のためのターラカ マントラ(解脱を与えるマントラ)として残っています。子どもから老人にいたるまで、すべての人がラーマの御名を唱えることにより至福を得ることができます。ラーマの御名の甘美さを体験するのに、年齢は障害にはなりません。この御名には、はかり知れない甘美さがあります。私た�
�ちはけっして、そのように甘く甘美で喜びに満ちたラーマの御名を、たとえ一瞬でも放棄するべきではありません。

– 2006年4月7日の御講話

心の中に主を描き、その御名を口にしなさい。そうすれば、その御名を歌うことの喜びを感じるでしょう。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月30日

ラーマの第一の教えは、人はサティヤ(真理)に従うべきであるということです。サティヤ(真理)をダルマ(正義)の基盤としてダルマを維持し、促進するべきです。ダルマは特定の場所や国に限られたものではありません。ダルマはあらゆるところに存在します。ダルマはサティヤから生まれました。実のところ、ダルマはサティヤなくして存在することができません。ダルマとは何でしょう? それは、ダラヤティ イティ ダルマ(維持するものがダルマである)です。中にはダルマを、ただ貧困者たちに食物を与えることや慈善行為であると間違った限定をしている者もいます。ダルマは自分自身のハートから流れ出なければなりません。その上で、ダルマは実践されるべきです。自分が話したとおりに行動しなさい。これが人間の最も重要な義務です。言葉と行動は完全に一致しているべきです。逆に、もし人が、あることを話し、それに反することをすれば、それはアダルマ(正義ではないこと)を意味します。想いと言葉と行動が一致したときにのみ、人間と呼ばれる資格があるのです。 ラーマは想いと言葉と行動の一致を達成しました。これとは対照的�
�に、ラーヴァナの想いと言葉と行動は同じではありませんでした。

– 2006年04月07日の御講話

ラーマーヤナが伝える理想のすべてを、一人一人が正しく理解し、実践すべきです。そうして初めて、人生に充実感が得られるようになるのです。―ババ

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年3月31日

今日の世界は、ラーマの物語を切実に必要としています。一例を挙げると、現代の息子たちは父親の命令に従っていません。父親たちは子供たちに正しい手本を示していません。弟子たちは師を正しく尊敬していません。師は弟子たちに愛情深く接していません。友人の間にすらも愛はありません。親戚付き合いは疎遠です。人生のすべての分野において、すなわち行政においても、農業においても、ビジネスにおいても、政治においても、不和が蔓延しています。社会的分野や政治的分野において、そして霊的分野においてすら、分断と争いがはびこっています。このような状況の原因を探ると、すべての根本には利己心があることがわかります。基本的な要素は全人類に共通しています。世界は一つの家族であり、すべての人は兄弟姉妹です。ラーマはこの基本的な真理を世に向けて説きました。彼は、日常生活における義務、社会的義務、そして家族に対する責任を世に教えました。この義務の三つの流れが、『ラーマーヤナ』のメッセージです。この三つの流れの中で沐浴する者は、誰であろうとも、己の罪を免れ、救済されます。全ての人がラーマーヤナを読み、読み直し、生きなけれ�
�ばなりません!

– 1997年4月16日の御講話

あなたの中から利己心が一掃された日、あなたのハートの中で神性が花開くでしょう。―ババ

Japanese, 2023年2月

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月1日

人々は多種多様な利己的習慣や利己的態度を生み出し、身に付けます。これらは、自分自身に対する大きな不満の原因となっています。このすべてに対する衝動は、権力コンプレックス、権限や支配や力を蓄積したいという強欲、決して永続せず満たされることのない物事への欲望に由来します。実際のところ、満足してもう要らないというレベルにまで到達するのは、誰にとっても不可能です。無限の力があるのは、万物の神だけです。人は、自分はあらゆる技に精通した、あらゆる富を所有した、あらゆる知識を得た、あらゆる聖典を暗記したなどと、得意になるかもしれません。しかし、これらすべてを誰から得たのですか? 本当はその人たちの方がもっと偉大であるはずです。ある人は、自分自身の努力と苦労と骨折りで、このすべてを得たのだとさえ主張するかもしれません。しかし確実に、誰かが何らかの形でそれを彼らに与えたのです。これを否定することはできません。あらゆる権威と力が生まれた源は、万物の神です。神が全能であることを無視して、手に入れたわずかな力が自分自身のものであると勘違いすることは、まったくの利己心であり、自惚れであり、高慢ぁ
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�『プレーマ・ヴァーヒニー』15節

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月5日

人間の生命の流れは、心臓や血管を通じて拍動しています。この拍動はいつの日か終わります。真に、誕生の後に死があり、死の後に誕生があるのです。私たちは、この生命の秘密を理解しようと努めなければなりません。川の中を泳いで進む人のように、私たちもまた、過去に得た経験のことを忘れて、前に向かって泳ぎ進まなければなりません。泳いでいる人は、自分の前にある水を押し返した場合にのみ、前進します。もし、自分の前にある水を押し返さなかったら、その人はその場に留まっているでしょう。この例えのように、自分が生きてきた経験を押し返そうとする場合にのみ、人間は前に進むことができるのです。そのような道を歩むなら、人生には怒りのための場所も、嫉妬のための場所もないことを理解して、その人の人生は心地よく発展するようになるでしょう。
– Summer Showers in Brindavan, 1977, Ch 17.

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月6日

疲れて気弱になる時があるかもしれませんが、その時にはこのように祈りなさい。「神よ、物事が私の能力を超えてしまいました。これ以上努力するのは無理だと感じます。私に力をお与えください。おお、神よ!」生徒が問題の解答を書いている時に離れた場所に立っている教師のように、最初のうちは、人が努力する様子を眺めながら少し離れた場所に神はいます。その後、人が感覚の喜びへの執着を捨て、善行と無私の奉仕に専念するようになると、神は励ますように近付きます。太陽神のように、締め切られた扉の外で、神は待ちます。主人の要求と自分自身の制約を承知している召使のように、神は自分がいることを知らせたり、ドアをノックしたりせず、ただ待つのです。そして、主人が少しだけ扉を開けると、太陽はすぐに部屋の中に入り込み、中にいた暗闇を即座に追い出します。助けが求められれば、神はその人の側に寄り添い、救いの手を差し伸べます。ですから、必要なのは、神に祈るための識別心と、神を思い出すための霊的英知だけなのです。
– 『プレーマ・ヴァーヒニー』第11節

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月7日

北上する旅に出るとき、太陽は、北にあるヒマラヤ山脈をシヴァ神の美しい住処と称えました。ハートは主の住処とみなされるべきであり、視覚は神体験へと向けられるべきなのです。人間のハートそのものが、純粋性と平安の住居であるヒマラヤ山脈を象徴しています。太陽が北上する旅とは、人間が神を悟るために進むべき道を指し示しています。太陽は、無私で疲れを知らない奉仕の最高の模範です。太陽なき世界は存続し得ません。地球上の生命は太陽のおかげで存在できているのです。太陽は、驕ることのない、謙虚な信愛と義務という教訓を人間に教えます。太陽は、信愛と献身を込めて、己の義務を果たすべきであるということを、すべての人に示す最高の模範です。クリシュナが『ギーター』の中で指摘したように、己の義務を果たすことが最高のヨーガなのです。あなたの行動と思考を善良なものにしなさい。そうすれば、あなたは神なる至福を体験するでしょう。

– 1992年1月15日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月8日

信愛と英知は、荷車のための一対の雄牛のようなものです。両者は一体となって引っ張らなければなりません。それぞれが相手と歩調を合わせ、より速く重荷を引っ張れるようにもう一方を支援しなくてはなりません。英知は、信愛が増すことを促進すべきです。信愛は、英知の発展に貢献すべきです。ブリンダーヴァンの牧女たちが解脱に達することができたのは、この助け合いと協力があったおかげです。クリシュナ神への信愛も、彼女たちに最高の英知を授けました。さて、信愛と英知の本質は平安、最高位の平安、至高の平安です。至高の平和(プラシャーンティ)は、人を霊的光輝(プラカーンティ)の栄光へと導き、そこから最高の天啓(パラマ・ジョーティ)という特別な光輝へと導きます。英知は信愛に付随するものであり、その構成要素なのです。最も慈悲深いのは神一筋の愛です。それは最高善を生み出します。それが人々を地上に縛り付けることはなく、解脱への道を手取り足取り教えてくれるでしょう。
– Prasanthi Vahini, Ch 27.

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月9日

私たちは決して、富を人生で最も重要なものと見なしてはなりません。私たちはダルマを最も重要視すべきです。私たちは、それによって神の恩寵を得るべきです。あなた方は、必要不可欠なものを賄うのに足りるだけのお金を持つべきです。それ以上は、慈善やその他の良い物事に対して使うべきです。現代の学生たちの間には、お金を持ち過ぎることによって甘やかされて駄目になってしまう状況が多く見受けられます。最初のうちは、最小限のお金でやりくりするのは大変そうに見えるかもしれません。しかし、お金に対する欲望を抑えることができるようになれば、彼らはその後とても幸せで平安になるのです。学生たちは、本当に10ルピー必要な時には、20ルピーを要求しようとします。子供たちが20ルピーを要求したら、親は10ルピーだけ与えればいいのです。これはとても重要なことです。その息子は、一瞬傷ついたとしても、その後は元気になるでしょう。もし、10ルピーだけ必要なのに、20ルピーを渡されたら、息子は悪い友人を作り、その人たちのためにお金を使ってしまうでしょう。
– Summer Showers in Brindavan 1973, Ch 17

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月10日

ヤショーダが攪拌していたヨーグルト入りの壺をクリシュナが割ってしまった時、彼女は、逃げたクリシュナの足跡を追って、クリシュナが隠れている場所を突き止めました。これは神がどのようにして、「私は肉体である」という意識を打ち破り、神が私たちの周囲に設けた信号やしるしによって神そのものへと導くかを示す象徴的物語です。これらのしるしは、私たち一人ひとりの周りにある大自然の中に――朝日の美しさの中に、虹を見た時の恍惚感の中に、鳥のさえずりの中に、蓮の花が咲いている湖面に、冠雪した静かな峰の中に――常に存在しています。実際のところ、神はラサ(甘さ、本質)なのですから、神の行動以外の大自然すべては、甘美で恍惚感をもたらします。姿形があってもなくても、それはアーナンダ(至福)です。ラーマ(喜びであり、喜びを与えるお方)として、あるいはクリシュナ(彼がもたらす喜びによって皆を惹きつけるお方)として、それ(神)をハートに迎え入れなさい。そして、瞑想、礼拝、黙想をそれ(神)に捧げながら、すべての瞬間をそれ(神)と共に生きなさい。そうすれば、英知と解脱の扉が開かれるでしょう。

– 1968年8月16日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月11日

一つの小話があります。ある日、ラクシュミーがヴィシュヌ神に、「神は人類に快適な生活に必要な技術や材料を与えてきたのですから、人類は常に神の方を向くのでしょうか?それともそうではないのですか?」と尋ねました。ヴィシュヌは、「私は、私の方に彼らを引き寄せる二つの資質、すなわち貪欲と不満を彼らに授けました」と答えました。人間が世俗の束縛から解き放たれて、神の方を向くのであれば、その人はもはや貪欲や不満に悩まされることはありません。「神への愛着」と「俗世からの離脱」という二つの堤防の間にあれば、人生という川は、速度も方向性も損なわれることなく、神の恩寵という大海に向かって流れることができます。あなた自身を神と見なしなさい。他の人を神と見なしなさい。あなたと他の人の中にある、他の全てから目を背けなさい。それがサーダナ(霊性修行)の本質です。

– 1968年8月16日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月12日

人は生きている間に多くの目的を達成しなければなりません。その中で最も高次で最も価値のある目的は、神の慈悲、神の愛を勝ち得ることです。神の愛は、人が揺らぐことのない内なる平安(シャーンティ)を得るために必要な大きな英知を与えてくれます。誰もが至高心の本質を理解するよう努めるべきです。もちろん、顕現していない絶対的な存在を人が最初から把握することはできません。まずは、それを理解可能にするために、それに一つの姿形といくつかの属性を設定します。それから、それを神聖なエネルギー(シャクティ パート)が降下したものとして自分の中に祀るために、少しずつ努力していかなければなりません。この努力における成功の追求に取り組む人は、ゴールを追い求める資格のあるただの個人的な求道者ではありません。人は奉仕(セヴァ)の精神を培い、人々の謝意を得ることのできる善行にも従事しなければなりません。そうして初めて、人は自分の意識(チッタ)のレベルを浄化するという仕事を達成し、霊的な勝利に適した志願者となることができるのです。

―「光を照らす知識の流れ ヴィッディヤー・ヴァーヒニー」11章

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月13日
五感のコントロールなしには、サーダナ(修行)は功を奏しません。五感が完全に制御されていないなら、それは穴のあいた壷に水を入れるようなものです。舌が何かおいしいものを欲しがる時、自分は舌の気まぐれには応じないと強く主張しなさい。スパイスが効いてるものや辛いものではなく、十分に滋養のある淡白な食事を根気強く続けていれば、舌は、数日間は当惑するかもしれませんが、まもなくそれを喜んで受け入れるようになるでしょう。これが、舌を征服し、舌があなたの主人になっているという悪い傾向に打ち勝つ方法です。さらに、舌というものはスキャンダルや煽情的な話をしたがるものなので、そのような傾向も抑制しなければなりません。話は控えめにし、優しく話しなさい。必要に迫られた時だけ話しなさい。話さなければならない人にだけ話しなさい。怒ったり興奮して、叫んだり怒鳴ったりしてはなりません。こうして制御すれば、健康と心の平安がもたらされます。より良い人間関係が築かれ、他人との接触や口論に巻き込まれることも少なくなります。

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月14日

この目に見える宇宙にあるすべての物体は、非常に美しく、魅力的で、喜ばしいものです。神は全宇宙に内在しています。宇宙は愛で満たされています。至高我は愛の具現です。それゆえ、愛が愛に出会えば、それらは融合します。したがって、もしあなたが愛を発達させれば、あなたは神と一つになる資格を得るのです。愛は愛のために存在するのであって、それ以外の何ものでもありません。愛は自発的なものであり、喜びを与えます。すべてのものは愛に満ちています。愛は目で見るのではなく、ハートで見るのです。愛は耳で聴くのではなく、ハートの静寂によって聴きます。愛は舌で語るのではなく、慈悲の心で語るのです。慈悲、優しさ、愛は、別の言葉ですが、同じことを意味しています。愛には多くの同義語があります。愛が生まれるのはハートからだけです。他のいかなる源からも愛は生まれません。愛は不滅であり、甘露であり、至福に満ち、無限です。愛に満たされたハートは広大無辺です。さまざまな名前と形を持つ河川が海に流れ込み、海と一体化するように、さまざまな形を持つ愛がハートという海の中に入って、愛と同一化する。愛はどんなことにも打ち勝つこと�
�ができます。無私で、純粋で、真の愛は、人を神へと導きます。

– 1995年12月25日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月15日

一人ひとりが皆、ただ自分のための神を得るという恩寵を、神は表します。他人が神を得た時、自分は神を得ていないと悲しむ必要はなく、自分が神を得た時、他に神を得た人は誰もいないといって自慢する必要もありません! 神はあなたのハートの祭壇に座っています。あなたのすべてを、あなたの人生のすべてを、神に捧げなさい。そのとき、あなたの礼拝はあなたを非常に早く完全に変容、変質させ、それゆえ、あなたと神は1つに融合することができます。そのとき、神は、あなたが考え、感じ、行うのと同じことをします。あなたは、神が考え、感じ、行うのと同じことをします。岩が彫刻家によって神の像に変えられて、敬虔な人たちに数世代に渡って礼拝されるのと同じように、あなたは変えられるでしょう。その過程で、あなたは何度もハンマーで打たれ、のみで傷つけられることに耐えなければなりません。なぜなら、神がその彫刻家だからです。神は、あなたを化石になることから解放しようとしているのです! 主への純粋な愛で満たされたあなたのハートを神に捧げなさい。

– 1968年11月23日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月16日

人々はそれぞれ自分の好みにしたがって、特定の姿の神を崇拝しています。ラーマという名前に愛着を持っているためにラーマを崇拝している人々もいます。花を指し示すのは指です。同様に、神像は神性を指し示しています。ですから、偶像崇拝を愚かだと考えることはできません。単に生命が宿っていないからというだけで偶像を軽視すべきではありません。自分で動く力を持っていない物体にさえも、チャイタンニャ(意識)は存在しています。アノーラニーヤーン マハトー マヒーヤーン(ブラフマン〔神〕は、もっとも微妙なものよりもさらに微妙であり、もっとも大きなものよりもさらに巨大である)。このチャイタンニャ(意識)は、もっとも小さなものからもっとも大きなものにいたるまで、あらゆる物質の中に存在しています。あなたの考えでは、物体は自分で動く力をもたないように見えるかもしれませんが、ヴェーダーンタの見解によれば、すべてのものがチャイタンニャなのです。チャイタンニャの存在を見過ごすのは愚かなことです。もしチャイタンニャが万物に浸透しているのであれば、なぜそれを我々の肉眼で見ることができないのか、と疑問に思う�
�人がいるかもしれません。皆さんは誰でも、ミルクの一滴一滴の中にバターが存在しているという事実をよく知っています。肉眼で見ることができないからという理由だけで、バターの存在を否定することができるでしょうか? バターを手に入れる手順には、ミルクを凝固させて、撹拌することが含まれています。

– 2002年3月12日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月17日

シヴァラートリの慣例〔徹夜の勤行〕は、神を憶念することでハートを浄化するためにあります。ハートが浄化されると、生活全体が神聖なものになります。人々が善良な性質を伸ばし、正しく行動するならば、苦心して社会を再建する必要はありません。若い人たちは、悪い考えや悪い習慣と縁を切らなければいけません。霊性の探求は、老人になるまで先延ばしにできません。神の探求を始めるのは、今、この時です。この世を守るのに、神の御名ほど強力なものは世界にありません。この世を救うものは武力でも爆弾でもありません。この世界を守るものは神の恩寵だけであるべきです。神の恩寵を祈ることは人間の第一の義務です。祈りはきわめて重要です。メロディーとリズムと共に、歌に気持ちを込めて、バジャンを神への神聖な捧げものとしなければなりません。バーヴァ(気持ち)が込められていないラーガ(メロディー)はローガ(苦痛)です。慢心と自己顕示癖を捨てて、謙遜と信愛の精神でバジャンを歌わなければなりません。それが正しいバジャンのやり方です。

– 1991年2月13日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月18日

あなたがどこに座っていようとも、礼拝所であろうと、他の場所であろうと、あなたの思いが神に集中しているのなら、あなたは真の帰依者であり、神の恩寵を得るでしょう。眠くなったら寝ていいのです。反対する理由はありません。しかし、眠っている間もあなたの思考を神に集中させるように。シヴァラートリ・バジャンに参加するためにわざわざプラシャーンティ・ニラヤムまで来たのは、神に対するあなたの愛と信愛のためではないのですか?私はあなたの信愛を理解しています。真の帰依者に便利さは必要ありません。彼はどんな快適さも望みません。どこに行こうとも、己の心(マインド)を制御し、すべての思いを神に向けなさい。それこそが真の信愛です。肉体的快適さに注意を向けてはなりません。パンチャークシャリー・マントラ(五音節のマントラ)である「オーム・ナマ・シヴァーヤ」を常に唱えなさい。もしあなたが口先だけで唱えるのであれば、それは世俗的な音に溶け込んでしまうでしょう。その一方で、もしあなたが心(マインド)を完全に集中させながら真剣に神の御名を唱えるなら、それは世界中に広がっていくでしょう。心(マインド)を完全に集中し�
�て神の御名を唱えることが、本当のサーダナ(霊性修行)なのです。

– 2004年2月19日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月19日

現代では、人々は怒りの餌食になっています。怒りに影響されるのは誰でしょう?ほかでもなく、あなたが影響されるのです。怒りは人の敵、平安は人を保護する循、慈悲は真の親戚、幸福は天国、苦痛は地獄(テルグ語の詩)と言われています。ですから、自分の怒りをコントロールするよう努力しなさい。すべての生き物が神の化身なのですから、自分自身を優れていると見なし、他者を劣っていると見なすのは愚かなことです。神はどこにいるでしょう? 神はすべての人の中に、またすべての生き物の中にいます。イーシュワラ サルヴァブーターナーム(神は万物の内在者である)、ダイヴァム マーヌシャルーペーナ(神は人間の姿をとる)と言われるのはそのためです。すべてを神と見なすとき、あなたは決して人の批判をしなくなるでしょう。神は、人をその人の気持ちで判断します。神は、バーヴァプリヤ(気持ちを愛する者)であって、バーフヤプリヤ(外見的な見せ掛けを愛する者)ではありません。ですから、あなたの目を内に向けるよう努めなさい。真の人間とは、内を見る人のことです。

– 2002年3月12日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月20日

人は、平安と至福を楽しむに値するにもかかわらず、それらを得るための必要な努力をしていません。愛と信仰を育てるなら、平安と至福を手に入れるでしょう。愛と信仰がなければ、切手が貼られていないか、あるいは正しい宛名が書かれていない手紙と同じように、その人の努力は無益なものとなります。スワミへの愛と信仰があれば、皆さんは自分が着手するどんな仕事も成し遂げることができます。次の三つの格言を守りなさい。それは、「神への愛」、「罪への恐れ」、「社会の道徳」です。神への愛を育てるには、自分の一つひとつの行いが神を喜ばせるかどうかを見極めなくてはなりません。神を喜ばせるなら、罪への恐れを抱くことはなくなるでしょう。この二つがあるところには、社会の道徳は自然についてきます。今の世のあらゆる病(やまい)は、罪への恐れの欠如と、神への愛の減少に原因があります。人間的価値への敬意が低下したことが、世界の平和を徐々に蝕(むしば)んできました。

– 1998年2月25日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月21日

人間は、2つの欠点のために、このチャイタンニャ(意識)の原理を認識することができません。その欠点とは、(1)自分の無数の短所を見過ごしていること、(2)他人のもっとも小さな欠点を拡大していること、です。人は、自分の過ちを隠すことをやめ、他者の欠点を拡大することをやめたときに、初めて神を実現することができます。他人の欠点を探すことは大きな罪です。その代わりに、自分の欠点を探しなさい。自分の短所は、どれほど小さなものでも大きな失態と見なして、それを改めるよう努めなさい。他者の欠点は、どれほど大きくても、それを無視しなさい。人を批判してはなりません。その代わりに、自分自身を批判し、「人間として生まれていながら、私はこのように振る舞ってよいのだろうか?」と自問しなさい。真の霊性修行とは、自分自身の欠点を見つけて、それらを改めることです。それには、よこしまな傾向を手放して、崇高な習性を培うことが関係しています。それが真のサーダナ(霊性修行)です。サーダナの「サ」は、あらゆる富(ダナ)の姿形の化身である神性を表しています。

– 2002年3月12日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月22日

自分自身で自分の努力と成果を調べ、自分のサーダナを判断しなさい。たとえば、あなたはティヤーガラージャ(ラーマ神の偉大な帰依者)がそうしたように神を切望し、神を恋い慕い、神のために泣きましたか? かくも甘さと美に満ちあふれた神の御名をくり返し唱えている間、かくも愛らしさと魅力に満ちた神の御姿を思い描いている間、あなたは悔恨の涙を流し、歓喜の涙を流しましたか?あなたは泣いたかもしれません。しかし、何のために泣いたかは誰にもわかりません。あなたは恐れから涙を流したのですか? あるいは貪欲からですか? 高慢からですか? それとも、神が近くにいないからですか?幼い子どもが、ウパニシャッドの本を膝に置いて座り、ページをめくって印刷された行に目を凝らし、不思議な文字を慎重にゆっくり注意深く見つめています。出家行者(サードゥ)もそれと同じことをします。あなたはこの両者を等しく扱い、二人とも同じ行為に従事していると言えますか? 幼子は自分の手にしている宝に気づいていませんが、出家行者は即座にその詩行が伝える霊的な力に触れることができます。あなたのサーダナも、それが漫
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�厩恐年3月4日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月23日

有能な君主は、従者たちを支配下に置いて、適切な政策に沿って指揮し、王国の平和と安全を保ちます。反対に、従者たちの支配下に置かれて、言いなりになっている君主は、王権に値せず、軽蔑され、失脚します。王国には平和も安全もありません。心は人の内にいる君主です。感覚器官は従者たちです。君主が召使の奴隷となっていては、王国に平安はありません。内なる神の表出と拡大を得たいと願うサーダカ(霊性修行者)は皆、それゆえ、感覚器官への支配力を得なければなりません。それが初めの一歩です。次のステップは、心を征服すること、すなわち心の除去です。第三のステップはヴァーサナ(生まれつきの性向)を根絶することであり、第四のステップはグニャーナ(霊的な智慧)に到達することです。感覚器官は枝、心は幹、生まれつきの性向は根です。この三つすべてを征服して破壊すれば、アートマ(真我)の実体を認識することができます。

– 1983年5月6日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月24日

神が遍在であることを知らない人は、宗教、カースト、人種に基づく敵対関係を自分たちの間に作り出しています。すべての宗教は、神の永遠性と遍在性を認めています。ですから、この真理を受け入れている人々でさえも、このような心の狭さを示すというのは、奇妙なことです。なぜなら、異なる宗教を信仰する人々の間の憎しみは、最終的に宗教そのものへの信頼を破壊することにつながるからです。宗教を破壊しようとする人々は、完全に頭が空っぽであるのに違いありません。破壊されるべきは宗教的偏見であり、宗教そのものではありません。自分の宗教を愛するあまり、他の人の宗教を見下すということは、他人の母親を軽蔑することによって自分の母親への愛を示すようなものです。自分が己の宗教を愛しているのと同じくらい、他の人も己の宗教に敬意と信愛を抱いていることを理解しなくてはなりません。現代の若者は、己の宗教に対する愛着を育む一方で、他のすべての人々の信仰と実践に対しては敬意を表すべきです。

– 1983年7月24日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月25日

心(マインド)の中にある衝動は、五感を動かし、感覚器官そのものよりも強力です。目は見るための道具に過ぎませんが、見ることそのものが目を凌駕する力なのです。同様に、聴覚も単なる耳よりも高次の力です。心(マインド)は感覚器官よりも優れており、心(マインド)の上には識別の力である理智(ブッディ)があります。理智の上には、生気を吹き込む生命原理(ジーヴァートマ)があります。ジーヴァートマ(個我)の上には、至高我(パラマートマ)があります。個人と神の間には、魅力的な錯覚を引き起こすベールであるマーヤー(迷妄の力)があります。このベールが剥がれると、個我と遍在する普遍我が一体となります。悟りを求めて五感が理智(ブッディ)へと向かうと、神の至福が流れ始め、神聖な魂の栄光が明らかになります。理智(ブッディ)は、内面へ向かう探求を促します。感覚器官はすべて外界の物体に向かって開かれていますが、真の霊性修行(サーダナ)は、視線を内面に向け、押し寄せる流れに逆らって泳ぐことから成ります。感覚器官を内面に向ければ、真我顕現というゴールがどれほど近くなるのか、真に理解している人はほとんどいません。�


– 1983年7月24日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月26日

強盗のラトナーカラは、旅人や巡礼者を待ち伏せして持ち物を奪いました。あるとき、ラトナーカラは聖者たちを襲いました。彼らは、ラトナーカラに対して愛を込めて優しく接し、警告を与え、信愛と献身という神聖な道を明らかにしました。それから彼は残酷な仕事を辞めて、厳しい霊性修養に打ち込み、偉大な詩人であり聖者である、ヴァールミーキへと変わったのです。大通りで強盗を行っていたアングリマーラの例があります。彼は、被害者の指を集めて、糸でつなぎ、自分の首輪にしていました。彼はこの恐ろしい業績を誇りに思い、アングリマーラ(指の首輪)と名乗っていました。しかし、仏陀と出会い、その慈悲深い助言に耳を傾けた時、彼の心(マインド)は浄化され、仏陀の忠実な信奉者となったのです。人間は、教育され、育成されることによって、より高いレベルの意識へと到達することができるのです。経典は、心を浄化する手段を提供してくれます。しかし、他の生き物には、そのような助けや励ましがなく、昔と同じ道を歩むしかありません。これが、人間としての生を受けることが、唯一無二の贈り物である理由なのです。

– 1983年8月31日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月27日

学生諸君は、神を実感認識するためには奉仕が重要であることに気づくべきです。それは、人生を意義深くし、生きる目的を与えます。奉仕に必要な最初の条件は、エゴの滅却です。無私無欲の精神で社会奉仕を行うことによって、神の恩寵とそれがもたらす力を得ることができます。学生諸君!長年にわたってあなたの味方になるものは、神の恩寵以外には何一つありません。この決して揺るぬことのない力と支えの源泉を信じなさい。高速で走る車を止めることができた有名なプロレスラー、キングコングは交通事故で死にました。それは、筋肉の力の限界を明らかにしています。どれだけの王が、その富や権力の痕跡を残すことなく、地上を去りましたか?神への信愛を育むことを、先延ばしにしてはなりません。同胞への奉仕を通じて神に奉仕することを始めなさい。どんなに小さくても、すべての奉仕の行為は、神への奉仕なのです。

– 1983年7月24日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月28日

同じ両親から生まれた二人の兄弟、ラーヴァナとヴィビーシャナが、正反対の性質を持っていたのは、彼らが食べて育った食べ物が原因でした。ラーヴァナは激性の食べ物を好み、ヴィビーシャナは浄性の食べ物にこだわっていました。同じ性質の食べ物を好まない場合、仲間になることは困難です。同じ性質を持っていても、両者が激性の食事だけを食べているのなら、その友情は長続きしません。その絆は、妬みと憎しみによって、すぐに壊されてしまうでしょう。浄性の性質は、人間をこれらの悪から解放し、心(マインド)を浄化して、神へ向かう旅の準備を整えます。なぜなら、神はサットワ(浄性)であるからです。多くの人は、浄性から、エゴが優勢な激性へと滑り落ちていきます。エゴが威張り散らしているところに神が宿ることはできないからです。神を見失った理由は他にもあるかもしれませんが、その責任は自分自身にあります。浄性の食べ物とは、正確には何のことでしょうか?身体と心(マインド)とハートに至福をもたらす食べ物が浄性なのです。それは神聖な生き方を維持し、食事が終わっても重たさを感じさせません。

– 1983年7月25日の御講話

Japanese, 2023年1月

2023年1月1日の御言葉

今日、新しい年が始まりました。聖なる思いと神聖な考えをもって、あなたの中に愛の精神を育みなさい。神は、寺院の中やアシュラムの中で個別に見出されるものではありません。真理は神、愛は神、ダルマは神です。これらの原則に従って神を礼拝すれば、その場で神そのものが顕現するでしょう。このことについては何の疑いもありません。心から神を愛しなさい。神に祈り、神と友達になりなさい。神を友とすれば、どんなことでも達成できます。今日は、あなたのハートを愛で満たし、あなたの手を犠牲という装飾品で飾ることを学びなさい。手のための宝石は犠牲です。身につけるべきネックレスは真理です。新しい年には、これらの宝石を大切にする習慣を育まなければなりません。この新しい年には、神聖な愛を育て、故郷の平和を促進しなさい。広い心で祈りなさい。ローカ・サマスター・スキノー・バヴァントゥ(全世界が幸せでありますように)。この祈りで新しい年を始めなさい。そうすれば、あなたは至福と平安と熱意に満ちた人生を送ることができるでしょう。

– 1999年3月18日の御講話

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉 – 2023年1月2日

サムドラマンタナ(乳海攪拌)の伝説は、あなたにとって大きな価値があります。なぜならあなたも、己のハートという大海を攪拌して、自分自身のために甘露を得なければならないからです。この伝説はただの注意喚起です。サトワグナ(浄性)に満ちたハートは、乳海です。あなた自身の実体として、あるいは到達すべき理想として、常に神を憶念すること(マナナ)は、その乳海の中に攪拌棒として立てられたマンダラ山です。その攪拌棒に巻きついている大蛇ヴァースキは、諸感覚を象徴しており、攪拌の過程で毒煙を吐き出します。その縄は、善と悪の衝動たちに握られています。両者は、それぞれが心に定めた成果を切望しながら、攪拌作業に奮闘しています。神の恩寵は亀の化身(クールマ)です。あなたが真剣に不死の秘密を探し求めていることを知った神自身が助けに来てくれます。神は、亀のように、あらゆる霊性修行の安定した基盤として働きながら、マナナのプロセスを損なわずに、静かに、人知れずやって来ます。心を攪拌すると、さまざまなものが浮かび上がって来ます。しかし賢者は、不死を保証する者が出現するまで辛抱強く待ち、出現したらそれを無我夢中で�
�手中に収めます。それがこの伝説の教訓です。

– 1965年1月13日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月3日

見る者が見られるものに執着してはなりません。それが解脱を得る方法です。諸感覚とその対象物が接触すると、欲望と執着が生じます。これが努力と高揚または落胆のいずれかにつながります。それから、損失を恐れたり、失敗に苛立ったりと、一連の反応が長くなります。多くの扉や窓が、吹いているすべての風に対して開かれているのであれば、どうして内なるランプの炎を存続させることができるでしょう?そのランプは心(マインド)であり、外界の二重の要求に影響されることなく、着実に燃え続けなければなりません。その扉や窓を閉める方法の一つは神への全託です。なぜなら、シャラナーガティ(神への完全な全託)という姿勢でいるあなたにはエゴがなく、喜びや悲しみに振り回されることがないからです。完全な全託は、神の恩寵をもたらして、あなたが人生で遭遇する危機の全てに対処できるようにします。それはあなたを勇敢にし、より屈強にし、戦いに対してより良い備えができるようにするのです。

– 1965年1月13日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月4日

学生にとって、自分の長所を見つけてそれを喜ぼうとするよりも、自分の欠点を見つけてそれを失くそうとするほうが本人のためになります。これを行う学生は、早く成長することができます。恐れや不安に引きずられることがなくなります。主を信じて自分の重荷をすべて主に委ね、前に進むことができます。その人は心が平穏な状態へと至りますが、それは真の求道者の印です。アルジュナはその段階に到達し、その時、クリシュナはアルジュナに、(そしてアルジュナを通して全人類に、)不死をもたらす教えを授けました。ギーターはいったい誰のために語られたのでしょうか?そのことをしばし考えてごらんなさい。牛乳は成牛のために搾られるのではありません。成牛は自分の乳を飲まないからです。子牛であるアルジュナは、お腹いっぱい飲みました。クリシュナは常に満ち足りていて、乳は言うに及ばず、何一つ必要としません!クリシュナがウパニシャッドを搾ってギーターを得たのは、いったい誰のためだったのでしょう?それは、「善良な知性の人」(ス・ディー・ジャナ)、つまり「善良な知性」(ス・ディー)、善良さによって柔和になった知性、美徳に管理されてい�
�る知性を持っている人のためであると、クリシュナは言います。

―『ギーター・ヴァーヒニー』第3章

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月5日

一人でも、他の人と一緒でも、あなたが何かをする時にはいつでも、神が遍在であることを思い起こしながら、それを行いなさい。神はすべてを見、すべてを聞き、すべてを知っています。あなたが何を話そうとも、神がすべての言葉を聞いていることを覚えておきなさい。真実と虚偽を識別し、真実のみを語りなさい。あなたが何を行おうとも、正しいか誤りかを識別し、正しいことのみを行いなさい。あらゆる瞬間に、全能の神を意識するよう努めなさい。肉体は個我(ジーヴァ)の寺院です。ですからその寺院で何が起ころうとも、それはその個人に関連しています。同様に、世界は神の肉体であり、そこで起こることはすべて、良いことであろうと悪いことであろうと、神に関連しているのです。個人と肉体の事実の観察から、神と世界の事実は観察不能であるという真理を理解しなさい。1)執着と憎しみに汚されていない心、2)虚偽に汚されていない話し言葉、3)暴力に汚されていない肉体、という三つの主要な道具を手に入れた人はすべて、個我と神の関係、両者の類似点を把握することができます。
―『プレーマ・ヴァーヒニー』第19章

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月6日

真理(サッティヤム)を知りなさい。そうすれば、真理があなたを万人の強く変わらぬ親族にさせ、情欲と憎悪という足かせを外してくれるでしょう。人はシヴァムの教訓を学ばなければいけません。怒りと貪欲という毒を飲み、世界が毒の影響で害されることがないようにした、あの教訓〔シヴァ神の乳海攪拌神話〕です。言葉と行動を通じて慰めと安らぎを広めなさい。シヴァ神は頭の上に三日月を身に着けています。それは巡礼者に神への道がわかるよう、穏やかな月光で照らして旅の苦労を減らすことができるようにするためです。シヴァ神は喜びと平安を広めます。その一方で、シヴァ神は自らの喉の青いあざの奥に烈火のごとき猛毒を隠しています。これは人間への教訓です。反社会的な性質と性癖、有毒な憎悪、競争心旺盛な貪欲を自分の中に監禁しておきなさい。シヴァムは、特定の神、すなわち三大神である神を意味しているわけではありません。シヴァムは全人類を含有しています、なぜなら、人は自分はシヴァムであるということに気づかなければいけないからです。さらに、スンダラムも同様に、真理は美であり、美は神であるということを気づかせる存在です。その美�
�は単なる身体的な美しさではなく、道徳的、精神的な美しさです。醜い思考、不快な言葉、人の気分を害する行為を手放しなさい。常に美の理想を心に抱いていなさい。

– 1972年10月25日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月7日

太陽が昇ると、暗闇は去り、暗闇から生じる悩みも消えます。同じように、アートマを悟った人にとっては、束縛も、束縛から生じる悲しみも、もはや存在しません。己の軸を忘れた人にだけ、迷妄が訪れます。極めて基本的な真理を忘れさせる最大の要因は、利己心です。ひとたび利己心が入り込むと、その人は理想から滑り落ち、階段を転がり落ちるように、最上階から最下階まで、一気に落ちていきます。利己心は、分裂、憎悪、執着を生み出します。執着や愛情によって、さらには妬みや憎悪によって、人は行動へと駆り立てられ、世俗に浸るようになります。これにより、肉体という枠組みの中に具体化されて、さらに利己的になるのです。快楽と苦痛という2つの引力から自由になるためには、身体意識を取り除き、自己中心的な行動を避けなければなりません。

– Jnana Vahini, 第4章

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月8日

内面の魅力こそが真の美です。シーターがランカー〔羅刹王ラーヴァナの国〕の無憂樹の庭園に監禁されていたとき、ふいに目の前に一匹の猿が現れました。その動物は、見た目はよくありませんでしたが、シーターが待ち焦がれていたラーマからの伝言を伝えたとき、美に満ち溢れた者という印象をシーターに与えました! 庭園の愛らしさ、魅力的な風景、ラーヴァナがシーターの目の前に広げたきらきらと輝く美しい品々は、シーターのハートを勝ち得ることができませんでした。ところが、ラーマという一言で、木の下で人喰い鬼女たちに囲まれていたシーターは、その木のこずえにうずくまっていた風変わりな猿を慕うようになったのでした。自然界の美しさは神の美しさの反映にすぎません。しかし、あらゆる写像がそうであるように、それは実在しません。花は朽ち、雲は散り散りになって新しい形となり、身体的な美貌はほんの一瞬のものにすぎず即座に消えてなくなります。一方、神の美は永遠で、完全で、囚われることなく自由です。そのスンダラム〔美〕はサッティヤム〔真理、真実〕であり、時間の経過に影響されることも、場所と共に変化することもありません 
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―1972年10月25日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月9日

ヨーガ、つまり心の中の欲望の動きをコントロールすることなしに、どうしてティヤーガ(犠牲)を発達させることができるでしょうか?空調があっても、心が整わなかったら、どうして平安でいられるでしょう?あなた方は物価や、鉄や布の生産、穀物の流通など、さまざまなことをコントロールできるかもしれません。でも心がコントロールできなかったら、その他のことを行っても無意味です。心のコントロールは、他のどんなコントロールシステムよりも英雄的で、有益です。たとえ何千人がしがみついて引き戻そうとしても、走っている列車を止めることはできません。しかし、運転手がエンジンの小さなボタンを押せば、それを止めることができます。同じように、心がコントロールされていれば、コントロールしようとしているさまざまな機能のすべてを止めることができるのです。 現代においては、本質的でない目標を達成するために、膨大な時間とお金が浪費されていますが、最も重要な目標である心のコントロールは軽んじられています。ヨーガは、そのコントロールシステムの名前です。今、ヨーガは軽視されています。求められているのはウッディヨーガ(仕事 
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�厩群年2月3日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月10日

「神を知ること」という表現は、何を意味しているのでしょうか? それは「神を愛すること」です。信愛を伴わない知識は憎しみを生み、そのような知識は、力の誤用へと導きます。それは、知識という名にふさわしい知識ではなく、正反対に誤認する無知です。信愛によってのみ、英知は確立され、深く根を下ろすことができます。賢者(ジニャーニ)のしるしは何でしょう?それは愛、広がり続ける愛があることです。信愛、言葉を換えて言うと、主に対する愛、が発達していくと、無知が少しずつ消えていくのです。信愛と憎しみは共存できず、矛盾しています。しかし、信愛と愛は同じ性質を持っています。世俗的な人が感染するのは、物質的なものに対する愛だけです。しかし同じ愛が、信愛や神への愛という形をとるならば、それは神そのものを実現する方向へと人を導きます。
– Prasanthi Vahini, Ch 27.

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月11日

この広大な国の誰にも、果たさなければならない重要な役割があります。国民である誰にも、社会的責任があります。実に、世界の人々は一つの人間家族です。真の学生は、この一体感を体験すべきです。スポーツや運動競技は、この一体感を養うことができます。スポーツや運動競技や体を動かすことは、体力や健康に直結します。しかし、人間は単なる肉体ではありません。人は自分の中に霊妙な要素である心(マインド)を持っています。心の清らかさを達成し、無私を育んだときに、初めて人は心の平安を得て、本物の幸せを体験することができます。ですから、体力と心の清らかさの両方が不可欠です。スポーツや運動競技で栄誉を勝ち取ろうとするときに示す決意と粘り強さは、人生における他の分野、特に道徳や霊性の分野においても同じように必要であることを、学生諸君は認識すべきです。

– 1989年1月14日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月12日

すべての甘美なるものよりも甘く、すべての吉祥なるものよりも吉祥で、すべての聖なるものよりも神聖なものがあるとすれば、それはまさに、主の御名、もしくは主ご自身である。世俗的な心の持ち主との付き合いや、悪魔のような性質に感染した人々との付き合いをやめなさい。あらゆる種類の不義から離れていなさい。賢明で善良な仲間を常に求めなさい。主ご自身に庇護を求めなさい。純粋なる者である主は、平安と幸福と英知の完全なる具現です。主である神は、すべての人の中に座っています。主は、帰依者が一心不乱に心を込めて主の御名を称える場所に常に留まっています。ですから、まず、主に対する強い信愛を実践しなさい。そうすれば、真に永続する幸福と英知を確実に得ることができるのです。はかない五感の快楽を追い求めることが、一体何の役に立ちますか?あなたのハートの空洞に住んでいる主、あなたの親友や父や母や師(グル)よりもあなたの近くにいる主を礼拝しなさい! あなたにとって主は、これらすべてであり、それ以上の存在なのです!

– Prasanthi Vahini, Ch 26.

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉  – 2023年1月13日

信愛がパートタイムであってはなりません。信愛は、喜びの時にも悲しみの時にも、快楽の時にも苦痛の時にも、常に存在しているべきです。ギーターは「サタタム ヨーギナハ」(つねにヨーギであれ)と宣言しています。ヨーギは常に神と交信しています。.朝はヨーギ(求道者)であり、昼はボーギ(食いしん坊)になり、夜はローギ(病人)になるのが、今日の人々のあり方です。真の帰依者は、常に主に没頭し、すべての行為を主への捧げ物として行います。教師として、あるいは学生として、あるいは従業員として、あなたがどんな行為をしようとも、主の御名においてそれを行うのであれば、それは敬虔な捧げ物となります。供え物となります。これは、心(マインド)を昇華させる最も容易な方法です。自分の体は神からの贈り物であると考えるなら、あなたが罪深い行いをすることはないでしょう。自分の財産は神からの贈り物であると考えるなら、あなたがそれを誤用することはなく、正しく使うでしょう。同様に、自分の才能はすべて神から授けられたものだと考えるなら、あなたはそれを神への奉仕のために役立てるでしょう。

– 1993年5月24日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月14日

サンクラーンティの日には特別な意味があります。サンクラーンティは、「サン」(集まる)と「クラーンティ」(大きな変化)を意味しています。太陽がマカララーシ(山羊座)に入ることが、この日から始まる大きな変化の前触れです。それは神聖な段階に入る印です。それが意味するのは、人間の心(マインド)を神に向かわせようとする試みです。それは、目を司る太陽神に、私たちの視覚を純粋なもの、神聖なもの、聖なるもの、神なるものに向かわせてくださいと祈る日なのです。プルシャールタ(人生の目標)の本当の意味は、時間とその時々に起こる状況を、自分の人生を有意義で崇高なものにするために活用する、ということです。私たちは、現代の世界において顕著な霊的変容を引き起こさなければなりません。そうして初めて、マカラ サンクラーンティを祝う意味があるのです。己の考え方や態度に変化がないまま外見を変えても、クラーンティにはなりません。私たちが大きな霊的変容を引き起こした時に、真の平安があるでしょう。

– 1985年1月14日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月15日

ダルマ(義務)、アールタ(富)、カーマ(性愛)、モークシャ(解脱)という4つのプルシャールタ(人生の目的)の一番目にあるダルマは、一般的には、慈善のような活動、己のアーシュラマ(人生の段階)における義務、巡礼、その他の善行を指すと見なされています。しかし、これらは外的な活動にのみ関連しています。すべての人間の真のダルマは、神を悟るためにあらゆる努力をすることです。この成就に到達するためのプロセスが、ダルマを構成しているのです。さまざまなアーシュラマ(学生期ブラフマチャリヤ、家長期グリハスタ、林住期ヴァーナプラスタ、遊行期サンニャーサ)に関連する義務は、人生の特定の段階に付随して遵守されます。そのような義務が、真のダルマを構成しているのではありません。ダルマは真我顕現へ導くものであるはずです。同様に、アルタとは、一般に理解されているような財産や富の蓄積を意味するのではありません。それらはアナルタ(災い)となる可能性があり、永続はしません。そのような富の獲得は、プルシャルタとは見なされません。人間が獲得すべき真の富は、神に関する叡智です。

– 1985年1月14日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月16日

(ダルマ、アルタ、カーマ、モークシャという4つのプルシャールタ、すなわち、人生の目標における)カーマという用語は、一般的には世俗的欲望や官能的快楽と結び付けられています。しかし、カーマをプルシャールタ(人生の目的)の1つと見なすのであれば、それは世俗的欲望とは無関係になり、神の切望へとつながるのです。モークシャという言葉は、一般には、神や天国に到達するための手段を指すと理解されています。しかし、天国にいることができるのは、己の功徳によって得られた期間中だけであり、最終的には再び生まれ変わらなければなりません。しかし、本当の意味でのモークシャは、何も欠けることなく、入ってくることも出て行くこともない状態を指します。それは、名も姿もない状態です。モークシャは、特定の場所に行くことではありません。それは、神との一体性に到達することです。すべての人にとって、4つのプルシャールタの第1の任務は、何が永遠で何が一時的なのかを判断して、永遠のマーダヴァ(神)を探し求めることであるはずです。第2の目的は、真の財産である神の叡智を獲得することです。第3の目的は、神への信仰を深め、�
�神との融合の実現を切望することです。4つ目は、変化も移動もない真我顕現の境地であるモークシャです。

– 1985年1月14日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月17日

あなたがあらゆる快適さと贅沢さを渇望する肉体は、損傷し腐敗するものです。それはいつの日か、犬やジャッカルの餌となるでしょう。その一方で、主は歓喜と神聖な愛という感動をもたらします。 あなたのハートを主に委ねなさい。神は、他の何もあなたに求めません。他の手段によって主を得ることはできません。限りない学識によっても、大袈裟な誓いによっても、色とりどりの儀式によっても。人生の半分は睡眠のために浪費されます。残りの半分は、愚かな欲望を満たす中で、幼年期と少年期のどうしようもない無知の中で、不幸と苦労と病気の中で、老年期の空虚さの中で空費されるのです。何か価値のある活動に我が身を捧げなさい。愚かにも官能的快楽を追い求めることによって、それらを誤用しないよう気をつけなさい。主の栄光を思い、あなたの心(マインド)を主の蓮華の御足に固く結びつけ、その結果、生死の大海原を渡ることができるように、あなたの貴重な年月を使いなさい。ですから、いつでも、どんな状況においても、愛と信愛をもって、主の御名を思い起こすことを実践しなさい。

– Prasanthi Vahini, Ch 26.

 

 

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月18日

減り続ける幸福と平安を追い求めた結果、失望と病気という霧に覆われている世界にとって、進歩への道を示す光柱は神です。人間は、この仕事の領域、すなわち広大な工場にすぎないこの世界を受け継ぎ、その変革のために己のエネルギーと技術を熱心に注ぎさえすれば、人間から神へと作り変えられます。人間は人生のあらゆる瞬間に働かなければなりません。この重荷を避けることはできません。その在り方は、行動と努力と仕事によって決まります。仕事は、善か悪か、大きいか小さいか、影響力があるかないかのいずれかの結果に終わります。ですから、悪と苦痛を避けるため、人は正しい路線において活動しなければなりません。それが自分自身に対して負っている義務です。人間の体力、経済力、知力はさまざまですが、神の目から見れば全て同じです。誰にでも、神に融合するという目標を達成する権利と可能性があるのです。

– 1972年2月3日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月19日

神の御名は、迷妄という暗闇を払う朝日のように光り輝き、普遍的で、神聖です。一瞬たりともその神聖な御名を悪用してはなりません。一秒たりとも、その御名を思うことなく過ごしてはなりません。覚えておきなさい。プラフラーダが繰り返したその御名の甘美さが、悪鬼たちのハートを圧倒したことを。そして、悪鬼の子供たちがプラフラーダと一緒にその御名を繰り返し、彼に導かれて喜びながら歌い踊り始め、斧を構えてリーダー(プラフラーダ)を守ろうとしたことを。悪魔的な性格を変容させ、浄化して、甘露に変えることのできる主の御名は、世の平安という神そのものです。その御名を休みなく繰り返し、その御姿と御名を強く愛することが、信愛と呼ばれるにふさわしいのです。信愛とは、主に向けられた最も純粋で最も高次の愛を意味します。誰でもこの信愛を得ることができます。信愛のヨーガの扉は、すべての人に対して開かれています。必要なパスポートは、解脱を求める願望だけです。その願望が全ての人に遺産を手に入れる権利を与えてくれます。

– Prasanthi Vahini, Ch 26.

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月20日

もし財産を失ったとしても、何らかの計略を立てればそれを取り戻すことができるかもしれません。もし健康を失ったとしても、それを取り戻すために医師に強壮剤を処方してもらうことができるかもしれません。もし地位や権威を失ったとしても、運が良ければそれを取り戻すことができるかもしれません。もし美徳が失われたとしたら、それは永遠に失われ、何をしても元あった純粋さを取り戻すことはできません。ですから人は常に用心しているべきです。決して気を緩めてはなりません。最も偉大な美徳は愛です。愛は人格の基盤です。あなたは他の全ての望ましいものたくさん持っているかもしれません。しかし人格、すなわち愛につながる美徳に欠けているなら、本当の平安を得ることはできません。お金は来ては去ります。では道徳はどうでしょう?道徳が来ると成長します。愛を注ぐことによって、ハートの中で道徳を成長させなければなりません。そうして初めて私たちは、正義と安全と法と秩序を手に入れることができるのです。人々の間の愛が減れば、国は衰え、人類は滅亡するでしょう。

– 1972年2月3日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月21日

まず、心(マインド)を落ち着かせ、静かにさせなければなりません。そうして初めて、身体は健康になり、知性は鋭くなります。心(マインド)が一度にたくさんのものに投影されることはありません。心(マインド)は、一度に一つのものにしか投影されないのです。しかし、それでも心(マインド)が思考、欲望、空想、想像、その他諸々の集合体であることに変わりありません。実際のところ、心(マインド)の中には、一言で言うと、創造の歴史がすべて詰まっています。それが人類の迷妄(マーヤー)です。心(マインド)とは、善と悪、正と邪が覇権を争う戦場(クルクシェートラ)なのです。鉄を平らに打ち砕くものは鉄しかありません。同じように、低劣な心(マインド)は、優れた心(マインド)によって、よりよく形づくられる必要があります。個人を向上させるためには、己の心(マインド)をより高く、より強くしなければなりません。それが、本書「プラシャーンティ・ヴァーヒニー」(至高の平安の流れ)の目的です。この流れの中にある水、そこに示された霊性修行という水をたくさん飲みなさい。その中に身を沈め、浄化されなさい。その涼やかさが、あなた�
�の悲しみや苦しみを癒し、罪という炎を消し去るために。

– Prasanthi Vahini, Ch 3.

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2003年1月22日

あなたが主に捧げなければならないのは、植物が育てる花ではありません。それは植物への褒美であり、あなたへの褒美ではありません!主があなたに捧げて欲しいものは、市場で手に入る蓮の花や果実ではなく、あなたのハートという湖の中に咲く蓮の花や、あなたの地上でのキャリアという木で熟した果実です!「主はどこで見つかるのですか?」と、あなた方は尋ねるかもしれません。主の住所はバガヴァッド・ギーター18章61節に示されています。それを調べて、書き留めておきなさい。「イーシュワラ・サルヴァブーターナーム・フルッデーシェー・ルジュナ・ティシュタティ」(アルジュナよ、主は生きとし生けるもの全てのハートの中に住んでいる。)さて、そのことを知った後であれば、誰かを軽視して見下したり、嫌悪することを楽しんだり、嘲笑に耽ったりすることが、どうしてできるでしょう?すべての人は神聖な存在に満たされており、神聖な特質によって動かされています。どの人も、あなたから愛、名誉、優しさを受け取るに値します。これらを十分に与えなさい。

– 1964年4月16日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2003年1月22日

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月23日

カウラヴァ兄弟は、富、武力、同盟、熱狂的に敵を憎む心、カーマ(欲望)など、勝利に必要な道具をすべて持っていました!しかしダルマという高次の価値には目もくれず、謙虚で平和な道を歩む者にのみ与えられる神の恩寵を備えていなかったため、彼ら全員が骸(むくろ)と化したのです。クリシュナは彼らの御者ではありませんでした。彼らが信を置いたのは、重要ではない物事だったのです。統治者たちが、人々を向上させ、子供たちを教育するために計画を立てるのであれば、パンディト(学僧)たちによって今も保存され実践されているこの国の古代の叡智を参考にしなくてはなりません。それが私の望みです。そうすれば、船の竜骨をまっすぐに保つことができるでしょう。ウパニシャッドに盛り込まれている知識は、すべての人に受け継がれるべきものです。私はそれを望んでいます。 バクティ(信愛)に向かう教育は、現在、世界中のほとんどの国で普及しているブクティ(享楽)に向かう学校教育よりも優先されなければなりません。バクティは、あなたにグニャーナ(叡智)を授ける霊性修行へと突き動かすアサクティ(切望)です。信仰と着実さの両方を持ちぁ
�覆気ぁ�修Δ垢譴弌△△覆燭肋〕�垢襪任靴腓Α��

�厩挟年4月13日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月24日

ラーダーのクリシュナへの信仰についてのお話があります。クリシュナを中傷することを楽しんでいたブリンダーヴァンの長老たちは、ラーダーの美徳を試すため、ある試練を課しました。彼女は100個の穴が開いた泥の壺を渡され、ヤムナー川から自宅まで、その壺の中にある水を運ぶよう頼まれました。彼女はクリシュナへの意識でいっぱいだったので、壺の状態など知るよしもありませんでした。彼女は、いつものように、息を吸うたび吐くたびに、クリシュナの御名を繰り返しながら、その壺を川に浸しました。クリシュナの御名が口にされるたびに、一つずつ穴が閉じました。それで壺がいっぱいになる頃には、鍋の穴が全て塞がってしまいました。それが、彼女の信仰心を示す尺度でした。信仰心は無生物にも影響を及ぼすことができます。古の人々は、それを道具として、精神を育み、真理に到達するための王道を築いてきました。なぜ茨(いばら)だらけの荒れ地やぬかるんだ脇道を歩き回っているのですか?

– 1964年4月16日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月25日

あなたの中にエゴの痕跡がある限り、主をはっきりと見ることはできません。それが、聖者ティヤーガラージャが自分の心から取り除いてくださいと、ヴェンカテーシュワラ神に祈った障壁です。あなたが常に自分自身に「それは私ではなく、神である」「神が力であり、私はその道具に過ぎない」と言い聞かせるなら、エゴイズムは破壊されるでしょう。舌の上に常に主の御名を置きなさい。美しいものや壮大なものを見たり聞いたりするたびに、主の栄光を思いなさい。すべての人の中に、その姿で動いている主そのものを見なさい。他人の悪口を言わず、その人の中に善だけを見なさい。霊的な道に沿って、他の人を助け、他の人を慰め、他の人を励ますあらゆる機会を歓迎しなさい。謙虚でありなさい。自分の富、地位、権威、学問、身分を自慢してはなりません。あなたの物理的所有物、メンタルスキル、知的業績のすべてを主の奉仕に、そして多様に顕現する主に、捧げなさい。

– 1964年8月13日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月26日

偉大さは、何千万ルピーも費やして慈善行為をすることにあるのではありません。あなたの思いと言葉と行動が愛に満ちているべきです。同胞の苦しみを軽減するために努力すべきです。あなたが自分を愛するのと同じように、すべての人を愛しなさい。これはあなたのダルマです。ダルマとは、慈善行為をすることだけを意味するのではありません。ハートを正しい感情で満たし、利己心と貪欲を捨てるべきです。つねに社会の安寧を心に留めていなさい。あなたの同胞を「他人」と見なしてはなりません。あなたの愛をすべての人に分かち与えなさい。仲良く暮らし、一体性を育てなさい。愛によってのみ、あなたは他の人々のハートを勝ち取って、その人たちを変えることができます。それゆえ、今必要とされているのは、愛を培い、他の人々に愛を分かち与えることです。神への愛と、あなたより不幸な人々への慈悲を強めなさい。これが教育の真髄です。両親に奉仕して、両親を幸せにしなさい。あなたが家庭で自分の母親の苦しみを気遣わないなら、他人に愛を与えても何の役に立つでしょう? あなたの第一の義務は、両親を愛し、両親に奉仕することです。その後で、他の拭
�諭垢飽Δ鯤��弔海箸�任④泙后��

�屋梓年10月23日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月27日

平安も信愛も、他の人を通して得ることはできません。各人が自分のためにそれらを生み出し、発現させていく必要があります。それでもやはり、根本である主の恩寵も持っているべきです。ウパニシャッドの中で言われているように、「主に選ばれた者がそれを得る」のです。しかし、霊性志願者は「それなら、霊性修行の必要性は何なのか?」と、疑念を抱くかもしれません。信愛を込めて主を思う人々は、受け継いだカルマや、蓄積されたカルマが、どのような種類のものであったとしても、それらを乗り越えることができるのです。主の恩寵があれば、到達し得ない至福さえも体験することができます。霊性修行の精神修養の有効性を疑ってはなりません。それが無意味だということは決してありません。どんな人にとっても!そのことを確信しなさい。揺るぎない信愛が、主の恩寵を勝ち取るでしょう。ガジェーンドラはその一例です。

– Prasanthi Vahini, Ch 5.

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月28日

まず、あなたの中にある悪をすべて取り除きなさい。それからすべての善を吸収しなさい。あなたの中に悪の山があるのに、他人を非難するのは罪です。同じ言葉をイエスも表明しました。現代人は、自分の中にある無数の欠点を認識しようとせず、他人の微細な欠点を拡大解釈しています。実際には、千の眼で他人のあら捜しをしているのです。これが今日の人間の悲しい状態です。 人間は、己のハートの中に悪い性質が入り込むのを許しています。そのため、自分の本当のアイデンティティを見失っているのです。現代人は、他人の長所を見るよりも、他人の欠点を捜しだすことに興味があるのです。他の人の中に善だけを見るのが本当の人間です。そのような人は、真のキリスト教徒、真のシーク教徒、真のヒンドゥー教徒、真のイスラム教徒であり、ハートという畑で愛を育んでいます。残念なことに、現代においては、己のハートの中に愛の種を蒔いている人は一人もいません。そのようなときに、あなたはどうして愛という収穫を期待するのですか?その人の中に愛がないのであれば、どうしてその人を真のヒンドゥー教徒と呼ぶことができるでしょう

– 1999年2月14日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月29日

実際のところ、無神論者というのは全く存在しません。ただ無知であるだけです。彼らは、己の最も奥深くにある核が神であることを知らないのです。彼らは、己の呼吸そのものが神であることを知らないので、神を否定します。それは、魚が水の存在を否定するようなものです。あなたは、彼らのとんでもない無知を憐れむべきであり、あなたが気に入らないことを言うからといって怒ってはなりません。神はアーナンダ(神聖な至福)としてあなたの中に宿ります。それゆえあなたは常に、あなたの周囲にあるありとあらゆるものの中に、自然とアーナンダを求めるのです。ラーダー(クリシュナ神の恋人)、ラーマクリシュナ・パラマハンサ、ヴィヴェーカーナンダのようにアーナンダで満たされるためには、己のエゴを手放して、主が自分の存在そのものであるという意識に没頭しなければなりません。

– 1964年8月13日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月30日

普通の人間であったガンディーが偉業を成し遂げ、世界に名を馳せることができたのは、母親から学んだ善行の教えがあったからです。彼の母親は、ある誓いを守っていました。彼女は、朝、カッコウが鳴いてから食事をすることにしていたのです。あるとき、ガンディーが少年だった頃、母親は長い間カッコウが鳴くのを待っていました。これを見ていたガンディーは、家の外に出て、カッコウの鳴き声を真似しました。それから家の中に入って、「お母さん、カッコウが鳴いたから、ご飯を食べていいんだよ」と言いました。息子の小細工を見破った母親は、彼の頬を叩いて言いました。「お前は悪人だ!お前のような子を産むなんて、いったい私はどんな罪を犯したというのか!」そのような子が自分のもとに生まれてきたことを、彼女は大いに嘆きました。母の悲嘆がガンディーの心を打ちました。その瞬間から、ガンディーは二度と嘘をつかないと固く決意したのです。このような純粋さと美徳に満ちた人生を送ることに対して、最初の責任を果たすのが両親です。

– 1992年5月6日の御講話

 

プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月31日

自分が持っていないものに悩まされることを拒絶し、欲望や熱狂や憎悪を出来るだけ排除しようと試みながら、自分が持っているものに満足しなさい。真理、ダルマ、愛、忍耐(サハナ)を育むよう努めるべきです。それらを育むと同時に、体系的に実践しなさい。これが人間の本当の義務であり、人間が生まれてきた本当の目的です。各自が上記の四つの資質を培い、実践すれば、人々が妬み合うことはなくなり、利己的な権利争いは終わり、他人の利益が尊重され、世界平和を安定させることができるのです。そのようにはせず、あなた自身に平和がないのであれば、どうして世界平和を守ることができるのですか?世界平和に熱心な人々は、まず平和を体験し享受する方法を身に付けなければなりません。そうすれば、その平和を自分の外の世界に広げ、平和を促進する手助けができるのです。

– Prasanthi Vahini, Ch 15.

Japanese, 2022年8月

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月1日

皆さんは、カーリダーサの物話を聞いたことがあるはずです。彼は、「私がいなくなればすぐに」、つまり、「エゴが消えればすぐに」、解脱が得られるだろうと言いました。その時には、ブラフマン(不滅のアートマ)として自分本来の輝きを放つからです。「I」(私が)の上に削除線を引くと、十字架のシンボルになります。十字架で磔にされるのはエゴであることを覚えておきなさい。そうすると、妨げられることなく、神聖な性質が顕現します。エゴが最も容易に破壊されるのは、帰依心によって、神の素晴らしさに思いを馳せることによって、神の子として他の人々に奉仕することによってです。すべての御名は神のものなのですから、どの御名で神を呼んでもよいのです。神のさまざまな御姿を讃えるために千の御名(サハッスラナーマ)が作られたのは、そのためです。千の中から(あなたの好きな)いくつかを選ぶ自由と権利はあなたにあります。

―1958年3月25日の御講話

訳注

カーリダーサ:5世紀前後に活躍したと考えられている作家で、その作品は後世のインドだけでなく欧州にも影響を与えた。インドのシェイクスピアとも評されている。

千の御名:ヴィシュヌ神を讃えるヴィシュヌ・サハッスラナーマ、シヴァ神を讃えるシヴァ・サハッスラナーマ、母なる女神を讃えるラリター・サハッスラナーマ、ガネーシャ神を讃えるガネーシャ・サハッスラナーマ、ハヌマーン神を讃えるハヌマーン・サハッスラナーマなどがある。

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月2日

あなたは自分の中心にある神性を無視していると同時に、他人の中に神性を求めています。それが悲劇なのです。無力感、弱さ、劣等感によって、あなたは自分自身を傷つけています。臆病や自責の念は、「神聖な炎」の火花にはなりません。少しの識別心を働かせれば、己の真実を発見することができます。迷妄の中で生まれ、迷妄の中で呼吸し、迷妄の中で卑屈になっている人々は、自分に受け継ぐべき遺産があることに気づかず、それを得ることができないと感じています。人々は自暴自棄になり、逃げ場を失っています。彼らは、平安を得ようと努力するたびに、迷妄と不安に絡め取られていくのです。色とりどりで、それぞれが芳香を放つ花のように、基本的に人間は皆、同じブラーミンに分類されるのです。神聖な本質から芳香が生じます。それが生きている本当の理由なのです。すべての人はその本質を悟り、輪廻転生を終えなければなりません。

―1961年12月2日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月3日

神聖な場所に到達したら、神聖な考えだけを抱くようにしなさい。医者に会うと、自分の病気のことを思い出します。弁護士に会うと、財産の問題や個人的に恨みに思っていることについて相談したくなります。寺院を見れば、宇宙を動かしている力のことが思い出されるでしょう。あなたの旅行は、ヴィノーダ・プラヤーナ(楽しむための旅行)ではなく、ヴィヴェーカ・プラヤーナ(識別力を働かせるための旅行)であるべきです。ピクニックに行くとか、訪れた先の店で器や服や珍しいものを買うために、巡礼の旅を利用してはなりません。静かな自宅に戻ってから思い返すことのできるような神聖体験で心を満たす必要があることに、より多くの注意を払いなさい。神聖な場所(クシェートラ)にいる時には、その地にいる神聖な存在(クシェートラグニャ)のことを思いなさい。繰り返しになりますが、あなたが行く先で見つかるかもしれない悪い特徴には関わらないようにしなさい。善良な人々との交わりを求め、神聖なるものや聖別してくれるものの真ん中に移動しなさい。それが、あなたがここまでやって来た目的です。

―1962年1月14日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月4日

無知(アグニャーナ)は単独では存在しません。無知(アグニャーナ)には、エゴ(アハンカーラ)〔我執/自我意識〕という子がいます。そのエゴという阿修羅(アスラ)には、執着(アヌラーガ)と衝動(ヴァーサナー)〔潜在的傾向〕という二人の子がいます。二人の別名は、激情と渇望です。激情と渇望には密接な相互関係があります。激情があるなら渇望もあります。二人は姉妹です。執着によって、人は「私の」、「私のもの」という感情を持ち、その感情が欲望をかき立て、欲望が心配を生みます。ですから、エゴ(アハンカーラ)を取り除くには、執着(アヌラーガ)と潜在的傾向(ヴァーサナー)を消滅させなければなりません。それは、無知(アグニャーナ)を去らせる必要があるということを意味します。なぜなら、そうすることによってのみ、エゴを抹殺することができるからです。無知(アグニャーナ)を滅して正しい英知(スグニャーナ)を発達させるにはどうすればいいか? それが問題です! その答えは、坐禅(ディヤーナ)です。無知(アグニャーナ)、エゴ(アハンカーラ)、執着(アヌラーガ)、潜在的傾向(ヴァーサナー)を征服すること�
�は、個々人(ジーヴィ)に解脱(モークシャ)を引き起こします。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第11章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月5日

アートマは海です。自然は広大で永遠で無限の海の波にすぎません。そして個我はその波のひとしずくにすぎないのです!あなたが波や海を手放すことはできません。あなたにできることはただ一つ、そのしずくという名と姿に融合することだけです。ひとたび海の深みの中に入れば、すべてが穏やかで平安になります!動揺、騒音、混乱があるのは、外側の層だけです。同じように、ハートの奥底にもあなたが庇護を求めるべき平安の貯蔵庫があるのです。三種類の人々がいます。鉄球のように、どんな軟化作用にも影響されない不活発(タマシック、鈍性)な人。綿のように、吸収力はあるが自分の本質を変えようとしない活発(ラジャスィック、激性)な人。バターが溶けるように、他人の喜びや悲しみ、神聖なドラマに言及しただけで溶けてしまう純粋(サトウィック、浄性)な人。サトウィックな人は、源に深く潜り、思いやりという泉と源の中に深く潜ります。

―1960年9月27日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月6日

気まぐれな心はあちこちさまよいますが、サーダナにおいて規則正しく鍛錬を重ね、粘り強く訓練を積むことによって、心を一点に固定することが可能です。その状態は一意専心(エーカーグラハー)と呼ばれます。それは集中(ダーラナー/一心)とも称されます。一つの壺からもう一つの壺に絶え間なく油を注ぐことは、集中と呼ばれる心のプロセスを見事に象徴しています。サーダナを始めたばかりの者にとっては、集中(ダーラナー)はとても難しく見えます。なぜなら、ある程度の進歩を勝ち得ると、その後は普通、もう修行を続けないからです。続ける代わりに、彼らは修行をやめてしまいます。たとえサーダナをやめて日々心に平安がなくなったとしても、です。集中は、神聖な歓喜、計り知れない英知、内なる目、より深い真理を捉える洞察力、より明快な理解、至高神との一体感を人に授けます。このサーダナの科学は、三界よりも素晴らしいものです!


―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第13章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月7日

プライドやエゴを忘れて神に呼びかけるのは、あなたが絶望的な状況にある時です。パーンダヴァ兄弟はこの世的な意味では不幸に満ちていたので、いつも祈りの姿勢を持っていました。もし、私があなたにあらゆる快適さと好機を与えたとしたら、あなたはプッタパルティに来なかったでしょう。トラブルは、魚を水から引き揚げるための餌なのです。クンティーは、クリシュナが自分と息子たちに継続的に恩寵を与えることができるように、あらゆる種類の不幸を自分たちに与え続けてくださいと願いました。ティルマラチャルはこの姿勢を「自己を捧げること」(アートマ・アルパナ)」と呼びました。しかし、アートマは神自身なのです。自分が神に捧げているのは神自身、とはどういうことですか?あなたが神の御足に捧げているのはあなたのエゴです!そのエゴが増殖させたあらゆるプライド、あらゆる分離感、あらゆる迷妄、あらゆる執着を捧げなさい!それが、あなたがしなければならない礼拝です!あなたの中にある全ての悪を私のもとに持ってきて、ここに置いていきなさい。私が持っているもの、すなわち愛を私から受け取りなさい。

―1960年9月27日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月8日

すべてのハートは神の所有物であり、すべてが神の領地です。しかし、貴族は、その地域全体が自分のものであっても、清潔な場所にしか座りません。それと同じように、神は、ハートが清められている場合にのみ、そこに身を置くのです。神は「私の帰依者が私のことを歌う場所に、私は身を置くのです、ナーラダよ」と語りました。あなた方は前世の人々よりも幸運であると、私はあなた方に告げなければなりません。これまでの多くの誕生で積み重ねた功徳が、あなた方にこの幸運を授けたに違いありません。あなたは私を得たのですから、今度は、完全なる幸運によって得られたこの関係を発展させることがあなた方の義務です。バナナやマンゴーは、まだ青いうちに収穫され、藁や枯れ草の中で保管されます。密室で保管されることもあります。そうすれば、熱で熟成して、美味しくなるかもしれないからです。神への瞑想は、あなた自身を熟成させ、甘く美味しくなるための適温も与えてくれます。

―1960年9月27日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月9日

「イスラム」はペルシア語で「全託」あるいは「平和」を意味します。この言葉の内的意味は、人は神に全託して人類同胞と平和に生きるべし、というものです。イスラム教の聖典である「コーラン」(クルアーン)には多くの神聖な教えが含まれています。そのうちの一つに「サラート」があります。それは、人は確固たる信仰心を持って神を礼拝せよと命じています。もう一つの教えは「ザカート」です。これは困窮や苦悩にあえぐ人類同胞の苦しみを和らげるために慈善を施すよう、信者に命じています。バーラタ人の経典にはそれと類似した義務が定められています。それは「パローパカーラハ プンニャーヤ パーパーヤ パラピーダナム」(他者に奉仕することは功徳に値することであり、他者に害をもたらすことは罪深いことである)と述べられているものです。ところが、各宗教の信者たちは、この根本的な真理を忘れて、教義の違いという、根本的なものではなく実際には言葉の上だけの違いにすぎないものを基に、バリアを作っています。今日、宗教間にさまざまな種類の不和が生じています。これは良いことではありません。人は皆、生活の基礎を神に定ぁ
�瓩蕕譴親仔舛反人�肪屬い董△修譴蕕魄蕕爐茲ε悗瓩襪戮④任后��

―1989年7月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月10日

不滅性こそが真の解脱(ニルヴァーナ)です。その第一歩が正見(サムヤク・ドリシュティ)です。目に入るものすべてを、神と見なしなさい。あなたの見方は愛に満ちさせなさい。愛に満ちた見方は真の人間的特性です。すべては一つです。誰に対しても同じ心でありなさい。正見はすべてのものの内にある神性に気付かせてくれます。ヴェーダはこの原理に基づき、次のように述べています。「エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ(真理は一つ、学者たちはそれを多くの名で呼ぶ)」。真理という目で世界を見なさい。すべては一つです。すべては本質的には神なのです。一体性に到達するために、多様性を捨て去りなさい。ヴェーダーンタ(ウパニシャッド)は「多様性に内在している一なるものとはアートマ原理である」と宣言しています。電球はたくさんありますが、電球の中を流れている電流は同じです。同じように、アートマ原理はすべての中に存在しているのです。この一体性の原理を理解できないことが、人間の無知の原因です。真の人間性は、多様性の中の一体性を認識することにあります。

―2001年5月7日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月11日

ラクシュマナが戦場で気を失った時、ラーマは「世の中を探せば、シーターのような妻やカウサリヤーのような母は得られるかもしれないが、ラクシュマナのような弟は得られないだろう」と嘆きました。このようにして、ラーマはラクシュマナの友愛に深く感動し、その資質を褒め称えたのです。世の中の多くの家庭では、両親や兄弟や姉妹が素晴らしい理想を示しています。そのような理想的な兄弟が今日でも存在しているのかと、疑念を抱く必要はありません。そのような兄弟は存在するのです。一時的な意見の相違があるかもしれませんが、彼らは常にお互いを愛しています。万人の中に存在するアートマ原理を悟るためには、必ず努力をしなければなりません。アートマ体験の甘美さは比類なきものです。霊性の分野において、人が到達しなければならないのは、アートマの至福の体験です。人類に内在する神性を悟る者こそが、真の人間です。アートマには特定の形がありません。それは愛と至福に満ちています。このことを、各個人が悟り、体験する必要があります。

―2003年10月17日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月12日

自分の心(マインド)を支配する者だけが、人と呼ばれ得ます。世の中に高い教育を受けた人はたくさんいますし、さまざまな種類の知識を身につけ、すばらしい仕事に就いている人もたくさんいます。しかし、もしその人たちが自分の心(マインド)を支配していないなら、本当の意味で人と呼ばれることはあり得ません。心(マインド)にはありとあらゆる良い思いと悪い思いが浮かんできます。悪いものはすべて心(マインド)から遠ざけておき、良いものだけを受け入れるようにしなさい。何であれ決して悪いものを心(マインド)にかかわらせてはいけません。私たちは、心(マインド)に最大限の重要性を置くべきです。しかし、多くの人は心(マインド)に当然置くべき重要性を置いてはいません。心(マインド)を自分の生活の土台に置いている人は、真の人間です。心(マインド)を心(マインド)のさまざまな思いつきや気まぐれに任せている人は、実際、猿であって人間ではありません。あなたがたは自分の心(マインド)を、自分の意識の中心としなければなりません。

―2007年5月6日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月13日

あなたが話す言葉は、それがどのようなものであっても、他の人に迷惑をかけるものであってはなりません。それは人を喜ばせるものであると同時に、真理に満ちていなければなりません。常に願いを聞き入れる(オブライジ)ことはできませんが、常に親切に(オブライジングリー)話すことはできます。神聖な話し方は、神性の現れです。神は、シャブダ ブランマーマイー(音の具現)、チャラーチャラマイー(動くものと動かないもの具現)、ジョーティルマイー(光の具現)、ヴァーングマイー(言葉の具現)、ニッティヤーナンダマイー(永遠の至福の具現)、パラーットパラマイー(至高の栄光の具現)、マーヤーマイー(迷妄の具現)、シュリーマイー(富の具現)という八つの姿で表されます。(神は、音、動くものと動かないもの、光、言葉、永遠の至福、至高の栄光、迷妄、富の具現である。)いかなる状況下にあっても、あなたの話す言葉を辛辣さで汚してはなりません。決して激昂してはなりません。すべてが一つであることを理解すれば、激昂する機会はなくなるでしょう。すべての身体は鏡のようなもので、あなた自身の反映を映し出しています。あなた自拭
�箸糧娠任紡个靴董△匹Δ靴禿椶襪海箸�任④襪任靴腓Α�Δ鬚發辰届辰靴覆気ぁ0Δ茲螳梁腓平世呂△蠅泙擦鵝�△覆燭���離蓮璽箸魄Δ破�燭擦弌△△覆燭了廚ぁ∋覲弌�斥奸�圓い楼Δ破�燭気譴襪任靴腓Α�

―2001年5月7日の御講話

 

Japanese 2022年7月

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月1日

人は常に己の欲望を満たそうとすることで幸せになろうとします。欲望が満たされれば喜びを感じ、満たされなければ悲嘆に暮れます。しかし、困ったことに、欲望とは、より多くの燃料を求めて、より激しく燃え盛る焚き火なのです。一つの欲望が十の欲望へと導きます。人は、欲望の要求を満たそうとする中で自らを疲弊させています。人は、この終わりなき欲望という道から、内なる満足と喜びという道へと引き返さなければなりません。実在ではないものに執着するようになったがために、人は嘆き悲しんでいます。人は、富に対しては過剰なほど執着します。しかし、我が子の命を守るためなら、その富を犠牲にすることも厭いません。稼いできた富よりも、子供への愛着の方が強いからです!生き残ることと子供たちの幸福とのどちらかを選ばなければならなくなると、子供たちをなおざりにするほど卑しさに身を落としてしまいます。しかし、あらゆる喜びの源であり源泉であるアートマを思う時に得られる至福は無限であり、不滅です。それが本当の喜びなのです。

– 1958年12月14日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月2日

決して主のことを語らない人、あるいは、主を意識さえしない人、浮世(サムサーラ)のつながりを増やしたり強めたりするのに忙しい人、虚偽や不正や抑圧を述べ伝えたり行ったりする人、あなたにダルマの道から離れるよう勧める人――こんな人たちは、あなたの友人ではありませんから、どんな代価を払っても避けるべき人として扱いなさい。彼らとの交際は、邪悪な交わり(ドゥス サンガ)です。そのような人との交際は、あなたが自分の意志に反して悪い行いをすることや、口にすべきでないことを口にすることや、すべきでない行いをすることへとつながり、その結果、あなたは下り坂に足を踏み入れて、破滅へと至ります。罪も神も恐れない人々は、どんな邪悪もやってのけます。それは別に驚くことでもありません。ですから、罪と神の二つに対する恐れを持っている人との交わりを求めなさい。それは真の善き交わり(サット サンガ)です。容易に手に入るにせよ、入らないにせよ、善き交わり(サット サンガ)だけを探し求めて、それに加わりなさい。。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第9章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月3日

人生は神へ向かう巡礼の旅です。聖地は遠いところにあり、その道はあなたの前にあります。しかし、あなたが最初の一歩を踏み出し、他の人と共にその道をたどらないのであれば、どうしてそこに到達できるというのでしょう?勇気、信仰、喜び、着実性をもって出発しなさい。あなたは必ず成功します。心(マインド)と知性は、「内なる人間」という荷車につながれた二頭の牛です。この牛は、真理、正義、平安、愛という道に慣れていないため、彼らにとって馴染みのある道、すなわち虚偽、不正、心配、憎悪という道に荷車を引きずります。あなたはより良い道へと向かうよう彼らを訓練しなければなりません。彼らが自分自身と、彼らがつながっている荷車と、荷車に乗っている人々に災いをもたらすことがないように。あなたの子供は、遊びやおしゃべりをして、あなたに大きな喜びを与えます。しかし、あなたの仕事の邪魔をするなら、あなたはとても怒るでしょう。子供は喜びの源であると同時に、悲しみの源でもあるのです。混じりけのない喜びを与えてくれるものはありません。たとえあったとしても、それを失うと悲しみが生じます。これが物事の本質なのです。ですか�
�ら、喜びと悲しみの源である心(マインド)を正すように努めなさい。心を制御しなさい。そしてあなたを魅了したり、不快にさせたりする客観的世界の本質を理解するよう心を訓練しなさい。それこそが、教育の真の成果なのです。

―1958年12月20日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月4日

ちょうど大きな水槽の中を多種多様な魚や蟹や水生動物が動き回るのと同じように、主と呼ばれる海の中を、無数の人間が動き回っているのです。それは、実に畏敬の念を起こさせる光景です。ある者は発達しておらず、ある者は発達不全で、貪欲に、利己的に泳ぎ回っています。そうした無知な人たちの群れの中に、高度の発達を遂げた人、賢者(グニャーニ)やヨーギがわずかにいます。彼らは無知な群衆に混じっているため、見分けるのは難儀です。この創造世界、そして、そこに満ちている不思議は、まさに驚きの泉です。けれども、現在の状況を考えてみると、光を求める人、光に導かれる人は、ほとんどいません。ですから、この人、あの人と、人の後を追って回り道をする代わりに、主に完全なる信仰を置いて、主を唯一の母、父、グル、導き手として頼ることです。そうすれば、あなたは決して正しい道を見失うことはないでしょう。主があなたを間違った道に導くことは絶対にありません。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第10章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月5日

泣いている子供は、後には笑ってこの世を去らなければなりません。人生の価値は、人生が終わりに近づいた時にどう感じるかによって評価されるのです!愛は種子であり、帰依心は苗であり、若木です。信仰は肥料、善良な仲間は雨、自分自身を捧げることが花、〔神との〕融合がその果実です。人は執着を捨てて、自由にならなければなりません。ギーターは、行為の放棄、つまり、その成果に執着しないカルマ(行為)を勧めています。いくつかのカルマ(行為)は、この世での立場に関連した義務として行わなければなりません。もしそれらを正しい気持ちで行うのであれば、それらに束縛されることは全くありません!劇の中の役者のようにすべてのカルマを行いなさい。あなたのアイデンティティを別に保ち、あなたの役割に執着しすぎないようにしなさい。すべては劇であり、主があなたに一つの役を割り当てているのだということを覚えておきなさい。自分の役割を上手く演じれば、あなたの義務はそこですべて終わります。主がその劇を計画し、主がその劇を楽しむのです!

―1960年9月27日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月6日

カビールは、主ラーマのために黄色い絹の衣を織っていました。彼は一人で、地機(じばた)で作業しなければなりませんでした。彼は「ラーマ、ラーマ、ラーマ」と唱え、休むことなく織り続けました。布は20ヤード(約18メートル)もの長さになりましたが、カビールの手は止まりませんでした。彼の苦行は衰えることなく続き、衣はどんどん長くなりました。手仕事から得られる至福と主への献身は、彼の生命を維持するのに十分な食べ物であり、飲み物だったのです。カヴィールはその衣をラーマ像に着せるため寺院の僧侶に渡しました。すると、その衣は指一本分も違わぬ、ちょうどよい長さと幅だったのです!このような人々が、インドにおいて霊的な人々を喜びで満たしている主要因なのです。家庭にはゴーヴィンダの御名を響かせなければなりません。そうでなければ、それは野生動物が棲みつくただの洞窟(グハ)です。身体には家が必要です。しかし、あなたの身体それ自体が家なのです。その家の中でも、ゴーヴィンダの御名が聞こえなければなりません。そうでなかったら、それは土製の壺(ガタ)であり、人間の体ではないのです!

―1963年2月8日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月7日

あなたは量を重視しますが、神が見ているのは質だけです!神は、あなたが捧げた「甘い米」の量ではなく、あなたがどれだけ多くの甘く優しい言葉を口にしたか、あなたの思考にどれだけの甘さが加えられたかを測っているのです。信愛という香り高き葉と、欲望や怒りなどの害虫とは無縁となったあなたの気持ちや行為という花を、神に捧げなさい。酸っぱかろうが甘かろうが、瑞々しかろうが干からびていようが、苦かろうが甘かろうが、あなたの心という果樹園で育った果実を神に捧げなさい。あなたが、自分の心という果樹園は神のものであると決意すれば、すべての果物が甘くなるでしょう。あなたの全託の姿勢が、すべての果物を主に受け入れられるようにするのです。そうであるなら、どうしてそれらが苦くなることがあるでしょう?水について言うと、あなたの涙より純粋で貴重なものが他にあるでしょうか?悲嘆の涙ではなく、神に仕え、神へと続く道を歩む機会を得たことを喜ぶ涙を流しなさい!帰依者になりたいと熱望する者は皆、執着と嫌悪の情を手放さなければなりません。

―1963年2月8日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月8日

アルジュナがどのような集中力でギーターを聞いたのか、想像してごらんなさい。彼の集中力は、ブリンダーヴァンで〔クリシュナの〕笛というメッセージを聞いた牧女たちと同じくらい揺るぎないものでした。アルジュナは敵対する軍隊や、自分自身が抱えていた憎しみ、戦争への熱意を忘れ、目の前で繰り広げられる御教えに没頭したのです。もしあなたがあなた自身の「戦場」でその一点集中を発揮するなら、あなたのためのバガヴァッド・ギーターやサティヤ・サイ・ギーターを聞くこともできるのです!ギーターは、無知による迷妄を取り除くために語られ、アルジュナに関する限りはそれを取り除くことに成功しました。それを聞いたサンジャヤやドリタラーシュトラのような他の人々は、まだ自分自身の無知に縛られていたため、その恩恵を受けませんでした。多くの人がギーターを読みますが、そこから益を得る人はほとんどいません。あなた方は、ギーターから益を得るために、アルジュナの平静さと一点集中を備えなければなりません。純粋なハートと不動の心(マインド)は非常に大切です。

―1960年9月27日の御講話

訳注

サンジャヤ:マハーバーラタの登場人物。ヴィヤーサ聖者の弟子で、ドリタラーシュトラ王の相談役。ヴィヤーサ聖者から、遠くの出来事を目の前で見る能力を授けられており、クルクシェートラの戦いの最中にその模様を王に語り聞かせた。

ドリタラーシュトラ:マハーバーラタの登場人物。パーンダヴァ兄弟の叔父でカウラヴァ兄弟の父。盲目で、悪事を企てる長男ドゥルヨーダナとその仲間を止めることができなかった。

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月9日

アヴァターが降臨する前でさえも、細部に至るまでその舞台が準備されています。カイケーイーは二つの願い事を無期限でかなえてもらうことになっていました。苦行者に呪いをかけられたダシャラタは己の息子と離別する苦悩のために死ぬことになっていました。猿たちは神の目的を手伝うことになっていました。シーターは悪を滅ぼす原因を提供するために大地から生まれることになっていました。たくさんの植物から集められたさまざまな色彩と芳香の花々で花輪が作られるように、神の物語は、願い事や祝福や呪いといった素晴らしい筋書を提供するさまざまな出来事で構成されています。ラーマが人間に示しているのは、どのように苦しんでいるかである、と語る人もいます。もしある王様が、宮殿で劇を上演する準備をし、自ら楽しんで物乞いの役を演じ、非常にリアルな演技をしたとします。あなたは、彼は物乞いの悲惨さに苦しんでいる、と言うことができますか?ラーマは至福です。至福はラーマです。もし甘くなかったら、どうしてそれが砂糖になり得るでしょうか?もしラーマが苦しんでいるのなら、それがラーマであるはずがありません!

―1963年4月1日の御講話

訳注:

ダシャラタ:ラーマーヤナの登場人物。ラーマの父。戦の最中に第三妃のカイケーイーに助けられたため、いつでもどんな願い事でもかなえると約束した。その後、狩りの最中に誤って少年を殺してしまい、その両親から、息子との別離に苦しみながら死ぬ呪いをかけられる。

カイケーイー:ラーマーヤナの登場人物。ダシャラタ王の第三妃。ラーマの戴冠式の当日、我が子を王位に就けるため、ラーマを国外に追放するよう願い出た。

シーター:ラーマの妻。大地の女神の娘で、ジャナカ王の養女となった。

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月10日

母の胎内から生まれる時、人の首には、どんな花輪も掛けられていません。真珠の首飾りもなければ、黄金に輝く首飾りもありません。エメラルドやダイヤモンドのような宝石が散りばめられた首飾りもありません。しかし、その首に唯一飾られた首輪があります!ブラフマー神が、過去の行いの報いを糸で繋ぎ、重い首輪にして、誕生の時に首に掛けるのです。このように、あなたは自分のどんな行いの報いからも逃れることはできません。パコーラ〔野菜の天ぷら〕を食べれば、パコーラのげっぷしか出ません。それと同じように、どんな行為をなそうとも、その行為と同一の反作用を得ることになります。それゆえ、常に良い行いをすべきなのです。常に良い行為(カルマ)をするためには、神への愛(ダイヴァ プリーッティ)と、罪への恐れ(パーパ ビーッティ)と、社会の道徳(サンガ ニーッティ)を培わなければなりません。これらの三つを培えば、悪い行いに耽けることから距離を置くことができるようになります。神への愛、罪への恐れ、社会の道徳はすべて相互依存の関係にあります。一つがあれば、その他ぁ
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―2009年7月20日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月11日

最も重大な病は、平安がないことです。心(マインド)が平安を得れば、身体もまた健康になるでしょう。ですから、健康を切望する人は皆、その人を動かしている感情、気分、動機に注意を払わなければなりません。衣服を洗濯するように、心(マインド)の汚れも何度も何度も落とさなければなりません。さもなければ、汚れが蓄積して「習慣」となり、ドービー(洗濯屋)では汚れを落とせなくなりますし、衣類にとってもよくありません。洗濯を日課とし、心(マインド)に汚れが溜まらないよう注意すべきです。それはつまり、汚れを避ける仲間と付き合うべきだということです。虚偽、不正、不躾、残酷、憎悪―これらは汚れを生じさせます。真理、正義、平安、愛―これらは清浄な要素を生じさせます。後者の清らかな空気を吸い込めば、あなたの心(マインド)は悪いばい菌とは無縁になり、精神的にはしっかり、肉体的には丈夫になるでしょう。

―1960年9月21日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月12日

私は、あなた方のハートに愛の光を灯し、その光の輝きが日ごとに増していくのを見届けるために来ました。私は、ヒンドゥー教のダルマといったような、特定のダルマを話すために来たのではありません。私はいかなる宗派、信条、主義を広める目的のために来たのでもなければ、いかなる教義の信奉者を集めに来たのでもありません。私は、信奉者や帰依者を自分の信者として引きつけようとはまったく思いません。私は、普遍的な唯一の信仰、アートマの原理、愛の道、愛のダルマ、愛の義務、愛の責務を、あなた方に教えるためにやって来たのです。どの宗教も、心からエゴという汚れ、ちっぽけな喜びを追い求めることを取り除くという、一つの根本的な修養を教えています。どの宗教も、人に自らの存在を神の栄光で満たすよう、つまらない自惚れを払いのけるよう、教えています。高みを目指して解脱を得ることができるよう、どの宗教も、無執着と識別力という方法で人を訓練します。どの人のハートもただ一つの神によって突き動かされているということを信じなさい。

―1968年7月4日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月13日

今日はグル・プールニマー祭が執り行われます。「グル」は「大きい」という意味です。「グル」にはもう一つの意味もあります。「グ」は「闇」、「ル」は「払う」という意味です。「グル」とは「暗闇を払う者」(無知という暗闇を払う指導者)を意味します。グル・プールニマー祭は、心の中から無知という暗闇が取り払われたことを祝う日なのです。それゆえ人々は、すべてを包含する愛の原理で己の心を満たす必要があります。愛の完全性を体験するためには、あなたのハートを完全に愛で満たさなければなりません。それが、完全なる信愛という結果をもたらすでしょう。しかし、現在の信愛は完全ではありません。それゆえ、恩寵もまた部分的なものとなっています。パートタイムの帰依者がフルタイムの報酬を求めることはできません。主は、ハートが完全な信愛で満たされている人に完全な恩寵を授けます。霊性志願者は、9つの信愛の道のうちのどれかをたどり、神を悟ることができます。その中でも、神に対する友情という姿勢は大切にすべきものです。なぜなら、神はすべての人にとって唯一の本当の永続的な友であるからです。

―1994年7月22日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月14日

「生きる」ことの目的は、「神の中に生きる」に到達することです。その聖別と成就を受ける権利は、すべての人にあります。あなた方は真理です。信仰を失ってはなりません。自分自身を卑下してはなりません。あなたは神です。しかし、あなた方はしばしば、人間性から動物性、あるいはそれ以下へと滑り落ちています。愛を育み、その愛をすべての人と分かち合いなさい。どうしてある人には少なく、別の人には多く与えることができるのですか?どちらの人もあなたと同じなのです。もしあなたが基本的な神性を忘れたら、憎しみが芽生え、妬みが頭をもたげるでしょう。すべての人の中にアートマを見なさい。そうすれば、愛が芽生え、露のように平安が降り注ぐことでしょう。あなた方はプレーマ・スワルーパ(愛の体現者)です。あなた方は私を待ち、私の声を聞き、私を見たいと思って、大きな不快感を我慢しながら、何時間も前からここに、屋外に座っています。その熱望を満足させるためだけに、私はこの演台からあなた方に話しかけているのです。私があなたのプレーマ(愛)を感じる時、私はそれを分かち合い、あなたに私のプレーマを体験させなければならないと感じ�
�ます!これこそが、あらゆるコミュニケーションと霊的交流の中で最高のものです!その時には、言葉という仲介は必要ありません!

―1968年7月4日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月15日

エーカ バーヴァ(一つであるという姿勢)を、すべての宗派の人々、すべての国の人々、すべての大陸の人々の間に育みなさい。これが、私が携えてきた愛のメッセージです。これが、あなた方がハートに取り入れることを私が望むメッセージです。愛を育み、愛の中に生き、愛を広げること――これが最大の利益をもたらす霊性修行です。神の御名を、神の壮麗さ、神の慈悲、神の栄光、神の光輝、神の存在を憶念しながら唱えている時、あなたの中で愛が成長し、その根はどんどん深く伸び、その枝は友にも敵にも、同国人にも外国人にも木陰を与えるほど、どんどん広がっていきます。神は無数の名前を持っています。聖人賢者は無数の姿をとった神を見ました。彼らは目を閉じても目を開いても神を見ました。彼らは、あらゆる言語、あらゆる方言で神を説明しました。しかし、それでも神の栄光は語り尽くせません。

―1968年7月4日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月16日

教師の皆さん!最高の美徳を守り、世界に模範を示したバーラタ(インド)の偉大な聖賢や英雄という理想を若い生徒たちに教えなさい。彼らは、シュラヴァナクマールのような理想的な息子として振る舞うよう教えられなければなりません。一人の善良な息子がいれば、家族全員が救われます。エーカラヴィヤは、師に対する最高の献身の模範です。プラフラーダは、神への完全なる信仰の最高の模範と見なされるべきです。教師は、そのような神への献身を若者たちに植え付けなければなりません。教師はまた、教育の真の目的を子供たちに理解させなければなりません。教育は、お金を稼ぐためではなく、正しい生活をするための準備であるべきなのです。善良な資質はお金よりも価値があります。クリシュナが天秤にかけられた時、サティヤバーマーは自分の持っている宝石すべてよりも、〔ルクミニーが〕捧げた主の御名とトゥルシーの葉の方が、はるかに価値があることを理解しました。教師は、子供たちに教えることを自分でも実践しなくてはなりません。

―1994年7月22日の御講話

訳注

シュラヴァナクマール:ラーマーヤナの登場人物。親孝行の息子として知られている。盲目の隠遁者であった両親が聖地巡礼を願っていると、シュラヴァナクマールは、両親を大きな籠に入れ、その籠をかついで聖地へ連れて行った。のちにシュラヴァナクマールは、ダシャラタ王が誤って放った矢が当たり死んでしまう。王は両親に謝罪したが、彼らは王に息子を失った悲しみで死ぬという呪いをかけた。

エーカラヴィヤ:マハーバーラタの登場人物。ニシャーダ国の王子。カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟の師であるドローナの像を崇めながら、弓の修行を続けていた。ある時、エーカラヴィヤの弓の腕前の素晴らしさがドローナに知られることとなった。エーカラヴィヤはドローナに弟子入りを申し出たが、アルジュナを世界一の弓の名手にすると誓っていたドローナは、グル・ダクシナー(師への謝礼)としてエーカラヴィヤの右手の親指を切り落として、それを捧げることを求めた。エーカラヴィヤはドローナに従い、自分の親指を切り落とした。

プラフラーダ:悪魔ヒランニャカシプ王の息子。プラフラーダはヴィシュヌ神を深く信仰していたが、ヴィシュヌ神を憎んでいた父親は、プラフラーダを改宗させようと、ありとあらゆる拷問を行ったが、プラフラーダの信仰は揺るがなかった。ある日、柱からヴィシュヌ神の化身であるナラシムハ(人獅子)が現れ、ヒランニャカシプは滅ぼされた。王位に就いたプラフラーダは善政を敷き、死後はヴァイクンタ(ヴィシュヌの天国)に到達した。

サティヤバーマー:クリシュナの第三妃。ルクミニーは第一妃。サティヤバーマーは自分のクリシュナへの愛がルクミニーに勝っていることを証明しようとして、クリシュナをナーラダ聖者に差し出した。ナーラダは、クリシュナと同じ重さの物を奉納した者にクリシュナを与えると約束した。サテイヤバーマーはクリシュナが座った天秤皿の反対側の皿に、自分の持っているありとあらゆる宝飾品をのせたが、秤は微動だにしなかった。次にルクミニーが愛を込めてトゥルシーの葉一枚を皿にのせると、天秤は釣り合った。

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月17日

ヴァーク(発話)の力によって、人は王国や巨万の富を手に入れることができます。友人も対人関係も、言葉を発することによって得ることができます。口にした言葉によって、人は束縛され、自由を失います。死に至ることさえあるのです。ヴァークは人間の生きる力です。それは人生における背骨であり、万能です。聖者ジャヤデーヴァは自分の舌にこう語りかけました。「おお、舌よ!そなたは話し言葉の甘美さをすべて知っている!そなたが楽しむのは真理と善。ゴーヴィンダ、ダーモーダラ、マーダヴァという主の甘美で神聖なる御名を唱えるのはそのためぞ!誰かを誹謗中傷することに耽溺してはならぬ。甘く、優しく話すべし」。ギーターの中でクリシュナは「あなたの話し方は、真実に満ち、喜ばしく、善良で、いかなる憤りとも無縁であるものにしなさい」と語っています。残念なことですが、そのような神聖で甘美な話し言葉が少なくなっているために、社会は敵意と不和にむしばまれているのです。狂った文明化によって何もかもが許されてしまうがために、規律や道徳が破壊され、社会を地獄へと変えているのです。

―1994年7月22日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月18日

浄性でないヴァーサナー(潜在的傾向)は、低級な欲望を満たす映像などを見たい、魚や肉などの激性の料理を食べたい、さらには、怒りや妄想、貪欲やうぬぼれ、欺瞞や憎悪、妬みなどをあおって人格を台無しにする酔わせるもの〔お酒など〕を飲みたい、といった悪徳へと人を至らしめます。こうした浄性でないヴァーサナーには、三つのタイプがあります。それは、学問的な衝動、すなわち知性のヴァーサナー、肉体的な衝動、すなわち体のヴァーサナー、そして、世俗的な衝動〔ヴァーサナー〕です。肉体的な衝動は、人に、美しい体、たくましい体格、皺や筋肉の緩みによる衰えを知らない艶肌になりたいという欲を抱かせます。学問的な衝動は、誰とも並び称されないほどの権威として知られたい、同じ分野の競争相手を負かしたいという欲を誘発します。そして最後の世俗的な衝動は、栄光、権力、権威、栄華を手に入れたいという欲を起こさせます。こういった欲望はどれも、世俗的なものの下に分類することができます。これらはすべてヴァーサナーです。これらはあなたを生死の輪廻(サムサーラ)に縛り付け、地上に拘束します。

 ―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第11章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月19日

己の行動の支配者とならなければなりません。一瞬の衝動につき動かされて道を踏み外してはなりません。自分にとって、何が善であるのかを常に意識しなさい。他人や自分自身に苦しみを与えないようなやり方で、日々の任務を遂行しなさい。それが知性ある生き方のしるしです。怒りや悲しみや得意や落胆などの衝動に負けてはなりません。今、あなたが示している混乱は、暗く鈍いタマス(鈍性)の性質や、感情的なラジャス(激性)の性質の結果なのです。平静で波立たない、落ち着いたサトワ(浄性)の性質を保ちなさい。万物に対する慈悲の心を育て、自分の失敗を深く悔い、過ちを恐れ、神に畏敬の念を抱くようになればなるほど、あなたはより確固たる平安の中にいることができます。バーラタ(インドの正式名称)という名は、「バガヴァン」(神)と「ラティ」(愛)という神への愛着を表す二つの言葉に由来します。インドが「世界の教師」という役割を担っているのはそのためです。インドはまた、人類の「ハート」としても知られ、霊的探究者に尊敬されています。しかし飢えている人が、他の人を食べさせることがどうしてできるでしょう?ヴェーダや霊的書物(シ�
�ャーストラ)に著されているこの偉大な霊的食物の種子を蒔き、育て、蓄え、世の人々に食べさせることがあなたの義務なのです。

―1961年2月27日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月20日

現代の人間は、自分の本性である真我を忘れ、迷妄に流されています。その理由は何でしょうか。小さな例で説明しましょう。燦然と輝く純金には、非常に高い価値があります。しかし、銀、銅、真鍮などの金属が混ざって合金になると、そのアイデンティティだけでなく、価値も失われてしまいます。同じように、人間は純金に例えられます。世俗的な考えや神聖でない感情で心(マインド)が汚れていると、本来のアイデンティティも価値も失われるのです。今日の人間は、厳密な意味においては、人間と呼ぶことができません。彼は、悪い想念と悪い仲間のために、人間性を失ってしまいました。今の人間が培うべきものは、常に燦然と輝いている真我という価値です。人間的価値を外部から得ることはできません。それは生まれつきのものであり、先天的なものなのです。人間には愛が与えられています。しかし人間はその愛に利己心と私利私欲を混入させてきました。無私の愛を育まなければなりません。そうして初めて、人生は輝きを放つのです。

―1999年3月12日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月21日

心の平安と内なる喜びという霊的な領域の中で成功するか否かの責任は、すべてあなた自身にかかっています。それを他者に転嫁する権利はあなたにありません。燃料がなくなると火は燃え尽きます。ですから、火を消すためには、燃料を補給するのを止めなさい。感覚という燃え盛る炎に燃料を補給してはいけません。心を一時的なものから切り離し、永遠なるものに結び付けなさい。否定的な力と肯定的な力が一つになって、光が生まれます。心の中に信愛(バクティ)という種を蒔きなさい。すなわち、ナーマスマラナ(神の御名の憶念)という準備体操をするのです。その種は、美徳、奉仕、犠牲、愛、平常心、不屈の精神、勇気という枝をもつ木へと成長するでしょう。あなたは食べ物を飲み込みます。しかし、それがどのようにしてエネルギーや知力や感情や健康に変わるのかは知りません。同じように、ナーマスマラナというこの霊的な食物を飲み込みなさい。そして、いつの間にかそれが美徳へと変容していく様を見守りなさい。

―1961年2月27日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月22日

ラーマとラーヴァナは36種類の知識に等しく長けていました。しかし、ラーヴァナが己の知識を悪用したのに対し、ラーマは己の知識を適切に使用したため、ラーマーヤナを著した聖賢ヴァールミーキは、ラーヴァナを愚か者、ラーマを高潔な人物として描きました。ヴァールミーキがラーマを有徳であり高潔であると描写したのは、そのためです。ラーヴァナは己の欲望を抑えることができなかったので、自分の息子たちや兄弟たちを死なせる根本原因となりました。今日では多くの人々が、それに値しないにもかかわらず、政治の分野で権威ある地位を占めたいと熱望しています。しかし、ラーマは、長男として王になる資格が十分にあったにもかかわらず、王国そのものを放棄しました。彼はそのような大きな犠牲を払い、父の言葉を守るために森に行きました。ヴェーダには、「不死は犠牲によってのみ得られる。富も子孫も善行も、不死を与えることはできない」とはっきりと書かれています。実際のところ、ティヤーガ(犠牲)こそが真のヨーガなのです。吸った空気を吐き出さなければ、肺が冒されます。食べたものを排泄しなければ、胃腸の調子が悪くなります。同様に、�
�犠牲の精神をもって、自分の稼いだお金を慈善事業に使いなさい。そこに至福があります。

―1999年3月12日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月23日

四種類の力を培いなさい。それは、肉体、知性、英知、行動の力です。そうすればあなたは何事にも動揺しなくなり、霊的勝利の道を歩くことになります!ある時、一人の人が私のところに来て、神は存在しないし、神を信じるつもりもない、と主張しました。私は答えました。「少なくともあなたは、あなた自身を信じているのですか?あなた自身とは何ですか?あなた自身が神なのです。あなたが自分の判断や知性や能力を信じているのは、あなたに内在する神が、ひるんだり、恐れたりするなと告げているからです。その確信は、あなたの内から、あなたの根本真理から湧き上がります。それを神と呼ぶのです。あなたがそれを神と呼ばなくとも問題はありません。あなたが自分自身を信じているなら、それで十分です!それが神を信じているかどうかの真のテストです。」私は皆さんにも、これと同じことを言います。肉体は神の寺院です。肉体の持主が気づいていようが、いまいが、神はすべての肉体に内在しているのです。あなたによい行いをするよう促し、悪には逆らうようにと警告しているのが神なのです。その声を聞きなさい。その声に従いなさい。そうすれば、あなたは決し�
�て危険な目に遭わないでしょう。

―1961年2月27日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月24日

人生の成就は、真我が神我として顕現すること(アートマ サークシャートカーラ)にあります。この顕現を得るには、ヴァーサナー〔過去生から持ち越した潜在的傾向や衝動〕がまったくない状態でなければなりません。真の意味での解脱(モークシャ)とは、そうした衝動(ヴァーサナー)による束縛がまったくないことです。ヴァーサナーには二つのタイプがあります。それは良性のものと悪性のものです。良性のものは神聖さに満ちています。悪性のものは心をあおってさらに支配不可能なものにさせ、心を定まらなくさせます。それらは外的な喜びを求める欲望を蔓延させ、強めます。もし良性の衝動(シュバ ヴァーサナー)が促され、育まれるなら、悪性の傾向が心の想念を無限に増殖させること、心を捕らえ続けることはなくなります。それらの種は焼かれ、もう芽は出ません。もし良性の衝動(シュバ ヴァーサナー)にしがみつくなら、あなたは容易にブラフマンの英知を得ることができます。良性の衝動(シュバ ヴァーサナー)は、偉人(マハートマ)〔偉大な魂の持ち主〕との交わり、彼らを敬うこと、彼らとの対話、彼らの助言に従うこと、慈�
�善、忍耐、愛、根気、真実、勇気、自制といった行動を特徴とします。これらは浄性の衝動です。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第11章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月25日

ある女性がネックレスをなくしたか盗まれたと言って泣いていました。彼女はあらゆるところを探して、慰めようもないくらい悲しんでいました。ところが、鏡の前を通った時に、なくしたはずのネックレスが自分の首にかかっているのを発見しました。ネックレスはずっとそこにあったのです。これと同じように、あなたが知っていようがいまいが、神は内在者として、すべての人の中に存在しています。愛には三種類あります。一つは自己中心(スヴァールタ)の愛で、小さな部屋だけを照らす電球のようなものです。二つ目は相互(アニョーニャ)の愛で、月光のように広い範囲を照らしますが、ぼんやりとしています。三つめは利他的(パラールタ)の愛で、日光のようにすべてに広がり、くっきりとしています。三つめの愛を培いなさい。それがあなたを救うでしょう。その愛を通じて他者に行う奉仕はすべて、実はあなた自身への奉仕になっているのです。あなたが助けているのは他者ではありません。あなたは自分自身を助けているのです。覚えておきなさい。

―1961年2月27日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月26日

目上の人に対して平伏する時には、心もまた謙虚であるべきです。屈めるべきは身体だけではないのです。大勢のソーシャルワーカーたちが病院を訪問して、患者たちに奉仕をしています。しかし、彼らが行っている仕事の大部分は、患者を団扇であおぐとか、手紙を代筆するとか、バジャンを歌うといった機械的なものであり、患者が本当は何を必要としているのかについての配慮が足りません。多くの人は、社会奉仕が流行しているから、そうしているにすぎないのです。しかし社会奉仕は、敬意をもって、知的に、喜びをもって、心と完全に調和しながら行われるカルマ(行為)でなくてはなりません。患者は、あのソーシャルワーカーはどうのこうのと嫌がってはなりません。ソーシャルワーカーの訪問を、親しい身内の訪問のように、楽しみにしなさい。もしあなたがソーシャルワーカーの仕事を好まないのであれば、それに従事する必要はありません。いやいや仕事をして、心に重荷を負わせてはなりません。機械的に行われた仕事は、油の切れた灯芯の炎のようです。油とは熱意です。油を注ぎなさい。そうすれば灯火は長く明るく燃えるでしょう

―1958年3月25日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月25日

ある女性がネックレスをなくしたか盗まれたと言って泣いていました。彼女はあらゆるところを探して、慰めようもないくらい悲しんでいました。ところが、鏡の前を通った時に、なくしたはずのネックレスが自分の首にかかっているのを発見しました。ネックレスはずっとそこにあったのです。これと同じように、あなたが知っていようがいまいが、神は内在者として、すべての人の中に存在しています。愛には三種類あります。一つは自己中心(スヴァールタ)の愛で、小さな部屋だけを照らす電球のようなものです。二つ目は相互(アニョーニャ)の愛で、月光のように広い範囲を照らしますが、ぼんやりとしています。三つめは利他的(パラールタ)の愛で、日光のようにすべてに広がり、くっきりとしています。三つめの愛を培いなさい。それがあなたを救うでしょう。その愛を通じて他者に行う奉仕はすべて、実はあなた自身への奉仕になっているのです。あなたが助けているのは他者ではありません。あなたは自分自身を助けているのです。覚えておきなさい。

―1961年2月27日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月26日

目上の人に対して平伏する時には、心もまた謙虚であるべきです。屈めるべきは身体だけではないのです。大勢のソーシャルワーカーたちが病院を訪問して、患者たちに奉仕をしています。しかし、彼らが行っている仕事の大部分は、患者を団扇であおぐとか、手紙を代筆するとか、バジャンを歌うといった機械的なものであり、患者が本当は何を必要としているのかについての配慮が足りません。多くの人は、社会奉仕が流行しているから、そうしているにすぎないのです。しかし社会奉仕は、敬意をもって、知的に、喜びをもって、心と完全に調和しながら行われるカルマ(行為)でなくてはなりません。患者は、あのソーシャルワーカーはどうのこうのと嫌がってはなりません。ソーシャルワーカーの訪問を、親しい身内の訪問のように、楽しみにしなさい。もしあなたがソーシャルワーカーの仕事を好まないのであれば、それに従事する必要はありません。いやいや仕事をして、心に重荷を負わせてはなりません。機械的に行われた仕事は、油の切れた灯芯の炎のようです。油とは熱意です。油を注ぎなさい。そうすれば灯火は長く明るく燃えるでしょう

―1958年3月25日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月27日

人間には、自分と自分の体や五感や心や知性とを分ける能力が授けられています。人間は、これは私の目、私の耳、私の足、私の手、私の心、私の理性、等々と言います。人間は、自分はそれら一切とは別のものであり、自分はそれらを使う者、所有者であり、主人だということを、意識の奥底で知っているのです。自分が体とは別のものであると思っている動物はいません。なぜなら、動物にとって、自分は体だからです。動物は、自分が肉体という枠の中に居住しているものだということを知りません。人間は、黙想というシンプルな行によって、肉体という枠は非実在であり一時的なものであるということを見出すことができます。ひとたび人間が、体と体に付加する物に過度に執着することなく、悲喜、善悪、苦楽といったものの引力から解放されるなら、平等観、忍耐力、揺らぐことのない平静がしっかりと身につきます。その時、人間は、世界は神の中で同じ一族であるということ、すべては喜びであり、愛であり、祝福であることを、見出します。自分は目に見えるこの世界の一切であること、この多種多様な顕現の一切は神の意志による幻想であり、それが自分の実体なのだとい�
�うことを悟ります。宇宙の果てまで覆い尽くすほどの、この個我の拡大は、人間の最高の飛躍です。

―1966年12月18日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月28日

神は願望成就の木のようなものです。それは願ったものを何でも与えます。しかし、あなたはその木に近づいて、自分が欲しいものを願わなければなりません。無神論者とは、その木から距離を置いている人のことです。有神論者とは、その木に近づく人のことです。それが違いです。木はまったく区別することなく、すべてに恵みを与えます。もしあなたが神を認めなくても、崇めなくても、神が罰を与えたり、復讐したりすることはありません。神が特定の様式の礼拝でしか喜ばないということもありません。あなたに聞く耳があるならば、すべての響きの中に神の存在を告げる音「オーム」を聞くことができます。五大元素のすべてが、この音を発しています。寺院にある鐘は、神の遍在のシンボルである「オーム」の音を伝えるためのものです。鐘が「オーム」と響く時、あなたの内なる神が目を覚まし、あなたもまた神の存在に気付くでしょう。寺院の中にある祭壇の正面に鳴らすための鐘があるのは、そのためなのです。恐れることなく神に近づく権利と、あなたの分の遺産を要求する権利を獲得しなさい。神に近付いた時に、あなたから賛美の声が発せられないくらい、束縛から解�
�放されていなければなりません。賛美は、距離があり、恐れがあることのしるしなのです。

―1958年3月25日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月29日

私はあなたに、活動的で、いつも何かの活動に従事していて欲しいのです。もし何の活動もしなかったら、あなたの手に時間が重くのしかかるでしょう。与えられた人生という時間の一瞬たりとも無駄にしてはなりません。なぜなら、時間は神の体であるからです。神は時間という姿として知られています。つまらないことに時間を誤用したり、ぼんやりと時間を浪費することは罪です。ですから、人生という事業の資本として神から与えられた肉体的・精神的才能を、無駄遣いしてはなりません。万物を引き込む引力のように、怠惰という引力はあなたを容赦なく引きずり込みます。ですからあなたは、常に気を付け、常に活動的でいなければなりません。真鍮の器が輝きを放つには磨かなければならないように、人間の心も霊性修行で磨かなければなりません。すなわちナーマスマラナ(神の御名を繰り返し唱えること)や瞑想を通じてです。呼吸のように自然で自動的な行為(カルマ)であっても、不信心な行為になることがあります。それは、ある明確な結果を見据えて意識的に為される時です!

―1958年3月25日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月30日

今日、私が皆さんに提案したいのはこのようなことです。皆さんは、身体が必要としているものに注意を払い、身体が良い状態で走り続けられるように、1日に3回食事を摂取します。それと同じように、あなたの内なる意識を良い状態に保つために、毎日、いくらかの時間を規則正しく過ごしなさい。朝に1時間、夜に1時間、そしてブラフマムフールタと呼ばれる夜明け前の時間を、ナーマスマラナ(神の御名を繰り返し唱えること)と神の瞑想に費やしなさい。この精神修行が進むにつれて、大きな平安がもたらされ、あなたの中に大きな新しい力の源泉が湧き上がってくることがわかるでしょう。しばらくすると、どこにいようとも、何をしていようとも、心が御名を思うようになり、平和と至福があなたについて回るようになるのです!

―1958年3月25日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月31日

プレーマ(愛)は、社会、経済、教育、職業、家族、宗教、法律など、あらゆる人間関係を変容するはずです。父親はもう少し強く、理性的に、子供を愛さなければなりません。母親は己の影響下にあるすべての人に愛を広げなければなりません。誰もが神という本質の宝庫であるという平等な感覚が、社会と個人の行動を変容させなければなりません。あなたは私のことを「愛の化身」(プレーマスワルーパ)と呼ぶかもしれません!あなたは間違っていません。プレーマが私の持っている財産であり、私はそれを不幸で苦しんでいる人々に振りまいているのです。私にはそれ以外の財産はありません。神の恩寵は、電線の中を流れている電流のように、常に流れています。電球を直しなさい。そうすれば、そのワット数分の電流があなたの家を照らすでしょう!電球とは、あなたが行っている霊性修行です。家とはあなたのハートです。喜んで私のもとに来なさい。海に飛び込んで、その深さを知りなさい。浜辺で水に浸りながら、この海は浅くて、真珠は取れないだろうと断言しても無意味です。深く潜りなさい。そうすれば、あなたの願いは確実となるでしょう!

―1958年7月22日の御講話

Japanese, 2022年6月

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月1日

あなたは、本当は真・善・美の化身なのです。ところが、あなたは泉を開通する鍵を置き忘れてしまったのです。その鍵はあなたの内部の意識の領域にあります。しかし、暗い室内で失くした針を外の明るい街灯の下で捜すお婆さんのように、人は外の世界の物質の領域でその鍵を捜しているのです。ナーマヴァリ(神の御名を連ねたバジャン)をいくつか歌って私が講話を締めくくるのは、ナーマスマラナ〔唱名〕をするよう皆さんを促すためです。インドの行政機関の役人でも、自分の子供にアルファベットを教えるには、石板の上にA、B、C、Dと書いてそれらの文字を発音してみせなければなりません。あなたは役人がそうするのを見て、その役人自身がアルファベットを勉強しているなどとは思わないでしょう? ですから、私がバジャンを歌っても驚いてはなりません。私は単に、この最も効きめのある霊性修行を伝授しているにすぎないのです。こうしたナーマ サンキールタン〔集団で神の御名を歌うこと〕によって、自分を強くし、自分を浄化し、自分を教化しなさい。大きな声で、人々と共に行いなさい。加わってきた人々に耳を傾けさせ、かつ、神の御名とい�
�う甘露も飲ませてあげなさい。

―1968年3月29日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月2日

どこにでも心を好きに走らせて、それを追いかけないことにだけ用心し、心がどこに行こうとするかを見いだすよう努めなさい!そうすると、心は、気まぐれが心を捕まえるままにしばらくの間さまよいますが、すぐにくたびれて疲れ果て、結局はあなたのところに戻ってきます!心は幼い子供のように何も知りません。母親が追いかけていって呼び戻そうとするから、子供はどの方向にでも走っていく勇気と自信を得るのです。けれども、もし母親が子供の後ろを走っていかず、そっと引き返すなら、子供は自分から母親のところに走って戻ります!心の気まぐれを構ってはなりません。あなたの一番好きな御名と御姿のスマラナ(憶念)と坐禅(ディヤーナ)を、いつもの方法で続けていきなさい。それによって、あなたは一意専心(エーカーグラター)を得て、あなたのハートの望みを実現するでしょう。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月3日

唱名と瞑想は、あなたの切望する御名と御姿の中に神の恩寵を具現化できる手段です!神はあなたの選んだ御姿とあなたの好む御名を取らざるを得ません。実際のところ、あなたが神を形作っているのです!それゆえ、自分の選んだ御名と御姿を変えてはなりません。どれほど時間がかかり、困難があろうとも、あなたを最も喜ばせる御名と御姿から離れないでいなさい。始めたばかりなのに、長く集中できないと落胆してはなりません。自転車に乗る練習をする場合、すぐにはバランスを取る技術を習得できません。乗れるようになるまでは、自転車を押して広い場所に行き、ぐらぐらと傾いたり、時には転んだりしながら、何度も何度も練習します。しかしいったん習得すれば、あとはバランスを取れるかどうかと心配することはなくなります。バランスを保つために必要な調整が自然とできるようになっているのです。そうではありませんか?

―1958年2月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月4日

この坐禅(ディヤーナ)という霊性修行をしている間、浄・不浄という考えを心に抱いてはなりません。この世には、清らかでないものは何一つありません。主があらゆる所に、あらゆる物に内在しているとき、どうして清らかでないものなどありえるでしょう?たとえ外側の目には清らかでないように見えたとしても、主の御名に触れた瞬間に、それは清められるのです。この点を心に留めなさい!もし草むらで用を足している最中に宝を見つけたら、その人は、自分は今、不浄だからといって、見つけた宝を拾うのをためらうでしょうか? 浄・不浄は、その時の心の反応の結果です。誰かにお金をあげることになったとき、人は吉祥の時や、どの刻が清浄かについて話します。けれども、自分がお金をもらう機会を得たときには、どの時刻も吉祥なものとなります!どちらの態度も心の判断によるものです。同様に、もしあなたが主の御名の愛を完全に信じていれば、浄・不浄のことで頭を悩ますことはなくなります。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月5日

あなたの身体の健康にも注意を払いなさい。自然の要求を満たしなさい。必要があれば、車にガソリンを補給しなければなりません。そうしなかったら、身体が完全に疲弊して、頭がふらつき、眼がかすむかもしれません。身体が弱かったら、どうして神についてじっと考えることができるでしょう?ただし、身体の面倒を見ている時に、この身体の目的を忘れてはなりません。ロードローラーには、油や石炭などの燃料を補給します。しかし、どうしてそれを整備しておくのでしょうか?それは道路を修繕するためです。そうではありませんか?同様に、あなたが肉体を持ってこの世に生まれてきたのは、悟りを得て輪廻転生を終わらせるためであることを覚えておきなさい。その目的のために、身体を道具として使いなさい。鳥はあちらこちらへと飛び、高く高く舞い上がっても、最終的には木の枝の上で休みます。同じように、最も裕福な人も、最も権力がある人も、平安(シャーンティ)という休息を求めているのです。

―1958年2月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月6日

もしあなたが、瞑想する対象として私の御姿を選ばなかったら、私があなたに対して怒るだろうなどと思い込んではなりません!私はそんなことをまったく気にしません。あなたには、自分に必要な励ましを与える御名や御姿を選ぶことができる完全なる自由があります。あなたが瞑想をする時、心が何か別のものを追いかけて、横道に逸れてしまうことがよくあります。そのような時には、御名と御姿という方法で出口を塞ぎ、神に向かうあなたの想念の平衡が乱されないように留意しなければなりません。もし再びそれが起こってしまったら、すぐに御名と御姿を再度用いなさい。こちら側が御名、あちら側が御姿という二本の堤防を心が越えてしまうのを許してはなりません!そうすれば、心が第三の場所に迷い込むことはありません。散漫な心を集中させるためには、瞑想するために座った時に、まず神の栄光を讃える詩節をいくつか唱えなさい。それから御名を繰り返し唱える間に、少しずつその御名を表している御姿をゆっくりと心の眼の前に思い描きなさい。

―1958年2月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月7日

全託の道における最大の障害物は、アハンカーラ(自我意識)とママカーラ(「私のもの」という意識)です。それは太古の昔からあなた方の性格の中に生まれつき備わっているもので、生まれ変わるごとに、より一層深くはびこるようになります。それを取り除くことができるのは、ヴィヴェーカ(識別心)とヴァイラーギャ(無執着)という二つの浄化剤だけです。積年の汚れを洗い流すための水は信愛(帰依心)です。石鹸は唱名と瞑想とヨーガです。このすべてが、より速く、より効果的に汚れを取り除く助けとなるでしょう!ゆっくりと着実に進む者は、必ず勝利を収めます。遅いと非難されるかもしれませんが、徒歩で旅行するのが最も安全です。大急ぎで旅行すると、困った事態に陥ることがあります。性急過ぎると、災難に出会う危険性も大きくなります。食べ過ぎると病気になりますから、食べるのは腹八分目にしておきなさい。霊性修行においても一歩ずつ進みなさい。最初の一歩を確実にしてから、次の一歩を踏み出しなさい。一歩進んで二歩下がってはなりません。もしあなたに信念がなかったら、最初の一歩さえも覚束ないでしょう。ですから、信念を培いなさい。

―1956年8月1日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月8日

主への愛(プレーマ)を育みなさい。愛は無限の力を持っています。鉄の鎖は簡単に壊すことができますが、あなたを神に結び付けている愛の鎖を壊すのは簡単ではありません。動物の中で最も残酷な動物も、愛によって鎮圧されます。それは主のマーヤーです! 洪水のようにあふれ出るその愛の水を、湖や川の両岸の浅瀬にではなく、主の恩寵の海へと向けさえすれば、それはなんと神聖な仕事になることでしょう! そうすれば、人は人生の目的を実現するでしょう。これは最高の解脱(モークシャ)です。その愛を間断なく主の御名と御姿に向けること――それが本当の坐禅(ディヤーナ)なのです。一時の住居を、あなたが永遠に住む所だと勘違いしてはなりません。しばらくすれば去っていく困難や短命な悲劇の中に置かれた時、やる気をなくしてはなりません。永遠なる主に到達するための努力に没頭しなさい。この世のすべては必ず朽ち果てます。今日でなくとも、将来、どのみち崩壊する運命にあります。わかっていますか?永遠にあなたと関わりを持つ主を拒絶して、ほんの数日しかあなたと関わりを持たないこの世に惑わされる�
�のは正しいことではありません!

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月9日

人々は真鍮(しんちゅう)の壺を抱えて、それを黄金の壷に見せかけようとします。しかしそのためには、壺を磨いて、輝かせる必要があります。ある日のこと、彼らは絶えず真鍮を磨かなければならないことにうんざりして、「真ちゅう磨き、この世に生まれ出ること、この苦痛と苦悩から、私を解放してください。」と祈りました。人生は短く、光陰矢の如しです。あなたの霊性修行は、亀のように遅々としか進みません。いつあなたは、もう少し早く進みたいと決意するのですか?あなたの霊性修行は、試験であなたが書く解答のようなものです。もし五点か六点しか取れなかったら、試験官から「こんな低い点数が何の役に立つのか?どうしようもないじゃないか」とまで言われて、失格になるかもしれません。もし、あなたが合格点に近い点数を取っていたら、そしてあなたが勤勉で品行方正な学生であったら、お情けで合格させてもらえるかもしれません。良い行い、良い仲間、良い思考に携わりなさい。最終目標に目を向けなさい!

―1958年2月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月10日

ヤショーダ(クリシュナの養母)は、クリシュナのお腹に巻こうとした縄がいつも少しだけ短いことに気付いた時に初めて、クリシュナが神であることを理解しました。それと同じように、あなたは私の神聖な栄光に関するあらゆる描写が、実際よりも少し短すぎることに気付き、それから信じるようになるでしょう。それと同時に、霊的経典を学んで、神の化身の特徴を知るようになれば、私に関する真理を垣間見ることができるかもしれません。あなた方の間で議論したり、言い争ったりするのは無意味です。検証し、経験しなさい。そうすれば、真理を知ることができるでしょう。確信を得る前に言いふらしてはなりません。まだあなたが決めかねているなら、あるいは検証している最中なら、黙っていなさい。当然のことですが、神秘を検証しようとする前に、あなた方の中にあるすべての悪を放棄しなければなりません。そして、信仰が芽生えたら、その若芽を山羊や牛、皮肉屋や不信心者たちの雑多な群れから守ることができるように、周囲に規律と自己制御という柵を張り巡らせなさい。あなたの信仰が大木へと成長したら、彼らはその木陰で眠ってしまうかもしれません!

―1958年2月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月11日

何よりもまず、すべての人に対する愛を育みなさい。そうすれば、妬み、怒り、憎しみは滅ぼされるでしょう。同一のハートの中に、神(ラーマ)と欲望(カーマ)が共存することはできません。信頼は信頼を生み、愛は愛を生みます。私が非常に多くのプレーマ(愛)を込めてあなた方に話している時、あなた方は私に対していかなる憎しみも抱くことはできません!プレーマは全世界を親族にします。それは調和のための最大の道具です。農夫は苗を植え、細心の注意を払ってそれを見守ります。雑草を取り、害虫を駆除し、必要に応じて水をやり、肥料を撒きます。それから、収穫を刈り取って、穀物倉庫を一杯にできる日を待つのです。同じように、あなた方もプレーマを育み、憎悪と嫉妬という雑草を摘み取らねばなりません。赤レンズの眼鏡をかけると、すべてのものが赤く見えます。プレーマという眼鏡をかけなさい、そうすれば、すべてが愛すべき善良なものに見えるでしょう!

―1958年9月1日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月12日

「身内は墓場の入口か、墓場までなら付いて来るやもしれないが、真の身内は主のみぞ、心せよ!」主は決してあなたを見捨てません。あなたが経てきた過去生の数を考えてみれば、あなたには数え切れないほどの母親、父親、妻、夫、息子、娘、友人、敵がいました。その人たちは今、生存していますか? その人たちは、あなたとの関係を覚えていますか? もはや、あなたはその人たちにとって何者でもなく、あなたにとってその人たちは何者でもありません。しかし、あなたにも、その人たちにも、変わることのない身内である共通の主がいます。主は、すべての生を通じて存在しています。主は永遠です。主は、生から生へとずっとあなたを見守っています。そのような主を忘れることより大きな悲劇がありえるでしょうか?五感が弱まって力をなくし、機能することを拒む中、一方では両親や妻子や親戚が皆集まり、もう一方では、ぐずぐずしないでさっさと旅立つようにと、死の遣いがあなたに無理強いする――そのお呼びがいつ、どうやって来るか、誰が知っているでしょう? その瞬間が来る前に、神を想って準備を整えておくことです。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月13日

今日のあなた方は、神を必要としないと感じるかもしれません。しかし、空腹に耐えかねると、あなたは食べ物を切望し始めます。ですから、神が身を置いてくださるように、あなたのハートを歓喜の涙で洗い清めなさい。ザミーンダール(大地主)は、四方が地平線の果てまで広がる田畑を所有しているかもしれません。しかし、彼はきれいに掃除された場所以外では腰を下ろそうとしません。同じように、神がある帰依者のハートをお選びになる場合、他のすべての人々のハートは神のものではない、という意味にはなりません。それらはきれいではないのです。それが神が意味しているすべてです。神はあらゆる場所にいます。すべては神のものです。主の眼差しはすべてに注がれています。もし神がすべてでなかったら、現在そうであるように、それらが輝き存在することがどうしてできるでしょう?それゆえ、神とあなた自身を完全に信頼しなさい。常に善行と有益な活動に携わりなさい。真実を語りなさい。言葉や行動、あるいは思いによってさえも、苦痛(ペイン)を与えてはなりません。それが平安(シャーンティ)を得る方法です。それが今生であなたが得ることのできる最高�
�の報酬(ゲイン)なのです。

―1958年9月1日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月14日

悟りを得た人々の唯一の言語は沈黙です。話す言葉は控えめにしなさい。それはさまざまな形で、あなたの助けとなるでしょう。それは愛(プレーマ)を育みます。なぜなら、ほとんどの誤解や派閥争いは、不注意に発せられた言葉から生じるからです。足を滑らせてできた傷は治すことができます。しかし舌を滑らせたら、それによって他の人のハートに生じた傷は一生治らないでしょう。舌は、嘘を言う、陰口を叩く、他人のあら捜しをする、喋りすぎ、という四つの大きな過ちを犯しやすいのです。個人と社会が平安であるためには、これらを避けなければなりません。人々が口数を減らして、優しく話すなら、兄弟愛という絆が強まるでしょう。霊的書物の中に、霊性志願者の誓いの一つとして沈黙が定められているのはそのためです。あなた方は皆、さまざまな段階にいる霊性志願者です。それゆえ、この規律はあなた方にとっても有益です。

―1958年7月22日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月15日

決して他人の悪い行いや悪いところを考えてはなりません。もしこれができたら、いつも他の人々が善い道に向くよう試み続け、助言を与え続けなさい。そして、その姿勢に必要な心の平安、慈悲深さ、そして、万人の安寧を促進したいという熱望を育むようにしなさい。これらは、ジャパと坐禅(ディヤーナ)によってのみ手に入ります。ジャパと坐禅によって引き出される富は、善性(サッドグナ)です。善性は、外面をきれいにすると共に、内面の傾向も清めて高尚にします。波は海の上層で発生します。波は風によって生じるので、風には波を生じさせる力があると言えます。それと同じように、知的な人の頭はさまざまな考えや意見でいっぱいです。空気がふさわしいものになったとき、それらは飛び出して、あらゆる方向から巻き込んでいきます。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第9章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月16日

神聖な生活は、静穏な性質(サットワグナ)に基づいています。それを培わなければなりません。健康・体力・輝く生命力・熱心な努力を促進する、清浄(サトウィック)な食物によってのみ、この性質が育まれます。栄養不足で弱っている人々に霊性というジュースを配っても意味がありません。まず米粥を彼らに与えて、強い信仰と理想を受け入れるに十分な体力をつけさせなさい。まずは、きよらかでシンプルな食物で肉体の飢えを満たすことが必要です。それから、自分にとって最も魅力的な神の御名を繰り返し唱えるよう努めなさい。御名を軽んじてはなりません。たとえ、施し物を得るために御名を唱えている物乞いの口から聞こえてきたとしても、それに敬意を表しなさい。御名を口にする者が悪人であろうとも、御名を口にする動機が悪いものであろうとも、決して御名の清浄さが損なわれることはないのですか、その御名を邪険に扱ってはなりません。神のことを思い出させてくれたことに感謝し、あなたはあなたの道を歩みなさい。とりわけ、神に呼びかけている人々を笑ったり、失望させたりしてはなりません。

―1958年12月14日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月17日

心(マインド)は、悪臭や芳香をもたらす風です!心が臭いものに向かえば嫌な気分になり、いい香りのするものに向かえば幸せな気分になります。風は四方から雲を集めます。それと同じように、心は多くの希望から生じる失望をあなたの意識の中にもたらします。もう一度言いますが、風のように暗雲をまき散らしたり、疑念という夜の中であなたを混乱させるのが心なのです。心を制御しなさい。そうすればあなたは平静を保つことができます。それが平安の秘訣です。それが、人がまず主張し、守らなければならない教育です。今日、私たちは、最も高度な教育を受けた人が最も不満を抱き不幸であることに気付いています。それではその人は、書物や人間や物事について学んだすべてから、何を得たのでしょうか?この平静を得るためには、ただ書物を読むだけでなく、体系的な霊性修行を行わなければなりません。そうすればあなたは、裕福であっても貧乏であっても、賞賛されても否定されても、物事が上手くいってもいかなくても、幸せでいることができます。

―1958年12月20日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月18日

主は人が崇める絵や像の中に現れますが、それはその絵や像が特別に優れているからなのでしょうか?いいえ、違います。その絵や写真や像は、単なる絵であり、写真であり、像です。バクタ〔神への愛(バクティ)を持っている人〕の信愛が強烈であるために、主はそのバクタのために自らを顕現させざるをえないのです。こうした理由から、主は、それが石であれ、木であれ、紙であれ、バクタが見つめたり、瞑想したり、礼拝したりするものの姿をまといます。ですが、あなたは一意専心の集中力で主に祈る必要があります。この種の一心さは浄性(サットワグナ)からのみ生じるものであり、これもまた、坐禅(ディヤーナ)の産物です。ですから、あなたは善い性質を育まなければならず、善い性質を伸ばすために、善き交わり(サットサンガ)を欲するべきです。本当の仲間というのは、あなたがその人から最大限の善を得られる人のことであり、それは、主について語ったり講演したりする人、真理について、無私の奉仕(セーヴァー)について、そして、万人を等しく見なす愛(プレーマ)について語る人です。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第9章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月19日

神の御姿を瞑想し、その甘美さを意識して御名を繰り返し唱えることを実践しなさい。いかなる御姿、いかなる御名でもよいのです。それが心(マインド)を鋭敏にし、人生に付随する喜びや悲しみから良い音楽を生み出すようになるでしょう。神聖なるものは、地下水のように、あらゆる人の中にあることを覚えておきなさい。神は生きとし生けるすべてに内在しており、すべてに遍満しています。生きとし生けるすべての魂は神なのです。他のすべての人と同じように、あなたの中にも神がいます。神は金持ちの中により多くいるわけでも、太っている人の中により多くいるわけでもありません!神の火花は、すべての人のハートという洞窟を照らしています。太陽は万人の上に等しく輝き、神の恩寵は万人の上に等しく降り注ぎます。あなただけが、神の恩寵という光があなたを暖めるのを妨害する障害物を設置しているのです。あなたの無知、愚かさ、強情を神のせいにしてはなりません。泉が噴き出している深さにまで掘削機を下ろせば地下水が湧き上がってくるように、『ラーム、ラーム、ラーム、ラーム』と唱え続ければ、神という泉に触れることができ、いつの日かそれが湧き上�
�がってきて限りない清涼と喜びをもたらすことでしょう!

―1958年12月20日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月20日

神に完全なる信仰を置いて、唯一の母、父、グル(師)、導き手として神に頼ることが最も良いのです。そうすれば、あなたは決して正しい道から外れることがないでしょう。神があなたを間違った道に導くことは絶対にありません。そのような固い信念を抱くために、そしてそれを体験するために、瞑想(ディヤーナ)に没頭しなさい。それが唯一の方法です。愛(プレーマ)と信仰をもって神の御名と御姿を瞑想すれば、それで十分です。あなたの一番好きな御名と御姿を選びなさい。いつも喜びに満ち、優しくありなさい。常に笑顔で喜びに満ちている資質を育みなさい。それがあなたに善良な特質をもたらすでしょう。人々もあなたをもっと好きになるでしょう。神もまた、あなたを見て喜ぶでしょう。ですから、純真できよらかで謙虚に瞑想(ディヤーナ)を行いなさい。そうすれば、あなたが得ようと努力しているものが何であろうとも、確実に得ることができます。いかなる状況にあっても激怒してはなりません。不慮の事態に遭遇しても勇気を失ってはなりません。地位に関わらず、すべての人を敬いなさい。そうすれば、普遍的愛(プレーマ)という資質があなたの中で育まれ�
�るでしょう。

– Dhyana Vahini, Ch 10.

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月21日

シクシャナ(訓練、教育)とは、教師と教えられる側が協力し合うプロセスです。それは、両者にとって楽しい経験でなければならず、有益で心温まる試みでなければなりません。「クシャナ」とは「一秒」という意味です。そして私があなた方に望んでいるのは、人生のすべての瞬間によい学びを得ることです。例えば、先生が教室に入ってきたら、子どもたちは先生に敬礼します。それによって、謙虚であること、年齢や学識に敬意を表すること、与えられた奉仕に感謝することを学ぶのです。教師もまた、誠実な仕事と無私の奉仕によって、自分に世話を任せてくれた子供たちからの敬礼にふさわしい働きをすべきです。生徒たちは恐怖心から教師を敬う必要はありません。教師の愛によって生徒たちは変わるはずです。教師は、生徒たちを怯えさせたり、恐れさせたりする方法をすべて避けなければなりません!教育とは、花が開くようなゆっくりとしたプロセスです。花びらが一枚また一枚と静かに開き、満開になると、香りがより深く、よりはっきりと感じられるようになります!
―1958年9月9日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月22日

私はあなた方に「講義」をしに来たのではありません。なぜなら、単なる言葉の価値を私は信じていないからです。たとえどんなに学術的であっても、堂々としていても、雄弁であっとしても。私はただ、私のプレーマ(愛)をあなた方と分け合い、あなた方のプレーマを味わうために来たのです。今日、憎悪と虚偽という台風が、美徳と正義と真理という雲を、空の彼方へと吹き飛ばしています。人々はサナータナ・ダルマそのものが絶滅の危機に瀕していると感じています。しかし、それは神が意志した場合にのみ起こり得ることです。ダルマを定めた神はそれが破壊されることを許しません。真理、正しい行い、平安、愛が強調されるところならどこでも、どんな宗教でも言語でも、どんな師によっても、その師がどこにいようとも、そこにはサナータナ・ダルマがあります。人間がプレーマを抱くことができる限り、ダルマ(正義)は存在します。それを疑ってはなりません。そのプレーマが神に固定されていれば、あなたの精神構造はゆっくりと着実に革命的な変化を遂げるでしょう。その時、人は人類同胞の悲しみと喜びを分かち合うようになるでしょう。その後、その人は、この世�
�における束の間の利益や損失を超越した至福の源泉そのものに触れるのです。

―1958年3月24日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月23日

神に向けられた愛は信愛(バクティ)と呼ばれます。それは、最終目標を達成するための道すべての中で最も容易です。信愛には、いくつかの段階があると言われています。ある段階においては、神への奉仕だけが重要で、奉仕そのものが報酬となります。帰依者は、自分の能力を最大限に発揮して、ただ最高の奉仕をすること以上には、何も求めません。これが次第に、最愛の御名と御姿以外には何も認識されない段階となるのです!信愛の道を歩むためには、学識も富も裕福さも厳しい苦行も必要ありません。強盗から聖者になったヴァールミーキの血筋、クチェーラの富、シャバリーの学識、プラフラーダの年齢、ガジャラージャの地位、ヴィドゥラの功績は何だったのか、私に言ってごらんなさい。それは愛です!それが彼らが持っていたすべてであり、彼らが必要としていたすべてだったのです!

―1958年3月24日の御講話

訳注:

ヴァールミーキ:叙事詩『ラーマーヤナ』の著者。ブラーミンの家に生まれたが、生活苦から盗賊となった。聖者を襲おうとしたところ、逆に諭され、周囲に蟻塚ができるほど長い間瞑想を行い、悟りを得て聖者となった。

クチェーラ:別名スダーマー。クリシュナの少年時代の学友。クリシュナが王になった頃、クチェーラは清貧の暮らしをしていたが、家族を養うには苦しい生活であった。クチェーラはクリシュナに援助を求めるため、少年時代に一緒に食べた思い出のポーハ(米料理の一種)をお土産にして、クリシュナの宮殿を訪れた。クリシュナはクチェーラを大歓迎したが、クチェーラは恥ずかしくて自分のささやかな土産を差し出すことができずにいた。クチェーラの心に気づいていたクリシュナは、わざと思い出話をしてクチェーラからポーハをもらって食べた。クチェーラはクリシュナに援助を願い出ることができないまま帰宅した。すると、クリシュナの恩寵で、自宅は豪邸に変貌しており、家族は楽しく暮らしていた。

シャバリー:『ラーマーヤナ』の登場人物。聖者マタンガに弟子入りを望んだが、身分が低く女性であったため、弟子入りを許されなかった。そのため、毎日マタンガが通る道を掃き清め、庵の外からその教えを聞いていた。マタンガはシャバリーを弟子入りさせ、自分の死後も同じ場所でラーマを待つよう指示した、シャバリーはラーマがいつ来てもよいように、毎日道を整え、果実を集めて、ラーマが来ない日はそれをプラサードとして食す日々を送った。やがてシャバリーが年老いた頃、ついにラーマが通りかかった。ラーマはシャバリーが供した果実を喜んで食べ、シャバリーが九つの信愛の道をすべて実践したこと、夢においてさえだれかに悪意をもったことがなかったことを褒め称えた。シャバリーはラーマの御足のもとで灰と化した。

プラフラーダ:ヴィシュヌ神を憎んでいたヒランニャカシプ王の息子。プラフラーダはヴィシュヌ神(ナーラーヤナ)を深く信仰していたため、ヒランニャカシプ王から幾度となく殺されかけたが、そのたびにヴィシュヌ神に助けられた。ある日、人獅子の姿で現れたヴィシュヌ神によって、ヒランニャカシプ王は滅ぼされた。

ガジャラージャ:10世紀から15世紀にかけてグジャラート州サウラーシュトラ半島(現在はカーティヤーワール半島と呼ばれ、ラージコート市やジャームナガル市がある)を支配したチューダーサマー王朝の12世紀頃の王。別名マヒパラ。

ヴィドゥラ:『マハーバーラタ』の登場人物。ドリタラーシュトラとパーンドゥの異母兄弟。母の身分が低かったため王にはならず、宰相となってドリタラーシュトラ王を支えた。ヴィドゥラは兄弟の中で最も賢く、正義の人であった。ドゥルヨーダナが生まれた時、凶兆があったため、ヴィドゥラはドリタラーシュトラに忠告したが、それは聞きいられなかった。パーンダヴァ兄弟を妬んだドゥルヨーダナが彼らを焼き殺そうとした時には、脱出の手助けをした。ユディシュティラが賭けに負けて妻ドラウパディーの服が脱がされそうになった時には、ただ一人抗議の声を上げた。クリシュナがパーンダヴァの使者としてドゥルヨーダナの宮廷を訪れた時、クリシュナはドゥルヨーダナのもてなしを断り、ヴィドゥラの家に泊まった。ヴィドゥラはドゥルヨーダナに和解を受け入れるよう諭したが、ドゥルヨーダナは聞き入れず、逆にヴィドゥラの母を侮辱した。ヴィドゥラは宰相を辞し、巡礼の旅に出た。クルクシェートラの戦いの後、ユディシュティラが王位に就くと、ヴィドゥラは宰相として迎えられた。年老いたドリタラーシュトラたちが隠遁して森に入る時、ヴィドゥラも同行し、森�
�の中で死んだ。

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月24日

子供時代から青年期までの時期については、深刻に考える必要はありません。この時期のことは、たいして心配する必要はありません。青春期に入ると、人は、ぼんやりとして不確実な最初の段階に入り、さまざまな無益な行いをします。その後、人は円熟と力を得ます。これは不確実と確実の中間の段階です。その中間の時期に達した時にこそ、人は、最後の段階でのみ得られる、成就を切望しなければなりません。苦行(タパス)の規則では、次の法則も守られています。最初の供養礼拝(プージャー)の儀式はシャクティ〔神聖エネルギー/女性原理〕と結び付いており、それに続く礼拝の段階はシヴァ〔吉祥なる実在/男性原理〕と結び付いています。つまり、母の庇護の下にいる時期が終わると、父の庇護――宇宙の革新者であり守護者であるシヴァの守護――の時期に至るのです。中間の段階(言い換えるなら、この特定の年齢の時)では、人はある種の好ましくない、避ける必要のある癖や傾向を自然と持つようになります。それは、うぬぼれ、悪ふざけ、強情、詮索、色欲、貪欲、不真面目、恐れ、恨み深さ、嫌悪などです。これらがあるうちは、自分をシ�
�ヴァに全託することはできません。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第9章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月25日

好ましくない傾向は、完全に根こそぎにするか、あるいは、少なくともこれらを取り除くための規律正しい努力をするかすべきです。この段階の求道者は、流れに逆らって泳いでいく(ヴィヤティレーカ パララヴァーハ ガティ)必要があります。流れに逆らって進むというのは、水源に到達するための方法であり、流れに身を任せて漂うというのは、どんどん水源から離れていって目的地を見失うことを意味します。もちろん、川を遡って泳ぐのは、かなりきついことですが、一かきごとに、あなたは目的地へと近づいていき、遠ざかることはなくなります。流れを克服するには、坐禅(ディヤーナ)という筏(いかだ)を持たなければなりません。坐禅(ディヤーナ)によって、肉体的な弱さを克服することができ、心の気まぐれのスピードを管理することができ、恩寵の座へと向かう進歩が容易になり、原初の神聖な力(アーディムールティ)に到達することができます。反対に、もし旅を容易にすることのほうを気にかけて、流れるままに漂うなら、恩寵から離れていって、恩寵に背を向けることになります。

 ―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第9章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月26日

人を作るのも傷つけるのも心(マインド)です。もし心が世俗の物事に没頭するなら、束縛へと導かれます。世俗を一時的なものとして扱うなら、その無執着によって、心は自由になり光となります。良い方にも悪い方にも変化する物事に執着しないように、心を訓練しなさい。世俗的な名声や富のきらめきの前に心を留めてはなりません。あなたの内面にある泉から引き出される永続する喜びに、心を惹きつけなさい。それが大きな恩恵をもたらすでしょう。ひとたび、聞き、繰り返し、地道な瞑想を繰り返すことの甘美さを体験すれば、心そのものがグルとなり、あなたをどんどん導いてくれるでしょう。陶芸家が作った像を神性で満たすのは、それを見る帰依者の心なのです。神殿の部屋を神聖な芳香で満たすのは心なのです。

―1958年3月24日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月27日

食べ物が消化されると力が得られるように、運動すると健康が促進されるように、読んだことを実践すれば力が得られます!聖ティヤーガラージャは、宇宙の中にもアリの中にも同じように存在する、内なる原動力が神であると歌いました。あなたは理性としてはこれに同意するかもしれません。しかしあなたがアリに噛まれたら、そのような形で神があなたに接触してきたのだとは感じません。そうですね?ですから、偉大なる真理を声高に主張してはなりません。そうではなく、あなたがそれを重視しており、それを導きとしていることを、あなたの行動で示しなさい!少なくともこれだけは気をつけなさい。あなたが他の人々の過ちを責めるのであれば、その同じ過ちを自分自身で犯してはなりません。あなた自身がそこまで登りたくないと思うような基準に到達することを他人に求めてはなりません。この二つの原則に従って生きていれば、神像の前で頭を下げたり、寺院の儀式に参加したり、スケジュール通りに礼拝したりしなくても、神の恩寵を確実に得ることができるのです。

―1958年3月24日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月28日

一つ覚えておくべき大切なことは、穏やかさと甘美さによって言葉の力を完全に活用することが可能であり、望ましいということです。もしすべてのものの中に神を見たいと思うなら、言葉の甘美さは計り知れない助けとなります。こうした言葉によって、あなたはどれほど人を幸せにすることができ、優しい表現をすることで、あなたの心はどれほど軽くなることでしょう!その幸せな空気の中で座禅(ディヤーナ)を続けるとき、どれほど速やかに集中が得られることでしょう!反対に、もし会話の中で人を責める言葉や軽蔑する言葉を使うなら、次はあなたが責められる標的となり、その両方の影響によってあなたの心はかき乱れ、そうなると、空気が不浄なものとなり、そのせいで座禅(ディヤーナ)の目的は達成されません。ですから、もしあなたが座禅(ディヤーナ)を通じて幸せになりたいと本当に願っているのなら、そのプロセスの準備段階として、喜びにあふれて会話をするか、幸せな想いや記憶に浸るよう心がけなさい。甘美で穏やかな会話は、大いに座禅(ディヤーナ)の助けとなります。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第10章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月29日

母親は家庭の、社会の、国家の、そして人類そのものの支柱です。母親は、心の平安、内なる静寂、精神的勇気、最大の富である満足、そして永続する喜びをもたらす霊性修行の秘訣を知るべきです。母親は子供たちに、神の御名を思い起こすことの大切さと、精神的にも肉体的にも清潔であることを教えるべきです。母親は、ヴィヴェーカーナンダが語った物語の中で、息子に、一人で学校に行くときや自分ではどうすることもできないときにはいつでも森の中にいるクリシュナに呼びかけるよう勧めた母親のようであるべきです。父親と母親は、学校で教師から与えられた訓練を家庭で補わなければなりません。彼らは、子供が学校で受けている授業について熟知し、自分たちの行動や助言が、子供が敬愛する先生から学んでいることと矛盾しないように気をつけなければなりません。教師と親は、子供の成長期に一定のよい習慣と態度を身につけられるように留意しなければなりません。

ー1958年9月9日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月30日

たとえどんなものを得ても失っても、どんな境遇になっても、満足していなければなりません。これは必要不可欠です。足るを知ることは、幸福をもたらし、幸福を増します。人生は、満足している心には終わることのない祝祭ですが、欲に苦しむ心に安らぎはないでしょう。欲があなたを悩ましているのに、集中できるはずがありません。欲望はあなたの体の中にある火です。それはあなたを焼いて灰にしてしまいます。満足は、その火を消すのによく効く薬です。焼け付くような暑さの中で疲れて汗を流している旅人が、川の冷たい水を浴びると元気を取り戻すのと同じように、激しく燃える貪欲の火に苦しんでいる人は、満足という澄み切った水で元気を回復します。悟りの道を求める欲だけを抱くべきです。世俗の低劣な欲を満たすことに一生を捧げるべきではありません。すべてを主に捧げること、それが純然たる満足です。それは、心の平安(シャーンティ)と、歓喜(サントーシャ)と、識別(ヴィチャーラナ)を獲得した成果です。その時、主を直に見ること(サークシャートカーラ)も可能です。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第10章

 

Japanese, 2022年5月

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月1日

肉体を、動く寺院と見なしなさい。どこへ行こうと神はあなたと共にあります。神とはどんなものか、神はどこにいるのかについて、議論に耽ってはなりません。神は信仰と確信によって体験されなくてはなりません。確信のあるところに愛があります。愛のあるところに平安があります。平安のあるところに真理があります。真理のあるところに至福があります。至福のあるところに神がいます。至福はどこにでも存在します。あなたの中にある至福は、あなたの肉体意識に限定されています。あなたはその至福を広げ、それがすべてを包み込むようにしなければなりません。子どもが生まれたとき、その子どもは一人です。それから大きくなるにつれて、妻を持ち、子を持ちます。我が子が結婚すれば、親戚関係はさらに広がります。この人間関係の広がりは、一つの家族の中で起こります。皆さんは自分の見解を全人類にまで広げなくてはなりません。

ー1989年2月17日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月2日

科学があなたに差し出すことができるのは、一時的で世俗的な安楽だけです。霊性だけが、あなたに永続する至福を与えることができます。一時的な安楽を与えてくれるものはすべて、不幸も生じさせます。ある人はエアコンの効いた部屋に座っているかもしれません。しかし、その人の心は心配と不安でいっぱいです。その人の脳は興奮状態です。心の平安を持っている人は、たとえ密林の中にいても不安を味わうことがありません。このように、平安は科学を通しては得られません。実際、現代の科学と技術は、人間を平安から遠ざけています。現代人のあらゆる病気は、心が少しも安らかでなく静かでない、という事実に起因しています。心は心配事でいっぱいです。無生物である機械でさえ、一定期間の休息が必要です。ところが、心には少しも休息が与えられていません。もし私たちが、個人の平安、社会の平安、国家の平安を望んでいるのであれば、それは霊的な手段を通してのみ達成することができます。

ー1988年5月6日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月3日

イスラム(イスラーム)は神への全託を意味するのですから、本当は、全託と献身の精神で、社会の中で平和と調和を保ちながら生きている人はすべてイスラムに属しているのです。イスラム教は、思いと言葉と行動の完全なる一致を求めています。イスラム教の聖人や賢者は、肉体であると感じている「私」と、心であると感じている「私」が妥当であるかどうかを調べ、真実の「私」はすべての自己である神を切望する真我であるという結論に達するべきだと強調してきました。ラマダン月の断食と祈りは、この悟りを目覚めさせ、顕現させるためのものです。どのような宗教であろうとも、一体性、調和、平等心が強調されています。ですから、愛と寛容と慈愛を育み、日々のあらゆる活動において真理を示しなさい。これが、祝福と共に私があなた方に贈るメッセージです。

ー1983年7月12日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月4日

空に急上昇していく飛行機が見えます。飛行機はパイロットが操縦して空を飛んでいるのだと誰かが言っても、自分がいるところからはパイロットが見えないので、あなたはそれを信じません。これは正しいことですか? パイロットを見るには、飛行機に乗らなければなければなりません。地面に立っていてパイロットの存在を否定することはできません。あなたは飛行機にパイロットが乗っているのを想像しなければなりません。
世界を見るときも、これと同じことが言えます。神を見ることができないからといって神を否定するのではなく、神の存在を想像しなければなりません。人々は、神の存在は信じないのに、自分が見ていないことや見ることができないことを報道する新聞やニュースは信じます。自分の目に見えるものや心(マインド)で経験したことよりも、耳で聞くことを信じているのです。人々は討論をしたり議論を交わすことはあっても、ほんのわずかでも神のことには触れません。自分たちはそうするまでもなく優秀だと考えているのです。聖典を学んで、神のしるし、特徴、特別な卓越性を知った人だけに神は知られ得るのです。神の道や神を中傷してはいけません。

ー1966年2月19日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月5日

私は今、このプラシャーンティ ニラヤムにプラシャーンティの旗を揚げています。この旗は、皆さん1人ひとりにとって意味深い印です。この旗は、あなたの義務を思い起こさせるものです。ですから、私がこの建物に旗を揚げる時、皆さんは自分のハートにプラシャーンティの旗を掲げなければなりません。この旗は、低級な願望の衝動やあなたの願望が邪魔された時の怒りや憎悪の衝動に打ち勝つことを、あなたに思い起こさせるものです。この旗は、あなたが周囲のすべての人を、すべての生き物を、すべての創造物を内に抱けるように、あなたのハートを広げよと、強く訴えます。この旗はあなたに、衝動を静め、落ち着いて内なる実体を瞑想せよと、指示します。この旗は、あなたがこれらをするとき、あなたのハートの蓮が花開き、その中心から神聖な見方という炎が生じて、プラシャーンティ(限りない平安)を与えることを保証します。私は皆さんに、その準備のための規律についても話しておかなければなりません。あなたがここにいる時、静寂・清潔・忍耐という三つの規律を実践しなさい。神の声は静寂の中で聞くことのできるものであり、喧騒の中では聞こえまぁ
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�ー1968年11月23日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月6日

イーシュワランマはすでに水浴を済ませて、いつもどおり幸せな気持ちで朝のコーヒーを飲み終えて、館内のベランダに座っていました。突然、イーシュワランマは浴室のほうに向かって歩き出し、「スワミ、スワミ、スワミ!」と三回叫びました。それに対して、私は、「行きます、行きます」と答えました。その間にイーシュワランマは息を引き取りました。
善良さを示す、これより偉大なしるしがあるでしょうか? イーシュワランマは世話も看護も必要としませんでした。死に際にスワミが記憶の中に現れるのは、ごくわずかな人だけです。通常、心は、宝石や高価な物など、何らかの物品その他を求め、その対象物の上に留まります。イーシュワランマは一階から「スワミ! スワミ!」と私を呼び、私は「行きます、行きます」と答えました。それから、イーシュワランマは息を引き取ったのです。それは、象(鰐に捕らわれていたガジェーンドラ)が神(ヴィシュヌ神)を呼び求め、祝福を与えるために神が象のもとへと向かったかのように、二本の電線がつながるや、瞬時に解き放たれるのです。これが、生涯かけて得ようと努力すべき、真正な最期です。それは理想的で尊崇に値する生涯のしるしです。そのような態度は、何か外からの力によってではなく、自ずと生じなければなりません。

ー1983年5月6日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月7日

もし自分の本性を理解したいと望むなら、あなたは三つのことをしなければなりません。それは、身をかがめ、五感を正し、心を終わらせることです。最初のステップは「身をかがめる」ことです。つまり、自分の体の中にエゴ〔自我意識、我執〕が生じるのを許してはならないということです。謙虚さを育て、真心込めて自分の義務を果たしなさい。これが「身をかがめ」という言葉に含まれている意味です。「五感を正し」は、五感はどう振る舞っているか、五感は堕落しやすくなっているかどうかを調べ、必要であればそれらを矯正すること、抑制することを呼びかけています。「心を終わらせる」は、心の気まぐれを静めることを呼びかけています。これはどうすればよいのでしょうか? 心を別の方向に向ければよいのです。たとえば、錠と鍵があります。鍵を左に回せば錠がかかります。鍵を右に回せば錠は開きます。このように、鍵は錠の開閉の両方の役割を果たしているのです。人間においては、ハートが錠です。心〔マインド、思考〕が鍵です。心が神のほうに向けられると、ハートは無執着を持つようになります。心がこの世界のほうに向けられると、ハートは執着を察
��弔茲Δ砲覆蠅泙后�海里茲Δ法¬擬甲紊伴甲紊蓮△匹舛蕕眇瓦瞭�㌍�侶覯未箸靴得犬犬泙后��

ー1988年5月6日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月8日

あなた方のゴールは、生来の神性を顕現させることにほかなりません。このような機会を手に入れるのは、誰にとっても難しいことです。世界中の何十億もの人々の中で、いったい何人が神を体験するためにここへ来ることができるでしょう? あなた方は、祝福された、幸運な数少ない人たちなのです。この至高の幸運を最大限にかして、自分を神のごとき人へと変容させ、それから他の人々が変容するのを助けなさい。常に幸せでいなさい。あなたの喜びを他の人々に分け与えなさい。これが真の霊性です。覚えておきなさい。愛は神です。愛の中で生きなさい。真理は神です。真理の中で生きなさい。至福は神です。至福の中で生きなさい。恐れてはなりません。神はあなたと共にいます。「神は私と共にいる。私は神の中にいる」という確信を抱いて生きるなら、あなたには何の恐れもないでしょう。このように行動することによって、皆さんがそれぞれの国で平安と調和を広めることを、私は望んでいます。


ー1989年2月17日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月9日

私たちが日常的に体験していることから一例を挙げましょう。バザールで泣いている人を見かけたら、誰かが「どうして泣いているのですか?」と質問します。他の通行人もまた、その人に質問します。同じバザールで別の人が楽しそうに歩いていても、その人のところに行って幸せな理由を尋ねたりする人はいません。幸福は、人間の自然な状態であると見なされています。人間は常に幸福を探し求めます。人間にとって不幸は忌むべきものなのです。不幸が入り込む隙を作り出すのは、人間の弱さです。多くの人生において悲嘆の餌食になったことが、人を絶え間ず不幸へと押しやります。神を固く信じる人には、不幸になる原因がありません。不幸に心乱される人は、神性原理を理解していません。肉体に関係するものは、すべて一時的ではかないものです。人が追い求めるべきものは、永続する至福です。幸福とは神と一つになることです。

ー1988年5月11日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月10日

ある晩、クリシュナはアルジュナをドワーラカーの都から遠く離れた所に連れて行き、二人きりになったとき、頭上を飛んでいく鳥を指差して尋ねました。「アルジュナ、あれは鳩ではないか?」アルジュナは、それに同意して「あれは鳩です」と言いました。するとクリシュナは、さっとアルジュナの方を向き「いや、あれはカラスだ」と言いました。アルジュナはそれに賛成して「すみません、確かにカラスです」と言いました。即座にクリシュナは「カラス?いや、違う。あれは凧に違いない。そうではないか?」とアルジュナに尋ねました。アルジュナはすぐに同意して「そうです、凧です」と答えました。するとクリシュナは微笑みながら、アルジュナにこう尋ねました。「あなたは正気ですか?一体あなたには何が見えているのですか?どうして同じ鳥が鳩になったり、カラスになったり、凧になったりするのですか?」。アルジュナは言いました。「あなたの発言に異議を唱える私は何様でしょう?たとえそれがカラスでなくとも、あなたはそれをカラスにすることができますし、凧に変えることもできます。私は、完全にそれを信じてあなたに同意することが最も安全だというこ�
�とがわかったのです。これ以外の道を私は知りません」。この揺るぎない信仰を試すテストの後、初めてクリシュナは、アルジュナに聖なるギーターの助言を受ける資格があるということを確信したのです。

ー1967年11月22日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月11日

ラーマは、引き寄せる力の最高の象徴です。このラーマはダシャラタの息子ではなく、アートマ・ラーマ(すべてのハートの中に宿るお方)である霊的なラーマです。アートマは、あらゆるものを引き寄せる普遍的な磁石です。あなたがここで花を持っていると、遠くからミツバチが引き寄せられてきます。彼らは、花の中に甘い蜜があるがゆえに引き寄せられるのです。プラスチックの花に引き寄せられるミツバチは一匹もいないでしょう。人を引き寄せる甘さは、プレーマ(愛)です。この愛は、母性愛、子の親に対する愛、兄弟愛、夫婦愛、友愛など、さまざまな形で現われる可能性があります。神の愛は、これらのあらゆる形式の引き寄せる力の基盤です。それは強力な磁石です。それはあらゆるところに存在し、すべての人間の中にも存在します。すべての子供には、それぞれの両親の面影があります。すべての人間は神から来たのですから、創造主の特徴を備えているはずです。人間は、自分の中にある神聖なものを顕現させるために誕生したのです。

ー1997年7月20日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月12日

ラーヴァナは5音節のシヴァ・マントラ 「ナマ・シヴァーヤ」を絶えず繰り返し唱えていました。しかし機械的に暗唱していたため、彼の悪魔的な資質が放棄されることはありませんでした。一方、プラフラーダは阿修羅の息子でありながら、「オーム・ナモー・ナーラーヤナ」というナーラーヤナ・マントラを心を込めて絶えず繰り返し唱えました。父ヒランニャカシプから与えられた恐ろしい試練からプラフラーダを救うのに、これが役立ちました。父はプラフラーダを断崖絶壁から投げ捨て、象に踏み潰させ、毒蛇に噛ませ、海に突き落とすなどしました。しかし、心から主の御名を唱えることにより、プラフラーダはこれらの試練に遭遇しても無傷でやり過ごしました。あらゆる拷問道具が主の御姿に変わったのです!全身全霊で主の御名を唱えることが、本当のスマラナです。他人の称賛を得たり、見せびらかしたりするために、御名を唱えるべきではなりません。主を喜ばせることができれば、それで十分です。その過程において、人は神と一体となるのです!

ー1997年9月14日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月13日

マーナヴァ・セーヴァはマーダヴァ・セーヴァ、つまり人への奉仕は神への奉仕です。しかし、いつそうなるのでしょう?奉仕をする相手は海の波の一つであり、あなたの個性、好み、名前、姿はその同じ海から生じたのだということをハートの奥深くであなたが感じた時、初めて人への奉仕が神への奉仕となるのです!私は今日、あなた方を呼んで、あなた方を「ボランティア」と名付けました。それはあなた方に、人への奉仕を通じて神への奉仕をするというサーダナを実践する機会を与えるためです。ですから、これをあなたに与えられた新たな権威だとか、自分の肩に載せられた重荷であるなどと解釈してはなりません。神の意志を受け入れることには、それなりの利点があります。それは豊かな果報をもたらします。ラーマがきわめて重要な南方の捜索のためにハヌマーンを選んだ時も、ラーマがシーターに渡すための指輪を手渡した時も、ハヌマーンは自惚れず、驕ることはなく、責任の重さを恐れることもありませんでした!(ラーマは、ハヌマーンが必ずシーターを見つけると確信していたので、ハヌマーンがラーマの使いであることがシーターにわかるように、自分の指輪をハ�
�ヌマーンに持たせた。)ハヌマーンは喜びも嫌がりもせず、ただそれを引き受けました。ハヌマーンは「ラーマはすべてをご存じの主なのだから、自分の義務はただそれに従うことだ」と思ったのです。

ー1967年11月22日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月14日

人間は、神から与えられた才能を悪用しています。人間は欲望、怒り、貪欲などの六つの悪徳を自由に発散しています。それらは神からの贈り物ではありません。それらは、人々が食べるものによって育まれたものです。それらは動物の性質であり、取り除かなければなりません。人は真実を語るべきです。たとえ真実であっても、不愉快なことを語るのは避けなければなりません。人間の生活の全領域は真実に基づいているべきです。バーラティヤ(インドの)文化は、「真実を語り、正しく行動する」ことを最も重視しています。真実を語ることは、どこの誰にとっても最高の美徳です。どのような状況にあっても、人は真実に忠実であるべきです。真理は神の化身です。人には影のように正義が付き添っていなければなりません。真理と正義を指針とすれば、人生においてどんなことでも達成することができます。すべての力は、この二つの美徳の内にあるのです。

 ー1998年5月11日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月15日

人々は霊性修行について語り、己の人生を無為に過ごしています。これらの探求はすべて時間の浪費です。あなたが神聖な気持ちを育むならば、それで十分なのです。悪い考えを取り除くことと、良い資質を培うことが、最も重要なサーダナ(霊性修行)です。どんな巡礼地を訪れても、自分の悪い傾向を減らすよう努めなさい。その代わりに、良い資質を育みなさい。あなたを傷つけた人々に対して善を行うよう努めなさい。あなたは、他人があなたに対して行った悪行も、自分が他人に対して行った善行も忘れなければなりません。つまり、忘れるべきことは忘れ、覚えておくべきことは覚えておくべきなのです。覚えておくべきこととは何でしょう?他人があなたに対して行った善のことです。あなたに対して行われた善行は、神聖なものとして覚えておかなければなりません。相手に感謝の気持ちを伝えなければなりません。あなたのすべての行動を、正義(ダルマ)に沿ったものとしなさい。あなたが神を思い起こしながら行う行為は、それがどのようなものであろうとも神聖なものとなるでしょう。

 ー1998年5月11日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月16日

ブッダは、苦行や祈りや禁欲生活を通じて自己実現に至ることはできないと悟りました。ブッダは、善良な見方(サムヤク・ドリシュティ)を育む重要性を強調しました。善良な見方は、善良な考え、善良な言葉、善良な行いへと導きます。ブッダは、善良な人々と付き合うことを強調しました。善良な仲間は善良な行いへと導きます。守るべき4つのルールとは、善良な仲間との関係を深めること、悪人との交際を避けること、常に功徳を積むこと、そして、何が儚く何が永遠であるかを忘れないことです。善良な仲間(サットサング)とは、単なる善人という意味ではありません。サットは神を意味します。必要なのは、すべての至福の源である神との交わりを求めることです。思考が神に集中している時、その人の感情、言葉、行動は神聖化されます。 (サムヤク バーヴァム、サムヤク シラヴァナム、サムヤク クリヤー)これは、内なる感覚器官の純化へと導きます。思いと言葉と行動の純粋性は、神を経験するための必要条件です。

ー1998年5月11日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月17日

花輪を手に持ちながら、神聖な場所でくだらない会話に耽ることが、帰依なのではありません。私は誰かが私の前に花や果物を持ってくることを望んでいませんし、それを評価することもありません。純粋なハートという香り高い花と、霊性修行によって柔らかくなった心という果実を、私のところに持って来なさい。それが私の最も好むものです。それは、意識を高める努力をしないで、お金を払って外部から入手できるような代物ではありません。そのような類の努力を好むようになるためには、偉大かつ善良な人々と付き合い、善良な思考の中に喜びを見出さなければなりません。どんな手段を使ってでも、自分の至福(アーナンダ)の備蓄を増やし、識別心の質を高めなさい。そしてこれら二つをできるだけ多く蓄えるよう努めなさい。そうすれば、必要が生じた時にいつでも、その備蓄分を利用することができるのです!

ー1958年9月1日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月18日


すべての人の中には真理という火花があります。何人たりともその火花なしには生きることはできません。すべての人の中には愛という炎があります。それがなければ、人生は暗く空虚なものとなります。その火花、その炎こそが神なのです。なぜなら、神はすべての真理とすべての愛の源であるからです。人は真理を求め、実在を知ろうとします。なぜなら、真理である神から人の本質が生じているからです。与え、分け合うために、人は愛を求めます。なぜなら、人の本性は神のものであり、神は愛であるからです。中に米がある種もみのように、もみ殻は中にある種子を覆う迷妄(マーヤー)なのです。米は個我です。その米の本質であり、支える要素であり、糧であるのが至高のアートマです。ですから、他の人のことや、彼らの失敗について心配するのではなく、自分の内面を見つめなさい。少し自分自身のことを調べなさい。ウパニシャッドや霊的書物を学びなさい。それらが少し助けになるかもしれません。覚えておきなさい!それはほんの少しの助けにしかなりません!それらは地図や道しるべに過ぎません。あなたはそれらを実践に移し、行動し、体験しなければならないので�
�す。

ー1958年9月1日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月19日

主とその御名はどちらも一つです。しかしその御名の甘さが御姿に現れることはめったにありません!バラという花の名前を思い出すと、その香り、柔らかな花びら、深い色合いが思い出されますが、棘があることや、その花を手に入れるための苦労はすべて忘れられてしまいます。しかし、その花の由来や歴史に思いを馳せ、植物、葉、枝などを考慮に入れるならば、最も重要で、最も美しく、最も魅力的な部分である「花」は忘れられて、「植物」だけが議論されかねません。別の角度から見てみましょう。マンゴーの名前を聞いたとたん、人は比類ない甘さを思い浮かべます。しかし、実際のマンゴーを手に取ると、まずそれが甘いのか酸っぱいのかが頭に浮かびます。それから皮、繊維、果汁、実、種などを区別するのです。名前だけを繰り返している時には、これらの事柄が頭に浮かぶことはありません。ただ甘さだけが思い出されるのです。

ーディヤーナ・ヴァヒニー第7章

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月20日

主は、一つひとつの行いの背後にある、心の姿勢を評価します。ヤッド・バーヴァム・タッド・バヴァティ(人は自分が思っているものになる)!ですから、すべての行為を供養礼拝の供物へと変え、そうすることで最大の喜びを引き出しなさい。サイはあらゆる存在の中にいます。ですから、誰のことも軽視してはなりません。ああなたの能力の最善を尽くして、すべての人を敬い、すべての人に奉仕しなさい。誰かが喉の渇きを癒したいとあなたに水を求めたら、一杯の水をその人に手渡し、私に捧げているのだと思いなさい。そうすれば、その行為があなたをさらに浄化して、あなたをきれいにしてくれます。あなたが奉仕する相手は、困っている人ではありません。あなたは、あなたと相手の中にいる神に奉仕することになるのです。カルマ(行為)は花で、グニャーナ(英知)は果実です。時が満ちれば、花は果物になります。ただし、人はそれを害虫から守らなければなりません。木炭は、火の洗礼の一部を受けた木です。その洗礼を完全に受けさせなさい。そうすればそれは、風と共に四方へ飛んでいく白くて軽い灰となります。激情が湧き起こる心(マインド)の浄化は、グニャ�
�ーナ(英知)という火を使って、それが成功するまで徹底的に行わなければなりません!

ー1967年11月22日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月21日

人間は神の反映です。人間は神に非常に近い存在です。しかし人間がこの近さに気付くことはほとんどありません。人間は、自分の心(マインド)が動物レベルにまで下がるのを許し、そこから這い上がるために多くの人生を経ながら悪戦苦闘しています。ダイヤモンドがガラスのかけらのように見えることがあります。その価値を知らない人は、それを文鎮として使い、事務室のテーブルの上に置きっぱなしにします。賢い人なら、それを鉄の金庫に入れ、施錠して保管するでしょう。人間はダイヤモンドであり、ガラスのかけらではありません。カッティング、もしくは浄化(サムスカーラ)というプロセスを経た後、人は燦然と輝かずにはいられません。サムスカーラは人間を神に、つまりマーナヴァをマーダヴァに変容させます。あなた方の腕には五百ルピーや六百ルピー、あるいは千ルピーもする時計があります。一つの腕時計を作るに必要な鉄の原価はたったの四アンナ(四分の一ルピー)ですが、人間の技術と知性によるサムスカーラによって、その価値と有用性が高まります。人間もまた、己の心と知性を適切に使うことによって、神我顕現の貴重な道具へと自分自身を変容させ�
�ることができるのです。

ー1967年11月6日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月22日

衣食住を提供しさえすればこの国の人々は幸せになれると、私たちは思っています。彼らはこれらのものが十分に得られていないために苦しんでいるのだと、私たちは思っています。それは幻想です。なぜなら、満足と幸福は心(マインド)の属性であるからです。平安に到達し、喜びを得るためには、心を鍛えなければなりません。そのような心がなかったら、どんなに豊かな状況下にあったとしても、人間は無力です。強く、魅力的な人間であっても、視力を失えば、喜びを失ってしまいます。物質文明の絶頂にある国はたくさんあり、自分たちが到達した高みを非常に誇りに思っています。しかし、彼らは心の平安を手に入れているのでしょうか?恐怖や憎しみ、貪欲や慢心を克服したのでしょうか?もちろん、人間にはある程度の肉体的、精神的な安らぎがなければなりません。しかし、快適さをもたらす物事を得ることが生きる目的になってはいけません。

ー1967年11月6日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月23日

この世界では、どんな物を手に入れるにも財産が必要です。財産があれば物が手に入ります。ですから、財産によって手に入れた物よりも、財産の方が優位にあるということになりますね?財産があれば、いつでも、どんな物でも手に入れることができます!同様に、神の御姿(ルーパ)は、御名(ナーマ)という財産によって得られます。ナーマという財産が着実に蓄積されれば、簡単に、何の苦労もなく、瞑想を通じて、神を実感認識することができます。もう一つ、ナーマ・スマラナには特別な点があります。ヨーガや苦行を通じて、さまざまな超自然的力を獲得する場合があります。そして、そのような力が得られると、神を忘れてしまう可能性があるのです!この自負心によって正しい判断ができなくなった人は、その基盤となる勝利を霊性修行によって得たことすらも忘れてしまうかもしれません。しかし、御名を思い出し、繰り返し唱え、瞑想するなら、そうはなりません!これらの道には、そのような危険はありません。これら三つの道は、人々の中にある愛をもっともっと成長させます。愛によって、平安が得られます。心の平安が得られれば、他のすべての状況は自然と整っ�
�ていくのです。

ーディヤーナ・ヴァーヒニー第7章

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月24日

勇気とは、身体と心の健康と強さを得るための強壮剤です。疑いと躊躇と恐れを手放しなさい。これらがあなたの心の中に根を下ろす機会を与えてはなりません。人は、どんなことでも成し遂げることができます。その人に備わっている内なる神聖な力によって、マーダヴァ(神)になることさえもできるのです。恐れや疑いを手放すために、あなたの舌の上と心の中に主の御名を常に置きなさい。御名を唱えている間は、永遠なる主の御姿とその無限の栄光に深く思いを馳せなさい。自分自身を神に執着させなさい。そうすれば、このような一過性の対象物に対する執着はなくなります。あるいは少なくとも、相対的事実を理解し、正しいバランス感覚で、それらを見るようになります。つまらない小さなエゴがとてつもない重大事項になってしまうと、このような厄介事になってしまうのです。それが、すべての苦の根源です!

ー1958年9月2日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月25日

世俗的進歩と霊性の進歩に必要な資質や学識は、それぞれ異なっている、と語るのは誤りです。霊性は、世俗性を浄化したものにすぎません。どちらも、成功するか否かは、一点集中(エーカーグラター)ができるかどうかによります!どんな仕事をするにしても、一点集中が非常に重要です。これもまた霊性修行に他なりません。この霊性修行には、無集中と多集中という二つの道があります!無集中は睡眠の段階であり、無知の性質(タモーグナ)とも呼ばれます。多集中は、開いた目の視線が被造物やその光景に向かっている状態で、落ち着きのない性質(ラジョーグナ)の結果です。これら二つを避け、これらの両極端に陥ることなく、目は睡眠中のように完全に閉じず、覚醒時のように大きく開かず、半開きにして鼻の先に向けるならば、清浄な性質(サトワグナ)が自分の気質となり、心を集中させることが容易にできるようになるでしょう。

ーディヤーナ・ヴァーヒニー第8章

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月26日

世俗の義務を放棄してはなりません。神の御名を口にして、神の恩寵を頭に招き入れながら、それを行いなさい。隣人や他人のことに首を突っ込み、絡め取られて抜け出せなくならないようにしなさい。あなたが育てた作物の緑、満足と喜びを運んでくる涼風、色とりどりの雲のパノラマ、鳥たちの奏でる音楽など、あなたの前に広がる大地と空の美しさに思いを馳せながら時を過ごしなさい。田んぼのあぜ道や運河のほとりを歩く時には、神の栄光を歌いなさい。このような愛の証の中にいる時に憎まれ口を叩いてはなりません。このような穏やかな環境の中で怒ってはなりません。あなたの叫び声や罵声で天空を乱してはなりません。復讐心に満ちた大言壮語をして、大気を汚してはなりません。

ー1958年9月2日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月27日

あなたがジャパや坐禅(ディヤーナ)をしている時、最初のうちは別の想念が入ってくるかもしれませんが、心配は要りません。そのせいで大きな危険があることはないからです。ナーマ スマラナ(御名の憶念)を始める時には、熱意を持って座りなさい。どんなことを行う場合であれ、もし固い決意を持って着手するなら、不浄なものがあなたに影響を及ぼすことはできません。唯一あなたが気をつけなければならないことは、ジャパなどを始める時にあなたが完全に清らかであるかどうかを確かめることです。形式について心配することはありません。あなたの好きな御名と、その御名の持つ御姿を選びなさい。その御名それ自体がマントラです。そのマントラは、つねに清く、つねに効力があり、すべてです。しかし、今日はこの御名、次は別の御名というように、心の気まぐれに合わせて御名と御姿を変えてはなりません。何であれ、最初にあなたに満たされた気持ちを与えてくれた御名と御姿にしっかりとしがみつき、脱線せずにいなさい。そうすれば、その御名と御姿は必ずあなたのハートに根を張るでしょう。それから先は、すべてが神の恩寵によって起こりまぁ
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―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月28日

心(マインド)を波立たせる衝動を変容させることによってのみ、真の至福は得られます。財産の中に至福はありません。あなた方は、お金持ちは幸福であると考えています。私に聞いてごらんなさい。教えてあげましょう。お金持ちは悲嘆に満ちています。そのためたくさんのお金持ちが救いを求めて私の所に来るのです!彼らにはまったく平安がありません。強健な身体があるだけでは平安は得られません。学識も苦行も儀式も平安をもたらしません。常に神の御名に浸ることによってのみ、人生の浮き沈みに影響されることのない揺るぎなき平安が得られるのです。それが人間を英雄とします!あなた方にとってサイババは、姿のない御名だけの存在でした。しかしサイババは今ここに姿を現しました。この姿を常にあなたの心の中に置きなさい。同じように「ラーマ」の御名には御姿があります。ラーマの御名を繰り返し唱える時には、その御姿をイメージしなければなりません。そうすればその御名が具体的になり、御名を繰り返し唱えることがより容易になります。常に御名と御姿と共に生きなさい。そうすれば人生は途切れることのない神への礼拝となります!

―1958年9月2日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月29日

御名と御姿の価値は、それらが心(マナス)に与える訓練にあります。すでに調教された馬を調教することに何の必要がありますか?さまざまな工夫を凝らして「馴らされる」のは調教されていない馬です。同様に、手に負えない心を手なずけるために、私たちに祈りやバジャン(神への讃歌(さんか))、ジャパやスマラナ(憶念)があるのです。初めの段階では、馬はいろいろな方向へと走っていきますが、調教師は心配しません。調教師はしっかりと手綱を握っているようにします。心も同じで、あなたがナーマ スマラナやジャパを始めたばかりの時には、当然、心はいろいろな方向へと走っていきますが、落胆や不安や優柔不断に屈してはなりません。御名という手綱をしっかりと握り締めていなさい! そうすれば、短期間のうちに、あなたの語る言葉と想念はあなたに握られるようになるでしょう。ただ、あなたに主の御名を忘れさせるかもしれないものを、あなたに近づけさえしなければよいのです。あなたはやがて、御名の御利益に気づくでしょう。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月30日

暴力的になり、誰かに対して怒りを覚えたら、それを静めるために静かに神の御名を唱えるか、一杯の冷たい水を飲むか、布団を広げて怒りが収まるまで横になりなさい!怒っている時に、あなたは相手をののしり、相手もあなたをののしります。怒りが激しくなると、頭に血が上り、最後には傷つけてしまいます!覚えておきなさい。五分間の怒りが、五世代にわたる交友関係を台無しにするのです。このアスティパッジャラ(骨でできた籠、つまり肉体)は、ハスティナープラ王国です。そこには無知の象徴であるドリタラーシュトラ盲目王や、英知の象徴であるユディシュティラ(ダルマラージャ)王子がいます。シュリ・クリシュナの助けを得て、ユディシュティラ軍を勝たせなさい。世俗の勝利と災難という苦いマルゴサ(ニーム:インドセンダン)の実に慣れた舌に、ナーマスマラナという甘いハチミツを食べさせなさい。しばらく実験してみれば、その効果に驚嘆するでしょう!あなたは、自分の内面に、自分の周囲に、大きな平安と安定が広がっていくことに気付くことができます。この容易な学びを習得し、喜びに浸り、その喜びを他の人とも分かち合いなさい。

―1958年9月2日の御講話 プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月31日

若木を植えた瞬間に果実を欲しがってはなりません! 果実の味が味わえるのではないかと思って、若木の葉や枝を折ってかじってはいけません! そんなことをしても、あなたが果実の甘さを味わう助けにはなりません。その上、若木そのものも枯れてしまうでしょう。同様に、あなたの仕事は、ただ神の御名という若木を育てることです。あなたがそれをしている最中に、その若木が持つとされる栄光が実際にあるかどうかを疑ったり調べたりしてはなりません。必ずや、若木は大木に成長し、あなたが食べたいと望んでいる果実をあなたに与えてくれるでしょう。あなたはそれを勝ち取ることができます。御名にはその果実を生じさせる力があるのです。ですから、一意専心(エーカーグラター)の目的は、あなたが御名を変えずに一つの御名に専心するようにさせること、そして、その御名の御姿から目を離さないようにさせることです。「ナーマ スマラナ」(御名の憶念)という網に、破れた穴があってはなりません。つまり、休みなく、いつもそれをしていなければなりません。もし切れ目があったら、その網の上に落ちてきた果実が穴から逃げてしまぁ
�Δ�發靴譴泙擦鵝� あなたの心がしっかりとあなたの管理下に置かれるまで、坐禅(ディヤーナ)をしなさい。これが第一の仕事です。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

Japanese, 2022年4月

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月1日

体の外側をきれいにするために石鹸が必要なように、心(マインド)の内面をきれいにするためには、神の御名を繰り返し唱え、瞑想し、思い起こすこと(スマラナ)が必要です。体を丈夫に保つために食べ物と飲み物が必要なように、心(マインド)を強くするためには、神を黙想し、アートマ(真我)を瞑想することが必要です。この食べ物と飲み物がなかったら、心(マインド)はあちこちをふらふらするだけです。波が水面を揺らしている限り、水底は見えません。欲望という波が、心(マインド)という水をかき混ぜているのなら、その底であるアートマを見ることがどうしてできるでしょう?ふらふらするから波が生じるのです。ふらふらするのは食べ物や飲み物が足りないからです。ですから、神を黙想して心(マインド)をきれいにしなさい。アートマを瞑想して心(マインド)を養いなさい。瞑想と霊性修行(サーダナ)だけが、心(マインド)の奥底をきれいにし、強さをもたらすことができます。純粋性と強さがなかったら、アートマは遥か彼方へと後退し、平安は消えてしまいます。

– Dhyana Vahini, Ch 5.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月2日

人々は、新しい年が何か新しい恩恵を授けてくれるかのように、新年を迎えます。人々が経験する善や悪、損や得、名声や悪名は、年が変わったためではありません。それは、その人自身の行動の結果なのです。サームヴァトサラ(年)は、神の御名の一つです。なぜなら神は時間と関連しているからです。神はまた、カーラートマカ(時の精霊)としても知られています。ですから、時の精霊である主が、私たちに善や悪をもたらす可能性があると考えてはなりません。私たちの行動は、良いにしろ悪いにしろ、その性質と一致する実を結びます。新しい知らせをもたらすのに新年まで待つ必要はありません。すべての瞬間が新しいのです。多くの人が、新しい年にはどんな苦労や損失があるのだろうかと心配します。私たちの悩みや困難は、その年のせいではありません。その原因となっているのは私たちの行動だけです。私たちの行動が善良であれば、その結果は良いものとなるでしょう。

ー1997年4月7日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月3日

神はどこか遠いところに住んでいるわけではありません。神はフリダヤヴァーシ(あなたのハートの住人)です。ドラウパディーが「私のハートの中に宿るお方よ」と懇願した瞬間に、クリシュナ神は彼女の呼びかけに応じました。ある時、ナーラダ仙はヴィシュヌ神に、最も早く神を得るためにはどこに向けて懇願すればよいのですかと尋ねました。神は「私の帰依者が私を賛美する歌を歌うところならどこでも、私はそこにいます」と言いました。神は私たちのハートの内に宿っています。そのハートを純粋で神聖に保たれなければなりません。そうすれば、そのハートは喜びで満たされた天国そのものになります。天国と地獄は、どこか別のところにあるのではありません。あなたが幸せであれば、それは天国です。あなたが惨めに感じているなら、それは地獄です。喜びを感じたいのであれば、心(マインド)を神の思いで満たしなさい。神のいるところに至福があります。この神の至福はさまざまに表現されますが、同一のものです。同様に、神は文脈やその果たす役割によってさまざまな御名で呼ばれます。さまざまな御名で崇められているのは、唯一つの至高神です。

ー1991年3月17日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月4日

ラーマは、ハートという蓮の花から信愛という蜜を吸う蜂です。蜂は花の上に座り、その花びらを開きます。しかしラーマは、花の美しさと香りをさらに高めます。ラーマは太陽のようです。その光によって水を自らに引き寄せ、それを雲として蓄積し、大地の渇きを癒すために雨として送り返すのです! ラーマは神秘的で強力な音です。それは臍の中で生まれ、舌へと昇り、そこで喜びの舞を踊ります!「ラ」と「アー」と「マ」の3つの音から成る「ラーマ」の中には、タットワマシ(汝はそれである)というヴェーダの宣言が記されています。「ラ」はタット (それ、ブラフマン、神)の象徴であり、「マ」はトワム(汝、ジーヴィ、個人)の象徴です。そしてこの2つをつないでいる「アー」は、両者が同一であることを象徴しているのです!ラーマという言葉には、数秘術的な意味もあります。「ラ」は2、「アー」は0、「マ」は5と数えるので、ラーマを合計すると7という縁起の良い数字になります。音楽には7音あり、7聖賢がいますし、7日間続けてラーマの御名を唱えると、特に大きな実りがあると考えられています!

ー1968年5月16日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月5日

牛や鳥のような動物は、生まれながらに獲得した性質を変えることができません。例えば、ライオンは残虐な動物として生まれ、残酷な動物として生き、残酷な動物として死にます。ネコはネズミを捕らえ、殺すという性質を持って生まれ、その性質とともに生きます。どんなに努力しても、これらの動物がその悪い性質、残虐な性質を変えることはできません。ネコを変えようとして、椅子の上に座らせ、ミルクやヨーグルトなどの浄性の食べ物を与えても、ネズミが目に入った瞬間、ネコはネズミに飛びかかり、ネズミを殺します。このように、私たちがどんなに努力しても、生まれつき残虐な性質を持っている動物を変えることはできません。しかし、人間はそうではありません。人間は、生まれつき残虐な性質を持っていても、善良な人々と接し、善良な環境の中で、善良な人々とともに暮らすことによって、その性質を変えることができます。このような意味で、母親の胎内から生まれてくる生き物すべての中で、人間として生まれてくることが最も難しいと言われているのです。

ー1977年5月夏期講習

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月6日

ラーマーヤナは、一人の人間がたどった記録としてではなく、神の化身(アヴァター)の降臨と活動の物語として読まれなければなりません。人は、その物語の中で明らかにされている理想を、自らの体験を通して実現しようと決意し、努力しなければなりません。神はすべてを知っており、あらゆるところに浸透し、あらゆる力を持っています。神が人間の姿をしているときに発する言葉や地上にいる間に行おうとする行為を理解することはできません。しかしそれらは極めて重要です。神のメッセージという貴重な泉は、人類が解脱に至る道を容易にします。ラーマをダシャラタ王の息子、アヨーディヤー王国の君主、日種王朝の子孫と見なしてなりません。これらの関係は、補足的であり、本質的ではありません。このように誤ってとらえることが、現代読者の習慣になってしまいました。彼らは、読んだ物語に登場する人々の人間関係やどこに所属しているかにだけ注目し、彼らが表し、示している価値については深く考えていません!

– Ramakatha Rasavahini, Ch 1.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月7日

ラーマはすべての肉体の内在者です。このアートマ・ラーマは、すべての個人の中にある至福の源です。彼の祝福は、その内なる源泉から湧き上がり、平安と至福を授けることができます。彼は、ダルマという人類を愛と一体性でまとめ上げるあらゆる道徳規範を、まさに体現しています。ラーマの物語であるラーマーヤナは、無執着の価値と、すべての存在の中に神がいることを知る必要性、という二つの教訓を教えます。神を信じること、物を追いかけずに超然としていることが、人間が解脱を得る鍵となるのです。感覚の対象物を手放しなさい。そうすれば、あなたはラーマを得ます。シーターは、アヨーディヤ王国での贅沢な暮らしを手放して、「追放」期間中のラーマと一緒にいられるようにしました。彼女が黄金の鹿に憧れの目を向け、それを欲しがった時、彼女はラーマという存在を失ったのです。放棄は喜びにつながり、執着は悲しみをもたらします。この世界にいながら、世俗に染まらぬように生きなさい。

– Ramakatha Rasavahini

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月8日

ラーマの物語における甘露は、ラーマが誕生し、統治した都、アヨーディヤーのそばを静かに流れているサラユ川に似ています。この物語が心という湖から生まれたのと同じように、サラユ川の源はヒマラヤのマーナサローワル湖(心の湖)にあるのです!ラーマという水流には慈愛の甘さがあり、ラクシュマナ(ラーマの弟であり献身的な仲間)という水流には献身の甘さがあります。サラユ川がガンジス川に合流して、その水が混ざり合うように、ラーマーヤナでは優しい慈悲と献身という水流、すなわちラーマとラクシュマナの物語が混ざり合っています。それらの間にある慈愛(カルナ)と愛(プレーマ)が構成されて、ラーマの栄光の絵を作り上げるのです!その絵は、すべてのインド人のハートにある最も大切な熱望を満たします。それを達成することがすべての霊的努力の目的なのです!個人の努力はその探求の半分でしかありません。残りの半分は神の恩寵です。人は、自己努力と神の恵みによって、自分自身を成就させるのです。その成就は、二元性という暗黒の海を越えて、内在する超越者のもとへと彼らを連れて行きます!

– Ramakatha Rasavahini, Ch 1.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月9日

かつて、人々を信服させる力のある解放者として、ラーマ自身がラーマという御名を暗に示したことがありました。ラーマがシーターとラクシュマナと共に森を通過していた時、ラーマのことを神と認識した出家者たちが周囲に集まって来て、イニシエーション儀式を行って何かマントラを授けてくださいとラーマに祈りました。ラーマは「自分は国外追放中の王子であり、おこがましくも出家者たちにイニシエーションを授ける権限などありません」と答え、ジャングルの道を進んでいきました。ラーマが急いで歩き、シーターがすぐ後ろに、ラクシュマナがその後に続いているのを見て、年老いた出家者が叫びました。「友よ!見よ!ラーマは私たちにイニシエーションを授けてくださっている!私たちにマントラを授けてくださっている!神が先頭を歩き、大自然(常に神に寄り添う伴侶:プラクリティ)が続き、その後ろに、主の一部であり、大海の波の一つであるジーヴィ(個人)がいる。人を惑わす大自然と上手くやっていくか、あるいはそれをすり抜けるかして初めて、人は主を見ることができるのである。これはまさに、サーダナにおける無言のレッスンである!『ラ』は神、『�
�マ』はその後塵を拝す個人、『アー』はプラクリティ(大自然)である。『ラーマ・ラーマ』は、畏れ多くも神が授けてくださっているマントラよ。それを受け取り、自らを救え」

ー1968年5月17日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月10日

『ラーマーヤナ』は、母と子、夫と妻、兄弟、支配者と民衆、主人と使用人など、さまざまな人間関係の理想を示すガイドブックです。ラーマは、ラーヴァナがシーターをランカに連れ去った時に戦い瀕死となった鷲、ジャターユに慈悲を示しました。そして、ラクシュマナが危惧を表明したにもかかわらず、(ラーヴァナの弟であるがラーマを崇敬していた)ヴィビシャーナに庇護を与えました。
これらは、ラーマを敬い、その守護を求める者であれば誰に対しても、ラーマが最高の博愛と寛容を示した例です。ラーマはラクシュマナに「全託の精神で私のもとに来る者は、誰であろうと私のものであり、私はその人のものである。私は彼に庇護を与えるだろう。これは私の誓いである」と宣言しました。ラーマは一つの言葉に誓い、一人の妻に誓い、一本の矢に誓った男でした。アートマの至福を得るために、帰依者は己のハートの中にラーマを据え、ラーマナヴァミー祭を祝わなければなりません。叙事詩ラーマーヤナを読みながら、「アートマ・ラーマ」(普遍的魂と一つになること)の境地に到達しなければなりません。そのような境地に、アハムカーラ(エゴの感覚)はありません!

ー1987年4月7日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月11日

同一の神が与え、受け取るのです!神は、自分が望む時に、望むとおりのものを与え、受け取ります。すべては神のものです。ですから、神のものが神によって戻される時に嘆くのは、なんと愚かなことでしょう!ですから、賢明な人は、誰かを慕ったり、何かに過度な執着を感じたりはしません。すべての恋慕とすべての執着を神に向けなさい。神だけが永遠であり、すべての喜びの源です。それ以外は、物を物として愛し、それ以上には愛さないようにしなさい。人を人として愛し、それ以上には愛さないようにしなさい。もし、それ以上愛するなら、それはあなたが彼らの本性に惑わされているしるしです!借家が自分のものであるかのように振る舞うことができるのは、ほんの短い間だけです!期限が過ぎればすぐに、その家は別の入居者に引き渡されます!このように考えると、配偶者、子供、財産、親族が自分のものであるのは短い期間だけのことであり、長きに渡るわけではないとわかるでしょう。そうであるのなら、なぜこれらの非永続的な物事を心配しながら時間を浪費するのですか?

– Dhyana Vahini, Ch 6.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月12日

人はこれまで何度も生まれ、愛し、愛に浸り、他の人に愛着を持ちながら生きてきました。しかし今、そのすべての痕跡を残している人はいるのでしょうか?皆の行方を知っている人はいるのでしょうか?当時愛した人のことを心配する人はいるのでしょうか?少なくとも時々は思い出すという人はいるのでしょうか?いいえ、いません。当時も今と同じような愛情と愛着がありましたが、時が経つにつれてそれらは忘れられてしまいます。同様に、この世を去る時には、その人が持っていた他人への愛や、その愛を通して得た喜びや苦しみ、幸せも忘れ去られてしまうのです。子供の遊び場のように、人間の行動感覚も、ここからあそこへ、あそこからどこか別の場所へと変化します!変化する不安定な愛に心を奪われ、永続する神の至福をもたらすであろう霊性修行を忘れてしまうとは、なんという悲劇でしょう!

– Dhyana Vahini, Ch 6.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月13日

最高神が人々の周りに神に奉仕するための真新しい道具を置き、さまざまな形式で行われる神への礼拝を受け取ります。人々は幸せになり、さらに新しい機会を与えてくださいと祈り、その手にチャンスが与えられると大喜びします。この姿勢が計り知れない喜びをもたらすのです。このような喜びに満ちた人生を送ることは、まさに至福です。日の出から日没までの間に行われることは、それが何であろうとも、まるで神への礼拝であるかのように、捧げられなければなりません。細心の注意を払いながら、新鮮な花だけを摘み取り、それらを色褪せないようにきれいに保つのと同様に、純粋で汚れなき行為をするためには、絶えず努力しなくてはなりません。毎日、心の目の前にこのようなビジョンを据え、それに従って人生を送るのであれば、それは長く完全な神への奉仕となります。「私」と「あなた」という感覚はすぐに消え失せ、「自分」という痕跡はすべて破壊されるでしょう。その時、人生そのものが、神への真の祈り(ハリパーラーヤナ)へと変わります。

– Prema Vahini, Ch 8.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月14日

愛の化身である皆さん!皆さんは毎年、新しい年の初日を祝っています。しかし、新しい神聖な特質を培っていますか?いいえ、皆さんは悪い資質を手放すことができていません。新年を迎えるごとに、新しく高潔な資質が培われなければなりません。欲望をコントロールする必要があります。欲望が減れば減るほど、あなたの不幸も減るのです。過度の欲望は、意志の力(イッチャー・シャクティ)をダメにすることにつながります。意志の力の衰えは、行動の力(クリヤー・シャクティ)の喪失につながります。イッチャー・シャクティ、クリヤー・シャクティ、グニャーナ・シャクティ(英知の力)の統合を進めなさい。欲望が減った時に初めて、意志の力が増します。幸福が人間から遠ざかっているのは、無限の欲望のせいです。過剰な欲望は健康を損ない、心に憂鬱をもたらします。欲望を減らすということは、心の負担を減らすということです。荷物を減らし、快適になれば、旅行は楽しくなります。人生は長い旅です。重い荷物を抱えているなら、どうして旅を楽しめるでしょう?荷物を減らして、旅を続けなさい。

ー1999年4月14日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月15日

二十年、三十年と神の御名を唱え続けているにもかかわらず、何の御利益も得られないと言う人がいます。もし、心が不純なもので満たされていたら、神の御名を唱えても何の益ももたらされません。まず、自分の心を浄化し、肯定的な気持ちで満たしなさい。そうして初めて、神の御名を唱えることの恩恵を体験することができるのです。少なくとも今日から、高潔な気持ちを育みなさい。甘く優しく話しなさい。常に相手の願いを叶えることはできませんが、常に思いやりをもって話すことはできます。愛の化身である皆さん!正月には、甘いもの、酸っぱいもの、苦いものを混ぜて食べる習慣があります。これは、喜びと悲しみに対して平静に対処しなければならないことを意味します。美味を味わうのは舌であり、愛を味わうのはハートです。愛の味は天下一品です。それは甘露よりも甘いのです。愛に匹敵するのは愛だけです。神は愛、愛は神、愛の中で生きなさい。どんなバジャンを歌おうとも、愛を込めて歌いなさい。神はバーヴァプリヤ(心情を愛でるお方)です。神が見ているのは、リズムや調子ではなく、あなたの気持ちです。あなたの気持ちが純粋であれば、神はあらゆる�
�面倒を見てくれるでしょう!

ー1999年4月14日の御講話

訳注:南インドのアーンドラ・プラデーシュ州、テランガーナ州、カルナータカ州では3月後半から4月上旬の新月の日を元旦(ウガーディ)として祝い、酸味(タマリンド)・甘味(椰子糖または黒糖)・塩味(塩)・辛味(青唐辛子)・渋味(青マンゴー)の五味を合わせた副菜ウガディ・パチャディを食べる。ケーララ州では毎年4月15日を元旦(ヴィシュ祭)として、タミル・ナードゥ州では毎年4月14日をタミル正月として祝い、甘い椰子糖、渋いターメリック(または粉辛子)、酸っぱい青マンゴー、苦いニームの葉、辛い赤唐辛子の五味を合わせた副菜マンガイ・パチャディを食べる。

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月16日

他の人の中に見いだす欠点は、自分自身の欠点の反映です。他人の間違いを見つける人は、自分自身の間違いに気づきません。マンゴーを食べていないのなら、どうしてマンゴーのゲップが出るのですか?あなたが出すゲップは、あなたが食べた物によって決まります。あなたが見たり経験したりする良いことも悪いことも、あなた自身の思考の結果です!まず、自分自身の欠点を認識し、それを取り除きなさい。他人を批判するのは大きな罪です。すべての人の中に神がいます。ですから、他人を批判することは、神自身を批判することに等しいのです。誰をも批判したり、嘲笑したりしてはいけません。すべての人を尊敬しなさい。そうしてこそ、あなたも尊敬されるのです!自分が相手を尊敬していないのに、相手が自分を尊重してくれると期待するのは愚かなことです。もしあなたの気持ちが善良であれば、あなたはすべての人の中に善良さだけを見るでしょう。心は、あらゆる物事の根本原因です。人間は心なしには生きていけません。懐中電灯は電池がなければ機能しません。身体は懐中電灯、目は電球、知性はスイッチのようなものです。しかし、電池にあたる心がなかったら、身�
�体は機能できません。ですから心を良い状態に保つ必要があるのです!

ー1999年4月14日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月17日

利己主義のかけらもなく、どんな状況下にあっても常にあなたを助けてくれる真の友人は、神だけです。あなたが森にいても、空にいても、街や村にいても、丘の上にいても、川の中にいても、神はいつもあなたと一緒に、あなたの中に、あなたの周りにいます。世間一般の友人は、あなたにお金と権力がある時にだけ、あなたにハローと挨拶をします。あなたが金と権力の両方を失うと、ハロー(挨拶)はホーロウ(空虚なもの)となります。池に水がある限りは何千匹ものカエルがそこに集まってきます。ひとたび池が干上がれば、池の周囲には一匹のカエルさえも見あたらなくなくなります。世俗の友人の場合も同様です。しかし、神の友情はそのようなものではありません。神はどんな境地にあっても、どんな状況にいたとしても、あなたと一緒にいます。心の底から神を愛しなさい。神の庇護を求めなさい。神は必ずあなたを守ってくれるでしょう。完全に神に全託したプラフラーダを救うために、神が来たのではありませんでしたか?ヤッド・バーヴァム・タッド・バヴァニ(結果は、思いのとおりになる)。もしあなたが完全に神を信じれば、神はあなたを助けに来てくれるでしょ�
�う。

ー1999年4月14日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月18日

この世界に、堅忍よりも高度な苦行はありません。満足よりも大きな幸福はありません。慈悲よりも神聖な功徳はありません。忍耐よりも効果的な武器はありません。
帰依者は、肉体が畑であり、善行が種子であると見なして、神自身という収穫を得るために、ハートという農夫の助けを得て、神の御名を耕さなければなりません。耕すことなしに、どうやって作物を得ることができるのですか?ミルクの中にクリームがあり、燃料の中に火があるように、神はすべてのものの中にあります。このことを完全に信じなさい。クリームの品質はミルク次第です。火の質は燃料次第です。ですから、神を直接体験できるかどうかは霊性修行次第なのです!神の御名に取り組んだ結果、たとえ解脱に到達することが直接実現できなかったとしても、その体験を得た人々には、(1)偉大な魂の持ち主との交流、(2)真理、(3)満足、(4)感覚の制御、という四つの成果が間違いなく確実にもたらされるでしょう。これらのうち、どの門を通っても、世帯主であろうと、隠遁者であろうと、その他の階級に属していようとも、必ずや神のもとにたどり着くことができます。

– Prema Vahini, Ch 60.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月19日

身体と自分を同一視するのをやめたときに初めて、あなたは他の人に奉仕したいという真の促しとひらめきを得ます。強烈な胃痛に苦しんでいる人は、目から涙を流します。なぜでしょう?なぜなら、目や胃などのさまざまな器官はすべて、同じ体の一部であるからです。ですから、ある人が苦しんでいるとき、あなたの目は涙を流し、その苦しみを軽減してあげたいという思いに促されるはずです!もしあなたが、自分とその人は同じ神という体の手足であることを理解していれば、このようなことが起こるのです。真理に無知であるがために、ベダ・バーヴァ(違うという思い)が生じます。人は怒ると歯を食いしばりますが、舌は自分のものなので、自分の舌を噛まないように気をつけています!もし偶然に舌を噛んでしまったとしても、歯は自分のものなので、自分の歯を殴ったりはしません!ですから、病人、貧しい人、苦しんでいる人、無教養な人、不道徳な人なども、すべて同じ体の手足であり、私たちもその一部なのです!すべてのものを動かしているのは、同じ電流です。このことを悟り、その一体性へと合流することが、人生の目的なのです!

ー1965年9月26日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月20日

多くの人は、高齢になるまで霊性修行を先送りします。これは誤りです。若く生き生きとしている間に、貴重な褒美をもらいなさい。始めるのに早すぎるということは決してありません。悪を避けるため、舌、目、耳、手、心はすべて幼少期から訓練されるべきです。これらが清く神聖に保たれていれば、神の恩寵が得られます。肉体の衝動があなたを虚偽の世界に陥れようとするときには、それに屈することなく、やり過ごしなさい。個人が強く安定していれば、家は繁栄し、家が繁栄すれば、村は幸福になり、村が幸福になれば、国は安全で強くなり、国々が安全で強くなれば、世界は謙虚さと崇敬と慈善と平和に満たされます。神の栄光を声高らかに歌い、神への礼拝で大気を満たせば、雲がその神聖さを雨として田畑に注ぎ、それを吸い込んだ農作物が食物を聖化し、この食物が人間の中にある神聖な衝動を誘発します。これが進歩の連鎖です。

ー1968年7月8日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月21日

広い心を培い、狭量な心を捨てなさい。たとえ他人から迷惑をかけられたり、問題を起こされたりしても、自分にとっては良いことにしかならないと思って我慢しなさい。五大元素から成る肉体は、いつかは必ず衰え、滅びます。肉体の内在者は永遠で、生まれず、死なず、いかなる束縛にも縛られません!実は、この内在者こそが神そのものなのです!食べ物を懇願するとき、物乞いは「バヴァティ・ビクシャーム・デーヒ(施しをいただけませんか?)」と言います!本当は、彼はあなたにではなく「デーヒ」、つまり内在者に施しを求めているのです。彼は、あなたの中にいる神に対して施しを求めて祈っているのだという真理を認識しなさい。彼があなたに物乞いをしていると考えるのであれば、それはあなたの無知です。それは傲慢に他なりません。王子であるか貧乏人であるかにかかわらず、すべての人の中に神は宿っています。あなたは、すべての人の中にあるこの神性原理を崇拝し、愛します。しかし愛は無私でなければなりません。肉体への執着がない愛は、誰に対しても平等に流れるのです!肉体意識は狭量な心へと導きます。

ー2001年11月23日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月22日

私は、あなた方のハートに愛の光を灯し、その光の輝きが日ごとに増していくのを見届けるために来ました。私は、ヒンドゥー教のダルマといったような、特定のダルマを話すために来たのではありません。私はいかなる宗派、信条、主義を広める目的のために来たのでもなければ、いかなる教義の信奉者を集めに来たのでもありません。私は、信奉者や帰依者を自分の信者として引きつけようとはまったく思いません。私は、普遍的な唯一の信仰、アートマの原理、愛の道、愛のダルマ、愛の義務、愛の責務を、あなた方に教えるためにやって来たのです。どの人のハートもただ一つの神によって突き動かされているということを信じなさい。どの教義もただ一つの神の栄光を称えているということを信じなさい。どの言語のどの御名も、人が想い描くことのできるどの御姿も、ただ一つの神を指し示しているということを信じなさい。そして、ただ一つの神を礼拝する最高の方法は愛であるということを信じなさい。このエーカ バーヴァ(一つであるという姿勢)を、すべての宗派の人々、すべての国の人々、すべての大陸の人々の間に育みなさい。これが、私が携えてきた愛のメッァ
�察璽犬任后�海譴�△△覆進��蓮璽箸房茲蠧�譴襪海箸鮖笋�召爛瓮奪察璽犬任后��

ー1968年7月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月23日

今、このカリユガで反論と論争の風潮が信仰と礼拝を蝕んでいる中で私に対面するという幸運は、多くの人生を経て勝ち取った功徳の賜物であると感謝しなければならないものです。これは並大抵の幸運ではありません。この化身は、あなたを慰め、励まし、癒すために、あなたに、そして、あなたの務めや悲しみに寄り添います。この関係は稀有のものです。ゴールに到達するまで、この関係が崩れないよう保たなければなりません。私には、人々を私の他の名前と姿への崇拝から離して私の方へ引き寄せようという望みはありません。皆さんは、私が人々を、私に、私だけに引き付けるため、執心させるために、皆さんが奇跡と呼んでいるものを私が行っているのだと憶測しているかもしれません。それらには宣伝や広告の意図などありません。それらはただ自然に起こるものであり、神の威光に付随する印にすぎません。これまでも、これから先もずっと、私は皆さんのものであり、皆さんは私のものです。魅了し、感銘を与えるには何が必要でしょうか、あなたの愛や私の慈悲を表現するためには何が必要でしょうか? 私はあなたの中にいます。あなたは私の中にいます。そこに機
��イ箒菠未呂△蠅泙擦鵝��

�ー1968年11月23日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月24日

あなた方はすべて私の手足であり、私によって養われています。あなた方がサイの体を構成しているのです。美徳、信仰、規律、謙虚さなど、サイが甘美で望ましいと見なすものをサイに与えるのなら、どこにいようとも、どんな機能を果たしていようとも、サイはあなた方に栄養を送ります。自分がサイの体の一部であることを喜びなさい。自分は足であるから硬い地面を踏まなければならないと、不平不満を言ってはいけません。自分は頭であるから他よりも上だと自慢してはいけません。どちらにも同じ血流が、プレーマ(愛)の流れが循環しているのです。それぞれの機能は、他の機能と同じくらい重要です。それぞれの機能は唯一無二でもあります。覚えておきなさい。失望に入り込む余地を与えてはなりません。あなたの役割は、あなたにしかできない特別なものです。頭で歩くことはできないし、足で考えることもできません。どんな立場にいようとも、己の徳によって恩寵を勝ち取りなさい。それが主要な徳分なのです。

ー1967年3月29日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月25日

行いが悪かったり、考えが悪かったり、間違った考えを説いたりする人に、神の使いを名乗る資格はありません。そのような人は、悪魔の代人と呼ばれるだけです。今日から、あなたは「神の使い」として、神が象徴する清らかさと真実と愛を世界に示さなければなりません。あなたが清らかで道徳的な生活を送るとき、あなたは自分を「神の子」と見なす権利を得ます。神は愛の権化なのですから、あなたは神が象徴する愛に反することをすべきではありません。あなたは「神の子」にふさわしい資質を伸ばすべきです。聖書には、イエスが弟子たちの足を洗ったことが記されています。弟子たちがその理由を尋ねると、イエスは「私はあなた方のしもべとして、あなた方の足を洗っているのです。こうすれば、あなた方は世の人々に仕えることを学べるからです」と答えました。そもそも、人は神の使いなのです。使いとしての使命を果たすと、人は自分が神の子であることを悟り、それから、神との一体感を得ます。

ー1984年12月25日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月26日

あなたが養わなければならない最初の資質は、神への感謝の気持ちです。人々は自分のためになされた小さな奉仕の行為にさえ感謝します。であれば、自然と五大元素を通して多くの必要不可欠な恩恵を与えてくれた神に感謝する必要があるのではありませんか? あなたが吸う空気、飲む水、歩く大地はすべて、神からの贈り物です。世界中の電球を全部合わせても比べものにならないほどの光を与えてくれる太陽に、あなたはどのくらい感謝していますか? 世界中の井戸の水を全部合わせても、一度の雨で得られるのと同じくらいの水が得られるでしょうか? 世界中の扇風機を全部合わせても、風が吹いたときと同じくらいの風を与えることができるでしょうか?こうした神の贈り物に感謝することもなく、人間は取るに足らないものを追い求め、人生を無駄にしています。さまざまな方法で神を崇めた昔の大聖仙たちは、信愛を神への感謝を表現する一つの手段と見なしていました。

ー1989年1月14日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月27日

己の心から妬みが根絶されたときに初めて、人間は自分自身に満足するようになります。満ち足りている人は平安を享受します。妬みはどのようにして生じるのでしょうか?自分よりも裕福な人、高い地位にいる人、高得点を獲得した人、美形な人と自分を比較して、自分の方が劣っているという意識に苛まれるとき、妬みが生じます。自分に欠けているものに対する不満が、妬みを生み出すのです。この悪しき性質を取り除くためには、自分よりも悪い状況下にある人々に目を向けなければなりません。たとえば、自分より得点が低かった人に目を向ければ、自分は他の人よりもよくできたではないかと安堵します。同じように、自分よりも低い地位で働いている人々の状況を見れば、自分の地位に満足します。このように、妬みをなくすためには、自分よりも悪い状況にある人々と自分を比較する必要があります。そのようにしていくうちに、より恵まれている人々に対しても、より恵まれていない人々に対しても、平等な心が育まれていきます。このような平等心が神の特質です

 ー1989年1月19日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月28日

純粋な行動を通して、心もまた浄化されます。しかし、単に心が純粋であるだけでは十分ではありません。心は集中力を養わなければなりません。集中力を養うためには、帰依心が有効です。バクティとは、バガヴァンから離れないことを意味します。神は遍在であり、神と自分を切り離すことはできない、という悟りがなければなりません。遍在する神を思い起こし、神の栄光を唱え、神を崇敬するためには舌(言葉の力)が必要です。ジャヤデーヴァは、神を讃えるために神から与えられた道具として、舌を賞賛しています。この神聖な道具を、他の人の悪口を言ったり、不愉快にしたりするために誤用してはなりません。ギータの中で命じられているように、不快な言葉を避け、真実で、心地よく、善良な言葉だけを使いなさい。辛辣な言葉遣いは避けなくてはなりません。このようにして使われたときにのみ、舌は純粋で神聖なものとなり得るのです。あなたの話す言葉が神聖になれば、あなたの人生そのものが神聖になります!

 ー1989年1月19日の御講話

ジャヤデーヴァ:12世紀インドの詩人。クリシュナとラーダーを描いた12編の詩「ギータ・ゴーヴィンダ」(ゴーヴィンダの歌)の作者。

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月29日

真の信愛を育てるための五つの必要条件があります。最初の条件は「献身」(すべてを神にげること)です。エゴイズム(アハンカーラ、自我意識)は、献身の精神を養う上での障害となります。それは、さまざまな形式の慢心、たとえば、肉体的力への慢心、知性への慢心、富から来る傲慢さといったものに表れます。しかし、これらはすべて永続きせず、いつ消えてなくなるかわからないため、身体や心(マインド)や財産を己の自負心の根拠とするのは賢明ではありません。それゆえ、エゴイズムを神への最初の捧げ物として放棄すべきなのです。次に、信愛を、人が神の摂理によって受け取る一切のもの、たとえば、呼吸する空気、太陽から得る光と熱、飲む水、摂取する食物などに対する、「感謝」の表現と見なさなければなりません。生きていくのに欠かせない必需品のすべては神の恵みによって得られます。信愛によって感謝を表すことは第一の義務です。バジャンやジャパ(唱名)や瞑想や祈りといった方法を通じてなされるすべてのことは、感謝の気持ちで行われなければなりません!

ー1989年2月17日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月30日

三つ目の条件は「規律」です。人生におけるほとんどすべての行為において、容認された限度と規定を守らなくてはなりません。これは霊的分野においても同様に適用されます。皆さんは、服装に関する事柄、マンディールの外での振る舞い、マンディールでバジャンが行われているときの振る舞い、それから、話すことや食べ物に関する規律を守らなくてはなりません。皆さんの行動はすべて、神聖さと純粋さに満ちているべきです。四番目は「識別力」です。識別力は、あなたが見るもの、聞くこと、話すこと、食べるものにおいて、日常生活のあらゆる面で役立てなくてはなりません。見知らぬ場所で何でもかんでも食べることは避けなさい。最後は「決意」です。固い決意がなければ、人生において何一つ偉大なことは達成できません。決意は、皆さんがあらゆる困難や障害に直面したときそれを克服できるように、霊性分野においてますます必要なものとなっています。皆さんは、自分が善と見なすもの、神聖なものと見なすもの、真理と認識するものを、固守しなければなりません。それが真の苦行です。

ー1989年2月17日の御講話

Japanese, 2022年3月

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月1日

シヴァラートリは、全人類に心(マインド)の制御という目標を思い起こさせます。聖賢によれば、月は心(マインド)を司る神です。現代科学も、心の変化と月の満ち欠けが精妙に関連していることを発見しています。月が欠けていく二週間には、月は日毎に小さく見えるようになります。これは象徴的に、心(マインド)も小さくなりつつあることを暗示しています。満月から十四目のこの日、地球や人間の心(マインド)に影響を及ぼす月はほとんど見えなくなります。このラートリ(夜)または無知の期間に、熱心に行われる徹夜の祈り、バジャン(グループでの詠唱)、断食などの霊性修行は、心(マインド)の消滅をもたらし、それによって人間に絡みついていた傾向や態度をすべて征服します。こうしてこのラートリ(夜)は、シヴァ神の天の輝きへと昇華されるのです。

 ー1977年2月16日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月2日

努力しなさい-それがあなたの義務です。切望しなさい-それがあなたの役割です。奮闘しなさい-それがあなたの任務です。あなたがこれらのことを誠実に着実に実行しさえすれば、悟りという報酬を、神が長く待たせることはあり得ません。川は、元来た海と合流するために努力し、切望し、奮闘します。それを成就することが常に意識の中にあるのです。その源に歓迎してもらえるように、川は自らを純粋で清らかな存在にしようとします。その目的地に向かう旅を成功させるために、川はあらゆる地形の障害を乗り越えます。人間もまた、悟りという最終目的地に向かう旅をするために、神から与えられた肉体的、精神的、道徳的、知的才能や物質的恩恵をすべて活用しなければなりません。現世と来世、この世とあの世といった二つの世界の存在に惑わされてはなりません。この世であの世を実現しなさい。現世は来世に織り込まれています。世俗と霊性、神性と物質、天界と地上-これらの間に格差を見ているのなら、そこに真実はありません。

ー1977年2月16日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月3日

瞑想という目的が達成されるまでは、規律として確立された座る姿勢(アーサナ)を守らなければなりません。それまでは課程を忠実に実行する必要があります。目的を達成した後、つまり心(マナス)と知性(ブッディ)を克服し、制御できるようになった後は、ベッドの上、椅子の上、岩の上、荷車の上など、どこにいても瞑想に没頭できるようになります。オートバイの乗り方を習得すれば、どんな道でも、どんな状況でも走れるようになります。しかし、バイクの乗り方を学んでいる最中は、自分自身と周囲にいる人々の安全のために、広い場所を選ぶ必要があります。それから、一定のバランス原理に従わなけばなりません。これは必須です。同じように、瞑想(サーダナ)をする人は、一定の訓練課程に従わなければなりません。これは変えようがないことなのです。

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月4日

「ソーハム」(我は神なり)は、私は彼)は、個人と神が同一であることを宣言しています。人が物質世界の触手に捕らわれている限り、この同一性が理解されることはないでしょう。これが神についての真理です。もし「その神はどこにいるのか」と尋ねる場合、その答えは『バガヴァッド・ギーター』18章61節で得られます。そこでクリシュナは「イーシュワラ・サルヴァブーターナーム・フリデーシェー」(神は生きとし生けるものすべてのハートの領域に宿っている)と宣言しています。私たちはギーターを学びます。私たちはギーターを崇拝しています。毎日ギーターの読誦が行われていますが、日常生活では実践されていません。神と自分は一つであると悟る人は、誰一人として傷つけないでしょう。一般の人々に奉仕することが、本当の神への礼拝です。神の力はすべてにあまねく浸透しています。私たちの旅は、個から普遍へ、「スワム」(私のもの)から「ソーハム」(神と一つ)へ、「私」から「私たち」へと向かうのです。

ー1983年2月11日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月5日

何事も言葉で説明するのは難しいものです。ともすれば、退屈させてしまうかもしれません。しかし、行動で示せば、より簡単で、より楽しくなります!瞑想について語るよりも、瞑想を行なって人々に理解させる方がよいのです!私が瞑想について書き、あなた方がそれを読んでも、そう簡単にはいきません。瞑想を通じて、人々は己の中にあるアートマ(真我)を悟る神聖体験に到達します。瞑想を通じて、霊性志願者はいくつも重なっている無知という鞘を少しずつ脱ぎ捨てることができるのです。彼らは、己の知覚感覚を世俗的な外界体験と接触することから引き離します。この神聖な成就を目指すプロセスが、瞑想と呼ばれるにふさわしいのです。このプロセスのために、人は良い習慣と規律と高い理想を身につけなければなりません。世俗的な物事とその魅力に対する離欲に満ちていなければなりません。どんな状況であっても、人は熱意と喜びをもって行動すべきです。何を行おうとも、それは生計を立てるためではなく、アートマの至福(アートマ・アーナンダ)を得るために捧げられなければなりません。

– Dhyana Vahini, Ch 2

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月6日

平安は最高の宝物であり、それがなくしては権力も権威も名声も富もすべて無味乾燥な重荷です。ティヤーガラージャは、内なる平安なくして幸福はあり得ないと歌っています。この平安を獲得し、それを揺るぎなく確立するためには、アビヤーサ(着実な修行)とヴァイラーギャ(完全なる無執着)を身につけなければなりません。人は生まれてから死ぬまで、習慣と慣例の奴隷です。それらを吟味し、客観的な喜びではなく主観的な喜びへと導くものにもっともっと頼らなければなりません。主観的な喜びは、家庭内の調和や家族や地域社会のメンバーとの相互協力、他者への奉仕活動や自分が生きている社会の福祉と繁栄に関与することによって得られます。

ー1975年4月20日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月7日

いつも気持ちよくいられるように心(マインド)を訓練することは、大いに必要です。川の水は、山から湧き出し、谷に落ち、渓谷を流れ、さまざまな段階で支流と合流します。そして濁り、汚れます。人生という洪水の中でも同様に、スピードやパワーが増えたり減ったりします。このような浮き沈みは、人生においていつでも起こり得ます。誰もそれらから逃れることはできません。それらが来るのは、人生の始めかもしれないし、最期かもしれません。おそらくは人生の中頃に来るのかもしれません。ですから、人生には必ず浮き沈みがあるのだと自分にしっかり言い聞かせて、それらを過剰に心配したり恐れたりせずに、己の経験の足しになるのだと歓迎すべきなのです。そう思うだけでなく、どんなことが起こっても、それを喜び、幸せであるべきです!そうすれば、どのような性質のトラブルがあろうとも、すべては軽く済み、早く過ぎ去るでしょう。そのためには、心の平静が必要不可欠です。

– Dhyana Vahini, Ch 3.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月8日

愛の化身である皆さん!この果てしない宇宙において、多種多様な生物の中で、優れているのは人間です。人類の中で、女性として生まれることは特権です。女性の卓越性を証明するたくさんの例があります。ラーマはカウサリヤー妃の胎内から神の化身として生まれたのではありませんか?クシャとラヴァという双子〔ラーマの息子〕が偉大になったのは、シーター妃のもとに生まれたからではありませんか?シヴァージーが偉大になったのは、母親のジージャバーイーの愛情深く世話をしたからではありませんか?ガンディーをマハートマ(偉大な魂)にしたのは、母親のプタリーバーイーの信仰心だったのではありませんか?偉大な聖賢、聖者、英雄、武将たちはすべて「彼らを偉大にした」女性のもとに生まれました。女性は自然の女神です。女性として生まれることが崇高で、魅力的で、賞賛すべきであるのは明白です。ヴェーダ聖典もまた、さまざまな表現で女性原理に敬意を表しています。

ー1995年11月19日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月9日

息をするたびにソーハム(私は神である)を繰り返しなさい。息を吸うときに「ソー」、吐くときに「ハム」です。「ソー」は「神」、「ハム」は「私」を意味します。吸って吐くを終えるときに、「ソー」(神)と「ハム」(私)は一つであると感じなさい。それから、長い実践を経て、神と私が二つの別々の存在であるという考えは消え、「ソー」と「ハム」はもはや存在しなくなるでしょう。それらの音は「オー」と「ム」に集約されて「オーム」(原初音)となります。あとは、呼吸するたびにその音を繰り返しなさい。それは生死の束縛からあなたを救い出すでしょう。これがヴェーダで推奨されているプラナヴォーパーサナ(プラナヴァ瞑想)です。このソーハム暗唱は、あなたを駆り立てている心(マインド)を抑制する良い手段です。心を常に神と結合させましょう。そうすれば、心が気まぐれに四方八方に逃げ出すことはなくなるでしょう。それが「サルヴァダルマーンパリティヤジャ・マーメーカム・シャラナム・ヴラジャSarvadharman parityajya mam ekam sharanam vraja 一切の義務(ダルマ)を放棄して、ただ私のみに庇護を求めよ*」とクリシュナが薦めた意�
�味なのです。心を完全に神の奉仕のもとに置きなさい。そうすれば、神があなたを転落から救うでしょう! 

ー1965年5月22日の御講話

*バガヴァッド・ギーター第18章66節(上村勝彦訳、岩波文庫)から引用

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月10日

ある対象に意図的に注意を向け、そこに固定するとき、そこには一点集中(エーカグラタ)があります。これは、心(マインド)の状態でもあります。集中力と一点集中は、選択した課題に努力を集中させるのに役立ちます。すべての人に集中力は不可欠です。それは努力を成功させる基盤です。それは、瞑想だけでなく、世俗的な事柄や普通の生活にも必要です。どのような仕事に携わろうとも、集中してそれを行うことで、自信と自尊心の両方が育まれるでしょう。なぜなら、それらはその人の心(マインド)のありようの結果であるからです。心(マインド)は善にも悪にも傾く可能性があります。そのため、良い促しのみに心(マインド)が関わるよう注意を集中させなければなりません。良い仕事が成功するか否かは、一点集中にかかっています。一点集中が力と技量を高めるでしょう。しかし、心(マインド)を乱す世俗的な欲望に打ち勝たなければ、一点集中を勝ち取ることはできません。この一点集中、この心(マインド)の征服は、瞑想の訓練によって得られます。

– Dhyana Vahini, Ch 3.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月11日

先程、大臣が皆さんにギーターの講話に出席するようにと述べました。しかし皆さんが会場の柱に寄りかかって居眠りするのなら、意味がありません。大切なのは音ではなく、意味です。耳ではなく、ハートでギーターに聞き入らなければなりません。大臣は皆さんに、サットサンガム(善良な仲間)を求め、楽しんで欲しいと言いました。皆さんはサンガム(仲間)と共に、自分がどれだけ感覚から逃れ、神に近づくことに成功したかを自己検証しなければなりません。マナ エーヴァ マヌッシャーナーム カーラナム バンダ モークシャヨー (Mana eva manushyanam karanam bandha mokshayoh)、心(マインド)は人を束縛する原因であり、解脱させる原因でもあります。ですから心を鍛錬して勝利しなさい。それは野生の象であり、ソーハムという鞭で従わせることができます。うぬぼれ、憎しみ、妬み、貪欲という餌を与えてはなりません。常に主の御名を耳の中に響かせれば、心(マインド)は飼い慣らされるでしょう。

ー1965年5月22日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月12日

現代人は幸せに暮らしたいと思っていますが、理想的な生活を送ってはいません。例えば、親たちは子供たちに良い手本を示していません。今の時代は、父親が子どもをきちんと指導せず、子どもは母親の言葉に耳を傾けません。現代の父親の大半は、ドリタラーシュトラのように振る舞っています。敬虔な生活を送っている善良な子供がいても、父親たちは「気でも狂ったのか?バジャンや社会奉仕には参加するな!」と叱責するのです。このような振る舞いをする親は、息子がハリ(神)を礼拝するのを許せなかったヒランニャカシプのようなものです。今日、ドリタラーシュトラやヒランニャカシプのような親はたくさんいますが、自分の子供に正義を守るよう励ます親はほとんどいません。現代の子供たちは、『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』、『バーガヴァタム』のような道徳心を培う著作を喜びません。彼らはくだらない本を読んで時間を浪費しています。親は子供たちが悪書を読まないように配慮すべきです。もし国家が繁栄しなければならないのであれば、親たちから改善が始まらなければなりません。

ー1995年11月19日の御講話

*ドリタラーシュトラ:マハーバーラタに登場する盲目の王。主人公であるパーンダヴァ五人兄弟を苦しめたカウラヴァ百人兄弟の父。

*ヒランニャカシプ:インド神話に登場する魔王。神を信仰する息子のプラフラーダに力づくで改宗を迫り、ヴィシュヌ神の化身であるナラシンハ(人獅子)に滅ぼされた。

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月13日

人には二つのタイプがあります。一つは私は罪人だと自分で自分を責める人です。もう一つは私は偉いと自分で自分を誉めそやす人です。どちらのタイプも、自分自身の心が常軌を逸しているため、苦しみます!両者共に必要なのは、心の満足です。これは瞑想によって得ることができます。瞑想によって理解は深まり、英知が育まれるでしょう。このため人は、瞑想への関心を高め、瞑想を好きになるべきです。それは他の手段は一切認めず、いかなる障害物をも容認しないという切望です。もちろん、音楽を聴いて喜びを得たいと切望することもあれば、亡くなった近親者の遺体を見て悲しむこともあるでしょう!切望は、嬉しい結果をもたらすかもしれませんし、嫌な結果をもたらすかもしれません!切望には、努力を促す力がなければなりません。実のところ、切望するとは、まだ努力を始めていないということです。切望を行動に移すことが努力です。切望が弱いと努力をしなくなります。一方が強ければ、もう一方も能動的になるのです!

– Dhyana Vahini, Ch 3.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月14日

生きているということは、全存在を活性化させる生命原理が個人の中で働いていることを意味します。属性(グナ)のない神は、神の性質である特定の属性をまとい、サグナ(属性のあるもの)となります。このようにして形成された個人は、その心(マインド)と知覚感覚に触れたさまざまな名と姿を知り、体験しようとします。つまり、これが生きるプロセスであり、「知る」プロジェクトであり、己の意識を拡大することなのです。そのプロセスには始まりと終わりがあり、成功と失敗、善と悪が含まれます。「私はジーヴィ(個我)であり、生きた個です」「私は神性意識の火花です」「私はアートマ(真我)の化身です」ーーこのように宣言しても、生命原理の完全な知識は明らかになりません。ジーヴィは神性意識そのものであり、戦車に乗せられています。それは、ある姿に形成されて、ある名前を付けられた、不活性物質の塊ではありません。そこにあるのはすべてに行き渡っている一つの神性意識だけです。しかし人間はそれを断片的に経験して、たくさんあると勘違いし、自分自身の無知が引き起こした混乱の中で模索しています。

ー1985年3月22日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月15日

識別の道(ヴィチャーラ ・マールガ)をあきらめない人々は、主の恩寵を受けます。そしてアートマを悟ることにもなるのです。彼らは常に、この世界という夢のような幻影の背後にある永遠の真理を探し求め続けます。無秩序に動く感覚を制御しなさい。そうすれば、病気の原因はなくなります。その訓練を心(マインド)に監督させ続けなさい。思考や計画や構想という狂気の洪水を堰き止めなさい。そうすれば、心(マインド)の中に心配や不安の入り込む余地はなくなるでしょう。あなたの想念がさまようのを減らすために、神の御名を繰り返し唱えなさい。そうすれば、あなたの悲しみと悩みを追い出すことができるでしょう。心(マインド)が消失しなければ、霊的叡智 の夜明けはありません。完全者とは、このことに成功した人のことです。霊性志願者は、まず「内面を見る力」と「内に向かうビジョン」の秘訣を学び、外観から注意を逸らさなければなりません。

– Dhyana Vahini, Ch 3.

訳注:ヴィチャーラマールガは探求の道、と訳されることもあります。

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月16日

体に腫れ物(おでき)があれば、そこに軟膏を塗り、すべて治るまで包帯で覆います。もしこの腫れ物に軟膏を塗らず包帯を巻かなかったら、感染症となり、あとで大きなダメージを引き起こす可能性があります。時々、きれいな水で腫れ物を洗い、また軟膏を塗って、新しい包帯を巻く必要があるでしょう。それと同じように、私たちの人生には「私が」「私が」「私が」という形で体の中に現れる特有の腫れ物があるのです。この「私が」という腫れ物を本当に治したいのであれば、毎日、愛という水で洗い、信仰という軟膏を塗り、謙虚さという包帯を巻かなければなりません。謙虚さという包帯、信仰という軟膏、愛という水が、「私が」という腫れ物が噴出するこの病気を治すことができるのです。

ー1985年2月17日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月17日

赤ん坊が、見て学び、理解した後、家の中のあちこちでよちよち歩きをしようとするのと同じように、霊性志願者も、内面世界でのよちよち歩きを学び、それを理解するのです。ゆりかごの中にいる健康な赤ん坊は、手足を振っては喜び、壁のランプを見ては楽しそうな声を上げます。同様に、身体と心と魂が健全な霊性志願者も、人生というゆりかごに横たわりながら、内面世界を眺め、その内なる喜びに大喜びして、絶え間なく拍手します。このことが行われなければなりません。その上で、叡智という完全意識から、すべての思い、すべての言葉、すべての行いが始まらなければなりません。さまよい歩くことなく、常に内なる世界に住むよう、己の知性に指示しなさい!これが内なる探求です。このために必要な最も重要な道具が瞑想です。霊性志願者は、自省という門から内なる探求に入ることができます。その門は、謙虚さと帰依を授けられたすべての霊性志願者を、人生において可能な限り高く神聖な地位へと迎え入れます。

– Dhyana Vahini, Ch 3.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月18日

瞑想者は、アートマ的至福の実現を重視しますが、世界の安寧を促進することも等しく重要な目的です。その目的を達成するためには、特定の身体的傾向、言語的傾向、心理的傾向を制御しなければなりません。三つの身体的罪悪、四つの言語的罪悪、三つの心理的罪悪は、通常「十悪」として知られています。身体による罪悪は、
生命を傷つけること、不倫、窃盗です。言葉による罪悪は、間違った警報を鳴らすこと、残酷なことを口にすること、嫉妬しながら話すこと、嘘をつくことです。心による罪悪は、欲張り、妬み、神の否定です。瞑想の道を歩もうと志す人は、この十の敵が近づくことさえないように、あらゆる注意を払わなければなりません。これらは完全に排除されなければならないのです。人には、進歩を助ける傾向のみが必要であり、それを引きずり戻すような傾向は不要です。善のみが吉祥(マンガラ)であり、吉祥のみがシヴァなのですから、人は、善(シュバ)のみを口にし、行わなければなりません。

– Dhyana Vahini, Ch 4

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月23日

古代の人々は、話し言葉の節約を実践していました。現代の学生はおしゃべりになりがちです。話し過ぎは心(マインド)に害を及ぼします。「話を減らせば、幸福が増える」のです。古代人は、話し言葉を制御するために、三種類の沈黙苦行を実践しました。一つ目は「ヴァーク・モーナム(舌の沈黙)」、二つ目は「マノー・モーナム(心の沈黙)」、三つ目は「マハー・モーナム(至高の沈黙)」です。ヴァーク・モーナム、すなわち話し言葉における沈黙とは、その場の必要性や制限に応じて、自分が口にする言葉を一定限度内に留めることです。この修行によってしゃべり過ぎが回避された結果、彼らの話す言葉の力が保たれ、強化されました。そしてまた、言葉の修行の結果、真実に満たされることにもなったのです。真実のみを語ることは、彼らの想念を浄化するのに役立ちました。それによって、彼らはスィッディ(真理の悟り)とグニャーナ・スィッディ(最高叡知の獲得)を得ました。ですから、話す言葉が清らかであることは極めて重要なのです。それは、言葉を慎むことによって達成するしかありません。

ー1994年2月3日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月24日

舌の沈黙(ヴァーク・モーナム)を達成したら、次は心(マインド)の沈黙(マノー・モーナム)です。心(マインド)とは、思考や空想の束です。これらの思考は、徐々に減らしていかなければなりません。思考が減ると、巻き戻された時計のように、必然的に心(マインド)が制御されるようになります。心(マインド)の活動が減ると、アートマ(真我)の力が現れるようになります。その結果、感覚よりもブッディ(知性)がより活発になります。言葉の制御と心の制御が達成されれば、容易にマハー・モーナム(至高の沈黙)の境地に達します。学生たちは、最初の二つの段階を訓練することによって、第三の境地に達するよう努力しなければなりません。私はよく皆さんに「おしゃべりを減らして、もっと勉強しなさい」と言ってきました。「勉強」とはどういう意味でしょうか?勉強や教育は、己の真我を神我とするためのプロセスです。そのためには、教育において価値を育むことが肝要です。

ー1994年2月3日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月25日

アートマを実感認識するためには、善良な性格が不可欠です。別の言葉で言うと、すべての悪い性向を根こそぎ取り除かなければなりません。指揮官が倒れると、その軍隊は意気消沈して降伏します。それと同じように、利己主義(アハムカーラ)が滅ぼされるとすぐに、邪悪な性質という軍隊は武器を捨てて降伏します。あらゆる邪悪な性質は怒りという王国から生まれたのですから、その王国を壊滅させれば、兵士たちは二度と頭を上げられなくなります。これを達成するには、それだけで十分です。利己主義という司令官の命令に従って行進する兵士が一人もいないのなら、いったい彼に何ができるというのでしょう?ですから、軍犬を放とうとする司令官が一人も現れないように、怒りという王国を壊滅させることにすべての努力を向けなければなりません。この司令官とその兵士たちの台頭を阻止することによって、霊性志願者一人ひとりに己の心(マインド)という王国の平和を守らせなさい。アートマという王の微笑みの下で、霊性志願者一人ひとりに絶えず恩恵を受けさせなさい。

– Dhyana Vahini, Ch 5.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月26日

国家は世界の一部です。世界の人々は平和のために努力すべきです。それが祈りの言葉「オーム・シャーンティ・シャーンティ・シャーンティ」が意味するところです。なぜ、このシャーンティ(平和・平安)は三回だけ唱えられて、それ以上でもそれ以下でもないのでしょうか?これは、平安の三つの側面、すなわちアーディバウティカ(肉体的)、アーディヤートミカ(心的)、アーディダイヴィカ(霊的)に言及しています。この祈りによって、体と心と真我に関連する平安が引き起こされます。バーラタ(インド)の賢者たちの言葉には、このような深淵なる意味が込められているのです。これらは、私たちに神を思い起こさせ、神我実現を求めさせるためにあります。人々は、神は人間の概念や把握をはるかに超えた存在であると想像しています。それは真実ではありません。神性はこの世にあるどんなものよりも身近な存在です。もしあなたが遠くにあると思えば、それは遠くに見えるでしょうが、近くにあると思えば、それは近くにあるのです!肉体を意識している限り、人は無相の神性を理解できません。それゆえ人は、人間の姿をした神を崇めざるを得ないのです。

ー1994年2月3日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月27日

人間は、穏やかで清らかな生活を送るために、ひたむきに努力を重ねなければなりません。悩みや混乱は過ぎ行く雲のように一時的なものであるという真理を理解しなければなりません。この真理を悟れば、煩悩が生じる余地はなくなります。情熱は一時的な満足をもたらすだけで、深刻な感情の乱れを引き起こします。そのため、食事中にいかなる不適切な情熱をも生じさせないことが、人間として必要不可欠です。三つのP、すなわち、純粋性(purity)、忍耐 (patience)、不屈の努力(perseverance)を遵守すれば、永続する幸福と、病気とは無縁の健康がもたらされます。人間の健康を害するのは、抑えの効かない情熱だけではありません。不正に得たお金で生活することも、ある程度は健康を害する原因となります。「心は食べる物のとおりになる。思考は心のあり方のとおりになる。日頃の行いは思考のとおりになる。健康は日頃の行いのとおりになる」と言われています。

ー1994年1月21日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月28日

「寒さ」も「暑さ」も神の計画の中にあります。あなたにできるのは、それを知り、両方を価値あるものとして扱うことだけです。自然界には、棘のある植物と棘のない植物の両方が存在しており、賢い人はどちらの価値も知っています。彼は棘のない植物を植え、その周りを棘のある植物で囲みます。そうすれば、自分が育てた植物を傷つけずに済みます。人は神に引き寄せられます。両者の本質にはこの親和性があります。なぜなら両者は同じであるからです。それは鉄と磁石のようなものです。しかし、鉄が錆びていたり、汚れの層に覆われたりすると、磁石に引き付けられません。その障害物を取り除きなさい。それがあなたのすべきことの全てです。試練や苦難は、この洗浄が行われるための手段です。クンティーが「あなたを決して忘れないように、私たちにいつも悲しみを与えてください」とクリシュナに祈ったのはそのためです。それらは、神を思い起こすナーマスマラナという薬の効果を補うために医師が指示する食事制限やその他の制限事項のようなものです。

-1953年10月21日、ヴィジャヤダシャミー祭での御講話

クンティー:叙事詩『マハーバーラタ』の登場人物。パーンドゥ王の妃で、カルナ、ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナの母。ナクラ、サハデーヴァの育ての親。

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月29日

主は万人の父であり、すべての人がその財産の分け前を請求することができます。しかし、それを得るためには、知性と識別心が一定の水準に達していなければなりません。意志薄弱で不謹慎な人物は、この財産を受け取るのにふさわしくないとみなされるかもしれません。主の財産は神の愛、純粋な愛です。もし識別心と離欲を備えているならば、あなたは自分の分け前を権利として主張することができます !帰依心を持参して、ここに置きなさい。そしてここから霊的な強さを受け取りなさい!このようなビジネスが行われれば行われるほど、私は嬉しくなるのです!あなたの持っているもの、あなたの悲しみや嘆き、心配や不安を持参し、私から喜びと平安、勇気と自信を受け取りなさい。私の見解では、帰依者の間には先輩も後輩もありません。母親は、病気の子供の世話に多くの時間を費やします。母親は、年長の子供たちには自分で自分の世話をするよう頼みますが、幼い子供たちには自分の手で食事をさせます。だからといって、彼女が成長した子供たちに対する愛情を持っていないわけではありません!同じように、私がある人に注意を払っていないように見えたとしてぁ
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ー1955年3月6日、マハーシヴァラートリ祭の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月30日

現代は、カリユガの影響により、二種類の病気が増えています。一つは飽くなき富への渇望です。あらゆる都市に、お金を儲けるための狂奔があります。誰もがこの流行に巻き込まれているのです。確かにお金は必要です。しかしそれは、その人の必要を満たす範囲までです。過剰な欲望のために、人々はバランス感覚を失っています。富を追い求めるうちに、人間は魔物となります。どちらにせよ、彼らはその莫大な富を有効活用しているのでは?と問われるかもしれません。いいえ。そのお金は最終的に強盗などの手に渡る可能性もあります。社会から得たものは、社会に返しなさい。それが、誰もが大切にすべき第一の価値です。第二の病は、権力への渇望です。これら二つの病に冒された人間が、全世界を狂気の館へと変えているのです。富や権力を望むこと、それ自体は間違いではありません。しかし、富と権力は正しい目的のために使われるべきなのです。あなたがどのような地位にあろうとも、それが価値あるものとして使われるように気をつけなさい。

ー1997年4月7日の御講話


カリユガ:悪魔カリの時代(ユガ)。古代インド哲学では、四つのユガが循環すると考えていた。その一つがカリユガ。末世。末法。

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月31日

自然界にあるすべての物は、その特定の機能を果たしています。太陽と月は絶え間なくその務めを果たしています。神もまた、休んだり中断したりすることなく、その務めを果たしています。川は海に向かって流れることで、目的地にたどり着くまで努力をあきらめてはならないという教訓を伝えます。人は、落ち着いた精神で正しい行いに関わるべきです。人生には、良いことも悪いことも、浮き沈みもあります。悪いことは無視し、良いことを楽しみなさい。かご一杯分のマンゴーを買うと、熟しすぎて腐った実が混ざっていることもあります。皆さんは痛んだものを放置して、良いものを消費します。同じように、人生においても、悪い経験は忘れ、良い経験は生かすべきです。人間は、そうしようとはせず、悪かった経験についてくよくよと考え込み、ようやく巡って来た良い経験も台無しにしています。これは弱さの表れです。人間の一生は、良い経験、悪い経験、喜び、悲しみの連続です。時間と場所という変化しやすい条件が、それらの経験を左右しているのです!

ー1991年3月17日の御講話

Japanese, 2022年2月

プラシャーンティ・ニラヤムからの今日の御言葉 (2022年2月1日)

教育とは、空の袋に詰め物をし、その中身を出して、また空の袋を作るようなものと考えてはいけません。教育によって満たされなければならないのは、頭脳ではありません。教育によって浄化され、拡大され、照らされなければならないのは心(ハート)なのです。教育は 「人生」のためのものであり、「生計を立てる」ためのものではありません。教育を受けた人間の証は、まだ探求されていない広大な未知の世界について、自分がほとんど知らないという謙虚さです。教育を受けた人間は、自分には特権よりも義務があり、権利よりも義務があることを自覚しなければなりません。自分が置かれている社会と、先祖から受け継いだ遺産に奉仕しなければなりません。奉仕することを喜びとすべきであり、支配することを望んではなりません。奉仕は神であり、奉仕が人生を価値あるものにするからです。奉仕は、己の技術、知性、力、資源を活用する最良の方法なのです。

– 1973年4月1日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 (2022年2月2日)

束縛をもたらす行動には、外側にある物に関連した行動すべてが含まれます。このような行動は、通常、成果を求めて行われます。この成果への渇望が人を「私が」「私のもの」という泥沼と、欲望と貪欲という悪魔へと導くのです。このような道をたどるなら、清澄なバター(ギー)を供犠の火に注いだときのように、突然の炎に見舞われることになるでしょう。感覚の対象(ヴィシャヤ)を優先することは、毒(ヴィーシャ)を優先することと同じです!しかし、そのような活動や感覚器官の対象物に没頭している間に、成果や結果に関心を抱かないのであれば、「私が」「私のもの」という意識や貪欲や欲望を克服できるだけでなく、そうした特性から遠く離れることができます! そのような特性に悩まされることは決してありません。解脱をもたらす行動は、純粋で、欠点がなく、無欲で、揺るぎないものです。ギーターの中で詳細に説明されている、成果を求めない行為(ニシュカーマ・カルマ)という考えを重視しているのが、その特徴です。

– Dhyana Vahini, Ch 1.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 (2022年2月3日)

あなたは疑いやプライド、偏見によって視野が狭くなっているので、自分の中にも外にもいる神を見ることができないでいます。あなたはないものに憧れ、自分の手の届くところにある宝物を無視しています。あなたは、自分の手には鳥がいないと誓い、藪の中で自分を待っていると信じる鳥を探すのに必死です。藪の中の鳥は、あなたが既に手にしている鳥のイメージに過ぎないのですが、あなたはこの真実に気づいていません。あなたは、感覚とそれによって得られる知識を信じ、自分の心(マインド)が生み出す空想や想像を信じ、自分の理性による結論を信じています。しかし、これらに束縛されることなく、これらによって見出すことのできない神を信じていません。だからあなたは恐れ、嘆き、疑うのです。『神を思う』という蚊帳をあなたの周囲に張り巡らせなさい。そうすれば欲望や不信という致命傷をもたらす蚊に襲われることはありません。その蚊帳があれば、あなたは病気を免れ、健康を得ることができるでしょう。何かに恋焦がれたり、何かを恐れたりすることがなくなり、乱されることのない安心感を覚えるでしょう。

ー1973年4月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 (2022年2月4日)

ニシュカーマ カルマ(結果を望むことなく行為を行う)という修行の実践は、真理、正義、平安、愛を発展させることにつながります。この道を歩んでいる間に、主の御名を繰り返し思い起こす修行にも取り組むのであれば、それ以上の喜びと至福を与えるものが何か他にあるでしょうか?それは完全なる満足感をもたらすでしょう。この神聖な道を歩むならば、必要なもの、ふさわしいもの、心の平安をもたらすものをすべて、主が自ら授けるでしょう。結果を一切求めることなく、すべてのものを主に捧げなさい。まさにそれが完全な喜びをもたらすでしょう。そして実際に、それが最も簡単なのです。真実を語らず、ダルマに反する行為をすることは非常に困難です。しかし一方で、真実を語り、ダルマの道を歩むことは非常に簡単です。物事をありのままに述べるのは心地よい作業です。それについて一瞬たりとも考える必要はありません。ですから、このようなあらゆる悩みや複雑な問題をもたらす感覚的行為に従うのではなく、解脱へと導く行為、つまり真実で永遠で神聖なる真我至福の道(アートマ アーナンダ マールガ)に従いなさい。

– Dhyana Vahini, Ch 1

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月5日

神は喜びと嘆きの両方の創始者です。神の意志がなければ、草の一本たりとも風の中で揺れることはできません。この真理がハートにしっかりと定着すれば、人は解脱という唯一無二の至福を手に入れることができます。神はすべてを与えます。私たちが得るものはすべて神の恩寵です。あなたには、自分が得たものが良いか悪いかを判断する権利はありません。あなたの中に神をしっかりと定着させるためには、神の像や絵(写真)を礼拝したり、神の栄光を瞑想したり、神の御名を唱えたりすることすべてが、サーダナ(霊性修行)の準備段階として役に立ちます。私は、神を求めて崇拝される寺院や礼拝所、祭壇、神社が必要ないと言っているのではありません。文字を習得するまでは、入門書に絵が必要です。『A』という文字は、その上に印刷されているリンゴ(Apple)の絵と関連づけて学習します。だからといって『A』を考えるたびに、そのリンゴを思い出さなければならないと強制されているわけではありません。
                                                                  – 1973年4月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月6日

心は一つの方向に集中させなければなりません。人々は自分に定められた目標や成就のためにあらゆる努力をしながら、確固たる決意をもって歩まねばなりません。これが為されれば、どんな力も人々を引き戻すことはできず、本来の地位を獲得できるのです。四方八方に逃げていく気まぐれな心に、主の御名を黙想させなさい。それは、虫眼鏡で太陽光を集中させるような効果をもたらすでしょう。散らばっていた光線たちは、炎の力を得て、燃やし尽くします。それと同じように、知性の高まりと心(マインド)が感じる気持ちが、アートマという収束レンズを通して一点に集中すると、それらは悪を焼き尽くし、喜びを照らすことのできる普遍的な神の輝きとして顕現します。一点集中がありさえすれば、誰でも自分の職業や職場で成功を得ることができます。どんなに些細な仕事であっても、それを達成させるには上質の集中が必要です。どんなに困難な問題であっても、揺るぎない努力の前ではすべて押し流されます。

– Dhyana Vahini, Ch 1.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月7日

神に執着しなさい。神の存在を感じ、神の栄光を喜びなさい。神が認めない行為や言葉によって、神を落胆させたり、嘆かせないようにしなさい。神にわずかでも『煩わしさ』や『心配』を与えてはいけません。神は何も持っていませんが、もしあなたが神を深く愛し、神は自分の主であり愛であると思うなら、あなたは神のことに気を配るようになるでしょう。ジャターユは、絶え間なくラーマのことを思い続け、ラーマによって報われました。ラーマは彼の最期の瞬間にやってきて、彼の最後の儀式を自ら執り行いました。それはラーマが自分の父親に対してさえも直接行わなかった義務だったのです。パーンダヴァ兄弟の代理として和平交渉に赴いたクリシュナがドゥルヨーダナの宮廷から戻ると、サハーデーヴァがクリシュナに言いました。「主よ、お許しください。悪党どもが耳を貸さないのはわかっていたので、悪の巣窟へと向かおうとするあなたを私は自ら進んで止めましたが、あなたはとても親切にしてくださいました。」神はあなたに仕えます。あなたが己の人格を培い、内面を磨いて、そこに神が反映されるようにすれば、神はあなたを救い、永遠にあなたの味方になるでし�
�ょう。

– 1967年1月14日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月8日

人は無限の力を授けられています。それがない人は一人もいません。しかし、この真理を知らないでいると、道を踏み外すことになります。この力に気づくためには、聖なる人々の仲間に加わり、霊性修行(サーダナ)に励み、神の御名を繰り返し唱え、瞑想しなければなりません。たとえ、あなたがたくさんの食材をふんだんに持っていたとしても、それらを美味しく料理する方法を知らなかったら、いったい何の役に立つのでしょう?同じように、人々は己を良い状態に保ち、進歩するために必要なすべてを備えているのに、それらを役立てるプロセスを知らないため、それらを安易に放棄し、使わないままにしています。人々は、この世に存在する名と姿を持った多種多様なすべてのものの基礎である唯一無二の普遍的力(シャクティ)を見、理解しようと努めなければなりません。心(マインド)はいつも揺れ動きます。瞑想は、集中力を身につけるために心(マインド)を訓練するプロセスです。

– Dhyana Vahini, Ch 1

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月9日

神の御心のままにーこれがあなた方の指針であるべきです。チョーラ朝の皇帝が、かねがね評判を聞いていたスリランガム・ゴープラム寺院を訪れようとしました。彼は馬車を用意し、六ヶ月の間に何度も行こうとしましたが、そのたびに黄土色の衣をまとい、首にロザリオをかけ、頭に光輪をつけた出家者に遮られてしまいました。出家者に敬意を表するため、皇帝は馬車を下りました。出家者と話し始めると、その話はあまりにも魅力的で、皇帝は自分が旅をしていることも、どこに向かっているのかも忘れてしまいました。ある日、スリランガムの栄光を目に焼き付けられなかったことを皇帝が嘆いていると、彼の前に主が現れて言いました。「あなたはなぜ嘆くのか。あなたがスリランガムを目指して出発した途端、何度もあなたのところに来た師は私である。すべての中に私がいると認識しなさい。それこそがスリランガムへの真の巡礼である。」あなたが出会うすべての人は、スリランガムの主、あなたの師であると思いなさい。あなたのもとへ来る人すべてに対して、汚れなき愛を示しなさい。

ー1967年1月14日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月10日

至高のアートマ(パラマートマ)を瞑想した結果、心は感覚や物、感覚的な世界から退きます。まさにその時、知性(ブッディ)がその権威を主張し、基本的原理を思う以外の感情を抱かないよう、心に命じなければなりません。その基本的な真理がわかれば、心は儚いもの、真実でないもの、至福でないものに惑わされなくなるでしょう。それよりむしろ、喜び、幸福、真理の開花を受け入れて、悲しみや嘆きには影響されなくなるでしょう。瞑想によって浄化され変容した心(マナス)と知性(ブッディ)を通じて、至高の実在(サッチダーナンダ)に覚醒した状態で、至福をイメージし、実感認識すると、その人の命は新たな輝きを帯びます。果物の味が明らかになるのは、一部を残さずに丸ごと全部を食べた時です!同じように、瞑想を体験すれば、それに関する疑念や議論をすべて放棄して、人は完全に瞑想に没頭するようになるでしょう。

– Dhyana Vahini, Ch 1

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月11日

あるところに、娘の結婚式で行われる祭列のために、年老いた象を借りた男がいました。結婚式が終わって、祭列が家に戻り、花嫁が象から降りた瞬間、その象は倒れて死んでしまいました。象の飼い主は、この知らせにショックを受け、不可抗力の不運であったと認めることを拒絶し、同じ象を生きたまま返せと主張しました。飼い主は裁判所にこの問題を訴え出ました。裁判官は、強欲な飼い主が通らなければならないドアの背後に、素焼きの壺をいくつか置いておきました。飼い主がドアを開けると、それらは全部割れてしまいました。裁判官は飼い主に、それらの壺を元に戻すよう求めました!その結果、飼い主は分別をわきまえるようになりました。このような狂信的な愚かさを抱いてはなりません。わずかなりとも残っている識別心を使って、その厳しさを緩和しなさい。道理をわきまえ、他者を思いやり、共感し、他の視点に対して寛容でありなさい!これらのことについて、日ごとに自分自身を向上させなさい。

ー1967年1月14日の御講話

プラシャーンティニラヤムからの御言葉 – 2022年2月12日

瞑想は、熱心に、十分な信仰と配慮をもって、定められた規律に厳密に従いながら行われるべきです。そうすれば、あらゆる幸福やあらゆる勝利だけでなく、主のビジョンさえも授かることができるでしょう。これは、至高の霊性科学(ヴェーダーンタ)と結びついており、自然(プラクリティ)科学とも結びついているのです。この二つの違いはただ一点だけです。自然(プラクリティ)を研究する人々はこの世にある物体に夢中で、ヴェーダーンタを研究する人々は人生の根本をなす真理に夢中になっています。そして、すべての人はその両方に縛られているのです!自然は感覚の対象(ヴィシャヤ)に関係し、ヴェーダーンタは己の実在(スワールパ)に関係しています。もし人々が、己の人生を内面的にも外面的にも素晴らしいものに変えたいと願うのであれば、彼らが取り入れられる中で最高の霊性修行(サーダナ)は瞑想です!

– Dhyana Vahini, Ch 1

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月13日

人間は常に、官能的快楽の毒水を飲みたいという、別種の渇きに悩まされています。あなた方それぞれが、己を脅かす六つの敵、カーマ(欲望)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)、モーハ(迷妄)、マダ(高慢)、マーッサリヤ(嫉妬)を完全に手放した全託の後に、戴冠する資格を得ます。これらの手強い敵がまだ己の中にいる状態で王冠をかぶると、眉の上に宝石ではなく石を載せることになります。真の戴冠式は、ラーマの仲介で行われたヴィビーシャナの戴冠式です。その地位は全託と犠牲によって得られました。自転車のタイヤのチューブは、路上に釘があるとパンクします。「私が」と「私のもの」は、人間の進歩をパンクさせる二本の釘です。人間の側近は、ヴィヴェーカ(識別心)とヴァイラーギャ(無執着)の二人です。彼らの強さを保ち、全面的に従いなさい。なぜなら彼らは、あなたが傷つくことなく、喜びに満ちて生きるよう助けてくれるからです!

ー1967年1月14日の御講話

プラシャーンティニラヤムからの御言葉 – 2022年2月14日

ジャパ(御名を繰り返し唱えること)や瞑想の目的について、人ははっきりと知っておかなければなりません。この知識がない人々は、自分は客観的世界と結びついていて世俗的な欲望を満たすことができると信じ、感覚的なメリットという手段を用いて己の価値を実証したいと望みます。これは重大な誤りです。ジャパと瞑想は、神への一点集中を身につけ、感覚的執着を捨て、感覚的な事物すべての基盤である「それ」から得られる喜びを獲得するためのものなのです。心(マインド)がハエのように分別なくあらゆる方向にさまようべきではありません。ハエは、菓子店にいたかと思えば、ゴミ収集車を追いかけたりします。そんな知恵足らずのハエには、第一の場所の甘さと第二の場所の不潔さが理解できるよう教えなければなりません。そうすれば、菓子店から抜け出してゴミ収集車を追いかけることはなくなるでしょう。このような教えが心(マインド)に伝わる時、それが瞑想なのです

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月15日

あなたが神に献身するのはあなた自身のためです。あなたがどんな御名や御姿の主を礼拝しようとも、主は応えてくれるでしょう。主はすべてを提供し、あらゆる願いをかなえます。帰依者が窮地にあろうと、何らかの物を切望しようとも、求道者であろうとも、グニャーニ(叡智者)であろうとも、神はその人の帰依の度合いに応じた対応をします。神性の化身である皆さん!神を実感認識するためには、愛が最も簡単な道です。月の光があって初めて月を見ることができるように、愛の化身である神には愛を通じて到達できます。愛をあなたの生命の息吹とみなしなさい。愛は、創造のプロセスにおいて最初に出現した性質です。他のすべての性質は愛の後に現れました。ですから、あなたのハートを愛で満たし、あなたの人生の基盤を愛としなさい。

ー1986年11月23日の御講話

プラシャーンティニラヤムからの御言葉 – 2022年2月16日

主は神の財産と力をすべてあなた方に授けています。あなた方はこの財産の相続人であり、その財産が何であるかを見出さなければなりません。サイの財産は、純粋で無私で限りなき愛です。あなた方が目にしている建造物は、サイの財産ではありません。あなた方はこの愛を継承し、それで自分自身を満たし、それを世界に示さなければなりません。これが、サイの帰依者としてのあなた方の最高の責任です。全能で遍在で全知の主に、あなた方が捧げることができるものは何でしょう?あなた方が神に捧げるさまざまな物事は、迷妄によって与えられています。宇宙に遍満する主が一寺院の中に閉じ込められるでしょうか?十億個の太陽の輝きを持つお方のために、あなた方がどんな灯りをともすことができるというのですか?主の真理は、ブラフマーやハラ(シヴァ神)の理解をも超えています。どうして他の人が主を理解することができるでしょう?万物であるお方にどんなお名前をつけることができるのでしょう?胃の中に宇宙を保持するお方に、あなた方がどんな食べ物を捧げることができるというのでしょうか?

ー1986年11月23日の御講話

プラシャーンティニラヤムからの御言葉 – 2022年2月17日

ミツバチを見なさい。ミツバチは甘さだけに触れ、蜜をもつ花のみに近寄ります。他の場所に引き寄せられることはなく、そのようなところにはまったく行きません。同様に人は、感覚を魅了するもののへ向かおうとする傾向、真実ではなく永続することもないガラクタに向かおうとする傾向を、すべて手放さなければなりません。できる限り、主と関連した甘さと喜びをもたらす、聖なるものすべてに心を向けなければなりません。もちろん、これらを達成するには時間が必要です。その時間がどのくらいになるかは、思いと言葉と行動という活動、それらの行為を促す動機によります。自我という考えを捨て去ることができたかどうかを深く検討すれば、自分がどれだけ進歩したか判断することができます!そのようにせず、勘定をして、費やした時間とかかった費用を合計しているようであれば、そのような瞑想は客観的な世界にだけ属しています。それが主観的・霊的な領域に入ることは決してあり得ません!

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月18日

人間の思考は、さまざまな種類の執着(ラーガ)と憎悪(ドウェーシャ)に満ちています。執着と憎悪は、人間の中で優勢な性質です。それらは人間の生活に取り憑く凶星です。あるとき、シュリ・シャンカラーチャーリヤの弟子のトータカが師に尋ねました。「師よ、この世で最も偉大な征服者とみなされるのは誰ですか?」シュリ・シャンカラーチャーリヤは答えました。「数々の王国を征服した者や、ヒマラヤに登頂した者、あらゆる知識を習得した者ではなく、己の感覚の制御を達成した者こそが最も偉大な征服者なのです。」プラフラーダは父であるヒランニャカシプに「父上は三界を征服したいとお考えですが、ご自身の感覚を制御することには失敗なさっておいでです」と告げました。怒りや憎しみなどの内なる敵を制圧してない者が、どうして外敵を征服することを望めるでしょう?内なる敵は、ただ一つの手段、愛によってのみ制圧することができます。愛を実践し、六つの内なる敵を制し、すべての行動を神に捧げることによって、人生を価値あるものにすることが大切です。

ー1986年11月23日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月19日

ジャパ(神の御名を繰り返し唱えること)やディヤーナ(瞑想)を、単なる外的基準で判断してはなりません。それらの本質は、アートマとの関係です。不滅のアートマ体験が、現世の低俗な活動と混同されてはなりません。このような活動は避けるべきです。それらに機会を与え、焦りと怠惰の間で揺れ動き、「なぜまだ来ないのか?なぜまだ遠いのか?」と常に気にしているようであれば、それは成果が念頭にあり、獲得しようという意図をもって行われる単なるジャパとディヤーナとなります。ジャパとディヤーナの唯一の成果は、外向きから内向きへの転換であり、己の目を内面に向けることであり、内面に向かう目がアートマ的至福という実在を経験することです。この変容が起こるためには、時間がかかろうとも、困難に遭遇しようとも、常に活動的で希望に満ちていなければなりません。費用や時間や困りごとを数え上げずに、主の恩寵が降り注ぐのを待つべきです。この忍耐強く待つことが、瞑想という苦行(タパス)そのものなのです。

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月20日

人間は本質的には神です。さまざまな要因のために、人間は己が本来持っている神性(サット・チット・アーナンダ)を忘れる傾向にあります。人間の中にある神性を覆い隠している無知というベールは、簡単には取り除けません。富も地位も学問も、このもやもやを取り除くことはできません。アートマ・グニャーナ(真我の知識)だけが、その治療薬を提供することができます。あなた方は、財産や地位や繁栄から得られる快楽に惑わされてはなりません。これらは一過性のものであり、来ては去っていきます。人間の生活には、親類縁者のように、苦楽がついて回ります。人間は、己の本性を悟り、生来の神性を体験するよう努め、その時々の誘惑に屈しないようにしなければなりません。苦しみも喜びも偽者です。それらに迷わされてはなりません。真我は時間と空間を超越しています。それは永遠で不変です。古来永遠の哲学のメッセージは、真我の本質の探究です。それは人間の第一の義務でもあります。

ー1986年11月23日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月21日

人間は、己の真の本性に目覚め、それを確立しなければなりません。さもなければ、その名を名乗る資格はなくなります。火が燃えなかったり、水が流れなかったりしたら、その名を名乗ることができますか?真正であるということは、最も深いところにある中心のとおりであるということです。人間は己の本性として真理をもっています。つまり、人間の行動は常に真実であるべきなのです。彼は、心からの言葉だけを口にするでしょう。同様に、人間は己の言葉のとおりに行動すべきです。彼の思いと言葉と行動は首尾一貫しており、互いを相補うものであるべきです。もし、このような一貫性がない場合は、その人は見た目だけの人間です。というのは、獣は思いや言葉という責任に縛られないからです。天地創造の万物は変化の法則に従うものであり、人間もまたその法則に従うことになっています。しかし人間は、進歩のためにその法則を使うべきであり、下位に滑り落ちるために使うべきではありません。ダルマ(正義)は、人間が遵守しなければならない規範であり、それによって人間は良い存在からより良い存在へ、より良い存在から最高の存在へと変わります。

ー1975年4月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月22日

霊性志願者が瞑想の道に入ろうとする場合、三つの道があります。純粋で穏やかなサトウィック(浄性)の道においては、ジャパ(唱名)と瞑想を義務として考え、そのためならどんな苦労にも耐えます。すべては迷妄であると確信し、どんな状況下にあっても、いついかなる時にも、善だけを行います。万人の幸福だけを望み、常に皆に愛情を注ぎます。絶えず主を思い、瞑想しながら時を過ごします。唱名や瞑想の成果さえも求めず、すべてを主に委ねます。情熱的で落ち着きのないラジャスィック(激性)の道では、あらゆる段階において己の行動の成果を渇望します。もしその成果が得られなかった場合、霊性志願者は次第に気の緩みと嫌気に押し切られるようになり、唱名と瞑想のことを徐々に忘れていきます。もっと悪いのは、無知なタマスィック(鈍性)の道で、主を思い出すのは、危機に陥った時や激痛に苦しんでいる時、あるいは損失や苦痛の犠牲となっている時だけです!

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月23日

ブッディ(知性)は、賢く清らかで正しい状態に保たれなければなりません。知性が人間を導く四つの傾向があります。(一)スワールタ・スカ・ブッディ(Swartha-sukha-buddhi)は、完全に自分本位な性質を意味します。個人は妻子でさえも気にかけず、何よりもまず自分自身の欲求を満たすことに熱心になるのです。(二)スワールタ・パラールタ・スカ・ブッディ(Swartha-parartha-sukha-buddhi )は、他の人の幸福もある程度考慮することができます。(三)パラールタ・ブッディ(Parartha-buddhi)がある人々は、自分自身が求める幸福と同程度の幸福を、他の人のためにも探し求めます。自分に幸福をもたらすと感じているものを、他の人にも確保するためなら、どんな苦労も厭いません。(四)アーディヤートミック・ブッディ(Adhyatmic-buddhi)である霊的知性は、人間を放棄と奉仕の道へと導きます。その二つだけが霊性向上へと導くからです。霊的知性は、創造の一体性を認識しており、他の人が感じていることを自分も同じ程度に感じるのです。

ー1975年4月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月24日

今はほとんどの人が、神の御名を唱え瞑想する時に、情熱的で落ち着きのないラジャス(激性)の道と、退屈で無知蒙昧なタマス(鈍性)の道だけをたどっています。しかし、神の御名を唱え瞑想する目的は、心(マインド)と知性の浄化に他なりません。これを成し遂げるためには、最初に純粋で穏やかなサトワ(浄性)の瞑想の道に入ることが最も良いのです。心(マインド)と知性が純粋になると、その人々は真我(アートマ)の理解という輝きを放つようになります。この理解が完全に輝いている人は賢者(リシ)と呼ばれます。「ブラフマヴィッド・ブラフメーヴァ・バヴァティ(Brahmavid Brahmaiva bhavati)アートマを知る者はアートマそのものになる。」人生の目標、すなわち人生を価値あるものにするのは、アートマ(真我)の理解です。もしくは別の言葉で言うならば、個我(ジーヴァ)の基盤の理解です。

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月25日

あなたが神の愛を勝ち得たとき、神の慈悲があなたの中に流れ込むでしょう。愛は与え、許します。エゴは獲得し、忘れます。息子が家からお金を盗んだとしても、あなたは彼を警察に引き渡したりはしません。しかし使用人がスプーンを盗んだら、ためらわずにそうするでしょう。なぜなら、あなたにはその使用人に対する愛がないからです。他人を憎むことなく、他人を非難することなく、他人の欠点をあら探しすることなく生きなさい。十八の膨大なプラーナ(古潭集)を著したヴィヤーサ仙は、すべてのプラーナを一篇の二行句にまとめました。「他人に善を行うことは唯一の功徳ある行為であり、悪を行うことは最も悪質な罪である。」自分には善行はできない、と感じるのなら、少なくとも悪い行いをやめなさい。それ自体が賞賛に値する奉仕です!差異を見つけ出そうとしてはなりません。一体性を見出しなさい。人生の目的は、愛を介して愛の化身である神を知り、神を知ったことを自分の愛を通して示すことなのだと理解しなさい。

ー1975年4月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月26日

体の姿勢と心の姿勢には密接な相互関係があります。ですから肉体を見れば、その人の内面にある気分が明らかになります。その気分に気づく手助けとなるのは、肉体の姿勢や外見です。一例を挙げましょう。身構え、シャツの袖を捲り上げ、拳を握り締めていたら、愛や帰依心を示すことはできません。ひざまずき、目を半分閉じ、合掌した手を頭上に上げながら、怒りや憎しみや残酷さを示すことできるでしょうか?それゆえ、古の賢人は霊性志願者に、祈りと瞑想においては適切な身体姿勢を取ることが必須であると指導したのです。彼らは、この方法によって心の迷いを制御することが可能になると考えていました。         

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月27日

皆さんは、私たちが通り過ぎているこのカリの時代の特徴に完全に気づいています。皆さんの周囲には不正、不法行為、不道徳、虚偽など、ありとあらゆる悪魔的属性や残虐行為があります。しかし、これらすべてがあったとしても、私たちは生きとし生けるものに対して静かで寛容で温和な態度を示しながら前に進まなければなりません。人生のあらゆる分野と部門はこうした有害な感情で汚染されていますが、教育の分野においてはそれが最も顕著であり、私たちの特別な注意が必要です。私たちはまず、親や生徒や教師がなぜ反学問的な活動に積極的に参加しているのか、その原因を探ってみる必要があります。その主な理由は、人間の心が、利己心と野心という二つの悪魔的な汚れに取り憑かれ、支配されているからです。これらの力が、人間性を培うために必要な人間的価値の実現を阻んでいます。一粒の石炭ほどしか価値のない世俗的欲望や野望のために、宝石のように貴重な価値ある人生を差し出すことは、人間としてあるまじきことです。
                                                                                                                                       ー1975年4月10日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月28日

プルシャ スークタム〔プルシャ讃歌〕は、「チャンドラマー マナソー ジャータハ」(心は月から生じた)と謳っています。月には16の相があります。それと同じく、心にも16の相があります。シヴァラートリの夜には、月の16相のうち15の相は目に見えず、一つの相が見えるだけです。心もそれと同じ状態にあります。もしシヴァラートリの間に神を瞑想するなら、神に近づくことができます。シヴァラートリのこの上ない神聖さは、神を瞑想することによって神と一つになることにあります。あなたが否定していることは真実であり、神だけが存在しているのです。世界は実際には存在しません。その真実を忘れて、人はつかの間のものを追い求めることに没頭しています。世界は神の映しとして見なければいけません。あらゆる行いを神への捧げものとして行わなければなりません。本物の神の信者は、宗教やカーストや宗派の違いを重視してこだわるようなことはすべきではありません。そういったものは、ただの名と姿の違いにすぎません。帰依者は、神聖なるシヴァの本質が万人の中に存在していることを悟り、何人も見下さず、何人も傷つけてはなりぁ
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ー1983年2月11日の御講話