2023年1月1日の御言葉
今日、新しい年が始まりました。聖なる思いと神聖な考えをもって、あなたの中に愛の精神を育みなさい。神は、寺院の中やアシュラムの中で個別に見出されるものではありません。真理は神、愛は神、ダルマは神です。これらの原則に従って神を礼拝すれば、その場で神そのものが顕現するでしょう。このことについては何の疑いもありません。心から神を愛しなさい。神に祈り、神と友達になりなさい。神を友とすれば、どんなことでも達成できます。今日は、あなたのハートを愛で満たし、あなたの手を犠牲という装飾品で飾ることを学びなさい。手のための宝石は犠牲です。身につけるべきネックレスは真理です。新しい年には、これらの宝石を大切にする習慣を育まなければなりません。この新しい年には、神聖な愛を育て、故郷の平和を促進しなさい。広い心で祈りなさい。ローカ・サマスター・スキノー・バヴァントゥ(全世界が幸せでありますように)。この祈りで新しい年を始めなさい。そうすれば、あなたは至福と平安と熱意に満ちた人生を送ることができるでしょう。
– 1999年3月18日の御講話
プラシャーンティニラヤムからの御言葉 – 2023年1月2日
サムドラマンタナ(乳海攪拌)の伝説は、あなたにとって大きな価値があります。なぜならあなたも、己のハートという大海を攪拌して、自分自身のために甘露を得なければならないからです。この伝説はただの注意喚起です。サトワグナ(浄性)に満ちたハートは、乳海です。あなた自身の実体として、あるいは到達すべき理想として、常に神を憶念すること(マナナ)は、その乳海の中に攪拌棒として立てられたマンダラ山です。その攪拌棒に巻きついている大蛇ヴァースキは、諸感覚を象徴しており、攪拌の過程で毒煙を吐き出します。その縄は、善と悪の衝動たちに握られています。両者は、それぞれが心に定めた成果を切望しながら、攪拌作業に奮闘しています。神の恩寵は亀の化身(クールマ)です。あなたが真剣に不死の秘密を探し求めていることを知った神自身が助けに来てくれます。神は、亀のように、あらゆる霊性修行の安定した基盤として働きながら、マナナのプロセスを損なわずに、静かに、人知れずやって来ます。心を攪拌すると、さまざまなものが浮かび上がって来ます。しかし賢者は、不死を保証する者が出現するまで辛抱強く待ち、出現したらそれを無我夢中で�
�手中に収めます。それがこの伝説の教訓です。
– 1965年1月13日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月3日
見る者が見られるものに執着してはなりません。それが解脱を得る方法です。諸感覚とその対象物が接触すると、欲望と執着が生じます。これが努力と高揚または落胆のいずれかにつながります。それから、損失を恐れたり、失敗に苛立ったりと、一連の反応が長くなります。多くの扉や窓が、吹いているすべての風に対して開かれているのであれば、どうして内なるランプの炎を存続させることができるでしょう?そのランプは心(マインド)であり、外界の二重の要求に影響されることなく、着実に燃え続けなければなりません。その扉や窓を閉める方法の一つは神への全託です。なぜなら、シャラナーガティ(神への完全な全託)という姿勢でいるあなたにはエゴがなく、喜びや悲しみに振り回されることがないからです。完全な全託は、神の恩寵をもたらして、あなたが人生で遭遇する危機の全てに対処できるようにします。それはあなたを勇敢にし、より屈強にし、戦いに対してより良い備えができるようにするのです。
– 1965年1月13日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月4日
学生にとって、自分の長所を見つけてそれを喜ぼうとするよりも、自分の欠点を見つけてそれを失くそうとするほうが本人のためになります。これを行う学生は、早く成長することができます。恐れや不安に引きずられることがなくなります。主を信じて自分の重荷をすべて主に委ね、前に進むことができます。その人は心が平穏な状態へと至りますが、それは真の求道者の印です。アルジュナはその段階に到達し、その時、クリシュナはアルジュナに、(そしてアルジュナを通して全人類に、)不死をもたらす教えを授けました。ギーターはいったい誰のために語られたのでしょうか?そのことをしばし考えてごらんなさい。牛乳は成牛のために搾られるのではありません。成牛は自分の乳を飲まないからです。子牛であるアルジュナは、お腹いっぱい飲みました。クリシュナは常に満ち足りていて、乳は言うに及ばず、何一つ必要としません!クリシュナがウパニシャッドを搾ってギーターを得たのは、いったい誰のためだったのでしょう?それは、「善良な知性の人」(ス・ディー・ジャナ)、つまり「善良な知性」(ス・ディー)、善良さによって柔和になった知性、美徳に管理されてい�
�る知性を持っている人のためであると、クリシュナは言います。
―『ギーター・ヴァーヒニー』第3章
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月5日
一人でも、他の人と一緒でも、あなたが何かをする時にはいつでも、神が遍在であることを思い起こしながら、それを行いなさい。神はすべてを見、すべてを聞き、すべてを知っています。あなたが何を話そうとも、神がすべての言葉を聞いていることを覚えておきなさい。真実と虚偽を識別し、真実のみを語りなさい。あなたが何を行おうとも、正しいか誤りかを識別し、正しいことのみを行いなさい。あらゆる瞬間に、全能の神を意識するよう努めなさい。肉体は個我(ジーヴァ)の寺院です。ですからその寺院で何が起ころうとも、それはその個人に関連しています。同様に、世界は神の肉体であり、そこで起こることはすべて、良いことであろうと悪いことであろうと、神に関連しているのです。個人と肉体の事実の観察から、神と世界の事実は観察不能であるという真理を理解しなさい。1)執着と憎しみに汚されていない心、2)虚偽に汚されていない話し言葉、3)暴力に汚されていない肉体、という三つの主要な道具を手に入れた人はすべて、個我と神の関係、両者の類似点を把握することができます。
―『プレーマ・ヴァーヒニー』第19章
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月6日
真理(サッティヤム)を知りなさい。そうすれば、真理があなたを万人の強く変わらぬ親族にさせ、情欲と憎悪という足かせを外してくれるでしょう。人はシヴァムの教訓を学ばなければいけません。怒りと貪欲という毒を飲み、世界が毒の影響で害されることがないようにした、あの教訓〔シヴァ神の乳海攪拌神話〕です。言葉と行動を通じて慰めと安らぎを広めなさい。シヴァ神は頭の上に三日月を身に着けています。それは巡礼者に神への道がわかるよう、穏やかな月光で照らして旅の苦労を減らすことができるようにするためです。シヴァ神は喜びと平安を広めます。その一方で、シヴァ神は自らの喉の青いあざの奥に烈火のごとき猛毒を隠しています。これは人間への教訓です。反社会的な性質と性癖、有毒な憎悪、競争心旺盛な貪欲を自分の中に監禁しておきなさい。シヴァムは、特定の神、すなわち三大神である神を意味しているわけではありません。シヴァムは全人類を含有しています、なぜなら、人は自分はシヴァムであるということに気づかなければいけないからです。さらに、スンダラムも同様に、真理は美であり、美は神であるということを気づかせる存在です。その美�
�は単なる身体的な美しさではなく、道徳的、精神的な美しさです。醜い思考、不快な言葉、人の気分を害する行為を手放しなさい。常に美の理想を心に抱いていなさい。
– 1972年10月25日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月7日
太陽が昇ると、暗闇は去り、暗闇から生じる悩みも消えます。同じように、アートマを悟った人にとっては、束縛も、束縛から生じる悲しみも、もはや存在しません。己の軸を忘れた人にだけ、迷妄が訪れます。極めて基本的な真理を忘れさせる最大の要因は、利己心です。ひとたび利己心が入り込むと、その人は理想から滑り落ち、階段を転がり落ちるように、最上階から最下階まで、一気に落ちていきます。利己心は、分裂、憎悪、執着を生み出します。執着や愛情によって、さらには妬みや憎悪によって、人は行動へと駆り立てられ、世俗に浸るようになります。これにより、肉体という枠組みの中に具体化されて、さらに利己的になるのです。快楽と苦痛という2つの引力から自由になるためには、身体意識を取り除き、自己中心的な行動を避けなければなりません。
– Jnana Vahini, 第4章
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月8日
内面の魅力こそが真の美です。シーターがランカー〔羅刹王ラーヴァナの国〕の無憂樹の庭園に監禁されていたとき、ふいに目の前に一匹の猿が現れました。その動物は、見た目はよくありませんでしたが、シーターが待ち焦がれていたラーマからの伝言を伝えたとき、美に満ち溢れた者という印象をシーターに与えました! 庭園の愛らしさ、魅力的な風景、ラーヴァナがシーターの目の前に広げたきらきらと輝く美しい品々は、シーターのハートを勝ち得ることができませんでした。ところが、ラーマという一言で、木の下で人喰い鬼女たちに囲まれていたシーターは、その木のこずえにうずくまっていた風変わりな猿を慕うようになったのでした。自然界の美しさは神の美しさの反映にすぎません。しかし、あらゆる写像がそうであるように、それは実在しません。花は朽ち、雲は散り散りになって新しい形となり、身体的な美貌はほんの一瞬のものにすぎず即座に消えてなくなります。一方、神の美は永遠で、完全で、囚われることなく自由です。そのスンダラム〔美〕はサッティヤム〔真理、真実〕であり、時間の経過に影響されることも、場所と共に変化することもありません
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―1972年10月25日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月9日
ヨーガ、つまり心の中の欲望の動きをコントロールすることなしに、どうしてティヤーガ(犠牲)を発達させることができるでしょうか?空調があっても、心が整わなかったら、どうして平安でいられるでしょう?あなた方は物価や、鉄や布の生産、穀物の流通など、さまざまなことをコントロールできるかもしれません。でも心がコントロールできなかったら、その他のことを行っても無意味です。心のコントロールは、他のどんなコントロールシステムよりも英雄的で、有益です。たとえ何千人がしがみついて引き戻そうとしても、走っている列車を止めることはできません。しかし、運転手がエンジンの小さなボタンを押せば、それを止めることができます。同じように、心がコントロールされていれば、コントロールしようとしているさまざまな機能のすべてを止めることができるのです。 現代においては、本質的でない目標を達成するために、膨大な時間とお金が浪費されていますが、最も重要な目標である心のコントロールは軽んじられています。ヨーガは、そのコントロールシステムの名前です。今、ヨーガは軽視されています。求められているのはウッディヨーガ(仕事
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�厩群年2月3日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月10日
「神を知ること」という表現は、何を意味しているのでしょうか? それは「神を愛すること」です。信愛を伴わない知識は憎しみを生み、そのような知識は、力の誤用へと導きます。それは、知識という名にふさわしい知識ではなく、正反対に誤認する無知です。信愛によってのみ、英知は確立され、深く根を下ろすことができます。賢者(ジニャーニ)のしるしは何でしょう?それは愛、広がり続ける愛があることです。信愛、言葉を換えて言うと、主に対する愛、が発達していくと、無知が少しずつ消えていくのです。信愛と憎しみは共存できず、矛盾しています。しかし、信愛と愛は同じ性質を持っています。世俗的な人が感染するのは、物質的なものに対する愛だけです。しかし同じ愛が、信愛や神への愛という形をとるならば、それは神そのものを実現する方向へと人を導きます。
– Prasanthi Vahini, Ch 27.
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月11日
この広大な国の誰にも、果たさなければならない重要な役割があります。国民である誰にも、社会的責任があります。実に、世界の人々は一つの人間家族です。真の学生は、この一体感を体験すべきです。スポーツや運動競技は、この一体感を養うことができます。スポーツや運動競技や体を動かすことは、体力や健康に直結します。しかし、人間は単なる肉体ではありません。人は自分の中に霊妙な要素である心(マインド)を持っています。心の清らかさを達成し、無私を育んだときに、初めて人は心の平安を得て、本物の幸せを体験することができます。ですから、体力と心の清らかさの両方が不可欠です。スポーツや運動競技で栄誉を勝ち取ろうとするときに示す決意と粘り強さは、人生における他の分野、特に道徳や霊性の分野においても同じように必要であることを、学生諸君は認識すべきです。
– 1989年1月14日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月12日
すべての甘美なるものよりも甘く、すべての吉祥なるものよりも吉祥で、すべての聖なるものよりも神聖なものがあるとすれば、それはまさに、主の御名、もしくは主ご自身である。世俗的な心の持ち主との付き合いや、悪魔のような性質に感染した人々との付き合いをやめなさい。あらゆる種類の不義から離れていなさい。賢明で善良な仲間を常に求めなさい。主ご自身に庇護を求めなさい。純粋なる者である主は、平安と幸福と英知の完全なる具現です。主である神は、すべての人の中に座っています。主は、帰依者が一心不乱に心を込めて主の御名を称える場所に常に留まっています。ですから、まず、主に対する強い信愛を実践しなさい。そうすれば、真に永続する幸福と英知を確実に得ることができるのです。はかない五感の快楽を追い求めることが、一体何の役に立ちますか?あなたのハートの空洞に住んでいる主、あなたの親友や父や母や師(グル)よりもあなたの近くにいる主を礼拝しなさい! あなたにとって主は、これらすべてであり、それ以上の存在なのです!
– Prasanthi Vahini, Ch 26.
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月13日
信愛がパートタイムであってはなりません。信愛は、喜びの時にも悲しみの時にも、快楽の時にも苦痛の時にも、常に存在しているべきです。ギーターは「サタタム ヨーギナハ」(つねにヨーギであれ)と宣言しています。ヨーギは常に神と交信しています。.朝はヨーギ(求道者)であり、昼はボーギ(食いしん坊)になり、夜はローギ(病人)になるのが、今日の人々のあり方です。真の帰依者は、常に主に没頭し、すべての行為を主への捧げ物として行います。教師として、あるいは学生として、あるいは従業員として、あなたがどんな行為をしようとも、主の御名においてそれを行うのであれば、それは敬虔な捧げ物となります。供え物となります。これは、心(マインド)を昇華させる最も容易な方法です。自分の体は神からの贈り物であると考えるなら、あなたが罪深い行いをすることはないでしょう。自分の財産は神からの贈り物であると考えるなら、あなたがそれを誤用することはなく、正しく使うでしょう。同様に、自分の才能はすべて神から授けられたものだと考えるなら、あなたはそれを神への奉仕のために役立てるでしょう。
– 1993年5月24日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月14日
サンクラーンティの日には特別な意味があります。サンクラーンティは、「サン」(集まる)と「クラーンティ」(大きな変化)を意味しています。太陽がマカララーシ(山羊座)に入ることが、この日から始まる大きな変化の前触れです。それは神聖な段階に入る印です。それが意味するのは、人間の心(マインド)を神に向かわせようとする試みです。それは、目を司る太陽神に、私たちの視覚を純粋なもの、神聖なもの、聖なるもの、神なるものに向かわせてくださいと祈る日なのです。プルシャールタ(人生の目標)の本当の意味は、時間とその時々に起こる状況を、自分の人生を有意義で崇高なものにするために活用する、ということです。私たちは、現代の世界において顕著な霊的変容を引き起こさなければなりません。そうして初めて、マカラ サンクラーンティを祝う意味があるのです。己の考え方や態度に変化がないまま外見を変えても、クラーンティにはなりません。私たちが大きな霊的変容を引き起こした時に、真の平安があるでしょう。
– 1985年1月14日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月15日
ダルマ(義務)、アールタ(富)、カーマ(性愛)、モークシャ(解脱)という4つのプルシャールタ(人生の目的)の一番目にあるダルマは、一般的には、慈善のような活動、己のアーシュラマ(人生の段階)における義務、巡礼、その他の善行を指すと見なされています。しかし、これらは外的な活動にのみ関連しています。すべての人間の真のダルマは、神を悟るためにあらゆる努力をすることです。この成就に到達するためのプロセスが、ダルマを構成しているのです。さまざまなアーシュラマ(学生期ブラフマチャリヤ、家長期グリハスタ、林住期ヴァーナプラスタ、遊行期サンニャーサ)に関連する義務は、人生の特定の段階に付随して遵守されます。そのような義務が、真のダルマを構成しているのではありません。ダルマは真我顕現へ導くものであるはずです。同様に、アルタとは、一般に理解されているような財産や富の蓄積を意味するのではありません。それらはアナルタ(災い)となる可能性があり、永続はしません。そのような富の獲得は、プルシャルタとは見なされません。人間が獲得すべき真の富は、神に関する叡智です。
– 1985年1月14日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月16日
(ダルマ、アルタ、カーマ、モークシャという4つのプルシャールタ、すなわち、人生の目標における)カーマという用語は、一般的には世俗的欲望や官能的快楽と結び付けられています。しかし、カーマをプルシャールタ(人生の目的)の1つと見なすのであれば、それは世俗的欲望とは無関係になり、神の切望へとつながるのです。モークシャという言葉は、一般には、神や天国に到達するための手段を指すと理解されています。しかし、天国にいることができるのは、己の功徳によって得られた期間中だけであり、最終的には再び生まれ変わらなければなりません。しかし、本当の意味でのモークシャは、何も欠けることなく、入ってくることも出て行くこともない状態を指します。それは、名も姿もない状態です。モークシャは、特定の場所に行くことではありません。それは、神との一体性に到達することです。すべての人にとって、4つのプルシャールタの第1の任務は、何が永遠で何が一時的なのかを判断して、永遠のマーダヴァ(神)を探し求めることであるはずです。第2の目的は、真の財産である神の叡智を獲得することです。第3の目的は、神への信仰を深め、�
�神との融合の実現を切望することです。4つ目は、変化も移動もない真我顕現の境地であるモークシャです。
– 1985年1月14日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月17日
あなたがあらゆる快適さと贅沢さを渇望する肉体は、損傷し腐敗するものです。それはいつの日か、犬やジャッカルの餌となるでしょう。その一方で、主は歓喜と神聖な愛という感動をもたらします。 あなたのハートを主に委ねなさい。神は、他の何もあなたに求めません。他の手段によって主を得ることはできません。限りない学識によっても、大袈裟な誓いによっても、色とりどりの儀式によっても。人生の半分は睡眠のために浪費されます。残りの半分は、愚かな欲望を満たす中で、幼年期と少年期のどうしようもない無知の中で、不幸と苦労と病気の中で、老年期の空虚さの中で空費されるのです。何か価値のある活動に我が身を捧げなさい。愚かにも官能的快楽を追い求めることによって、それらを誤用しないよう気をつけなさい。主の栄光を思い、あなたの心(マインド)を主の蓮華の御足に固く結びつけ、その結果、生死の大海原を渡ることができるように、あなたの貴重な年月を使いなさい。ですから、いつでも、どんな状況においても、愛と信愛をもって、主の御名を思い起こすことを実践しなさい。
– Prasanthi Vahini, Ch 26.
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月18日
減り続ける幸福と平安を追い求めた結果、失望と病気という霧に覆われている世界にとって、進歩への道を示す光柱は神です。人間は、この仕事の領域、すなわち広大な工場にすぎないこの世界を受け継ぎ、その変革のために己のエネルギーと技術を熱心に注ぎさえすれば、人間から神へと作り変えられます。人間は人生のあらゆる瞬間に働かなければなりません。この重荷を避けることはできません。その在り方は、行動と努力と仕事によって決まります。仕事は、善か悪か、大きいか小さいか、影響力があるかないかのいずれかの結果に終わります。ですから、悪と苦痛を避けるため、人は正しい路線において活動しなければなりません。それが自分自身に対して負っている義務です。人間の体力、経済力、知力はさまざまですが、神の目から見れば全て同じです。誰にでも、神に融合するという目標を達成する権利と可能性があるのです。
– 1972年2月3日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月19日
神の御名は、迷妄という暗闇を払う朝日のように光り輝き、普遍的で、神聖です。一瞬たりともその神聖な御名を悪用してはなりません。一秒たりとも、その御名を思うことなく過ごしてはなりません。覚えておきなさい。プラフラーダが繰り返したその御名の甘美さが、悪鬼たちのハートを圧倒したことを。そして、悪鬼の子供たちがプラフラーダと一緒にその御名を繰り返し、彼に導かれて喜びながら歌い踊り始め、斧を構えてリーダー(プラフラーダ)を守ろうとしたことを。悪魔的な性格を変容させ、浄化して、甘露に変えることのできる主の御名は、世の平安という神そのものです。その御名を休みなく繰り返し、その御姿と御名を強く愛することが、信愛と呼ばれるにふさわしいのです。信愛とは、主に向けられた最も純粋で最も高次の愛を意味します。誰でもこの信愛を得ることができます。信愛のヨーガの扉は、すべての人に対して開かれています。必要なパスポートは、解脱を求める願望だけです。その願望が全ての人に遺産を手に入れる権利を与えてくれます。
– Prasanthi Vahini, Ch 26.
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月20日
もし財産を失ったとしても、何らかの計略を立てればそれを取り戻すことができるかもしれません。もし健康を失ったとしても、それを取り戻すために医師に強壮剤を処方してもらうことができるかもしれません。もし地位や権威を失ったとしても、運が良ければそれを取り戻すことができるかもしれません。もし美徳が失われたとしたら、それは永遠に失われ、何をしても元あった純粋さを取り戻すことはできません。ですから人は常に用心しているべきです。決して気を緩めてはなりません。最も偉大な美徳は愛です。愛は人格の基盤です。あなたは他の全ての望ましいものたくさん持っているかもしれません。しかし人格、すなわち愛につながる美徳に欠けているなら、本当の平安を得ることはできません。お金は来ては去ります。では道徳はどうでしょう?道徳が来ると成長します。愛を注ぐことによって、ハートの中で道徳を成長させなければなりません。そうして初めて私たちは、正義と安全と法と秩序を手に入れることができるのです。人々の間の愛が減れば、国は衰え、人類は滅亡するでしょう。
– 1972年2月3日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月21日
まず、心(マインド)を落ち着かせ、静かにさせなければなりません。そうして初めて、身体は健康になり、知性は鋭くなります。心(マインド)が一度にたくさんのものに投影されることはありません。心(マインド)は、一度に一つのものにしか投影されないのです。しかし、それでも心(マインド)が思考、欲望、空想、想像、その他諸々の集合体であることに変わりありません。実際のところ、心(マインド)の中には、一言で言うと、創造の歴史がすべて詰まっています。それが人類の迷妄(マーヤー)です。心(マインド)とは、善と悪、正と邪が覇権を争う戦場(クルクシェートラ)なのです。鉄を平らに打ち砕くものは鉄しかありません。同じように、低劣な心(マインド)は、優れた心(マインド)によって、よりよく形づくられる必要があります。個人を向上させるためには、己の心(マインド)をより高く、より強くしなければなりません。それが、本書「プラシャーンティ・ヴァーヒニー」(至高の平安の流れ)の目的です。この流れの中にある水、そこに示された霊性修行という水をたくさん飲みなさい。その中に身を沈め、浄化されなさい。その涼やかさが、あなた�
�の悲しみや苦しみを癒し、罪という炎を消し去るために。
– Prasanthi Vahini, Ch 3.
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2003年1月22日
あなたが主に捧げなければならないのは、植物が育てる花ではありません。それは植物への褒美であり、あなたへの褒美ではありません!主があなたに捧げて欲しいものは、市場で手に入る蓮の花や果実ではなく、あなたのハートという湖の中に咲く蓮の花や、あなたの地上でのキャリアという木で熟した果実です!「主はどこで見つかるのですか?」と、あなた方は尋ねるかもしれません。主の住所はバガヴァッド・ギーター18章61節に示されています。それを調べて、書き留めておきなさい。「イーシュワラ・サルヴァブーターナーム・フルッデーシェー・ルジュナ・ティシュタティ」(アルジュナよ、主は生きとし生けるもの全てのハートの中に住んでいる。)さて、そのことを知った後であれば、誰かを軽視して見下したり、嫌悪することを楽しんだり、嘲笑に耽ったりすることが、どうしてできるでしょう?すべての人は神聖な存在に満たされており、神聖な特質によって動かされています。どの人も、あなたから愛、名誉、優しさを受け取るに値します。これらを十分に与えなさい。
– 1964年4月16日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2003年1月22日
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月23日
カウラヴァ兄弟は、富、武力、同盟、熱狂的に敵を憎む心、カーマ(欲望)など、勝利に必要な道具をすべて持っていました!しかしダルマという高次の価値には目もくれず、謙虚で平和な道を歩む者にのみ与えられる神の恩寵を備えていなかったため、彼ら全員が骸(むくろ)と化したのです。クリシュナは彼らの御者ではありませんでした。彼らが信を置いたのは、重要ではない物事だったのです。統治者たちが、人々を向上させ、子供たちを教育するために計画を立てるのであれば、パンディト(学僧)たちによって今も保存され実践されているこの国の古代の叡智を参考にしなくてはなりません。それが私の望みです。そうすれば、船の竜骨をまっすぐに保つことができるでしょう。ウパニシャッドに盛り込まれている知識は、すべての人に受け継がれるべきものです。私はそれを望んでいます。 バクティ(信愛)に向かう教育は、現在、世界中のほとんどの国で普及しているブクティ(享楽)に向かう学校教育よりも優先されなければなりません。バクティは、あなたにグニャーナ(叡智)を授ける霊性修行へと突き動かすアサクティ(切望)です。信仰と着実さの両方を持ちぁ
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�厩挟年4月13日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月24日
ラーダーのクリシュナへの信仰についてのお話があります。クリシュナを中傷することを楽しんでいたブリンダーヴァンの長老たちは、ラーダーの美徳を試すため、ある試練を課しました。彼女は100個の穴が開いた泥の壺を渡され、ヤムナー川から自宅まで、その壺の中にある水を運ぶよう頼まれました。彼女はクリシュナへの意識でいっぱいだったので、壺の状態など知るよしもありませんでした。彼女は、いつものように、息を吸うたび吐くたびに、クリシュナの御名を繰り返しながら、その壺を川に浸しました。クリシュナの御名が口にされるたびに、一つずつ穴が閉じました。それで壺がいっぱいになる頃には、鍋の穴が全て塞がってしまいました。それが、彼女の信仰心を示す尺度でした。信仰心は無生物にも影響を及ぼすことができます。古の人々は、それを道具として、精神を育み、真理に到達するための王道を築いてきました。なぜ茨(いばら)だらけの荒れ地やぬかるんだ脇道を歩き回っているのですか?
– 1964年4月16日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月25日
あなたの中にエゴの痕跡がある限り、主をはっきりと見ることはできません。それが、聖者ティヤーガラージャが自分の心から取り除いてくださいと、ヴェンカテーシュワラ神に祈った障壁です。あなたが常に自分自身に「それは私ではなく、神である」「神が力であり、私はその道具に過ぎない」と言い聞かせるなら、エゴイズムは破壊されるでしょう。舌の上に常に主の御名を置きなさい。美しいものや壮大なものを見たり聞いたりするたびに、主の栄光を思いなさい。すべての人の中に、その姿で動いている主そのものを見なさい。他人の悪口を言わず、その人の中に善だけを見なさい。霊的な道に沿って、他の人を助け、他の人を慰め、他の人を励ますあらゆる機会を歓迎しなさい。謙虚でありなさい。自分の富、地位、権威、学問、身分を自慢してはなりません。あなたの物理的所有物、メンタルスキル、知的業績のすべてを主の奉仕に、そして多様に顕現する主に、捧げなさい。
– 1964年8月13日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月26日
偉大さは、何千万ルピーも費やして慈善行為をすることにあるのではありません。あなたの思いと言葉と行動が愛に満ちているべきです。同胞の苦しみを軽減するために努力すべきです。あなたが自分を愛するのと同じように、すべての人を愛しなさい。これはあなたのダルマです。ダルマとは、慈善行為をすることだけを意味するのではありません。ハートを正しい感情で満たし、利己心と貪欲を捨てるべきです。つねに社会の安寧を心に留めていなさい。あなたの同胞を「他人」と見なしてはなりません。あなたの愛をすべての人に分かち与えなさい。仲良く暮らし、一体性を育てなさい。愛によってのみ、あなたは他の人々のハートを勝ち取って、その人たちを変えることができます。それゆえ、今必要とされているのは、愛を培い、他の人々に愛を分かち与えることです。神への愛と、あなたより不幸な人々への慈悲を強めなさい。これが教育の真髄です。両親に奉仕して、両親を幸せにしなさい。あなたが家庭で自分の母親の苦しみを気遣わないなら、他人に愛を与えても何の役に立つでしょう? あなたの第一の義務は、両親を愛し、両親に奉仕することです。その後で、他の拭
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�屋梓年10月23日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月27日
平安も信愛も、他の人を通して得ることはできません。各人が自分のためにそれらを生み出し、発現させていく必要があります。それでもやはり、根本である主の恩寵も持っているべきです。ウパニシャッドの中で言われているように、「主に選ばれた者がそれを得る」のです。しかし、霊性志願者は「それなら、霊性修行の必要性は何なのか?」と、疑念を抱くかもしれません。信愛を込めて主を思う人々は、受け継いだカルマや、蓄積されたカルマが、どのような種類のものであったとしても、それらを乗り越えることができるのです。主の恩寵があれば、到達し得ない至福さえも体験することができます。霊性修行の精神修養の有効性を疑ってはなりません。それが無意味だということは決してありません。どんな人にとっても!そのことを確信しなさい。揺るぎない信愛が、主の恩寵を勝ち取るでしょう。ガジェーンドラはその一例です。
– Prasanthi Vahini, Ch 5.
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月28日
まず、あなたの中にある悪をすべて取り除きなさい。それからすべての善を吸収しなさい。あなたの中に悪の山があるのに、他人を非難するのは罪です。同じ言葉をイエスも表明しました。現代人は、自分の中にある無数の欠点を認識しようとせず、他人の微細な欠点を拡大解釈しています。実際には、千の眼で他人のあら捜しをしているのです。これが今日の人間の悲しい状態です。 人間は、己のハートの中に悪い性質が入り込むのを許しています。そのため、自分の本当のアイデンティティを見失っているのです。現代人は、他人の長所を見るよりも、他人の欠点を捜しだすことに興味があるのです。他の人の中に善だけを見るのが本当の人間です。そのような人は、真のキリスト教徒、真のシーク教徒、真のヒンドゥー教徒、真のイスラム教徒であり、ハートという畑で愛を育んでいます。残念なことに、現代においては、己のハートの中に愛の種を蒔いている人は一人もいません。そのようなときに、あなたはどうして愛という収穫を期待するのですか?その人の中に愛がないのであれば、どうしてその人を真のヒンドゥー教徒と呼ぶことができるでしょう
– 1999年2月14日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月29日
実際のところ、無神論者というのは全く存在しません。ただ無知であるだけです。彼らは、己の最も奥深くにある核が神であることを知らないのです。彼らは、己の呼吸そのものが神であることを知らないので、神を否定します。それは、魚が水の存在を否定するようなものです。あなたは、彼らのとんでもない無知を憐れむべきであり、あなたが気に入らないことを言うからといって怒ってはなりません。神はアーナンダ(神聖な至福)としてあなたの中に宿ります。それゆえあなたは常に、あなたの周囲にあるありとあらゆるものの中に、自然とアーナンダを求めるのです。ラーダー(クリシュナ神の恋人)、ラーマクリシュナ・パラマハンサ、ヴィヴェーカーナンダのようにアーナンダで満たされるためには、己のエゴを手放して、主が自分の存在そのものであるという意識に没頭しなければなりません。
– 1964年8月13日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月30日
普通の人間であったガンディーが偉業を成し遂げ、世界に名を馳せることができたのは、母親から学んだ善行の教えがあったからです。彼の母親は、ある誓いを守っていました。彼女は、朝、カッコウが鳴いてから食事をすることにしていたのです。あるとき、ガンディーが少年だった頃、母親は長い間カッコウが鳴くのを待っていました。これを見ていたガンディーは、家の外に出て、カッコウの鳴き声を真似しました。それから家の中に入って、「お母さん、カッコウが鳴いたから、ご飯を食べていいんだよ」と言いました。息子の小細工を見破った母親は、彼の頬を叩いて言いました。「お前は悪人だ!お前のような子を産むなんて、いったい私はどんな罪を犯したというのか!」そのような子が自分のもとに生まれてきたことを、彼女は大いに嘆きました。母の悲嘆がガンディーの心を打ちました。その瞬間から、ガンディーは二度と嘘をつかないと固く決意したのです。このような純粋さと美徳に満ちた人生を送ることに対して、最初の責任を果たすのが両親です。
– 1992年5月6日の御講話
プラシャーンティ・ニラヤムからの御言葉 – 2023年1月31日
自分が持っていないものに悩まされることを拒絶し、欲望や熱狂や憎悪を出来るだけ排除しようと試みながら、自分が持っているものに満足しなさい。真理、ダルマ、愛、忍耐(サハナ)を育むよう努めるべきです。それらを育むと同時に、体系的に実践しなさい。これが人間の本当の義務であり、人間が生まれてきた本当の目的です。各自が上記の四つの資質を培い、実践すれば、人々が妬み合うことはなくなり、利己的な権利争いは終わり、他人の利益が尊重され、世界平和を安定させることができるのです。そのようにはせず、あなた自身に平和がないのであれば、どうして世界平和を守ることができるのですか?世界平和に熱心な人々は、まず平和を体験し享受する方法を身に付けなければなりません。そうすれば、その平和を自分の外の世界に広げ、平和を促進する手助けができるのです。
– Prasanthi Vahini, Ch 15.