プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月1日
人々は多種多様な利己的習慣や利己的態度を生み出し、身に付けます。これらは、自分自身に対する大きな不満の原因となっています。このすべてに対する衝動は、権力コンプレックス、権限や支配や力を蓄積したいという強欲、決して永続せず満たされることのない物事への欲望に由来します。実際のところ、満足してもう要らないというレベルにまで到達するのは、誰にとっても不可能です。無限の力があるのは、万物の神だけです。人は、自分はあらゆる技に精通した、あらゆる富を所有した、あらゆる知識を得た、あらゆる聖典を暗記したなどと、得意になるかもしれません。しかし、これらすべてを誰から得たのですか? 本当はその人たちの方がもっと偉大であるはずです。ある人は、自分自身の努力と苦労と骨折りで、このすべてを得たのだとさえ主張するかもしれません。しかし確実に、誰かが何らかの形でそれを彼らに与えたのです。これを否定することはできません。あらゆる権威と力が生まれた源は、万物の神です。神が全能であることを無視して、手に入れたわずかな力が自分自身のものであると勘違いすることは、まったくの利己心であり、自惚れであり、高慢ぁ
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�『プレーマ・ヴァーヒニー』15節
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月5日
人間の生命の流れは、心臓や血管を通じて拍動しています。この拍動はいつの日か終わります。真に、誕生の後に死があり、死の後に誕生があるのです。私たちは、この生命の秘密を理解しようと努めなければなりません。川の中を泳いで進む人のように、私たちもまた、過去に得た経験のことを忘れて、前に向かって泳ぎ進まなければなりません。泳いでいる人は、自分の前にある水を押し返した場合にのみ、前進します。もし、自分の前にある水を押し返さなかったら、その人はその場に留まっているでしょう。この例えのように、自分が生きてきた経験を押し返そうとする場合にのみ、人間は前に進むことができるのです。そのような道を歩むなら、人生には怒りのための場所も、嫉妬のための場所もないことを理解して、その人の人生は心地よく発展するようになるでしょう。
– Summer Showers in Brindavan, 1977, Ch 17.
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月6日
疲れて気弱になる時があるかもしれませんが、その時にはこのように祈りなさい。「神よ、物事が私の能力を超えてしまいました。これ以上努力するのは無理だと感じます。私に力をお与えください。おお、神よ!」生徒が問題の解答を書いている時に離れた場所に立っている教師のように、最初のうちは、人が努力する様子を眺めながら少し離れた場所に神はいます。その後、人が感覚の喜びへの執着を捨て、善行と無私の奉仕に専念するようになると、神は励ますように近付きます。太陽神のように、締め切られた扉の外で、神は待ちます。主人の要求と自分自身の制約を承知している召使のように、神は自分がいることを知らせたり、ドアをノックしたりせず、ただ待つのです。そして、主人が少しだけ扉を開けると、太陽はすぐに部屋の中に入り込み、中にいた暗闇を即座に追い出します。助けが求められれば、神はその人の側に寄り添い、救いの手を差し伸べます。ですから、必要なのは、神に祈るための識別心と、神を思い出すための霊的英知だけなのです。
– 『プレーマ・ヴァーヒニー』第11節
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月7日
北上する旅に出るとき、太陽は、北にあるヒマラヤ山脈をシヴァ神の美しい住処と称えました。ハートは主の住処とみなされるべきであり、視覚は神体験へと向けられるべきなのです。人間のハートそのものが、純粋性と平安の住居であるヒマラヤ山脈を象徴しています。太陽が北上する旅とは、人間が神を悟るために進むべき道を指し示しています。太陽は、無私で疲れを知らない奉仕の最高の模範です。太陽なき世界は存続し得ません。地球上の生命は太陽のおかげで存在できているのです。太陽は、驕ることのない、謙虚な信愛と義務という教訓を人間に教えます。太陽は、信愛と献身を込めて、己の義務を果たすべきであるということを、すべての人に示す最高の模範です。クリシュナが『ギーター』の中で指摘したように、己の義務を果たすことが最高のヨーガなのです。あなたの行動と思考を善良なものにしなさい。そうすれば、あなたは神なる至福を体験するでしょう。
– 1992年1月15日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月8日
信愛と英知は、荷車のための一対の雄牛のようなものです。両者は一体となって引っ張らなければなりません。それぞれが相手と歩調を合わせ、より速く重荷を引っ張れるようにもう一方を支援しなくてはなりません。英知は、信愛が増すことを促進すべきです。信愛は、英知の発展に貢献すべきです。ブリンダーヴァンの牧女たちが解脱に達することができたのは、この助け合いと協力があったおかげです。クリシュナ神への信愛も、彼女たちに最高の英知を授けました。さて、信愛と英知の本質は平安、最高位の平安、至高の平安です。至高の平和(プラシャーンティ)は、人を霊的光輝(プラカーンティ)の栄光へと導き、そこから最高の天啓(パラマ・ジョーティ)という特別な光輝へと導きます。英知は信愛に付随するものであり、その構成要素なのです。最も慈悲深いのは神一筋の愛です。それは最高善を生み出します。それが人々を地上に縛り付けることはなく、解脱への道を手取り足取り教えてくれるでしょう。
– Prasanthi Vahini, Ch 27.
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月9日
私たちは決して、富を人生で最も重要なものと見なしてはなりません。私たちはダルマを最も重要視すべきです。私たちは、それによって神の恩寵を得るべきです。あなた方は、必要不可欠なものを賄うのに足りるだけのお金を持つべきです。それ以上は、慈善やその他の良い物事に対して使うべきです。現代の学生たちの間には、お金を持ち過ぎることによって甘やかされて駄目になってしまう状況が多く見受けられます。最初のうちは、最小限のお金でやりくりするのは大変そうに見えるかもしれません。しかし、お金に対する欲望を抑えることができるようになれば、彼らはその後とても幸せで平安になるのです。学生たちは、本当に10ルピー必要な時には、20ルピーを要求しようとします。子供たちが20ルピーを要求したら、親は10ルピーだけ与えればいいのです。これはとても重要なことです。その息子は、一瞬傷ついたとしても、その後は元気になるでしょう。もし、10ルピーだけ必要なのに、20ルピーを渡されたら、息子は悪い友人を作り、その人たちのためにお金を使ってしまうでしょう。
– Summer Showers in Brindavan 1973, Ch 17
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月10日
ヤショーダが攪拌していたヨーグルト入りの壺をクリシュナが割ってしまった時、彼女は、逃げたクリシュナの足跡を追って、クリシュナが隠れている場所を突き止めました。これは神がどのようにして、「私は肉体である」という意識を打ち破り、神が私たちの周囲に設けた信号やしるしによって神そのものへと導くかを示す象徴的物語です。これらのしるしは、私たち一人ひとりの周りにある大自然の中に――朝日の美しさの中に、虹を見た時の恍惚感の中に、鳥のさえずりの中に、蓮の花が咲いている湖面に、冠雪した静かな峰の中に――常に存在しています。実際のところ、神はラサ(甘さ、本質)なのですから、神の行動以外の大自然すべては、甘美で恍惚感をもたらします。姿形があってもなくても、それはアーナンダ(至福)です。ラーマ(喜びであり、喜びを与えるお方)として、あるいはクリシュナ(彼がもたらす喜びによって皆を惹きつけるお方)として、それ(神)をハートに迎え入れなさい。そして、瞑想、礼拝、黙想をそれ(神)に捧げながら、すべての瞬間をそれ(神)と共に生きなさい。そうすれば、英知と解脱の扉が開かれるでしょう。
– 1968年8月16日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月11日
一つの小話があります。ある日、ラクシュミーがヴィシュヌ神に、「神は人類に快適な生活に必要な技術や材料を与えてきたのですから、人類は常に神の方を向くのでしょうか?それともそうではないのですか?」と尋ねました。ヴィシュヌは、「私は、私の方に彼らを引き寄せる二つの資質、すなわち貪欲と不満を彼らに授けました」と答えました。人間が世俗の束縛から解き放たれて、神の方を向くのであれば、その人はもはや貪欲や不満に悩まされることはありません。「神への愛着」と「俗世からの離脱」という二つの堤防の間にあれば、人生という川は、速度も方向性も損なわれることなく、神の恩寵という大海に向かって流れることができます。あなた自身を神と見なしなさい。他の人を神と見なしなさい。あなたと他の人の中にある、他の全てから目を背けなさい。それがサーダナ(霊性修行)の本質です。
– 1968年8月16日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月12日
人は生きている間に多くの目的を達成しなければなりません。その中で最も高次で最も価値のある目的は、神の慈悲、神の愛を勝ち得ることです。神の愛は、人が揺らぐことのない内なる平安(シャーンティ)を得るために必要な大きな英知を与えてくれます。誰もが至高心の本質を理解するよう努めるべきです。もちろん、顕現していない絶対的な存在を人が最初から把握することはできません。まずは、それを理解可能にするために、それに一つの姿形といくつかの属性を設定します。それから、それを神聖なエネルギー(シャクティ パート)が降下したものとして自分の中に祀るために、少しずつ努力していかなければなりません。この努力における成功の追求に取り組む人は、ゴールを追い求める資格のあるただの個人的な求道者ではありません。人は奉仕(セヴァ)の精神を培い、人々の謝意を得ることのできる善行にも従事しなければなりません。そうして初めて、人は自分の意識(チッタ)のレベルを浄化するという仕事を達成し、霊的な勝利に適した志願者となることができるのです。
―「光を照らす知識の流れ ヴィッディヤー・ヴァーヒニー」11章
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月13日
五感のコントロールなしには、サーダナ(修行)は功を奏しません。五感が完全に制御されていないなら、それは穴のあいた壷に水を入れるようなものです。舌が何かおいしいものを欲しがる時、自分は舌の気まぐれには応じないと強く主張しなさい。スパイスが効いてるものや辛いものではなく、十分に滋養のある淡白な食事を根気強く続けていれば、舌は、数日間は当惑するかもしれませんが、まもなくそれを喜んで受け入れるようになるでしょう。これが、舌を征服し、舌があなたの主人になっているという悪い傾向に打ち勝つ方法です。さらに、舌というものはスキャンダルや煽情的な話をしたがるものなので、そのような傾向も抑制しなければなりません。話は控えめにし、優しく話しなさい。必要に迫られた時だけ話しなさい。話さなければならない人にだけ話しなさい。怒ったり興奮して、叫んだり怒鳴ったりしてはなりません。こうして制御すれば、健康と心の平安がもたらされます。より良い人間関係が築かれ、他人との接触や口論に巻き込まれることも少なくなります。
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月14日
この目に見える宇宙にあるすべての物体は、非常に美しく、魅力的で、喜ばしいものです。神は全宇宙に内在しています。宇宙は愛で満たされています。至高我は愛の具現です。それゆえ、愛が愛に出会えば、それらは融合します。したがって、もしあなたが愛を発達させれば、あなたは神と一つになる資格を得るのです。愛は愛のために存在するのであって、それ以外の何ものでもありません。愛は自発的なものであり、喜びを与えます。すべてのものは愛に満ちています。愛は目で見るのではなく、ハートで見るのです。愛は耳で聴くのではなく、ハートの静寂によって聴きます。愛は舌で語るのではなく、慈悲の心で語るのです。慈悲、優しさ、愛は、別の言葉ですが、同じことを意味しています。愛には多くの同義語があります。愛が生まれるのはハートからだけです。他のいかなる源からも愛は生まれません。愛は不滅であり、甘露であり、至福に満ち、無限です。愛に満たされたハートは広大無辺です。さまざまな名前と形を持つ河川が海に流れ込み、海と一体化するように、さまざまな形を持つ愛がハートという海の中に入って、愛と同一化する。愛はどんなことにも打ち勝つこと�
�ができます。無私で、純粋で、真の愛は、人を神へと導きます。
– 1995年12月25日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月15日
一人ひとりが皆、ただ自分のための神を得るという恩寵を、神は表します。他人が神を得た時、自分は神を得ていないと悲しむ必要はなく、自分が神を得た時、他に神を得た人は誰もいないといって自慢する必要もありません! 神はあなたのハートの祭壇に座っています。あなたのすべてを、あなたの人生のすべてを、神に捧げなさい。そのとき、あなたの礼拝はあなたを非常に早く完全に変容、変質させ、それゆえ、あなたと神は1つに融合することができます。そのとき、神は、あなたが考え、感じ、行うのと同じことをします。あなたは、神が考え、感じ、行うのと同じことをします。岩が彫刻家によって神の像に変えられて、敬虔な人たちに数世代に渡って礼拝されるのと同じように、あなたは変えられるでしょう。その過程で、あなたは何度もハンマーで打たれ、のみで傷つけられることに耐えなければなりません。なぜなら、神がその彫刻家だからです。神は、あなたを化石になることから解放しようとしているのです! 主への純粋な愛で満たされたあなたのハートを神に捧げなさい。
– 1968年11月23日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月16日
人々はそれぞれ自分の好みにしたがって、特定の姿の神を崇拝しています。ラーマという名前に愛着を持っているためにラーマを崇拝している人々もいます。花を指し示すのは指です。同様に、神像は神性を指し示しています。ですから、偶像崇拝を愚かだと考えることはできません。単に生命が宿っていないからというだけで偶像を軽視すべきではありません。自分で動く力を持っていない物体にさえも、チャイタンニャ(意識)は存在しています。アノーラニーヤーン マハトー マヒーヤーン(ブラフマン〔神〕は、もっとも微妙なものよりもさらに微妙であり、もっとも大きなものよりもさらに巨大である)。このチャイタンニャ(意識)は、もっとも小さなものからもっとも大きなものにいたるまで、あらゆる物質の中に存在しています。あなたの考えでは、物体は自分で動く力をもたないように見えるかもしれませんが、ヴェーダーンタの見解によれば、すべてのものがチャイタンニャなのです。チャイタンニャの存在を見過ごすのは愚かなことです。もしチャイタンニャが万物に浸透しているのであれば、なぜそれを我々の肉眼で見ることができないのか、と疑問に思う�
�人がいるかもしれません。皆さんは誰でも、ミルクの一滴一滴の中にバターが存在しているという事実をよく知っています。肉眼で見ることができないからという理由だけで、バターの存在を否定することができるでしょうか? バターを手に入れる手順には、ミルクを凝固させて、撹拌することが含まれています。
– 2002年3月12日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月17日
シヴァラートリの慣例〔徹夜の勤行〕は、神を憶念することでハートを浄化するためにあります。ハートが浄化されると、生活全体が神聖なものになります。人々が善良な性質を伸ばし、正しく行動するならば、苦心して社会を再建する必要はありません。若い人たちは、悪い考えや悪い習慣と縁を切らなければいけません。霊性の探求は、老人になるまで先延ばしにできません。神の探求を始めるのは、今、この時です。この世を守るのに、神の御名ほど強力なものは世界にありません。この世を救うものは武力でも爆弾でもありません。この世界を守るものは神の恩寵だけであるべきです。神の恩寵を祈ることは人間の第一の義務です。祈りはきわめて重要です。メロディーとリズムと共に、歌に気持ちを込めて、バジャンを神への神聖な捧げものとしなければなりません。バーヴァ(気持ち)が込められていないラーガ(メロディー)はローガ(苦痛)です。慢心と自己顕示癖を捨てて、謙遜と信愛の精神でバジャンを歌わなければなりません。それが正しいバジャンのやり方です。
– 1991年2月13日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月18日
あなたがどこに座っていようとも、礼拝所であろうと、他の場所であろうと、あなたの思いが神に集中しているのなら、あなたは真の帰依者であり、神の恩寵を得るでしょう。眠くなったら寝ていいのです。反対する理由はありません。しかし、眠っている間もあなたの思考を神に集中させるように。シヴァラートリ・バジャンに参加するためにわざわざプラシャーンティ・ニラヤムまで来たのは、神に対するあなたの愛と信愛のためではないのですか?私はあなたの信愛を理解しています。真の帰依者に便利さは必要ありません。彼はどんな快適さも望みません。どこに行こうとも、己の心(マインド)を制御し、すべての思いを神に向けなさい。それこそが真の信愛です。肉体的快適さに注意を向けてはなりません。パンチャークシャリー・マントラ(五音節のマントラ)である「オーム・ナマ・シヴァーヤ」を常に唱えなさい。もしあなたが口先だけで唱えるのであれば、それは世俗的な音に溶け込んでしまうでしょう。その一方で、もしあなたが心(マインド)を完全に集中させながら真剣に神の御名を唱えるなら、それは世界中に広がっていくでしょう。心(マインド)を完全に集中し�
�て神の御名を唱えることが、本当のサーダナ(霊性修行)なのです。
– 2004年2月19日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月19日
現代では、人々は怒りの餌食になっています。怒りに影響されるのは誰でしょう?ほかでもなく、あなたが影響されるのです。怒りは人の敵、平安は人を保護する循、慈悲は真の親戚、幸福は天国、苦痛は地獄(テルグ語の詩)と言われています。ですから、自分の怒りをコントロールするよう努力しなさい。すべての生き物が神の化身なのですから、自分自身を優れていると見なし、他者を劣っていると見なすのは愚かなことです。神はどこにいるでしょう? 神はすべての人の中に、またすべての生き物の中にいます。イーシュワラ サルヴァブーターナーム(神は万物の内在者である)、ダイヴァム マーヌシャルーペーナ(神は人間の姿をとる)と言われるのはそのためです。すべてを神と見なすとき、あなたは決して人の批判をしなくなるでしょう。神は、人をその人の気持ちで判断します。神は、バーヴァプリヤ(気持ちを愛する者)であって、バーフヤプリヤ(外見的な見せ掛けを愛する者)ではありません。ですから、あなたの目を内に向けるよう努めなさい。真の人間とは、内を見る人のことです。
– 2002年3月12日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月20日
人は、平安と至福を楽しむに値するにもかかわらず、それらを得るための必要な努力をしていません。愛と信仰を育てるなら、平安と至福を手に入れるでしょう。愛と信仰がなければ、切手が貼られていないか、あるいは正しい宛名が書かれていない手紙と同じように、その人の努力は無益なものとなります。スワミへの愛と信仰があれば、皆さんは自分が着手するどんな仕事も成し遂げることができます。次の三つの格言を守りなさい。それは、「神への愛」、「罪への恐れ」、「社会の道徳」です。神への愛を育てるには、自分の一つひとつの行いが神を喜ばせるかどうかを見極めなくてはなりません。神を喜ばせるなら、罪への恐れを抱くことはなくなるでしょう。この二つがあるところには、社会の道徳は自然についてきます。今の世のあらゆる病(やまい)は、罪への恐れの欠如と、神への愛の減少に原因があります。人間的価値への敬意が低下したことが、世界の平和を徐々に蝕(むしば)んできました。
– 1998年2月25日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月21日
人間は、2つの欠点のために、このチャイタンニャ(意識)の原理を認識することができません。その欠点とは、(1)自分の無数の短所を見過ごしていること、(2)他人のもっとも小さな欠点を拡大していること、です。人は、自分の過ちを隠すことをやめ、他者の欠点を拡大することをやめたときに、初めて神を実現することができます。他人の欠点を探すことは大きな罪です。その代わりに、自分の欠点を探しなさい。自分の短所は、どれほど小さなものでも大きな失態と見なして、それを改めるよう努めなさい。他者の欠点は、どれほど大きくても、それを無視しなさい。人を批判してはなりません。その代わりに、自分自身を批判し、「人間として生まれていながら、私はこのように振る舞ってよいのだろうか?」と自問しなさい。真の霊性修行とは、自分自身の欠点を見つけて、それらを改めることです。それには、よこしまな傾向を手放して、崇高な習性を培うことが関係しています。それが真のサーダナ(霊性修行)です。サーダナの「サ」は、あらゆる富(ダナ)の姿形の化身である神性を表しています。
– 2002年3月12日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月22日
自分自身で自分の努力と成果を調べ、自分のサーダナを判断しなさい。たとえば、あなたはティヤーガラージャ(ラーマ神の偉大な帰依者)がそうしたように神を切望し、神を恋い慕い、神のために泣きましたか? かくも甘さと美に満ちあふれた神の御名をくり返し唱えている間、かくも愛らしさと魅力に満ちた神の御姿を思い描いている間、あなたは悔恨の涙を流し、歓喜の涙を流しましたか?あなたは泣いたかもしれません。しかし、何のために泣いたかは誰にもわかりません。あなたは恐れから涙を流したのですか? あるいは貪欲からですか? 高慢からですか? それとも、神が近くにいないからですか?幼い子どもが、ウパニシャッドの本を膝に置いて座り、ページをめくって印刷された行に目を凝らし、不思議な文字を慎重にゆっくり注意深く見つめています。出家行者(サードゥ)もそれと同じことをします。あなたはこの両者を等しく扱い、二人とも同じ行為に従事していると言えますか? 幼子は自分の手にしている宝に気づいていませんが、出家行者は即座にその詩行が伝える霊的な力に触れることができます。あなたのサーダナも、それが漫
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�厩恐年3月4日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月23日
有能な君主は、従者たちを支配下に置いて、適切な政策に沿って指揮し、王国の平和と安全を保ちます。反対に、従者たちの支配下に置かれて、言いなりになっている君主は、王権に値せず、軽蔑され、失脚します。王国には平和も安全もありません。心は人の内にいる君主です。感覚器官は従者たちです。君主が召使の奴隷となっていては、王国に平安はありません。内なる神の表出と拡大を得たいと願うサーダカ(霊性修行者)は皆、それゆえ、感覚器官への支配力を得なければなりません。それが初めの一歩です。次のステップは、心を征服すること、すなわち心の除去です。第三のステップはヴァーサナ(生まれつきの性向)を根絶することであり、第四のステップはグニャーナ(霊的な智慧)に到達することです。感覚器官は枝、心は幹、生まれつきの性向は根です。この三つすべてを征服して破壊すれば、アートマ(真我)の実体を認識することができます。
– 1983年5月6日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月24日
神が遍在であることを知らない人は、宗教、カースト、人種に基づく敵対関係を自分たちの間に作り出しています。すべての宗教は、神の永遠性と遍在性を認めています。ですから、この真理を受け入れている人々でさえも、このような心の狭さを示すというのは、奇妙なことです。なぜなら、異なる宗教を信仰する人々の間の憎しみは、最終的に宗教そのものへの信頼を破壊することにつながるからです。宗教を破壊しようとする人々は、完全に頭が空っぽであるのに違いありません。破壊されるべきは宗教的偏見であり、宗教そのものではありません。自分の宗教を愛するあまり、他の人の宗教を見下すということは、他人の母親を軽蔑することによって自分の母親への愛を示すようなものです。自分が己の宗教を愛しているのと同じくらい、他の人も己の宗教に敬意と信愛を抱いていることを理解しなくてはなりません。現代の若者は、己の宗教に対する愛着を育む一方で、他のすべての人々の信仰と実践に対しては敬意を表すべきです。
– 1983年7月24日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月25日
心(マインド)の中にある衝動は、五感を動かし、感覚器官そのものよりも強力です。目は見るための道具に過ぎませんが、見ることそのものが目を凌駕する力なのです。同様に、聴覚も単なる耳よりも高次の力です。心(マインド)は感覚器官よりも優れており、心(マインド)の上には識別の力である理智(ブッディ)があります。理智の上には、生気を吹き込む生命原理(ジーヴァートマ)があります。ジーヴァートマ(個我)の上には、至高我(パラマートマ)があります。個人と神の間には、魅力的な錯覚を引き起こすベールであるマーヤー(迷妄の力)があります。このベールが剥がれると、個我と遍在する普遍我が一体となります。悟りを求めて五感が理智(ブッディ)へと向かうと、神の至福が流れ始め、神聖な魂の栄光が明らかになります。理智(ブッディ)は、内面へ向かう探求を促します。感覚器官はすべて外界の物体に向かって開かれていますが、真の霊性修行(サーダナ)は、視線を内面に向け、押し寄せる流れに逆らって泳ぐことから成ります。感覚器官を内面に向ければ、真我顕現というゴールがどれほど近くなるのか、真に理解している人はほとんどいません。�
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– 1983年7月24日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月26日
強盗のラトナーカラは、旅人や巡礼者を待ち伏せして持ち物を奪いました。あるとき、ラトナーカラは聖者たちを襲いました。彼らは、ラトナーカラに対して愛を込めて優しく接し、警告を与え、信愛と献身という神聖な道を明らかにしました。それから彼は残酷な仕事を辞めて、厳しい霊性修養に打ち込み、偉大な詩人であり聖者である、ヴァールミーキへと変わったのです。大通りで強盗を行っていたアングリマーラの例があります。彼は、被害者の指を集めて、糸でつなぎ、自分の首輪にしていました。彼はこの恐ろしい業績を誇りに思い、アングリマーラ(指の首輪)と名乗っていました。しかし、仏陀と出会い、その慈悲深い助言に耳を傾けた時、彼の心(マインド)は浄化され、仏陀の忠実な信奉者となったのです。人間は、教育され、育成されることによって、より高いレベルの意識へと到達することができるのです。経典は、心を浄化する手段を提供してくれます。しかし、他の生き物には、そのような助けや励ましがなく、昔と同じ道を歩むしかありません。これが、人間としての生を受けることが、唯一無二の贈り物である理由なのです。
– 1983年8月31日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月27日
学生諸君は、神を実感認識するためには奉仕が重要であることに気づくべきです。それは、人生を意義深くし、生きる目的を与えます。奉仕に必要な最初の条件は、エゴの滅却です。無私無欲の精神で社会奉仕を行うことによって、神の恩寵とそれがもたらす力を得ることができます。学生諸君!長年にわたってあなたの味方になるものは、神の恩寵以外には何一つありません。この決して揺るぬことのない力と支えの源泉を信じなさい。高速で走る車を止めることができた有名なプロレスラー、キングコングは交通事故で死にました。それは、筋肉の力の限界を明らかにしています。どれだけの王が、その富や権力の痕跡を残すことなく、地上を去りましたか?神への信愛を育むことを、先延ばしにしてはなりません。同胞への奉仕を通じて神に奉仕することを始めなさい。どんなに小さくても、すべての奉仕の行為は、神への奉仕なのです。
– 1983年7月24日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年2月28日
同じ両親から生まれた二人の兄弟、ラーヴァナとヴィビーシャナが、正反対の性質を持っていたのは、彼らが食べて育った食べ物が原因でした。ラーヴァナは激性の食べ物を好み、ヴィビーシャナは浄性の食べ物にこだわっていました。同じ性質の食べ物を好まない場合、仲間になることは困難です。同じ性質を持っていても、両者が激性の食事だけを食べているのなら、その友情は長続きしません。その絆は、妬みと憎しみによって、すぐに壊されてしまうでしょう。浄性の性質は、人間をこれらの悪から解放し、心(マインド)を浄化して、神へ向かう旅の準備を整えます。なぜなら、神はサットワ(浄性)であるからです。多くの人は、浄性から、エゴが優勢な激性へと滑り落ちていきます。エゴが威張り散らしているところに神が宿ることはできないからです。神を見失った理由は他にもあるかもしれませんが、その責任は自分自身にあります。浄性の食べ物とは、正確には何のことでしょうか?身体と心(マインド)とハートに至福をもたらす食べ物が浄性なのです。それは神聖な生き方を維持し、食事が終わっても重たさを感じさせません。
– 1983年7月25日の御講話