プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月1日
人は常に己の欲望を満たそうとすることで幸せになろうとします。欲望が満たされれば喜びを感じ、満たされなければ悲嘆に暮れます。しかし、困ったことに、欲望とは、より多くの燃料を求めて、より激しく燃え盛る焚き火なのです。一つの欲望が十の欲望へと導きます。人は、欲望の要求を満たそうとする中で自らを疲弊させています。人は、この終わりなき欲望という道から、内なる満足と喜びという道へと引き返さなければなりません。実在ではないものに執着するようになったがために、人は嘆き悲しんでいます。人は、富に対しては過剰なほど執着します。しかし、我が子の命を守るためなら、その富を犠牲にすることも厭いません。稼いできた富よりも、子供への愛着の方が強いからです!生き残ることと子供たちの幸福とのどちらかを選ばなければならなくなると、子供たちをなおざりにするほど卑しさに身を落としてしまいます。しかし、あらゆる喜びの源であり源泉であるアートマを思う時に得られる至福は無限であり、不滅です。それが本当の喜びなのです。
– 1958年12月14日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月2日
決して主のことを語らない人、あるいは、主を意識さえしない人、浮世(サムサーラ)のつながりを増やしたり強めたりするのに忙しい人、虚偽や不正や抑圧を述べ伝えたり行ったりする人、あなたにダルマの道から離れるよう勧める人――こんな人たちは、あなたの友人ではありませんから、どんな代価を払っても避けるべき人として扱いなさい。彼らとの交際は、邪悪な交わり(ドゥス サンガ)です。そのような人との交際は、あなたが自分の意志に反して悪い行いをすることや、口にすべきでないことを口にすることや、すべきでない行いをすることへとつながり、その結果、あなたは下り坂に足を踏み入れて、破滅へと至ります。罪も神も恐れない人々は、どんな邪悪もやってのけます。それは別に驚くことでもありません。ですから、罪と神の二つに対する恐れを持っている人との交わりを求めなさい。それは真の善き交わり(サット サンガ)です。容易に手に入るにせよ、入らないにせよ、善き交わり(サット サンガ)だけを探し求めて、それに加わりなさい。。
―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第9章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月3日
人生は神へ向かう巡礼の旅です。聖地は遠いところにあり、その道はあなたの前にあります。しかし、あなたが最初の一歩を踏み出し、他の人と共にその道をたどらないのであれば、どうしてそこに到達できるというのでしょう?勇気、信仰、喜び、着実性をもって出発しなさい。あなたは必ず成功します。心(マインド)と知性は、「内なる人間」という荷車につながれた二頭の牛です。この牛は、真理、正義、平安、愛という道に慣れていないため、彼らにとって馴染みのある道、すなわち虚偽、不正、心配、憎悪という道に荷車を引きずります。あなたはより良い道へと向かうよう彼らを訓練しなければなりません。彼らが自分自身と、彼らがつながっている荷車と、荷車に乗っている人々に災いをもたらすことがないように。あなたの子供は、遊びやおしゃべりをして、あなたに大きな喜びを与えます。しかし、あなたの仕事の邪魔をするなら、あなたはとても怒るでしょう。子供は喜びの源であると同時に、悲しみの源でもあるのです。混じりけのない喜びを与えてくれるものはありません。たとえあったとしても、それを失うと悲しみが生じます。これが物事の本質なのです。ですか�
�ら、喜びと悲しみの源である心(マインド)を正すように努めなさい。心を制御しなさい。そしてあなたを魅了したり、不快にさせたりする客観的世界の本質を理解するよう心を訓練しなさい。それこそが、教育の真の成果なのです。
―1958年12月20日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月4日
ちょうど大きな水槽の中を多種多様な魚や蟹や水生動物が動き回るのと同じように、主と呼ばれる海の中を、無数の人間が動き回っているのです。それは、実に畏敬の念を起こさせる光景です。ある者は発達しておらず、ある者は発達不全で、貪欲に、利己的に泳ぎ回っています。そうした無知な人たちの群れの中に、高度の発達を遂げた人、賢者(グニャーニ)やヨーギがわずかにいます。彼らは無知な群衆に混じっているため、見分けるのは難儀です。この創造世界、そして、そこに満ちている不思議は、まさに驚きの泉です。けれども、現在の状況を考えてみると、光を求める人、光に導かれる人は、ほとんどいません。ですから、この人、あの人と、人の後を追って回り道をする代わりに、主に完全なる信仰を置いて、主を唯一の母、父、グル、導き手として頼ることです。そうすれば、あなたは決して正しい道を見失うことはないでしょう。主があなたを間違った道に導くことは絶対にありません。
―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第10章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月5日
泣いている子供は、後には笑ってこの世を去らなければなりません。人生の価値は、人生が終わりに近づいた時にどう感じるかによって評価されるのです!愛は種子であり、帰依心は苗であり、若木です。信仰は肥料、善良な仲間は雨、自分自身を捧げることが花、〔神との〕融合がその果実です。人は執着を捨てて、自由にならなければなりません。ギーターは、行為の放棄、つまり、その成果に執着しないカルマ(行為)を勧めています。いくつかのカルマ(行為)は、この世での立場に関連した義務として行わなければなりません。もしそれらを正しい気持ちで行うのであれば、それらに束縛されることは全くありません!劇の中の役者のようにすべてのカルマを行いなさい。あなたのアイデンティティを別に保ち、あなたの役割に執着しすぎないようにしなさい。すべては劇であり、主があなたに一つの役を割り当てているのだということを覚えておきなさい。自分の役割を上手く演じれば、あなたの義務はそこですべて終わります。主がその劇を計画し、主がその劇を楽しむのです!
―1960年9月27日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月6日
カビールは、主ラーマのために黄色い絹の衣を織っていました。彼は一人で、地機(じばた)で作業しなければなりませんでした。彼は「ラーマ、ラーマ、ラーマ」と唱え、休むことなく織り続けました。布は20ヤード(約18メートル)もの長さになりましたが、カビールの手は止まりませんでした。彼の苦行は衰えることなく続き、衣はどんどん長くなりました。手仕事から得られる至福と主への献身は、彼の生命を維持するのに十分な食べ物であり、飲み物だったのです。カヴィールはその衣をラーマ像に着せるため寺院の僧侶に渡しました。すると、その衣は指一本分も違わぬ、ちょうどよい長さと幅だったのです!このような人々が、インドにおいて霊的な人々を喜びで満たしている主要因なのです。家庭にはゴーヴィンダの御名を響かせなければなりません。そうでなければ、それは野生動物が棲みつくただの洞窟(グハ)です。身体には家が必要です。しかし、あなたの身体それ自体が家なのです。その家の中でも、ゴーヴィンダの御名が聞こえなければなりません。そうでなかったら、それは土製の壺(ガタ)であり、人間の体ではないのです!
―1963年2月8日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月7日
あなたは量を重視しますが、神が見ているのは質だけです!神は、あなたが捧げた「甘い米」の量ではなく、あなたがどれだけ多くの甘く優しい言葉を口にしたか、あなたの思考にどれだけの甘さが加えられたかを測っているのです。信愛という香り高き葉と、欲望や怒りなどの害虫とは無縁となったあなたの気持ちや行為という花を、神に捧げなさい。酸っぱかろうが甘かろうが、瑞々しかろうが干からびていようが、苦かろうが甘かろうが、あなたの心という果樹園で育った果実を神に捧げなさい。あなたが、自分の心という果樹園は神のものであると決意すれば、すべての果物が甘くなるでしょう。あなたの全託の姿勢が、すべての果物を主に受け入れられるようにするのです。そうであるなら、どうしてそれらが苦くなることがあるでしょう?水について言うと、あなたの涙より純粋で貴重なものが他にあるでしょうか?悲嘆の涙ではなく、神に仕え、神へと続く道を歩む機会を得たことを喜ぶ涙を流しなさい!帰依者になりたいと熱望する者は皆、執着と嫌悪の情を手放さなければなりません。
―1963年2月8日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月8日
アルジュナがどのような集中力でギーターを聞いたのか、想像してごらんなさい。彼の集中力は、ブリンダーヴァンで〔クリシュナの〕笛というメッセージを聞いた牧女たちと同じくらい揺るぎないものでした。アルジュナは敵対する軍隊や、自分自身が抱えていた憎しみ、戦争への熱意を忘れ、目の前で繰り広げられる御教えに没頭したのです。もしあなたがあなた自身の「戦場」でその一点集中を発揮するなら、あなたのためのバガヴァッド・ギーターやサティヤ・サイ・ギーターを聞くこともできるのです!ギーターは、無知による迷妄を取り除くために語られ、アルジュナに関する限りはそれを取り除くことに成功しました。それを聞いたサンジャヤやドリタラーシュトラのような他の人々は、まだ自分自身の無知に縛られていたため、その恩恵を受けませんでした。多くの人がギーターを読みますが、そこから益を得る人はほとんどいません。あなた方は、ギーターから益を得るために、アルジュナの平静さと一点集中を備えなければなりません。純粋なハートと不動の心(マインド)は非常に大切です。
―1960年9月27日の御講話
訳注
サンジャヤ:マハーバーラタの登場人物。ヴィヤーサ聖者の弟子で、ドリタラーシュトラ王の相談役。ヴィヤーサ聖者から、遠くの出来事を目の前で見る能力を授けられており、クルクシェートラの戦いの最中にその模様を王に語り聞かせた。
ドリタラーシュトラ:マハーバーラタの登場人物。パーンダヴァ兄弟の叔父でカウラヴァ兄弟の父。盲目で、悪事を企てる長男ドゥルヨーダナとその仲間を止めることができなかった。
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月9日
アヴァターが降臨する前でさえも、細部に至るまでその舞台が準備されています。カイケーイーは二つの願い事を無期限でかなえてもらうことになっていました。苦行者に呪いをかけられたダシャラタは己の息子と離別する苦悩のために死ぬことになっていました。猿たちは神の目的を手伝うことになっていました。シーターは悪を滅ぼす原因を提供するために大地から生まれることになっていました。たくさんの植物から集められたさまざまな色彩と芳香の花々で花輪が作られるように、神の物語は、願い事や祝福や呪いといった素晴らしい筋書を提供するさまざまな出来事で構成されています。ラーマが人間に示しているのは、どのように苦しんでいるかである、と語る人もいます。もしある王様が、宮殿で劇を上演する準備をし、自ら楽しんで物乞いの役を演じ、非常にリアルな演技をしたとします。あなたは、彼は物乞いの悲惨さに苦しんでいる、と言うことができますか?ラーマは至福です。至福はラーマです。もし甘くなかったら、どうしてそれが砂糖になり得るでしょうか?もしラーマが苦しんでいるのなら、それがラーマであるはずがありません!
―1963年4月1日の御講話
訳注:
ダシャラタ:ラーマーヤナの登場人物。ラーマの父。戦の最中に第三妃のカイケーイーに助けられたため、いつでもどんな願い事でもかなえると約束した。その後、狩りの最中に誤って少年を殺してしまい、その両親から、息子との別離に苦しみながら死ぬ呪いをかけられる。
カイケーイー:ラーマーヤナの登場人物。ダシャラタ王の第三妃。ラーマの戴冠式の当日、我が子を王位に就けるため、ラーマを国外に追放するよう願い出た。
シーター:ラーマの妻。大地の女神の娘で、ジャナカ王の養女となった。
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月10日
母の胎内から生まれる時、人の首には、どんな花輪も掛けられていません。真珠の首飾りもなければ、黄金に輝く首飾りもありません。エメラルドやダイヤモンドのような宝石が散りばめられた首飾りもありません。しかし、その首に唯一飾られた首輪があります!ブラフマー神が、過去の行いの報いを糸で繋ぎ、重い首輪にして、誕生の時に首に掛けるのです。このように、あなたは自分のどんな行いの報いからも逃れることはできません。パコーラ〔野菜の天ぷら〕を食べれば、パコーラのげっぷしか出ません。それと同じように、どんな行為をなそうとも、その行為と同一の反作用を得ることになります。それゆえ、常に良い行いをすべきなのです。常に良い行為(カルマ)をするためには、神への愛(ダイヴァ プリーッティ)と、罪への恐れ(パーパ ビーッティ)と、社会の道徳(サンガ ニーッティ)を培わなければなりません。これらの三つを培えば、悪い行いに耽けることから距離を置くことができるようになります。神への愛、罪への恐れ、社会の道徳はすべて相互依存の関係にあります。一つがあれば、その他ぁ
�發弔い討�襪里任后�世慮飜召魴�衒屬珪Г┐襪海函淵福璽泪好泪薀福砲蓮△海譴蕕旅盞蕕併饉舛魄蕕狃�韻箸覆蠅泙后��
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―2009年7月20日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月11日
最も重大な病は、平安がないことです。心(マインド)が平安を得れば、身体もまた健康になるでしょう。ですから、健康を切望する人は皆、その人を動かしている感情、気分、動機に注意を払わなければなりません。衣服を洗濯するように、心(マインド)の汚れも何度も何度も落とさなければなりません。さもなければ、汚れが蓄積して「習慣」となり、ドービー(洗濯屋)では汚れを落とせなくなりますし、衣類にとってもよくありません。洗濯を日課とし、心(マインド)に汚れが溜まらないよう注意すべきです。それはつまり、汚れを避ける仲間と付き合うべきだということです。虚偽、不正、不躾、残酷、憎悪―これらは汚れを生じさせます。真理、正義、平安、愛―これらは清浄な要素を生じさせます。後者の清らかな空気を吸い込めば、あなたの心(マインド)は悪いばい菌とは無縁になり、精神的にはしっかり、肉体的には丈夫になるでしょう。
―1960年9月21日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月12日
私は、あなた方のハートに愛の光を灯し、その光の輝きが日ごとに増していくのを見届けるために来ました。私は、ヒンドゥー教のダルマといったような、特定のダルマを話すために来たのではありません。私はいかなる宗派、信条、主義を広める目的のために来たのでもなければ、いかなる教義の信奉者を集めに来たのでもありません。私は、信奉者や帰依者を自分の信者として引きつけようとはまったく思いません。私は、普遍的な唯一の信仰、アートマの原理、愛の道、愛のダルマ、愛の義務、愛の責務を、あなた方に教えるためにやって来たのです。どの宗教も、心からエゴという汚れ、ちっぽけな喜びを追い求めることを取り除くという、一つの根本的な修養を教えています。どの宗教も、人に自らの存在を神の栄光で満たすよう、つまらない自惚れを払いのけるよう、教えています。高みを目指して解脱を得ることができるよう、どの宗教も、無執着と識別力という方法で人を訓練します。どの人のハートもただ一つの神によって突き動かされているということを信じなさい。
―1968年7月4日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月13日
今日はグル・プールニマー祭が執り行われます。「グル」は「大きい」という意味です。「グル」にはもう一つの意味もあります。「グ」は「闇」、「ル」は「払う」という意味です。「グル」とは「暗闇を払う者」(無知という暗闇を払う指導者)を意味します。グル・プールニマー祭は、心の中から無知という暗闇が取り払われたことを祝う日なのです。それゆえ人々は、すべてを包含する愛の原理で己の心を満たす必要があります。愛の完全性を体験するためには、あなたのハートを完全に愛で満たさなければなりません。それが、完全なる信愛という結果をもたらすでしょう。しかし、現在の信愛は完全ではありません。それゆえ、恩寵もまた部分的なものとなっています。パートタイムの帰依者がフルタイムの報酬を求めることはできません。主は、ハートが完全な信愛で満たされている人に完全な恩寵を授けます。霊性志願者は、9つの信愛の道のうちのどれかをたどり、神を悟ることができます。その中でも、神に対する友情という姿勢は大切にすべきものです。なぜなら、神はすべての人にとって唯一の本当の永続的な友であるからです。
―1994年7月22日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月14日
「生きる」ことの目的は、「神の中に生きる」に到達することです。その聖別と成就を受ける権利は、すべての人にあります。あなた方は真理です。信仰を失ってはなりません。自分自身を卑下してはなりません。あなたは神です。しかし、あなた方はしばしば、人間性から動物性、あるいはそれ以下へと滑り落ちています。愛を育み、その愛をすべての人と分かち合いなさい。どうしてある人には少なく、別の人には多く与えることができるのですか?どちらの人もあなたと同じなのです。もしあなたが基本的な神性を忘れたら、憎しみが芽生え、妬みが頭をもたげるでしょう。すべての人の中にアートマを見なさい。そうすれば、愛が芽生え、露のように平安が降り注ぐことでしょう。あなた方はプレーマ・スワルーパ(愛の体現者)です。あなた方は私を待ち、私の声を聞き、私を見たいと思って、大きな不快感を我慢しながら、何時間も前からここに、屋外に座っています。その熱望を満足させるためだけに、私はこの演台からあなた方に話しかけているのです。私があなたのプレーマ(愛)を感じる時、私はそれを分かち合い、あなたに私のプレーマを体験させなければならないと感じ�
�ます!これこそが、あらゆるコミュニケーションと霊的交流の中で最高のものです!その時には、言葉という仲介は必要ありません!
―1968年7月4日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月15日
エーカ バーヴァ(一つであるという姿勢)を、すべての宗派の人々、すべての国の人々、すべての大陸の人々の間に育みなさい。これが、私が携えてきた愛のメッセージです。これが、あなた方がハートに取り入れることを私が望むメッセージです。愛を育み、愛の中に生き、愛を広げること――これが最大の利益をもたらす霊性修行です。神の御名を、神の壮麗さ、神の慈悲、神の栄光、神の光輝、神の存在を憶念しながら唱えている時、あなたの中で愛が成長し、その根はどんどん深く伸び、その枝は友にも敵にも、同国人にも外国人にも木陰を与えるほど、どんどん広がっていきます。神は無数の名前を持っています。聖人賢者は無数の姿をとった神を見ました。彼らは目を閉じても目を開いても神を見ました。彼らは、あらゆる言語、あらゆる方言で神を説明しました。しかし、それでも神の栄光は語り尽くせません。
―1968年7月4日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月16日
教師の皆さん!最高の美徳を守り、世界に模範を示したバーラタ(インド)の偉大な聖賢や英雄という理想を若い生徒たちに教えなさい。彼らは、シュラヴァナクマールのような理想的な息子として振る舞うよう教えられなければなりません。一人の善良な息子がいれば、家族全員が救われます。エーカラヴィヤは、師に対する最高の献身の模範です。プラフラーダは、神への完全なる信仰の最高の模範と見なされるべきです。教師は、そのような神への献身を若者たちに植え付けなければなりません。教師はまた、教育の真の目的を子供たちに理解させなければなりません。教育は、お金を稼ぐためではなく、正しい生活をするための準備であるべきなのです。善良な資質はお金よりも価値があります。クリシュナが天秤にかけられた時、サティヤバーマーは自分の持っている宝石すべてよりも、〔ルクミニーが〕捧げた主の御名とトゥルシーの葉の方が、はるかに価値があることを理解しました。教師は、子供たちに教えることを自分でも実践しなくてはなりません。
―1994年7月22日の御講話
訳注
シュラヴァナクマール:ラーマーヤナの登場人物。親孝行の息子として知られている。盲目の隠遁者であった両親が聖地巡礼を願っていると、シュラヴァナクマールは、両親を大きな籠に入れ、その籠をかついで聖地へ連れて行った。のちにシュラヴァナクマールは、ダシャラタ王が誤って放った矢が当たり死んでしまう。王は両親に謝罪したが、彼らは王に息子を失った悲しみで死ぬという呪いをかけた。
エーカラヴィヤ:マハーバーラタの登場人物。ニシャーダ国の王子。カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟の師であるドローナの像を崇めながら、弓の修行を続けていた。ある時、エーカラヴィヤの弓の腕前の素晴らしさがドローナに知られることとなった。エーカラヴィヤはドローナに弟子入りを申し出たが、アルジュナを世界一の弓の名手にすると誓っていたドローナは、グル・ダクシナー(師への謝礼)としてエーカラヴィヤの右手の親指を切り落として、それを捧げることを求めた。エーカラヴィヤはドローナに従い、自分の親指を切り落とした。
プラフラーダ:悪魔ヒランニャカシプ王の息子。プラフラーダはヴィシュヌ神を深く信仰していたが、ヴィシュヌ神を憎んでいた父親は、プラフラーダを改宗させようと、ありとあらゆる拷問を行ったが、プラフラーダの信仰は揺るがなかった。ある日、柱からヴィシュヌ神の化身であるナラシムハ(人獅子)が現れ、ヒランニャカシプは滅ぼされた。王位に就いたプラフラーダは善政を敷き、死後はヴァイクンタ(ヴィシュヌの天国)に到達した。
サティヤバーマー:クリシュナの第三妃。ルクミニーは第一妃。サティヤバーマーは自分のクリシュナへの愛がルクミニーに勝っていることを証明しようとして、クリシュナをナーラダ聖者に差し出した。ナーラダは、クリシュナと同じ重さの物を奉納した者にクリシュナを与えると約束した。サテイヤバーマーはクリシュナが座った天秤皿の反対側の皿に、自分の持っているありとあらゆる宝飾品をのせたが、秤は微動だにしなかった。次にルクミニーが愛を込めてトゥルシーの葉一枚を皿にのせると、天秤は釣り合った。
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月17日
ヴァーク(発話)の力によって、人は王国や巨万の富を手に入れることができます。友人も対人関係も、言葉を発することによって得ることができます。口にした言葉によって、人は束縛され、自由を失います。死に至ることさえあるのです。ヴァークは人間の生きる力です。それは人生における背骨であり、万能です。聖者ジャヤデーヴァは自分の舌にこう語りかけました。「おお、舌よ!そなたは話し言葉の甘美さをすべて知っている!そなたが楽しむのは真理と善。ゴーヴィンダ、ダーモーダラ、マーダヴァという主の甘美で神聖なる御名を唱えるのはそのためぞ!誰かを誹謗中傷することに耽溺してはならぬ。甘く、優しく話すべし」。ギーターの中でクリシュナは「あなたの話し方は、真実に満ち、喜ばしく、善良で、いかなる憤りとも無縁であるものにしなさい」と語っています。残念なことですが、そのような神聖で甘美な話し言葉が少なくなっているために、社会は敵意と不和にむしばまれているのです。狂った文明化によって何もかもが許されてしまうがために、規律や道徳が破壊され、社会を地獄へと変えているのです。
―1994年7月22日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月18日
浄性でないヴァーサナー(潜在的傾向)は、低級な欲望を満たす映像などを見たい、魚や肉などの激性の料理を食べたい、さらには、怒りや妄想、貪欲やうぬぼれ、欺瞞や憎悪、妬みなどをあおって人格を台無しにする酔わせるもの〔お酒など〕を飲みたい、といった悪徳へと人を至らしめます。こうした浄性でないヴァーサナーには、三つのタイプがあります。それは、学問的な衝動、すなわち知性のヴァーサナー、肉体的な衝動、すなわち体のヴァーサナー、そして、世俗的な衝動〔ヴァーサナー〕です。肉体的な衝動は、人に、美しい体、たくましい体格、皺や筋肉の緩みによる衰えを知らない艶肌になりたいという欲を抱かせます。学問的な衝動は、誰とも並び称されないほどの権威として知られたい、同じ分野の競争相手を負かしたいという欲を誘発します。そして最後の世俗的な衝動は、栄光、権力、権威、栄華を手に入れたいという欲を起こさせます。こういった欲望はどれも、世俗的なものの下に分類することができます。これらはすべてヴァーサナーです。これらはあなたを生死の輪廻(サムサーラ)に縛り付け、地上に拘束します。
―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第11章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月19日
己の行動の支配者とならなければなりません。一瞬の衝動につき動かされて道を踏み外してはなりません。自分にとって、何が善であるのかを常に意識しなさい。他人や自分自身に苦しみを与えないようなやり方で、日々の任務を遂行しなさい。それが知性ある生き方のしるしです。怒りや悲しみや得意や落胆などの衝動に負けてはなりません。今、あなたが示している混乱は、暗く鈍いタマス(鈍性)の性質や、感情的なラジャス(激性)の性質の結果なのです。平静で波立たない、落ち着いたサトワ(浄性)の性質を保ちなさい。万物に対する慈悲の心を育て、自分の失敗を深く悔い、過ちを恐れ、神に畏敬の念を抱くようになればなるほど、あなたはより確固たる平安の中にいることができます。バーラタ(インドの正式名称)という名は、「バガヴァン」(神)と「ラティ」(愛)という神への愛着を表す二つの言葉に由来します。インドが「世界の教師」という役割を担っているのはそのためです。インドはまた、人類の「ハート」としても知られ、霊的探究者に尊敬されています。しかし飢えている人が、他の人を食べさせることがどうしてできるでしょう?ヴェーダや霊的書物(シ�
�ャーストラ)に著されているこの偉大な霊的食物の種子を蒔き、育て、蓄え、世の人々に食べさせることがあなたの義務なのです。
―1961年2月27日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月20日
現代の人間は、自分の本性である真我を忘れ、迷妄に流されています。その理由は何でしょうか。小さな例で説明しましょう。燦然と輝く純金には、非常に高い価値があります。しかし、銀、銅、真鍮などの金属が混ざって合金になると、そのアイデンティティだけでなく、価値も失われてしまいます。同じように、人間は純金に例えられます。世俗的な考えや神聖でない感情で心(マインド)が汚れていると、本来のアイデンティティも価値も失われるのです。今日の人間は、厳密な意味においては、人間と呼ぶことができません。彼は、悪い想念と悪い仲間のために、人間性を失ってしまいました。今の人間が培うべきものは、常に燦然と輝いている真我という価値です。人間的価値を外部から得ることはできません。それは生まれつきのものであり、先天的なものなのです。人間には愛が与えられています。しかし人間はその愛に利己心と私利私欲を混入させてきました。無私の愛を育まなければなりません。そうして初めて、人生は輝きを放つのです。
―1999年3月12日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月21日
心の平安と内なる喜びという霊的な領域の中で成功するか否かの責任は、すべてあなた自身にかかっています。それを他者に転嫁する権利はあなたにありません。燃料がなくなると火は燃え尽きます。ですから、火を消すためには、燃料を補給するのを止めなさい。感覚という燃え盛る炎に燃料を補給してはいけません。心を一時的なものから切り離し、永遠なるものに結び付けなさい。否定的な力と肯定的な力が一つになって、光が生まれます。心の中に信愛(バクティ)という種を蒔きなさい。すなわち、ナーマスマラナ(神の御名の憶念)という準備体操をするのです。その種は、美徳、奉仕、犠牲、愛、平常心、不屈の精神、勇気という枝をもつ木へと成長するでしょう。あなたは食べ物を飲み込みます。しかし、それがどのようにしてエネルギーや知力や感情や健康に変わるのかは知りません。同じように、ナーマスマラナというこの霊的な食物を飲み込みなさい。そして、いつの間にかそれが美徳へと変容していく様を見守りなさい。
―1961年2月27日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月22日
ラーマとラーヴァナは36種類の知識に等しく長けていました。しかし、ラーヴァナが己の知識を悪用したのに対し、ラーマは己の知識を適切に使用したため、ラーマーヤナを著した聖賢ヴァールミーキは、ラーヴァナを愚か者、ラーマを高潔な人物として描きました。ヴァールミーキがラーマを有徳であり高潔であると描写したのは、そのためです。ラーヴァナは己の欲望を抑えることができなかったので、自分の息子たちや兄弟たちを死なせる根本原因となりました。今日では多くの人々が、それに値しないにもかかわらず、政治の分野で権威ある地位を占めたいと熱望しています。しかし、ラーマは、長男として王になる資格が十分にあったにもかかわらず、王国そのものを放棄しました。彼はそのような大きな犠牲を払い、父の言葉を守るために森に行きました。ヴェーダには、「不死は犠牲によってのみ得られる。富も子孫も善行も、不死を与えることはできない」とはっきりと書かれています。実際のところ、ティヤーガ(犠牲)こそが真のヨーガなのです。吸った空気を吐き出さなければ、肺が冒されます。食べたものを排泄しなければ、胃腸の調子が悪くなります。同様に、�
�犠牲の精神をもって、自分の稼いだお金を慈善事業に使いなさい。そこに至福があります。
―1999年3月12日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月23日
四種類の力を培いなさい。それは、肉体、知性、英知、行動の力です。そうすればあなたは何事にも動揺しなくなり、霊的勝利の道を歩くことになります!ある時、一人の人が私のところに来て、神は存在しないし、神を信じるつもりもない、と主張しました。私は答えました。「少なくともあなたは、あなた自身を信じているのですか?あなた自身とは何ですか?あなた自身が神なのです。あなたが自分の判断や知性や能力を信じているのは、あなたに内在する神が、ひるんだり、恐れたりするなと告げているからです。その確信は、あなたの内から、あなたの根本真理から湧き上がります。それを神と呼ぶのです。あなたがそれを神と呼ばなくとも問題はありません。あなたが自分自身を信じているなら、それで十分です!それが神を信じているかどうかの真のテストです。」私は皆さんにも、これと同じことを言います。肉体は神の寺院です。肉体の持主が気づいていようが、いまいが、神はすべての肉体に内在しているのです。あなたによい行いをするよう促し、悪には逆らうようにと警告しているのが神なのです。その声を聞きなさい。その声に従いなさい。そうすれば、あなたは決し�
�て危険な目に遭わないでしょう。
―1961年2月27日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月24日
人生の成就は、真我が神我として顕現すること(アートマ サークシャートカーラ)にあります。この顕現を得るには、ヴァーサナー〔過去生から持ち越した潜在的傾向や衝動〕がまったくない状態でなければなりません。真の意味での解脱(モークシャ)とは、そうした衝動(ヴァーサナー)による束縛がまったくないことです。ヴァーサナーには二つのタイプがあります。それは良性のものと悪性のものです。良性のものは神聖さに満ちています。悪性のものは心をあおってさらに支配不可能なものにさせ、心を定まらなくさせます。それらは外的な喜びを求める欲望を蔓延させ、強めます。もし良性の衝動(シュバ ヴァーサナー)が促され、育まれるなら、悪性の傾向が心の想念を無限に増殖させること、心を捕らえ続けることはなくなります。それらの種は焼かれ、もう芽は出ません。もし良性の衝動(シュバ ヴァーサナー)にしがみつくなら、あなたは容易にブラフマンの英知を得ることができます。良性の衝動(シュバ ヴァーサナー)は、偉人(マハートマ)〔偉大な魂の持ち主〕との交わり、彼らを敬うこと、彼らとの対話、彼らの助言に従うこと、慈�
�善、忍耐、愛、根気、真実、勇気、自制といった行動を特徴とします。これらは浄性の衝動です。
―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第11章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月25日
ある女性がネックレスをなくしたか盗まれたと言って泣いていました。彼女はあらゆるところを探して、慰めようもないくらい悲しんでいました。ところが、鏡の前を通った時に、なくしたはずのネックレスが自分の首にかかっているのを発見しました。ネックレスはずっとそこにあったのです。これと同じように、あなたが知っていようがいまいが、神は内在者として、すべての人の中に存在しています。愛には三種類あります。一つは自己中心(スヴァールタ)の愛で、小さな部屋だけを照らす電球のようなものです。二つ目は相互(アニョーニャ)の愛で、月光のように広い範囲を照らしますが、ぼんやりとしています。三つめは利他的(パラールタ)の愛で、日光のようにすべてに広がり、くっきりとしています。三つめの愛を培いなさい。それがあなたを救うでしょう。その愛を通じて他者に行う奉仕はすべて、実はあなた自身への奉仕になっているのです。あなたが助けているのは他者ではありません。あなたは自分自身を助けているのです。覚えておきなさい。
―1961年2月27日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月26日
目上の人に対して平伏する時には、心もまた謙虚であるべきです。屈めるべきは身体だけではないのです。大勢のソーシャルワーカーたちが病院を訪問して、患者たちに奉仕をしています。しかし、彼らが行っている仕事の大部分は、患者を団扇であおぐとか、手紙を代筆するとか、バジャンを歌うといった機械的なものであり、患者が本当は何を必要としているのかについての配慮が足りません。多くの人は、社会奉仕が流行しているから、そうしているにすぎないのです。しかし社会奉仕は、敬意をもって、知的に、喜びをもって、心と完全に調和しながら行われるカルマ(行為)でなくてはなりません。患者は、あのソーシャルワーカーはどうのこうのと嫌がってはなりません。ソーシャルワーカーの訪問を、親しい身内の訪問のように、楽しみにしなさい。もしあなたがソーシャルワーカーの仕事を好まないのであれば、それに従事する必要はありません。いやいや仕事をして、心に重荷を負わせてはなりません。機械的に行われた仕事は、油の切れた灯芯の炎のようです。油とは熱意です。油を注ぎなさい。そうすれば灯火は長く明るく燃えるでしょう
―1958年3月25日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月25日
ある女性がネックレスをなくしたか盗まれたと言って泣いていました。彼女はあらゆるところを探して、慰めようもないくらい悲しんでいました。ところが、鏡の前を通った時に、なくしたはずのネックレスが自分の首にかかっているのを発見しました。ネックレスはずっとそこにあったのです。これと同じように、あなたが知っていようがいまいが、神は内在者として、すべての人の中に存在しています。愛には三種類あります。一つは自己中心(スヴァールタ)の愛で、小さな部屋だけを照らす電球のようなものです。二つ目は相互(アニョーニャ)の愛で、月光のように広い範囲を照らしますが、ぼんやりとしています。三つめは利他的(パラールタ)の愛で、日光のようにすべてに広がり、くっきりとしています。三つめの愛を培いなさい。それがあなたを救うでしょう。その愛を通じて他者に行う奉仕はすべて、実はあなた自身への奉仕になっているのです。あなたが助けているのは他者ではありません。あなたは自分自身を助けているのです。覚えておきなさい。
―1961年2月27日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月26日
目上の人に対して平伏する時には、心もまた謙虚であるべきです。屈めるべきは身体だけではないのです。大勢のソーシャルワーカーたちが病院を訪問して、患者たちに奉仕をしています。しかし、彼らが行っている仕事の大部分は、患者を団扇であおぐとか、手紙を代筆するとか、バジャンを歌うといった機械的なものであり、患者が本当は何を必要としているのかについての配慮が足りません。多くの人は、社会奉仕が流行しているから、そうしているにすぎないのです。しかし社会奉仕は、敬意をもって、知的に、喜びをもって、心と完全に調和しながら行われるカルマ(行為)でなくてはなりません。患者は、あのソーシャルワーカーはどうのこうのと嫌がってはなりません。ソーシャルワーカーの訪問を、親しい身内の訪問のように、楽しみにしなさい。もしあなたがソーシャルワーカーの仕事を好まないのであれば、それに従事する必要はありません。いやいや仕事をして、心に重荷を負わせてはなりません。機械的に行われた仕事は、油の切れた灯芯の炎のようです。油とは熱意です。油を注ぎなさい。そうすれば灯火は長く明るく燃えるでしょう
―1958年3月25日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月27日
人間には、自分と自分の体や五感や心や知性とを分ける能力が授けられています。人間は、これは私の目、私の耳、私の足、私の手、私の心、私の理性、等々と言います。人間は、自分はそれら一切とは別のものであり、自分はそれらを使う者、所有者であり、主人だということを、意識の奥底で知っているのです。自分が体とは別のものであると思っている動物はいません。なぜなら、動物にとって、自分は体だからです。動物は、自分が肉体という枠の中に居住しているものだということを知りません。人間は、黙想というシンプルな行によって、肉体という枠は非実在であり一時的なものであるということを見出すことができます。ひとたび人間が、体と体に付加する物に過度に執着することなく、悲喜、善悪、苦楽といったものの引力から解放されるなら、平等観、忍耐力、揺らぐことのない平静がしっかりと身につきます。その時、人間は、世界は神の中で同じ一族であるということ、すべては喜びであり、愛であり、祝福であることを、見出します。自分は目に見えるこの世界の一切であること、この多種多様な顕現の一切は神の意志による幻想であり、それが自分の実体なのだとい�
�うことを悟ります。宇宙の果てまで覆い尽くすほどの、この個我の拡大は、人間の最高の飛躍です。
―1966年12月18日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月28日
神は願望成就の木のようなものです。それは願ったものを何でも与えます。しかし、あなたはその木に近づいて、自分が欲しいものを願わなければなりません。無神論者とは、その木から距離を置いている人のことです。有神論者とは、その木に近づく人のことです。それが違いです。木はまったく区別することなく、すべてに恵みを与えます。もしあなたが神を認めなくても、崇めなくても、神が罰を与えたり、復讐したりすることはありません。神が特定の様式の礼拝でしか喜ばないということもありません。あなたに聞く耳があるならば、すべての響きの中に神の存在を告げる音「オーム」を聞くことができます。五大元素のすべてが、この音を発しています。寺院にある鐘は、神の遍在のシンボルである「オーム」の音を伝えるためのものです。鐘が「オーム」と響く時、あなたの内なる神が目を覚まし、あなたもまた神の存在に気付くでしょう。寺院の中にある祭壇の正面に鳴らすための鐘があるのは、そのためなのです。恐れることなく神に近づく権利と、あなたの分の遺産を要求する権利を獲得しなさい。神に近付いた時に、あなたから賛美の声が発せられないくらい、束縛から解�
�放されていなければなりません。賛美は、距離があり、恐れがあることのしるしなのです。
―1958年3月25日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月29日
私はあなたに、活動的で、いつも何かの活動に従事していて欲しいのです。もし何の活動もしなかったら、あなたの手に時間が重くのしかかるでしょう。与えられた人生という時間の一瞬たりとも無駄にしてはなりません。なぜなら、時間は神の体であるからです。神は時間という姿として知られています。つまらないことに時間を誤用したり、ぼんやりと時間を浪費することは罪です。ですから、人生という事業の資本として神から与えられた肉体的・精神的才能を、無駄遣いしてはなりません。万物を引き込む引力のように、怠惰という引力はあなたを容赦なく引きずり込みます。ですからあなたは、常に気を付け、常に活動的でいなければなりません。真鍮の器が輝きを放つには磨かなければならないように、人間の心も霊性修行で磨かなければなりません。すなわちナーマスマラナ(神の御名を繰り返し唱えること)や瞑想を通じてです。呼吸のように自然で自動的な行為(カルマ)であっても、不信心な行為になることがあります。それは、ある明確な結果を見据えて意識的に為される時です!
―1958年3月25日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月30日
今日、私が皆さんに提案したいのはこのようなことです。皆さんは、身体が必要としているものに注意を払い、身体が良い状態で走り続けられるように、1日に3回食事を摂取します。それと同じように、あなたの内なる意識を良い状態に保つために、毎日、いくらかの時間を規則正しく過ごしなさい。朝に1時間、夜に1時間、そしてブラフマムフールタと呼ばれる夜明け前の時間を、ナーマスマラナ(神の御名を繰り返し唱えること)と神の瞑想に費やしなさい。この精神修行が進むにつれて、大きな平安がもたらされ、あなたの中に大きな新しい力の源泉が湧き上がってくることがわかるでしょう。しばらくすると、どこにいようとも、何をしていようとも、心が御名を思うようになり、平和と至福があなたについて回るようになるのです!
―1958年3月25日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年7月31日
プレーマ(愛)は、社会、経済、教育、職業、家族、宗教、法律など、あらゆる人間関係を変容するはずです。父親はもう少し強く、理性的に、子供を愛さなければなりません。母親は己の影響下にあるすべての人に愛を広げなければなりません。誰もが神という本質の宝庫であるという平等な感覚が、社会と個人の行動を変容させなければなりません。あなたは私のことを「愛の化身」(プレーマスワルーパ)と呼ぶかもしれません!あなたは間違っていません。プレーマが私の持っている財産であり、私はそれを不幸で苦しんでいる人々に振りまいているのです。私にはそれ以外の財産はありません。神の恩寵は、電線の中を流れている電流のように、常に流れています。電球を直しなさい。そうすれば、そのワット数分の電流があなたの家を照らすでしょう!電球とは、あなたが行っている霊性修行です。家とはあなたのハートです。喜んで私のもとに来なさい。海に飛び込んで、その深さを知りなさい。浜辺で水に浸りながら、この海は浅くて、真珠は取れないだろうと断言しても無意味です。深く潜りなさい。そうすれば、あなたの願いは確実となるでしょう!
―1958年7月22日の御講話