Japanese, 2022年6月

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月1日

あなたは、本当は真・善・美の化身なのです。ところが、あなたは泉を開通する鍵を置き忘れてしまったのです。その鍵はあなたの内部の意識の領域にあります。しかし、暗い室内で失くした針を外の明るい街灯の下で捜すお婆さんのように、人は外の世界の物質の領域でその鍵を捜しているのです。ナーマヴァリ(神の御名を連ねたバジャン)をいくつか歌って私が講話を締めくくるのは、ナーマスマラナ〔唱名〕をするよう皆さんを促すためです。インドの行政機関の役人でも、自分の子供にアルファベットを教えるには、石板の上にA、B、C、Dと書いてそれらの文字を発音してみせなければなりません。あなたは役人がそうするのを見て、その役人自身がアルファベットを勉強しているなどとは思わないでしょう? ですから、私がバジャンを歌っても驚いてはなりません。私は単に、この最も効きめのある霊性修行を伝授しているにすぎないのです。こうしたナーマ サンキールタン〔集団で神の御名を歌うこと〕によって、自分を強くし、自分を浄化し、自分を教化しなさい。大きな声で、人々と共に行いなさい。加わってきた人々に耳を傾けさせ、かつ、神の御名とい�
�う甘露も飲ませてあげなさい。

―1968年3月29日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月2日

どこにでも心を好きに走らせて、それを追いかけないことにだけ用心し、心がどこに行こうとするかを見いだすよう努めなさい!そうすると、心は、気まぐれが心を捕まえるままにしばらくの間さまよいますが、すぐにくたびれて疲れ果て、結局はあなたのところに戻ってきます!心は幼い子供のように何も知りません。母親が追いかけていって呼び戻そうとするから、子供はどの方向にでも走っていく勇気と自信を得るのです。けれども、もし母親が子供の後ろを走っていかず、そっと引き返すなら、子供は自分から母親のところに走って戻ります!心の気まぐれを構ってはなりません。あなたの一番好きな御名と御姿のスマラナ(憶念)と坐禅(ディヤーナ)を、いつもの方法で続けていきなさい。それによって、あなたは一意専心(エーカーグラター)を得て、あなたのハートの望みを実現するでしょう。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月3日

唱名と瞑想は、あなたの切望する御名と御姿の中に神の恩寵を具現化できる手段です!神はあなたの選んだ御姿とあなたの好む御名を取らざるを得ません。実際のところ、あなたが神を形作っているのです!それゆえ、自分の選んだ御名と御姿を変えてはなりません。どれほど時間がかかり、困難があろうとも、あなたを最も喜ばせる御名と御姿から離れないでいなさい。始めたばかりなのに、長く集中できないと落胆してはなりません。自転車に乗る練習をする場合、すぐにはバランスを取る技術を習得できません。乗れるようになるまでは、自転車を押して広い場所に行き、ぐらぐらと傾いたり、時には転んだりしながら、何度も何度も練習します。しかしいったん習得すれば、あとはバランスを取れるかどうかと心配することはなくなります。バランスを保つために必要な調整が自然とできるようになっているのです。そうではありませんか?

―1958年2月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月4日

この坐禅(ディヤーナ)という霊性修行をしている間、浄・不浄という考えを心に抱いてはなりません。この世には、清らかでないものは何一つありません。主があらゆる所に、あらゆる物に内在しているとき、どうして清らかでないものなどありえるでしょう?たとえ外側の目には清らかでないように見えたとしても、主の御名に触れた瞬間に、それは清められるのです。この点を心に留めなさい!もし草むらで用を足している最中に宝を見つけたら、その人は、自分は今、不浄だからといって、見つけた宝を拾うのをためらうでしょうか? 浄・不浄は、その時の心の反応の結果です。誰かにお金をあげることになったとき、人は吉祥の時や、どの刻が清浄かについて話します。けれども、自分がお金をもらう機会を得たときには、どの時刻も吉祥なものとなります!どちらの態度も心の判断によるものです。同様に、もしあなたが主の御名の愛を完全に信じていれば、浄・不浄のことで頭を悩ますことはなくなります。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月5日

あなたの身体の健康にも注意を払いなさい。自然の要求を満たしなさい。必要があれば、車にガソリンを補給しなければなりません。そうしなかったら、身体が完全に疲弊して、頭がふらつき、眼がかすむかもしれません。身体が弱かったら、どうして神についてじっと考えることができるでしょう?ただし、身体の面倒を見ている時に、この身体の目的を忘れてはなりません。ロードローラーには、油や石炭などの燃料を補給します。しかし、どうしてそれを整備しておくのでしょうか?それは道路を修繕するためです。そうではありませんか?同様に、あなたが肉体を持ってこの世に生まれてきたのは、悟りを得て輪廻転生を終わらせるためであることを覚えておきなさい。その目的のために、身体を道具として使いなさい。鳥はあちらこちらへと飛び、高く高く舞い上がっても、最終的には木の枝の上で休みます。同じように、最も裕福な人も、最も権力がある人も、平安(シャーンティ)という休息を求めているのです。

―1958年2月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月6日

もしあなたが、瞑想する対象として私の御姿を選ばなかったら、私があなたに対して怒るだろうなどと思い込んではなりません!私はそんなことをまったく気にしません。あなたには、自分に必要な励ましを与える御名や御姿を選ぶことができる完全なる自由があります。あなたが瞑想をする時、心が何か別のものを追いかけて、横道に逸れてしまうことがよくあります。そのような時には、御名と御姿という方法で出口を塞ぎ、神に向かうあなたの想念の平衡が乱されないように留意しなければなりません。もし再びそれが起こってしまったら、すぐに御名と御姿を再度用いなさい。こちら側が御名、あちら側が御姿という二本の堤防を心が越えてしまうのを許してはなりません!そうすれば、心が第三の場所に迷い込むことはありません。散漫な心を集中させるためには、瞑想するために座った時に、まず神の栄光を讃える詩節をいくつか唱えなさい。それから御名を繰り返し唱える間に、少しずつその御名を表している御姿をゆっくりと心の眼の前に思い描きなさい。

―1958年2月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月7日

全託の道における最大の障害物は、アハンカーラ(自我意識)とママカーラ(「私のもの」という意識)です。それは太古の昔からあなた方の性格の中に生まれつき備わっているもので、生まれ変わるごとに、より一層深くはびこるようになります。それを取り除くことができるのは、ヴィヴェーカ(識別心)とヴァイラーギャ(無執着)という二つの浄化剤だけです。積年の汚れを洗い流すための水は信愛(帰依心)です。石鹸は唱名と瞑想とヨーガです。このすべてが、より速く、より効果的に汚れを取り除く助けとなるでしょう!ゆっくりと着実に進む者は、必ず勝利を収めます。遅いと非難されるかもしれませんが、徒歩で旅行するのが最も安全です。大急ぎで旅行すると、困った事態に陥ることがあります。性急過ぎると、災難に出会う危険性も大きくなります。食べ過ぎると病気になりますから、食べるのは腹八分目にしておきなさい。霊性修行においても一歩ずつ進みなさい。最初の一歩を確実にしてから、次の一歩を踏み出しなさい。一歩進んで二歩下がってはなりません。もしあなたに信念がなかったら、最初の一歩さえも覚束ないでしょう。ですから、信念を培いなさい。

―1956年8月1日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月8日

主への愛(プレーマ)を育みなさい。愛は無限の力を持っています。鉄の鎖は簡単に壊すことができますが、あなたを神に結び付けている愛の鎖を壊すのは簡単ではありません。動物の中で最も残酷な動物も、愛によって鎮圧されます。それは主のマーヤーです! 洪水のようにあふれ出るその愛の水を、湖や川の両岸の浅瀬にではなく、主の恩寵の海へと向けさえすれば、それはなんと神聖な仕事になることでしょう! そうすれば、人は人生の目的を実現するでしょう。これは最高の解脱(モークシャ)です。その愛を間断なく主の御名と御姿に向けること――それが本当の坐禅(ディヤーナ)なのです。一時の住居を、あなたが永遠に住む所だと勘違いしてはなりません。しばらくすれば去っていく困難や短命な悲劇の中に置かれた時、やる気をなくしてはなりません。永遠なる主に到達するための努力に没頭しなさい。この世のすべては必ず朽ち果てます。今日でなくとも、将来、どのみち崩壊する運命にあります。わかっていますか?永遠にあなたと関わりを持つ主を拒絶して、ほんの数日しかあなたと関わりを持たないこの世に惑わされる�
�のは正しいことではありません!

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月9日

人々は真鍮(しんちゅう)の壺を抱えて、それを黄金の壷に見せかけようとします。しかしそのためには、壺を磨いて、輝かせる必要があります。ある日のこと、彼らは絶えず真鍮を磨かなければならないことにうんざりして、「真ちゅう磨き、この世に生まれ出ること、この苦痛と苦悩から、私を解放してください。」と祈りました。人生は短く、光陰矢の如しです。あなたの霊性修行は、亀のように遅々としか進みません。いつあなたは、もう少し早く進みたいと決意するのですか?あなたの霊性修行は、試験であなたが書く解答のようなものです。もし五点か六点しか取れなかったら、試験官から「こんな低い点数が何の役に立つのか?どうしようもないじゃないか」とまで言われて、失格になるかもしれません。もし、あなたが合格点に近い点数を取っていたら、そしてあなたが勤勉で品行方正な学生であったら、お情けで合格させてもらえるかもしれません。良い行い、良い仲間、良い思考に携わりなさい。最終目標に目を向けなさい!

―1958年2月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月10日

ヤショーダ(クリシュナの養母)は、クリシュナのお腹に巻こうとした縄がいつも少しだけ短いことに気付いた時に初めて、クリシュナが神であることを理解しました。それと同じように、あなたは私の神聖な栄光に関するあらゆる描写が、実際よりも少し短すぎることに気付き、それから信じるようになるでしょう。それと同時に、霊的経典を学んで、神の化身の特徴を知るようになれば、私に関する真理を垣間見ることができるかもしれません。あなた方の間で議論したり、言い争ったりするのは無意味です。検証し、経験しなさい。そうすれば、真理を知ることができるでしょう。確信を得る前に言いふらしてはなりません。まだあなたが決めかねているなら、あるいは検証している最中なら、黙っていなさい。当然のことですが、神秘を検証しようとする前に、あなた方の中にあるすべての悪を放棄しなければなりません。そして、信仰が芽生えたら、その若芽を山羊や牛、皮肉屋や不信心者たちの雑多な群れから守ることができるように、周囲に規律と自己制御という柵を張り巡らせなさい。あなたの信仰が大木へと成長したら、彼らはその木陰で眠ってしまうかもしれません!

―1958年2月23日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月11日

何よりもまず、すべての人に対する愛を育みなさい。そうすれば、妬み、怒り、憎しみは滅ぼされるでしょう。同一のハートの中に、神(ラーマ)と欲望(カーマ)が共存することはできません。信頼は信頼を生み、愛は愛を生みます。私が非常に多くのプレーマ(愛)を込めてあなた方に話している時、あなた方は私に対していかなる憎しみも抱くことはできません!プレーマは全世界を親族にします。それは調和のための最大の道具です。農夫は苗を植え、細心の注意を払ってそれを見守ります。雑草を取り、害虫を駆除し、必要に応じて水をやり、肥料を撒きます。それから、収穫を刈り取って、穀物倉庫を一杯にできる日を待つのです。同じように、あなた方もプレーマを育み、憎悪と嫉妬という雑草を摘み取らねばなりません。赤レンズの眼鏡をかけると、すべてのものが赤く見えます。プレーマという眼鏡をかけなさい、そうすれば、すべてが愛すべき善良なものに見えるでしょう!

―1958年9月1日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月12日

「身内は墓場の入口か、墓場までなら付いて来るやもしれないが、真の身内は主のみぞ、心せよ!」主は決してあなたを見捨てません。あなたが経てきた過去生の数を考えてみれば、あなたには数え切れないほどの母親、父親、妻、夫、息子、娘、友人、敵がいました。その人たちは今、生存していますか? その人たちは、あなたとの関係を覚えていますか? もはや、あなたはその人たちにとって何者でもなく、あなたにとってその人たちは何者でもありません。しかし、あなたにも、その人たちにも、変わることのない身内である共通の主がいます。主は、すべての生を通じて存在しています。主は永遠です。主は、生から生へとずっとあなたを見守っています。そのような主を忘れることより大きな悲劇がありえるでしょうか?五感が弱まって力をなくし、機能することを拒む中、一方では両親や妻子や親戚が皆集まり、もう一方では、ぐずぐずしないでさっさと旅立つようにと、死の遣いがあなたに無理強いする――そのお呼びがいつ、どうやって来るか、誰が知っているでしょう? その瞬間が来る前に、神を想って準備を整えておくことです。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月13日

今日のあなた方は、神を必要としないと感じるかもしれません。しかし、空腹に耐えかねると、あなたは食べ物を切望し始めます。ですから、神が身を置いてくださるように、あなたのハートを歓喜の涙で洗い清めなさい。ザミーンダール(大地主)は、四方が地平線の果てまで広がる田畑を所有しているかもしれません。しかし、彼はきれいに掃除された場所以外では腰を下ろそうとしません。同じように、神がある帰依者のハートをお選びになる場合、他のすべての人々のハートは神のものではない、という意味にはなりません。それらはきれいではないのです。それが神が意味しているすべてです。神はあらゆる場所にいます。すべては神のものです。主の眼差しはすべてに注がれています。もし神がすべてでなかったら、現在そうであるように、それらが輝き存在することがどうしてできるでしょう?それゆえ、神とあなた自身を完全に信頼しなさい。常に善行と有益な活動に携わりなさい。真実を語りなさい。言葉や行動、あるいは思いによってさえも、苦痛(ペイン)を与えてはなりません。それが平安(シャーンティ)を得る方法です。それが今生であなたが得ることのできる最高�
�の報酬(ゲイン)なのです。

―1958年9月1日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月14日

悟りを得た人々の唯一の言語は沈黙です。話す言葉は控えめにしなさい。それはさまざまな形で、あなたの助けとなるでしょう。それは愛(プレーマ)を育みます。なぜなら、ほとんどの誤解や派閥争いは、不注意に発せられた言葉から生じるからです。足を滑らせてできた傷は治すことができます。しかし舌を滑らせたら、それによって他の人のハートに生じた傷は一生治らないでしょう。舌は、嘘を言う、陰口を叩く、他人のあら捜しをする、喋りすぎ、という四つの大きな過ちを犯しやすいのです。個人と社会が平安であるためには、これらを避けなければなりません。人々が口数を減らして、優しく話すなら、兄弟愛という絆が強まるでしょう。霊的書物の中に、霊性志願者の誓いの一つとして沈黙が定められているのはそのためです。あなた方は皆、さまざまな段階にいる霊性志願者です。それゆえ、この規律はあなた方にとっても有益です。

―1958年7月22日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月15日

決して他人の悪い行いや悪いところを考えてはなりません。もしこれができたら、いつも他の人々が善い道に向くよう試み続け、助言を与え続けなさい。そして、その姿勢に必要な心の平安、慈悲深さ、そして、万人の安寧を促進したいという熱望を育むようにしなさい。これらは、ジャパと坐禅(ディヤーナ)によってのみ手に入ります。ジャパと坐禅によって引き出される富は、善性(サッドグナ)です。善性は、外面をきれいにすると共に、内面の傾向も清めて高尚にします。波は海の上層で発生します。波は風によって生じるので、風には波を生じさせる力があると言えます。それと同じように、知的な人の頭はさまざまな考えや意見でいっぱいです。空気がふさわしいものになったとき、それらは飛び出して、あらゆる方向から巻き込んでいきます。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第9章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月16日

神聖な生活は、静穏な性質(サットワグナ)に基づいています。それを培わなければなりません。健康・体力・輝く生命力・熱心な努力を促進する、清浄(サトウィック)な食物によってのみ、この性質が育まれます。栄養不足で弱っている人々に霊性というジュースを配っても意味がありません。まず米粥を彼らに与えて、強い信仰と理想を受け入れるに十分な体力をつけさせなさい。まずは、きよらかでシンプルな食物で肉体の飢えを満たすことが必要です。それから、自分にとって最も魅力的な神の御名を繰り返し唱えるよう努めなさい。御名を軽んじてはなりません。たとえ、施し物を得るために御名を唱えている物乞いの口から聞こえてきたとしても、それに敬意を表しなさい。御名を口にする者が悪人であろうとも、御名を口にする動機が悪いものであろうとも、決して御名の清浄さが損なわれることはないのですか、その御名を邪険に扱ってはなりません。神のことを思い出させてくれたことに感謝し、あなたはあなたの道を歩みなさい。とりわけ、神に呼びかけている人々を笑ったり、失望させたりしてはなりません。

―1958年12月14日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月17日

心(マインド)は、悪臭や芳香をもたらす風です!心が臭いものに向かえば嫌な気分になり、いい香りのするものに向かえば幸せな気分になります。風は四方から雲を集めます。それと同じように、心は多くの希望から生じる失望をあなたの意識の中にもたらします。もう一度言いますが、風のように暗雲をまき散らしたり、疑念という夜の中であなたを混乱させるのが心なのです。心を制御しなさい。そうすればあなたは平静を保つことができます。それが平安の秘訣です。それが、人がまず主張し、守らなければならない教育です。今日、私たちは、最も高度な教育を受けた人が最も不満を抱き不幸であることに気付いています。それではその人は、書物や人間や物事について学んだすべてから、何を得たのでしょうか?この平静を得るためには、ただ書物を読むだけでなく、体系的な霊性修行を行わなければなりません。そうすればあなたは、裕福であっても貧乏であっても、賞賛されても否定されても、物事が上手くいってもいかなくても、幸せでいることができます。

―1958年12月20日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月18日

主は人が崇める絵や像の中に現れますが、それはその絵や像が特別に優れているからなのでしょうか?いいえ、違います。その絵や写真や像は、単なる絵であり、写真であり、像です。バクタ〔神への愛(バクティ)を持っている人〕の信愛が強烈であるために、主はそのバクタのために自らを顕現させざるをえないのです。こうした理由から、主は、それが石であれ、木であれ、紙であれ、バクタが見つめたり、瞑想したり、礼拝したりするものの姿をまといます。ですが、あなたは一意専心の集中力で主に祈る必要があります。この種の一心さは浄性(サットワグナ)からのみ生じるものであり、これもまた、坐禅(ディヤーナ)の産物です。ですから、あなたは善い性質を育まなければならず、善い性質を伸ばすために、善き交わり(サットサンガ)を欲するべきです。本当の仲間というのは、あなたがその人から最大限の善を得られる人のことであり、それは、主について語ったり講演したりする人、真理について、無私の奉仕(セーヴァー)について、そして、万人を等しく見なす愛(プレーマ)について語る人です。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第9章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月19日

神の御姿を瞑想し、その甘美さを意識して御名を繰り返し唱えることを実践しなさい。いかなる御姿、いかなる御名でもよいのです。それが心(マインド)を鋭敏にし、人生に付随する喜びや悲しみから良い音楽を生み出すようになるでしょう。神聖なるものは、地下水のように、あらゆる人の中にあることを覚えておきなさい。神は生きとし生けるすべてに内在しており、すべてに遍満しています。生きとし生けるすべての魂は神なのです。他のすべての人と同じように、あなたの中にも神がいます。神は金持ちの中により多くいるわけでも、太っている人の中により多くいるわけでもありません!神の火花は、すべての人のハートという洞窟を照らしています。太陽は万人の上に等しく輝き、神の恩寵は万人の上に等しく降り注ぎます。あなただけが、神の恩寵という光があなたを暖めるのを妨害する障害物を設置しているのです。あなたの無知、愚かさ、強情を神のせいにしてはなりません。泉が噴き出している深さにまで掘削機を下ろせば地下水が湧き上がってくるように、『ラーム、ラーム、ラーム、ラーム』と唱え続ければ、神という泉に触れることができ、いつの日かそれが湧き上�
�がってきて限りない清涼と喜びをもたらすことでしょう!

―1958年12月20日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月20日

神に完全なる信仰を置いて、唯一の母、父、グル(師)、導き手として神に頼ることが最も良いのです。そうすれば、あなたは決して正しい道から外れることがないでしょう。神があなたを間違った道に導くことは絶対にありません。そのような固い信念を抱くために、そしてそれを体験するために、瞑想(ディヤーナ)に没頭しなさい。それが唯一の方法です。愛(プレーマ)と信仰をもって神の御名と御姿を瞑想すれば、それで十分です。あなたの一番好きな御名と御姿を選びなさい。いつも喜びに満ち、優しくありなさい。常に笑顔で喜びに満ちている資質を育みなさい。それがあなたに善良な特質をもたらすでしょう。人々もあなたをもっと好きになるでしょう。神もまた、あなたを見て喜ぶでしょう。ですから、純真できよらかで謙虚に瞑想(ディヤーナ)を行いなさい。そうすれば、あなたが得ようと努力しているものが何であろうとも、確実に得ることができます。いかなる状況にあっても激怒してはなりません。不慮の事態に遭遇しても勇気を失ってはなりません。地位に関わらず、すべての人を敬いなさい。そうすれば、普遍的愛(プレーマ)という資質があなたの中で育まれ�
�るでしょう。

– Dhyana Vahini, Ch 10.

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月21日

シクシャナ(訓練、教育)とは、教師と教えられる側が協力し合うプロセスです。それは、両者にとって楽しい経験でなければならず、有益で心温まる試みでなければなりません。「クシャナ」とは「一秒」という意味です。そして私があなた方に望んでいるのは、人生のすべての瞬間によい学びを得ることです。例えば、先生が教室に入ってきたら、子どもたちは先生に敬礼します。それによって、謙虚であること、年齢や学識に敬意を表すること、与えられた奉仕に感謝することを学ぶのです。教師もまた、誠実な仕事と無私の奉仕によって、自分に世話を任せてくれた子供たちからの敬礼にふさわしい働きをすべきです。生徒たちは恐怖心から教師を敬う必要はありません。教師の愛によって生徒たちは変わるはずです。教師は、生徒たちを怯えさせたり、恐れさせたりする方法をすべて避けなければなりません!教育とは、花が開くようなゆっくりとしたプロセスです。花びらが一枚また一枚と静かに開き、満開になると、香りがより深く、よりはっきりと感じられるようになります!
―1958年9月9日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月22日

私はあなた方に「講義」をしに来たのではありません。なぜなら、単なる言葉の価値を私は信じていないからです。たとえどんなに学術的であっても、堂々としていても、雄弁であっとしても。私はただ、私のプレーマ(愛)をあなた方と分け合い、あなた方のプレーマを味わうために来たのです。今日、憎悪と虚偽という台風が、美徳と正義と真理という雲を、空の彼方へと吹き飛ばしています。人々はサナータナ・ダルマそのものが絶滅の危機に瀕していると感じています。しかし、それは神が意志した場合にのみ起こり得ることです。ダルマを定めた神はそれが破壊されることを許しません。真理、正しい行い、平安、愛が強調されるところならどこでも、どんな宗教でも言語でも、どんな師によっても、その師がどこにいようとも、そこにはサナータナ・ダルマがあります。人間がプレーマを抱くことができる限り、ダルマ(正義)は存在します。それを疑ってはなりません。そのプレーマが神に固定されていれば、あなたの精神構造はゆっくりと着実に革命的な変化を遂げるでしょう。その時、人は人類同胞の悲しみと喜びを分かち合うようになるでしょう。その後、その人は、この世�
�における束の間の利益や損失を超越した至福の源泉そのものに触れるのです。

―1958年3月24日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月23日

神に向けられた愛は信愛(バクティ)と呼ばれます。それは、最終目標を達成するための道すべての中で最も容易です。信愛には、いくつかの段階があると言われています。ある段階においては、神への奉仕だけが重要で、奉仕そのものが報酬となります。帰依者は、自分の能力を最大限に発揮して、ただ最高の奉仕をすること以上には、何も求めません。これが次第に、最愛の御名と御姿以外には何も認識されない段階となるのです!信愛の道を歩むためには、学識も富も裕福さも厳しい苦行も必要ありません。強盗から聖者になったヴァールミーキの血筋、クチェーラの富、シャバリーの学識、プラフラーダの年齢、ガジャラージャの地位、ヴィドゥラの功績は何だったのか、私に言ってごらんなさい。それは愛です!それが彼らが持っていたすべてであり、彼らが必要としていたすべてだったのです!

―1958年3月24日の御講話

訳注:

ヴァールミーキ:叙事詩『ラーマーヤナ』の著者。ブラーミンの家に生まれたが、生活苦から盗賊となった。聖者を襲おうとしたところ、逆に諭され、周囲に蟻塚ができるほど長い間瞑想を行い、悟りを得て聖者となった。

クチェーラ:別名スダーマー。クリシュナの少年時代の学友。クリシュナが王になった頃、クチェーラは清貧の暮らしをしていたが、家族を養うには苦しい生活であった。クチェーラはクリシュナに援助を求めるため、少年時代に一緒に食べた思い出のポーハ(米料理の一種)をお土産にして、クリシュナの宮殿を訪れた。クリシュナはクチェーラを大歓迎したが、クチェーラは恥ずかしくて自分のささやかな土産を差し出すことができずにいた。クチェーラの心に気づいていたクリシュナは、わざと思い出話をしてクチェーラからポーハをもらって食べた。クチェーラはクリシュナに援助を願い出ることができないまま帰宅した。すると、クリシュナの恩寵で、自宅は豪邸に変貌しており、家族は楽しく暮らしていた。

シャバリー:『ラーマーヤナ』の登場人物。聖者マタンガに弟子入りを望んだが、身分が低く女性であったため、弟子入りを許されなかった。そのため、毎日マタンガが通る道を掃き清め、庵の外からその教えを聞いていた。マタンガはシャバリーを弟子入りさせ、自分の死後も同じ場所でラーマを待つよう指示した、シャバリーはラーマがいつ来てもよいように、毎日道を整え、果実を集めて、ラーマが来ない日はそれをプラサードとして食す日々を送った。やがてシャバリーが年老いた頃、ついにラーマが通りかかった。ラーマはシャバリーが供した果実を喜んで食べ、シャバリーが九つの信愛の道をすべて実践したこと、夢においてさえだれかに悪意をもったことがなかったことを褒め称えた。シャバリーはラーマの御足のもとで灰と化した。

プラフラーダ:ヴィシュヌ神を憎んでいたヒランニャカシプ王の息子。プラフラーダはヴィシュヌ神(ナーラーヤナ)を深く信仰していたため、ヒランニャカシプ王から幾度となく殺されかけたが、そのたびにヴィシュヌ神に助けられた。ある日、人獅子の姿で現れたヴィシュヌ神によって、ヒランニャカシプ王は滅ぼされた。

ガジャラージャ:10世紀から15世紀にかけてグジャラート州サウラーシュトラ半島(現在はカーティヤーワール半島と呼ばれ、ラージコート市やジャームナガル市がある)を支配したチューダーサマー王朝の12世紀頃の王。別名マヒパラ。

ヴィドゥラ:『マハーバーラタ』の登場人物。ドリタラーシュトラとパーンドゥの異母兄弟。母の身分が低かったため王にはならず、宰相となってドリタラーシュトラ王を支えた。ヴィドゥラは兄弟の中で最も賢く、正義の人であった。ドゥルヨーダナが生まれた時、凶兆があったため、ヴィドゥラはドリタラーシュトラに忠告したが、それは聞きいられなかった。パーンダヴァ兄弟を妬んだドゥルヨーダナが彼らを焼き殺そうとした時には、脱出の手助けをした。ユディシュティラが賭けに負けて妻ドラウパディーの服が脱がされそうになった時には、ただ一人抗議の声を上げた。クリシュナがパーンダヴァの使者としてドゥルヨーダナの宮廷を訪れた時、クリシュナはドゥルヨーダナのもてなしを断り、ヴィドゥラの家に泊まった。ヴィドゥラはドゥルヨーダナに和解を受け入れるよう諭したが、ドゥルヨーダナは聞き入れず、逆にヴィドゥラの母を侮辱した。ヴィドゥラは宰相を辞し、巡礼の旅に出た。クルクシェートラの戦いの後、ユディシュティラが王位に就くと、ヴィドゥラは宰相として迎えられた。年老いたドリタラーシュトラたちが隠遁して森に入る時、ヴィドゥラも同行し、森�
�の中で死んだ。

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月24日

子供時代から青年期までの時期については、深刻に考える必要はありません。この時期のことは、たいして心配する必要はありません。青春期に入ると、人は、ぼんやりとして不確実な最初の段階に入り、さまざまな無益な行いをします。その後、人は円熟と力を得ます。これは不確実と確実の中間の段階です。その中間の時期に達した時にこそ、人は、最後の段階でのみ得られる、成就を切望しなければなりません。苦行(タパス)の規則では、次の法則も守られています。最初の供養礼拝(プージャー)の儀式はシャクティ〔神聖エネルギー/女性原理〕と結び付いており、それに続く礼拝の段階はシヴァ〔吉祥なる実在/男性原理〕と結び付いています。つまり、母の庇護の下にいる時期が終わると、父の庇護――宇宙の革新者であり守護者であるシヴァの守護――の時期に至るのです。中間の段階(言い換えるなら、この特定の年齢の時)では、人はある種の好ましくない、避ける必要のある癖や傾向を自然と持つようになります。それは、うぬぼれ、悪ふざけ、強情、詮索、色欲、貪欲、不真面目、恐れ、恨み深さ、嫌悪などです。これらがあるうちは、自分をシ�
�ヴァに全託することはできません。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第9章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月25日

好ましくない傾向は、完全に根こそぎにするか、あるいは、少なくともこれらを取り除くための規律正しい努力をするかすべきです。この段階の求道者は、流れに逆らって泳いでいく(ヴィヤティレーカ パララヴァーハ ガティ)必要があります。流れに逆らって進むというのは、水源に到達するための方法であり、流れに身を任せて漂うというのは、どんどん水源から離れていって目的地を見失うことを意味します。もちろん、川を遡って泳ぐのは、かなりきついことですが、一かきごとに、あなたは目的地へと近づいていき、遠ざかることはなくなります。流れを克服するには、坐禅(ディヤーナ)という筏(いかだ)を持たなければなりません。坐禅(ディヤーナ)によって、肉体的な弱さを克服することができ、心の気まぐれのスピードを管理することができ、恩寵の座へと向かう進歩が容易になり、原初の神聖な力(アーディムールティ)に到達することができます。反対に、もし旅を容易にすることのほうを気にかけて、流れるままに漂うなら、恩寵から離れていって、恩寵に背を向けることになります。

 ―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第9章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月26日

人を作るのも傷つけるのも心(マインド)です。もし心が世俗の物事に没頭するなら、束縛へと導かれます。世俗を一時的なものとして扱うなら、その無執着によって、心は自由になり光となります。良い方にも悪い方にも変化する物事に執着しないように、心を訓練しなさい。世俗的な名声や富のきらめきの前に心を留めてはなりません。あなたの内面にある泉から引き出される永続する喜びに、心を惹きつけなさい。それが大きな恩恵をもたらすでしょう。ひとたび、聞き、繰り返し、地道な瞑想を繰り返すことの甘美さを体験すれば、心そのものがグルとなり、あなたをどんどん導いてくれるでしょう。陶芸家が作った像を神性で満たすのは、それを見る帰依者の心なのです。神殿の部屋を神聖な芳香で満たすのは心なのです。

―1958年3月24日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月27日

食べ物が消化されると力が得られるように、運動すると健康が促進されるように、読んだことを実践すれば力が得られます!聖ティヤーガラージャは、宇宙の中にもアリの中にも同じように存在する、内なる原動力が神であると歌いました。あなたは理性としてはこれに同意するかもしれません。しかしあなたがアリに噛まれたら、そのような形で神があなたに接触してきたのだとは感じません。そうですね?ですから、偉大なる真理を声高に主張してはなりません。そうではなく、あなたがそれを重視しており、それを導きとしていることを、あなたの行動で示しなさい!少なくともこれだけは気をつけなさい。あなたが他の人々の過ちを責めるのであれば、その同じ過ちを自分自身で犯してはなりません。あなた自身がそこまで登りたくないと思うような基準に到達することを他人に求めてはなりません。この二つの原則に従って生きていれば、神像の前で頭を下げたり、寺院の儀式に参加したり、スケジュール通りに礼拝したりしなくても、神の恩寵を確実に得ることができるのです。

―1958年3月24日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月28日

一つ覚えておくべき大切なことは、穏やかさと甘美さによって言葉の力を完全に活用することが可能であり、望ましいということです。もしすべてのものの中に神を見たいと思うなら、言葉の甘美さは計り知れない助けとなります。こうした言葉によって、あなたはどれほど人を幸せにすることができ、優しい表現をすることで、あなたの心はどれほど軽くなることでしょう!その幸せな空気の中で座禅(ディヤーナ)を続けるとき、どれほど速やかに集中が得られることでしょう!反対に、もし会話の中で人を責める言葉や軽蔑する言葉を使うなら、次はあなたが責められる標的となり、その両方の影響によってあなたの心はかき乱れ、そうなると、空気が不浄なものとなり、そのせいで座禅(ディヤーナ)の目的は達成されません。ですから、もしあなたが座禅(ディヤーナ)を通じて幸せになりたいと本当に願っているのなら、そのプロセスの準備段階として、喜びにあふれて会話をするか、幸せな想いや記憶に浸るよう心がけなさい。甘美で穏やかな会話は、大いに座禅(ディヤーナ)の助けとなります。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第10章

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月29日

母親は家庭の、社会の、国家の、そして人類そのものの支柱です。母親は、心の平安、内なる静寂、精神的勇気、最大の富である満足、そして永続する喜びをもたらす霊性修行の秘訣を知るべきです。母親は子供たちに、神の御名を思い起こすことの大切さと、精神的にも肉体的にも清潔であることを教えるべきです。母親は、ヴィヴェーカーナンダが語った物語の中で、息子に、一人で学校に行くときや自分ではどうすることもできないときにはいつでも森の中にいるクリシュナに呼びかけるよう勧めた母親のようであるべきです。父親と母親は、学校で教師から与えられた訓練を家庭で補わなければなりません。彼らは、子供が学校で受けている授業について熟知し、自分たちの行動や助言が、子供が敬愛する先生から学んでいることと矛盾しないように気をつけなければなりません。教師と親は、子供の成長期に一定のよい習慣と態度を身につけられるように留意しなければなりません。

ー1958年9月9日の御講話

 

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年6月30日

たとえどんなものを得ても失っても、どんな境遇になっても、満足していなければなりません。これは必要不可欠です。足るを知ることは、幸福をもたらし、幸福を増します。人生は、満足している心には終わることのない祝祭ですが、欲に苦しむ心に安らぎはないでしょう。欲があなたを悩ましているのに、集中できるはずがありません。欲望はあなたの体の中にある火です。それはあなたを焼いて灰にしてしまいます。満足は、その火を消すのによく効く薬です。焼け付くような暑さの中で疲れて汗を流している旅人が、川の冷たい水を浴びると元気を取り戻すのと同じように、激しく燃える貪欲の火に苦しんでいる人は、満足という澄み切った水で元気を回復します。悟りの道を求める欲だけを抱くべきです。世俗の低劣な欲を満たすことに一生を捧げるべきではありません。すべてを主に捧げること、それが純然たる満足です。それは、心の平安(シャーンティ)と、歓喜(サントーシャ)と、識別(ヴィチャーラナ)を獲得した成果です。その時、主を直に見ること(サークシャートカーラ)も可能です。

―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第10章