Japanese, 2023年5月

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月3日)

もし傲慢であったら、どんなに裕福でも、どれほどの地位にあっても、どんなに知的でも、妻や子供たちですらもその人を愛さないでしょう。自分本位のプライドを捨てた暁には、すべての人が彼を愛するようになります。もし、あなたが世の中から愛されたいと願うのであれば、アハムカーラ(私が行為者である)という自分本位のプライドを捨て去りなさい。エゴのない人だけが、世の中から愛されるに値します。怒りや憎しみで満たされている限り、人は幸せになれません。悲しみや不幸を取り除くために、人々はあらゆる種類の霊性修行(サーダナ)を行います。しかし、どのような苦行、読誦、供犠を行っても、不幸を取り除くことはできません。その理由は、彼らが己の憎しみを取り除くことができないでいるからです!ラーヴァナは勇敢な人物であり、非常に才能豊かで、高い教養がありました。しかし、彼は憎しみで満たされていたため、不幸だったのです。憎しみを抱くことによって、人は己の人生を不幸にします。「怒れる者はあらゆる企てに失敗する」。怒りは、あらゆる種類の悪評をもたらします。悪評に取り付かれたら、幸福を得ることができません。

―1997年9月23日の御言葉

謙虚さは、真の教育の品質証明書です。正しく適切に教育された人間の中に、傲慢、妬み、誇示が入り込む余地はありません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月4日)

欲望を克服することで、あなたは無私無欲になります。欲望に打ち負かされると、あなたは満足することができなくなります。飽くなき欲望に夢中になれば、感覚が制御できなくなるでしょう。もちろん、欲望を回避することはできません。しかし、節度を設けるべきです!無制限の欲望は破滅を招きます。そのような人に繁栄はやって来ません。欲望を制御できるようになった瞬間、すべてのものがひとりでにその人の元にやって来るでしょう!ローバム・ヒトヴァ・スキ・バヴァティ(強欲を克服すれば、幸福を実感する。)人間の不幸のもう一つの原因は強欲です。強欲はあらゆる種類の幸福(物質的幸福、知的幸福、霊的幸福)からあなたを遠ざけます!ドゥルヨーダナとドゥッシャーサナが、多くの富と権力を持ちながら幸せに暮らせなかったのは、強欲が原因です。ですから、あなたのハートから強欲を追い出しなさい。どうしたらいいのでしょうか?犠牲の精神を育てれば、強欲は消えてなくなるでしょう!強欲でいっぱいのハートに、喜びが入り込む余地はありません。水でいっぱいのコップにミルクを入れることはできません。まず、コップを空にしなさい。そうすればミルク�
�がいっぱい入ります!同じように、強欲を取り除いて、あなたのハートを犠牲でいっぱいにしなさい!

―1997年9月23日の御講話

欲望に打ち負かされると、満足を得ることができなくなります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月5日)

あなた方は、涅槃(ニルヴァーナ)または解脱の達成を目指さなければなりません。涅槃(ニルヴァーナ)とは、人生の最期の瞬間に至福を体験することです。人間は、自分が何を求めるべきであり、何を拒絶すべきかを理解していません。人生において為すべきことは三つあります。あなたを傷つけた人に対して善を行いなさい。他人から傷つけられたことと、あなたが他人に対して行った良いことを忘れなさい。忘れる必要があるものを忘れ、覚えておかなければならないことだけを覚えておきなさい。覚えておくべきものとは何でしょうか?他人があなたに対して行った良いことです! あなたに対して行われた良いことを神聖なものとして覚えておかなければなりません。そして相手に感謝の気持ちを伝えなければなりません。正義に従って、すべての行動を行いなさい。神を思い起こしながら行えば、どのような行動も神聖なものとなるでしょう! 悪を見ずに善を見なさい。悪を聞かずに善を聞きなさい。悪を語らず、善を語りなさい。悪を思わず、善を思いなさい。悪を行わず、善を行いなさい。これが神への道です。これが仏陀の御教えの真髄なのです。

―1998年5月11日の御講話

仏陀は「正見」「正思」「正聞」「正語」「正業」という五つの義務を定めました。これら五つの義務が本当の霊性修行を構成しているのです!―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月6日)

子どもたちの偉大さをもたらすものは、母親の崇高な道徳的人格と行動です。ラーマの偉大さをもたらしたのはカウサリヤーの美徳です。同様に、シータが育てたからこそラヴァとクシャは素晴らしい人物に育ちました。このように有徳の母親のお陰で、理想的な子どもたちが育つのです。私は、イーシュワランマに約束してからは、決してプッタパルティを見捨てませんでした。全世界がここに集まってくるかもしれませんが、私がプッタパルティを捨て去ることはありません。母性の力は言葉では説明できません。母親が、道徳的価値を正しく守り、それに厳しく従うことが、子どもの中の優れた性質として現れるのです。母親は、教育を受けていないかもしれません。彼女らの偉大さは、教育や書物による知識によって決まるのではありません。教育のないイーシュワランマの美徳が、プッタパルティにこのような名声をもたらしたのです。イーシュワランマの息子が褒め称えられているのに、イーシュワランマが忘れられているのは、嘆かわしいことです。イーシュワランマがいなければ、どうしてこのように驚くべき力が生まれることができたでしょうか? 皆さんは、決して両親を粗�
�末にしてはなりません。

―2003年11月23日の御講話

母性は、最も貴重な神の贈り物です。国の幸不幸を決めるのは母親です。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月7日)

あなたの悪い性質、悪い思い、悪意を取り除きなさい。非暴力(アヒムサー)を実践しなさい。非暴力の意味は何でしょうか?アヒムサーとは、思い、言葉、行動によって他を傷つけないという意味です。一瞬たりとも、思いと言葉と行動の一体性から離れてはなりません。あらゆる努力を払って、思いと言葉と行動の一体性を守ったときに初めて、あなたの中に神聖な気持ちが現れるでしょう。非暴力の原理は非常にとらえにくいものです。ほとんどの人はその正しい意味を理解していません。必要以上に食べることさえも、暴力となります。なぜでしょうか?食べ過ぎによって自分自身を傷つけるからです。不必要なおしゃべりも、暴力に加担していることになります。必要なことだけを話す、それが非暴力です。神から与えられた能力を悪用するなら、あなたの富も権力も地位もすべて無意味になるでしょう。あなた方は、つまらない世俗的な物事を追い求める泥沼にはまっているがため、無限のアートマ原理を悟ることができないのです。

―1996年7月29日の御講話

もしあなたが悪に対して悪を返すのなら、どうして善人と呼ばれることができるでしょう?悪に善を返すことによってのみ、より高い境地へと自分自身を向上させることができるのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月8日)

バクティ(神への愛、信愛)は、状況に応じて着たり脱いだりできる懺悔の制服ではありません。勤務中の警官は、紋章やメダルの付いた制服を着ています。しかし、勤務を終えて帰宅すれば、制服は脱いで別の服に着替えます。バクティとは、一定の間だけ生じて、通常に戻ったら離れ落ちることのできるものではありません。バクティとは、途切れることのない不断の心の状態であり、確固たる態度であり、細心の注意を払って選んで貫く道です。今、人は、朝にはヨーガ(信愛の行)をかじり、日中にはボーガ(祝宴や贅沢、五感を楽しませること)にふけり、夜にはローガ(病気)に七転八倒します! バクティとは、毎日一定の時間だけ「演じる」ものではなく、他の流行に取って替えられるものでもありません。バクティとは、途切れることのない不断の心の傾向であり、思考の習性であり、生き方です。バクティとは、不名誉、苦境、失望、損失、快楽、繁栄、権力、虚飾など、何があっても、忠実に貫かなければならないものです。

―1968年7月8日の御講話

常に神の御名を唱え続けなさい。そうすれば、どんな時にも決して神を忘れることはできないでしょう。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月10日)

真の帰依者は、この世の成功の儚さを十分に承知しています。真の帰依者は、死が最終裁決者であり、神が唯一の施与者であるということを知っており、それゆえ、嫌なことに対しても、正当なことに対しても、落ち着いていて穏やかです。真の帰依者は、何があっても落ち込むことはなく、舞い上がることもありません。真の帰依者は、自分が崇めている神は草の葉にも一番遠い星にも宿っていることを知っています。神は、どの言語で表現される祈りにも、さらには、沈黙の静寂から湧き起こる祈りにも、耳を傾けます。神には怒りも心配のかけらもありません。あなた方にも怒りや心配を募らせる理由はありません。あなたの歯があなたの舌を噛んだら、自分は傷を負ったといってあなたは怒りますか? あなたは自分に傷を負わせたその歯を折りますか? いいえ、折りません。なぜなら、歯も舌もあなたのものであり、どちらもあなただからです。それと同じように、あなたを傷つけた人とあなたは、どちらも同一の体の手足、同一の神の手足なのです。その一体性を感じて、憎しみを避けなさい。

―1968年7月8日の御講話

手、足、目、耳、鼻、口といったさまざまなパーツが私たちの身体にあるように、この世であなたが見つけるすべての姿は、神のさまざまなパーツなのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月11日)

感覚に従うことから得られる快楽のすべては一時的なものであり、その後には苦難の道が続いていることを、人は悟るべきです。神聖な目的のため、そして人間的価値を実践するために、感覚を活用すべきということを、人は悟らなければなりません。 そうして初めて、人間として存在する真の目的を理解するようになるでしょう。 感覚は、人間が理想的な生活を送るために、神から授けられたものです。善を見なさい。善を考えなさい。優しい言葉を話しなさい。善を聞きなさい。善でありなさい。善を行いなさい。古代インドの賢者たちは、マウナム(沈黙)から得られる無数の恩恵に気づき、霊性修行として、沈黙を実践しました。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、十日間延々と話し続けた結果、自分が身に付けたシローカ(詩節)をすべて忘れてしまったことに気付き、貴重な教訓を得ました。それから彼は完全な沈黙を二週間実践し、記憶力を取り戻しました。神の恩寵は、神によって人間に与えられた感覚を神聖に使うことによって保証されることを、人々は悟らなければなりません。

―1997年10月6日の御講話

これほど稀有で神聖な人間として誕生する境地に達したというのに、自分で自分の感覚を制御できないと口にするとは、なんと愚かなのだ!―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月12日)

あなたは富を蓄え、深い学識を持ち、健康と強さを得たかもしれません。しかし、それらに加えて、あなたが至高の統治者のヴィジョンを得て、そのヴィジョンがもたらす法悦につねに浸りたいという強い思いを持っていないなら、あなたが手に入れたすべてのものは、がらくたにすぎません。カウラヴァ兄弟は、軍事の財源と人員において優勢でした。カウラヴァ兄弟は、助けを求めて神の化身であるクリシュナのもとに行って、大規模な軍隊と膨大な軍備を授けてもらうことで満足しました。パーンダヴァ兄弟は、ただクリシュナの恩寵のみを求めました! クリシュナ神はそれに同意し、一人きりで武装もせずに、パーンダヴァ陣営に向かいました! クリシュナは鞭一本だけを持ち、アルジュナの戦闘馬車の御者となって馬を操りました! それだけでした。しかし、勝利のために必要なものはそれだけだったのです。カウラヴァ兄弟は大敗を喫しました。パーンダヴァ兄弟は王国と不滅の名声を手に入れました。もし神があなたに味方するなら、あなたは世界を手中に治めます。

―1968年7月8日の御講話

金銭や物質的な利益ではなく、善良で神聖なものを好むように、あなたの心(マインド)を訓練しなさい。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月13日)

聖者ジャヤデーヴァは、甘美で神聖な主の御名を唱えるために神から与えられた舌を使わない人々を叱責しました。舌は、真理を語り、優しく語り、身体に心地よく健全なものを摂取するためだけに使われるべきです。人は、酩酊するような飲み物や非菜食の食べ物を摂取し、喫煙にふけることで、自分自身を堕落させています。 これらの有害な習慣は、脳にも影響を及ぼします。聖者スールダースは、神から与えられた耳で神を讃える賛歌を聴こうとせず、神から与えられた視覚で主の美しい姿を見ようとしない人々の振る舞いを嘆きました。道を行く人はその道に集中すべきであり、壁に貼られているポスターや店のウインドウに目を奪われてはなりません。すべての人が、感覚器官の正しい役割を認識し、それらを正しく使うことが必要です。

―1997年10月6日の御講話

解脱とは、感覚を制御することです。己の感覚を制御しない限り、解脱は不可能です。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月14日)

マーヤー(迷妄)を捨て、マーヤーの影から逃れるためには、太陽に向かって歩かなければなりません。そうすれば、影はあなたの後ろに来ます。太陽(理性や知性の源)が高く昇れば昇るほど、影はどんどん短くなります。最終的に太陽が天頂に昇ると、影(マーヤー)はあなたの足元にうずくまり、あなたは影を踏みつけることができます。あなたの知性が最高位にある時、マーヤーはあなたに魔術をかけることができません。何万という人々が日に三度唱えているヴェーダのガーヤトリー讃歌〔ガーヤトリーマントラ〕は、知性が天頂の太陽のように明るく輝くことによって迷妄の霧が晴らされるよう、知性の目覚めを祈願します。すると、あなたを困惑させ、否認し、かき乱す、不決断と決断の波のうねりは静まります。これは、パタンジャリ〔六派哲学のヨーガ学派の開祖〕が何世紀も前に定義したヨーガのプロセス、すなわち、さまよう心を止めるものです。

―1968年7月8日の御講話

マーヤーは、マーヤーの主であるマーダヴァ(神)と手を組むことによってのみ、征服することができます。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月15日)

今や、人間の行動基準は「それぞれが自分のために」となってしまいました!これは、「神の中ではすべてが一つ」という事実が知られておらず、理解されていないためです。この理解は、サーダナ(霊性修行)の産物です。その確信はゆっくりと大きくなりますが、必ず獲得しなければなりません。偉大な聖者ドゥルヴァーサは、叙事詩の中では、苦行を重ねたことで有名ですが、他者から軽んじられたり妨害されたりしたときに激怒することでも知られています!彼は「神の中ではすべてが一つ」であることを忘れて、とても神経質で、自分本位で、思い上がっていました!彼の膨れ上がったエゴを無視する人が現れると、ドゥルヴァーサは恐ろしい呪いをかけようとしました!長年の苦行も何の役にも立ちません。あなたが持っているもの、得たものをすべて主に明け渡しなさい。余分な現金を持っていると、ときに信頼できる友人に「私のためにこれを取っておいてください。自分で持っていると、使ってしまいそうで心配なのです。私は自分で自分が信じられないのです」と言って、それを渡すことがあります。あなたが信頼を置くべき友人は神です!ですから、あなたが持っているも�
�のをすべて神に渡し、自由で幸せになりなさい。信仰が足りないので、あなたは今それをしていません。

―1967年5月24日の御講話

神を信じる雰囲気の中で初めて、美徳が培われるのです。あなたは、神は遍在であり、照覧者であり、導き手であり、守護者であるという信念を持たなければなりません。―ババ

 

忠誠を尽くさなければならない義務を知りたいと切望する者だけが、(アヴァターがもたらす)メッセージを理解することができます。 さもなければ、それは空虚で機械的な、蓄音機レコードの戯言のように聞こえるでしょう。しかし、その切望によってハートが耕され、種を蒔く準備を整えれば、必ず収穫が得られます。アルジュナはクリシュナの義兄弟であり、親しい仲間であり、何十年にもわたる仲良しでもありました。しかしそれでも、戦場で初めて、バガヴァッド・ギーターのメッセージがアルジュナに伝えられたのです。なぜでしょう?アルジュナはそのとき初めて、そのメッセージを受け取り、記憶するために必要な態度を示したのです。まずアルジュナは、己の義務について悩み、それに光を当てて欲しいと強く願っていました。彼は二つの道の間で思い悩み、あらゆる識別心と無執着を働かせたにもかかわらず、己のダルマが何であるかを見出すことができないまま、途方に暮れていました。第二に、彼は己の判断を神に委ね、筆舌に尽くしがたい苦悶の中で、ハートの奥底からこのように宣言しました。「私はあなたの弟子です。私は私という全存在をあなたのご意察
�屬吠獷欧泙后�笋�燭鬚垢戮④�△�辰靴磴辰討�世気ぁ�修里箸�蠅砲い燭靴泙后���

―1970年7月の御講話

人間は、神の恩寵にふさわしい強さと意志力を培わなければなりません。ひとたび神の恩寵を得れば、あなたはカルマの束縛から解放されるでしょう。-ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月19日)

あるところに一人の王がいました。王は「最高の奉仕とは何か?それを提供する最も良い時はいつか?」と、多くの学者や聖賢に質問しましたが、納得のいく答えは得られないでいました。ある日のこと、王は深いジャングルの中で、敵対する王の軍勢を追いかけている間に、自分の軍勢とはぐれてしまいました。彼は長い間馬を走らせ、疲れ果て、空腹になりました。そしてようやく一軒の庵にたどり着きました。一人の老僧が親切に王を出迎え、一杯の冷たい水を供しました。少し休んだ後、王は老僧に自分を苦しめていた質問を尋ねました。「最高の奉仕とは何でしょうか?」その出家者は「喉が渇いている人に一杯の水を与えることです」と答えました。「奉仕をするのに最良の時はいつですか?」答えは「喉が渇いている人が遠方からやってきて、必死に水を探している時」でした。奉仕という行為は、コストや知名度によって判断されるものではなく、水を提供するだけでもよいのです。しかし、受け取る人の必要性、提供する人の気持ちーこれらがその行為が金か鉛かを決めるのです!あなたの行為の一つ一つを愛で満たしなさい。あなたの思い、言葉、行動の結果として誰にもほ�
�んのわずかな苦痛も感じさせることがないようにしなさい。これをあなたのサーダナ(霊性修行)としなさい!

―1967年5月24日の御講話

奉仕は、祈りと苦行の最高の形です。犠牲から生じた愛を示すと、それは意義深いものとなります。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月20日)

人類の歴史においては、何回もアヴァター(神の化身)がやってきて、人を目覚めさせました。しかし、動物的な過去と悪魔的な迷妄が人を泥沼の中に引きずり込みます。そこで人は愚かにも、官能的で肉体的で一時的なつまらない物事に興じているのです。今生は、あなたの人間としての存在価値を高める素晴らしいチャンスなのです。親族や富や世俗的名声から得ようとするアーナンダ(至福)は、神が宿るハートという泉に棲むアーナンダの薄い影にすぎません。その泉とつながろうと試みなさい。その源泉そのものに向かいなさい。アートマもしくは内なる神に集中しなさい。真のアーナンダを求める人はほとんどいません。多くの人は、感覚、知性、マインドから成る似非(えせ)アーナンダに夢中になっています。真のアーナンダが湧き出すのは、真理からだけです。そして、各自が自分自身に対して負っているダルマ(義務)が真理なのです。真理を求め、真理に奉仕し、真理になりなさい。ハートが愛で満たされたとき、真理が自ずと明らかになるでしょう。

―1970年7月の御講話

真の至福は、純粋で愛に満ちたハートから流れ出します。そのような至福を経験するよう努めなさい。他のすべての幸福の形は一時的なものです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月21日)

心(マインド)は、何であれそれが接触するものに融合するという生来の傾向を持っています。心(マインド)はそれをしたがります。ですから、心(マインド)は常に動揺して落ち着きません。しかし修練と訓練の積み重ねによって、心(マインド)をプラナヴァ(オーム)に向かわせること、プラナヴァに融合するようにと心(マインド)に教えることができます。また、心(マインド)は音のするほうへ自然と引き寄せられます。心(マインド)が蛇に例えられるのは、まさにそのためです。蛇には二つの粗野な性質があります。一つは蛇行すること、もう一つは邪魔なものには何でも噛みつく習性です。この二つは人間の特徴でもあります。人間も、自分が目を付けたものをすべて手に入れて自分のものにしようとします。人間も曲がりくねって進みます。しかし、蛇には一つ賞賛に値する習性があります。蛇の本能がどれほど有毒で致命的でも、蛇使いの音楽が奏でられると、蛇は鎌首を広げてその音の甘さに溶け込んで、それ以外のことはすべて忘れてしまいます。同様に、人間も修練によってプラナヴァの至福に溶け込むことができます。こうした音(シャブダ)を通じた礼拝(シ�
�ャブダ・ウパーサナ)は、ヴェーダにおけるプラナヴァであるパラマートマを悟るための第一の手段です。

―「ギーターヴァーヒニー」第12章

すべてのマントラの中で、最高位にあり、最良のものはオーム(プラナヴァ)です。それはまさに、すべてのマントラの頂点であり、王冠なのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月22日)

クリシュナを描写している讃歌「カストゥーリー・ティラカム」を例に挙げましょう。一見すると、それは美しい御姿を記述し、クリシュナの装飾品を描写しています。しかし、それぞれの言葉には、見逃してはならない深い意味があるのです。クリシュナの額にあるカストゥーリー(ムスク、麝香)のティラカム(点)は、シヴァ神の額にある第三の目のように、英知の目、内なる目、内面に向かうビジョン(視覚)の象徴です。カストゥーリーは英知を意味します。それからその讃歌は、クリシュナの胸にある宝石カストゥバについて語ります。それはハートの中のアーナンダ(至福)、至福を体現している主のけがれなき至福を意味しています。次は、クリシュナの鼻輪の上で輝く真珠です。クリシュナのナーサーグラ(鼻先)にあるナヴァマウクティカム(九つの真珠)は、主の栄光に一心に集中した後でやって来る成功を暗示しています。というのは、ヨーガの熟練者が集中する上で助けにしているのが鼻先であるからです。 真珠は、雨粒から生み出されます。天からの貴重な贈り物を長いこと待ちわびている貝が、最初の、純粋で汚れなき雨を飲み込むのです。このことは、宗
�秧茲覆發痢⊃深造里發里紡个垢詁関櫃篌�海奮號召�∧冤討僕燭┐覬洞舛鮗┐靴討い襪里任后���

―1965年1月30日の御講話

主の御手の中にある横笛を目にしたときはいつでも、自分自身を物質的な欲望がまったくない空洞の葦にすることを覚えておきなさい。―ババ

訳注:「カストゥーリー・ティラカム」は、13世紀にビルヴァマンガラムによって書かれた328節から成るシローカー「シュリ・クリシュナ・カルナームルタム」の中の1節。

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月23日)

私は簡素さを好みます。優しい言葉やちょっとした奉仕、助けの手を求めてあなたに近づいてくる人々を落胆させないような服装を、私は好みます。それは、風変わりで奇妙なものではなく、清潔できちんとしたものでなければなりません。注目を集めるために着るのではありません。体のために清潔で快適な服を着たいと思うように、ジャパム(神聖な言葉の繰り返し)やディヤーナム(瞑想)など、きよらかで心(マインド)を元気づける訓練を欲するようにしなさい。健全なものを見るために目を使いなさい。神の家に行くために足を使いなさい。人間としてあなたの周囲を歩いている神の化身に奉仕するために手を使いなさい。苦痛をやわらげ、美徳を誉め、神を讃えるために舌を使いなさい。脳を低俗化するために目を使ってはなりません。有害な映画の列に並ぶために足を使ってはなりません。教育からの最も大切な贈り物は人格です。私が一番大切な要素だと考えているのは感謝、とりわけ、この人生という贈り物を与えてくれた両親に対する感謝です。

―1970年7月23日の御講話

教育を受けた人と教育を受けている最中の学生は、どちらも簡素さを培わなければなりません。虚飾を捨てなければなりません。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月25日)

片足を前に出すだけでも、人には内面からの要請、目的、促しが必要です。願望によって意志が動かされるのです。それゆえ人は、より高次でより神聖な目標を願うよう努めなければなりません。人の心(マインド)は、願望の束です。人は、それぞれの願望の指示によってあちこちに振り回され、己に与えられた時間や授けられた能力を無駄使いしています。人は、自分が正しく行動していると信じて、良心の呵責(かしゃく)に耐えています。しかし、人間は時間の貴重さを認識しなければなりません。一秒たりとも無駄にしてはならないのです。常に自分自身の真理と自分自身に対する義務の探究に取り組まなければなりません。人生は、水漏れしている壺から一滴ずつ、したたり落ちていきます!時間は、致命的な一撃を負わせる準備を整えて、鋭利な剣のようにすべての人の頭上にぶらさがっています。しかし、人間は、この絶えず存在する災難に注意を払っていません!

―1981年4月13日の御言葉

時間を無駄にしてはなりません。時間を無駄にするなら、あなたは自分の人生を無駄にすることになるでしょう。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月26日)

社会において、あなたが高い地位と良い立場にいるなら、皆があなたの後を追いかけ「こんにちは」「こんにちは」と声をかけてくるでしょう!しかし、運悪く、地位を失って失脚したら、全員があなたのもとから逃げ出すでしょう。これは真の友情とは言えません。真の友情とは何でしょう?真の友とは、喜んでいる時も苦しんでいる時も、得しても損しても、影のようにあなたについてきてくれる人のことです。水槽が水で満たされていると、何千匹ものカエルがその中に入ってきます。しかし、水槽が乾くと、そこには一匹もカエルが見られなくなります。同じように、あなたが良い立場や高いランクにいる時には、誰もがあなたに従うでしょう。しかし、あなたが困っている時には、誰も見つかりません。そのような友情は真の友情ではないのです。「こんにちは」「こんにちは」と挨拶してくる人全員と友達になってはいけません。これは大きな間違いです。友だちになろうとしている人の素性、習慣、振る舞い、規律、その他の資質を知っておくべきです。また、その人が誰と付き合い、どのような付き合いをしているのかも知るようにすべきです。

―1996年7月8日の御講話

神を友とし、ハートを師とし、世界を大いなる書とみなして、あなたが望む限りの知識を身につけなさい。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月27日)

川は、砂漠の砂ではなく、海に到達しなければなりません。水は水と融合しなければなりません。それが成就―カイヴァッリヤ(完全なる一体性)もしくはサーユッジヤ(神と完全に一つになること)―です。その最終目標を常に見据えておくためには、揺れ動く心(マインド)を常に鎖でつないでおく必要があります。太陽が空にあるとき、月は見えないところで輝いています。研ぎ澄まされた知性であるブッディは太陽であり、薄暗い衛星であり満ちたり欠けたりする月は心(マインド)です。ですから、知性を十分に発揮しなさい。心(マインド)は、情熱ではなく、理性の指示に従わせなさい。感覚の奴隷ではなく、感覚の統治者になりなさい。クリシュナの呼び名の一つである「フルリシーケザ」は「感覚器官の支配者」という意味です。アルジュナの呼び名の一つである「グダーケザ」も同じ意味です。だからこそ、二人は仲間になったのです。感覚はあなたを自然界という密林の中に引きずり込みます。飢えで諸感覚が狂っている状態で、あなたが密林の中に逃げ込んだところで、何の役に立つのですか?聖賢たちはなぜ密林の中に入ったのでしょう?森の静かな静寂の中に心(マ�
�インド)を沈め、他のすべての声が聞こえなくなった時に聞こえる神の思念の中に、常に身を置くためです。他の声が入って来る窓を閉めれば、あなたの家は解脱の森、苦行の庵に変容することができます!

―1965年1月30日の御講話

放棄とは、妻や財産を捨てて森に逃げ込むことではありません。それは否定的な感情や欲望や迷妄を手放すことです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月28日)

ダイヤモンドは、カットして、ファセット(カット面)を作ることによって、その価値を高めます。同様に、大地から鉱石として掘り出された黄金も、精製された後に、純粋で価値あるものとなるのです。同様に、人生をつまらないものから崇高なものへと昇華させるためには、サーダナ(霊性修行)が必要となります。生まれながらにして学がある人、徳がある人はいません。さまざまな努力をして初めて、人は学者や有徳者になるのです。万物の中には、生まれながらにして悪いものがたくさんあります。その悪いものの中から、善が生まれるのです。人が何かを欲するとき、その欲望は他のものに対する嫌悪と結びついています。人間の生活は、好きと嫌い、善意と悪意、結合と分離と、切っても切れない関係にあります。それゆえサムサーラ(世俗の人生)は、波が絶えず結合と分離をもたらす大海原に例えられるのです。同じ大海原には真珠や宝石も眠っているのです。ですから、人生の試練や苦難に立ち向かい、それを乗り越えなければなりません。もし、これに失敗したら、私たちの人生は無駄になってしまいます。人生は試練に満ちています。もしこのような困難がな�
�かったら、人生にはほとんど価値がないでしょう!

―1991年6月1日の御講話

不幸がそうであるように、幸運は己の平常心に対する挑戦です。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月29日)

カルナには、肉体の力、知性の力、武器の力がありました。実際、彼はあらゆる力を授かっていたのです。これらすべての点において、カルナはアルジュナよりはるかに優れていました。またアルジュナには、カルナが持っていたような寛容さがありませんでした。カルナは自分のした約束を決して破りませんでした。あらゆる美徳と犠牲の精神に恵まれていたにもかかわらず、カルナが4人の邪悪なカウラヴァたち(ドゥルヨーダナ、ドゥッシャーサナ、シャクニ、カルナ)の一員となったのは、邪悪なドゥルヨーダナとの約束を反故にすることができなかったからです。あなたの仲間について私に教えなさい。そうすればあなたがどんな人であるか言ってあげましょう。邪悪な人と一緒にいると、邪悪な性質があなたの中に入り込んでくるのです。同様に、善良な仲間と一緒にいると、善良な資質が身につきます。石炭は、火に触れると火のように輝きます。あなたの仲間のとおりに、あなたはなります。小麦粉のとおりに、チャパティは出来上がります。食べた物のとおりに、ゲップが出るのです。

―1996年7月12日の御講話

訳注:カルナは、叙事詩『マハーバーラタ』の登場人物。パーンダヴァ兄弟の母であるクンティー妃と太陽神の息子。カウラヴァ兄弟の仲間となり、クルクシェートラの戦いでは三人目の総指揮官としてパーンダヴァ兄弟と戦い、最終的にアルジュナに倒された。

埃の粒子は、風と一緒になると空に舞い上がり、雨水と一緒になると排水溝の中に落ちていきます。上昇と下降のどちらも、一緒にいる仲間の影響で起こるのです。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月30日)

ヴィヴェーカ(英知)とヴァイラーギャ(無執着)を得るための第一歩として、これからナーマスマラナ(主の御名を通してひたすら神を憶念すること)の修行に入りなさい。この修行を好まない人たちが口にする流行中の言い訳が「時間がありません」です。特別な時間や余分な時間を割り当てる必要はありません。それは、起きている間、入浴中や食事中、歩いているときや座っているときなど、いつでもできることです。うわさ話に費やす時間、スポーツや映画を視聴する時間、中身のない会話に費やす時間はすべて、主の御名と御姿と光輝を黙想するために使うのが最良です。さて、あなたは神に対して食欲がないと訴えています。食欲がないのは、あなたが不健全な食べ物を食べたからであり、良い食べ物を食べ過ぎたからではありません。あなたには、どの食べ物が健全なのか、その成分は何なのか、などの知識がありません。あなたは、感覚という不純な入り口から得た不健全な食べ物が、己の健康を保つと信じています!ここでこの学びを得、より良い知識を身につけて、あなたの場所へ戻りなさい。

―1965年1月30日の御講話

あらゆる街路に神の栄光を響かせなさい。あなたの体の細胞すべてを神の神聖な御名で満たしなさい。―ババ

 

プラシャーンティニラヤムからの御言葉(2023年5月31日)

知性や知的能力を持たない愚者であっても、罪に対する恐れがあるなら、それで十分です。富や黄金や世俗的な財産をいくら持っていても、罪に対する恐れがないのなら、無知者としか見なされません。あるとき、プラフラーダは父に言いました。「なぜあなたは、森で野生動物を狩るように、罪のない人々を殺すのですか?あなたは自分の王国を拡大するために暴力行為に耽っています。こんなにも多くの人を殺して何の得があるのですか?これは、あなたがすべきことではありません。内なる敵の奴隷となった者が、どうして外敵を征服できましょう?あなたの中には、たくさんの大きな敵がいます。それらは何ですか?欲望、怒り、貪欲、迷妄、高慢、嫉妬です。この六つの内なる敵に屈したあなたは、外で罪のない人たちを殺しています。それは大きな罪なのです」。何よりもまず、欲望、怒り、貪欲など、あなたの内なる敵を倒しなさい。そうして初めて、罪に対する恐れを抱くことができます。今日、この国に蔓延している不安の原因は何でしょうか?その理由は、罪への恐れと神への愛が欠如していることにあります。

―1996年7月12日の御講話

あなた方は、あらゆるチャンスを見逃さず、心(マインド)に高潔な思想を考えさせ、高尚な仕事を行い、エゴが下落するのを抑えなければなりません。―ババ