プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月1日
皆さんは、カーリダーサの物話を聞いたことがあるはずです。彼は、「私がいなくなればすぐに」、つまり、「エゴが消えればすぐに」、解脱が得られるだろうと言いました。その時には、ブラフマン(不滅のアートマ)として自分本来の輝きを放つからです。「I」(私が)の上に削除線を引くと、十字架のシンボルになります。十字架で磔にされるのはエゴであることを覚えておきなさい。そうすると、妨げられることなく、神聖な性質が顕現します。エゴが最も容易に破壊されるのは、帰依心によって、神の素晴らしさに思いを馳せることによって、神の子として他の人々に奉仕することによってです。すべての御名は神のものなのですから、どの御名で神を呼んでもよいのです。神のさまざまな御姿を讃えるために千の御名(サハッスラナーマ)が作られたのは、そのためです。千の中から(あなたの好きな)いくつかを選ぶ自由と権利はあなたにあります。
―1958年3月25日の御講話
訳注
カーリダーサ:5世紀前後に活躍したと考えられている作家で、その作品は後世のインドだけでなく欧州にも影響を与えた。インドのシェイクスピアとも評されている。
千の御名:ヴィシュヌ神を讃えるヴィシュヌ・サハッスラナーマ、シヴァ神を讃えるシヴァ・サハッスラナーマ、母なる女神を讃えるラリター・サハッスラナーマ、ガネーシャ神を讃えるガネーシャ・サハッスラナーマ、ハヌマーン神を讃えるハヌマーン・サハッスラナーマなどがある。
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月2日
あなたは自分の中心にある神性を無視していると同時に、他人の中に神性を求めています。それが悲劇なのです。無力感、弱さ、劣等感によって、あなたは自分自身を傷つけています。臆病や自責の念は、「神聖な炎」の火花にはなりません。少しの識別心を働かせれば、己の真実を発見することができます。迷妄の中で生まれ、迷妄の中で呼吸し、迷妄の中で卑屈になっている人々は、自分に受け継ぐべき遺産があることに気づかず、それを得ることができないと感じています。人々は自暴自棄になり、逃げ場を失っています。彼らは、平安を得ようと努力するたびに、迷妄と不安に絡め取られていくのです。色とりどりで、それぞれが芳香を放つ花のように、基本的に人間は皆、同じブラーミンに分類されるのです。神聖な本質から芳香が生じます。それが生きている本当の理由なのです。すべての人はその本質を悟り、輪廻転生を終えなければなりません。
―1961年12月2日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月3日
神聖な場所に到達したら、神聖な考えだけを抱くようにしなさい。医者に会うと、自分の病気のことを思い出します。弁護士に会うと、財産の問題や個人的に恨みに思っていることについて相談したくなります。寺院を見れば、宇宙を動かしている力のことが思い出されるでしょう。あなたの旅行は、ヴィノーダ・プラヤーナ(楽しむための旅行)ではなく、ヴィヴェーカ・プラヤーナ(識別力を働かせるための旅行)であるべきです。ピクニックに行くとか、訪れた先の店で器や服や珍しいものを買うために、巡礼の旅を利用してはなりません。静かな自宅に戻ってから思い返すことのできるような神聖体験で心を満たす必要があることに、より多くの注意を払いなさい。神聖な場所(クシェートラ)にいる時には、その地にいる神聖な存在(クシェートラグニャ)のことを思いなさい。繰り返しになりますが、あなたが行く先で見つかるかもしれない悪い特徴には関わらないようにしなさい。善良な人々との交わりを求め、神聖なるものや聖別してくれるものの真ん中に移動しなさい。それが、あなたがここまでやって来た目的です。
―1962年1月14日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月4日
無知(アグニャーナ)は単独では存在しません。無知(アグニャーナ)には、エゴ(アハンカーラ)〔我執/自我意識〕という子がいます。そのエゴという阿修羅(アスラ)には、執着(アヌラーガ)と衝動(ヴァーサナー)〔潜在的傾向〕という二人の子がいます。二人の別名は、激情と渇望です。激情と渇望には密接な相互関係があります。激情があるなら渇望もあります。二人は姉妹です。執着によって、人は「私の」、「私のもの」という感情を持ち、その感情が欲望をかき立て、欲望が心配を生みます。ですから、エゴ(アハンカーラ)を取り除くには、執着(アヌラーガ)と潜在的傾向(ヴァーサナー)を消滅させなければなりません。それは、無知(アグニャーナ)を去らせる必要があるということを意味します。なぜなら、そうすることによってのみ、エゴを抹殺することができるからです。無知(アグニャーナ)を滅して正しい英知(スグニャーナ)を発達させるにはどうすればいいか? それが問題です! その答えは、坐禅(ディヤーナ)です。無知(アグニャーナ)、エゴ(アハンカーラ)、執着(アヌラーガ)、潜在的傾向(ヴァーサナー)を征服すること�
�は、個々人(ジーヴィ)に解脱(モークシャ)を引き起こします。
―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第11章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月5日
アートマは海です。自然は広大で永遠で無限の海の波にすぎません。そして個我はその波のひとしずくにすぎないのです!あなたが波や海を手放すことはできません。あなたにできることはただ一つ、そのしずくという名と姿に融合することだけです。ひとたび海の深みの中に入れば、すべてが穏やかで平安になります!動揺、騒音、混乱があるのは、外側の層だけです。同じように、ハートの奥底にもあなたが庇護を求めるべき平安の貯蔵庫があるのです。三種類の人々がいます。鉄球のように、どんな軟化作用にも影響されない不活発(タマシック、鈍性)な人。綿のように、吸収力はあるが自分の本質を変えようとしない活発(ラジャスィック、激性)な人。バターが溶けるように、他人の喜びや悲しみ、神聖なドラマに言及しただけで溶けてしまう純粋(サトウィック、浄性)な人。サトウィックな人は、源に深く潜り、思いやりという泉と源の中に深く潜ります。
―1960年9月27日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月6日
気まぐれな心はあちこちさまよいますが、サーダナにおいて規則正しく鍛錬を重ね、粘り強く訓練を積むことによって、心を一点に固定することが可能です。その状態は一意専心(エーカーグラハー)と呼ばれます。それは集中(ダーラナー/一心)とも称されます。一つの壺からもう一つの壺に絶え間なく油を注ぐことは、集中と呼ばれる心のプロセスを見事に象徴しています。サーダナを始めたばかりの者にとっては、集中(ダーラナー)はとても難しく見えます。なぜなら、ある程度の進歩を勝ち得ると、その後は普通、もう修行を続けないからです。続ける代わりに、彼らは修行をやめてしまいます。たとえサーダナをやめて日々心に平安がなくなったとしても、です。集中は、神聖な歓喜、計り知れない英知、内なる目、より深い真理を捉える洞察力、より明快な理解、至高神との一体感を人に授けます。このサーダナの科学は、三界よりも素晴らしいものです!
―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第13章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月7日
プライドやエゴを忘れて神に呼びかけるのは、あなたが絶望的な状況にある時です。パーンダヴァ兄弟はこの世的な意味では不幸に満ちていたので、いつも祈りの姿勢を持っていました。もし、私があなたにあらゆる快適さと好機を与えたとしたら、あなたはプッタパルティに来なかったでしょう。トラブルは、魚を水から引き揚げるための餌なのです。クンティーは、クリシュナが自分と息子たちに継続的に恩寵を与えることができるように、あらゆる種類の不幸を自分たちに与え続けてくださいと願いました。ティルマラチャルはこの姿勢を「自己を捧げること」(アートマ・アルパナ)」と呼びました。しかし、アートマは神自身なのです。自分が神に捧げているのは神自身、とはどういうことですか?あなたが神の御足に捧げているのはあなたのエゴです!そのエゴが増殖させたあらゆるプライド、あらゆる分離感、あらゆる迷妄、あらゆる執着を捧げなさい!それが、あなたがしなければならない礼拝です!あなたの中にある全ての悪を私のもとに持ってきて、ここに置いていきなさい。私が持っているもの、すなわち愛を私から受け取りなさい。
―1960年9月27日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月8日
すべてのハートは神の所有物であり、すべてが神の領地です。しかし、貴族は、その地域全体が自分のものであっても、清潔な場所にしか座りません。それと同じように、神は、ハートが清められている場合にのみ、そこに身を置くのです。神は「私の帰依者が私のことを歌う場所に、私は身を置くのです、ナーラダよ」と語りました。あなた方は前世の人々よりも幸運であると、私はあなた方に告げなければなりません。これまでの多くの誕生で積み重ねた功徳が、あなた方にこの幸運を授けたに違いありません。あなたは私を得たのですから、今度は、完全なる幸運によって得られたこの関係を発展させることがあなた方の義務です。バナナやマンゴーは、まだ青いうちに収穫され、藁や枯れ草の中で保管されます。密室で保管されることもあります。そうすれば、熱で熟成して、美味しくなるかもしれないからです。神への瞑想は、あなた自身を熟成させ、甘く美味しくなるための適温も与えてくれます。
―1960年9月27日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月9日
「イスラム」はペルシア語で「全託」あるいは「平和」を意味します。この言葉の内的意味は、人は神に全託して人類同胞と平和に生きるべし、というものです。イスラム教の聖典である「コーラン」(クルアーン)には多くの神聖な教えが含まれています。そのうちの一つに「サラート」があります。それは、人は確固たる信仰心を持って神を礼拝せよと命じています。もう一つの教えは「ザカート」です。これは困窮や苦悩にあえぐ人類同胞の苦しみを和らげるために慈善を施すよう、信者に命じています。バーラタ人の経典にはそれと類似した義務が定められています。それは「パローパカーラハ プンニャーヤ パーパーヤ パラピーダナム」(他者に奉仕することは功徳に値することであり、他者に害をもたらすことは罪深いことである)と述べられているものです。ところが、各宗教の信者たちは、この根本的な真理を忘れて、教義の違いという、根本的なものではなく実際には言葉の上だけの違いにすぎないものを基に、バリアを作っています。今日、宗教間にさまざまな種類の不和が生じています。これは良いことではありません。人は皆、生活の基礎を神に定ぁ
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―1989年7月23日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月10日
不滅性こそが真の解脱(ニルヴァーナ)です。その第一歩が正見(サムヤク・ドリシュティ)です。目に入るものすべてを、神と見なしなさい。あなたの見方は愛に満ちさせなさい。愛に満ちた見方は真の人間的特性です。すべては一つです。誰に対しても同じ心でありなさい。正見はすべてのものの内にある神性に気付かせてくれます。ヴェーダはこの原理に基づき、次のように述べています。「エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ(真理は一つ、学者たちはそれを多くの名で呼ぶ)」。真理という目で世界を見なさい。すべては一つです。すべては本質的には神なのです。一体性に到達するために、多様性を捨て去りなさい。ヴェーダーンタ(ウパニシャッド)は「多様性に内在している一なるものとはアートマ原理である」と宣言しています。電球はたくさんありますが、電球の中を流れている電流は同じです。同じように、アートマ原理はすべての中に存在しているのです。この一体性の原理を理解できないことが、人間の無知の原因です。真の人間性は、多様性の中の一体性を認識することにあります。
―2001年5月7日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月11日
ラクシュマナが戦場で気を失った時、ラーマは「世の中を探せば、シーターのような妻やカウサリヤーのような母は得られるかもしれないが、ラクシュマナのような弟は得られないだろう」と嘆きました。このようにして、ラーマはラクシュマナの友愛に深く感動し、その資質を褒め称えたのです。世の中の多くの家庭では、両親や兄弟や姉妹が素晴らしい理想を示しています。そのような理想的な兄弟が今日でも存在しているのかと、疑念を抱く必要はありません。そのような兄弟は存在するのです。一時的な意見の相違があるかもしれませんが、彼らは常にお互いを愛しています。万人の中に存在するアートマ原理を悟るためには、必ず努力をしなければなりません。アートマ体験の甘美さは比類なきものです。霊性の分野において、人が到達しなければならないのは、アートマの至福の体験です。人類に内在する神性を悟る者こそが、真の人間です。アートマには特定の形がありません。それは愛と至福に満ちています。このことを、各個人が悟り、体験する必要があります。
―2003年10月17日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月12日
自分の心(マインド)を支配する者だけが、人と呼ばれ得ます。世の中に高い教育を受けた人はたくさんいますし、さまざまな種類の知識を身につけ、すばらしい仕事に就いている人もたくさんいます。しかし、もしその人たちが自分の心(マインド)を支配していないなら、本当の意味で人と呼ばれることはあり得ません。心(マインド)にはありとあらゆる良い思いと悪い思いが浮かんできます。悪いものはすべて心(マインド)から遠ざけておき、良いものだけを受け入れるようにしなさい。何であれ決して悪いものを心(マインド)にかかわらせてはいけません。私たちは、心(マインド)に最大限の重要性を置くべきです。しかし、多くの人は心(マインド)に当然置くべき重要性を置いてはいません。心(マインド)を自分の生活の土台に置いている人は、真の人間です。心(マインド)を心(マインド)のさまざまな思いつきや気まぐれに任せている人は、実際、猿であって人間ではありません。あなたがたは自分の心(マインド)を、自分の意識の中心としなければなりません。
―2007年5月6日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年8月13日
あなたが話す言葉は、それがどのようなものであっても、他の人に迷惑をかけるものであってはなりません。それは人を喜ばせるものであると同時に、真理に満ちていなければなりません。常に願いを聞き入れる(オブライジ)ことはできませんが、常に親切に(オブライジングリー)話すことはできます。神聖な話し方は、神性の現れです。神は、シャブダ ブランマーマイー(音の具現)、チャラーチャラマイー(動くものと動かないもの具現)、ジョーティルマイー(光の具現)、ヴァーングマイー(言葉の具現)、ニッティヤーナンダマイー(永遠の至福の具現)、パラーットパラマイー(至高の栄光の具現)、マーヤーマイー(迷妄の具現)、シュリーマイー(富の具現)という八つの姿で表されます。(神は、音、動くものと動かないもの、光、言葉、永遠の至福、至高の栄光、迷妄、富の具現である。)いかなる状況下にあっても、あなたの話す言葉を辛辣さで汚してはなりません。決して激昂してはなりません。すべてが一つであることを理解すれば、激昂する機会はなくなるでしょう。すべての身体は鏡のようなもので、あなた自身の反映を映し出しています。あなた自拭
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―2001年5月7日の御講話