プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月1日
肉体を、動く寺院と見なしなさい。どこへ行こうと神はあなたと共にあります。神とはどんなものか、神はどこにいるのかについて、議論に耽ってはなりません。神は信仰と確信によって体験されなくてはなりません。確信のあるところに愛があります。愛のあるところに平安があります。平安のあるところに真理があります。真理のあるところに至福があります。至福のあるところに神がいます。至福はどこにでも存在します。あなたの中にある至福は、あなたの肉体意識に限定されています。あなたはその至福を広げ、それがすべてを包み込むようにしなければなりません。子どもが生まれたとき、その子どもは一人です。それから大きくなるにつれて、妻を持ち、子を持ちます。我が子が結婚すれば、親戚関係はさらに広がります。この人間関係の広がりは、一つの家族の中で起こります。皆さんは自分の見解を全人類にまで広げなくてはなりません。
ー1989年2月17日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月2日
科学があなたに差し出すことができるのは、一時的で世俗的な安楽だけです。霊性だけが、あなたに永続する至福を与えることができます。一時的な安楽を与えてくれるものはすべて、不幸も生じさせます。ある人はエアコンの効いた部屋に座っているかもしれません。しかし、その人の心は心配と不安でいっぱいです。その人の脳は興奮状態です。心の平安を持っている人は、たとえ密林の中にいても不安を味わうことがありません。このように、平安は科学を通しては得られません。実際、現代の科学と技術は、人間を平安から遠ざけています。現代人のあらゆる病気は、心が少しも安らかでなく静かでない、という事実に起因しています。心は心配事でいっぱいです。無生物である機械でさえ、一定期間の休息が必要です。ところが、心には少しも休息が与えられていません。もし私たちが、個人の平安、社会の平安、国家の平安を望んでいるのであれば、それは霊的な手段を通してのみ達成することができます。
ー1988年5月6日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月3日
イスラム(イスラーム)は神への全託を意味するのですから、本当は、全託と献身の精神で、社会の中で平和と調和を保ちながら生きている人はすべてイスラムに属しているのです。イスラム教は、思いと言葉と行動の完全なる一致を求めています。イスラム教の聖人や賢者は、肉体であると感じている「私」と、心であると感じている「私」が妥当であるかどうかを調べ、真実の「私」はすべての自己である神を切望する真我であるという結論に達するべきだと強調してきました。ラマダン月の断食と祈りは、この悟りを目覚めさせ、顕現させるためのものです。どのような宗教であろうとも、一体性、調和、平等心が強調されています。ですから、愛と寛容と慈愛を育み、日々のあらゆる活動において真理を示しなさい。これが、祝福と共に私があなた方に贈るメッセージです。
ー1983年7月12日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月4日
空に急上昇していく飛行機が見えます。飛行機はパイロットが操縦して空を飛んでいるのだと誰かが言っても、自分がいるところからはパイロットが見えないので、あなたはそれを信じません。これは正しいことですか? パイロットを見るには、飛行機に乗らなければなければなりません。地面に立っていてパイロットの存在を否定することはできません。あなたは飛行機にパイロットが乗っているのを想像しなければなりません。
世界を見るときも、これと同じことが言えます。神を見ることができないからといって神を否定するのではなく、神の存在を想像しなければなりません。人々は、神の存在は信じないのに、自分が見ていないことや見ることができないことを報道する新聞やニュースは信じます。自分の目に見えるものや心(マインド)で経験したことよりも、耳で聞くことを信じているのです。人々は討論をしたり議論を交わすことはあっても、ほんのわずかでも神のことには触れません。自分たちはそうするまでもなく優秀だと考えているのです。聖典を学んで、神のしるし、特徴、特別な卓越性を知った人だけに神は知られ得るのです。神の道や神を中傷してはいけません。
ー1966年2月19日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月5日
私は今、このプラシャーンティ ニラヤムにプラシャーンティの旗を揚げています。この旗は、皆さん1人ひとりにとって意味深い印です。この旗は、あなたの義務を思い起こさせるものです。ですから、私がこの建物に旗を揚げる時、皆さんは自分のハートにプラシャーンティの旗を掲げなければなりません。この旗は、低級な願望の衝動やあなたの願望が邪魔された時の怒りや憎悪の衝動に打ち勝つことを、あなたに思い起こさせるものです。この旗は、あなたが周囲のすべての人を、すべての生き物を、すべての創造物を内に抱けるように、あなたのハートを広げよと、強く訴えます。この旗はあなたに、衝動を静め、落ち着いて内なる実体を瞑想せよと、指示します。この旗は、あなたがこれらをするとき、あなたのハートの蓮が花開き、その中心から神聖な見方という炎が生じて、プラシャーンティ(限りない平安)を与えることを保証します。私は皆さんに、その準備のための規律についても話しておかなければなりません。あなたがここにいる時、静寂・清潔・忍耐という三つの規律を実践しなさい。神の声は静寂の中で聞くことのできるものであり、喧騒の中では聞こえまぁ
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�ー1968年11月23日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月6日
イーシュワランマはすでに水浴を済ませて、いつもどおり幸せな気持ちで朝のコーヒーを飲み終えて、館内のベランダに座っていました。突然、イーシュワランマは浴室のほうに向かって歩き出し、「スワミ、スワミ、スワミ!」と三回叫びました。それに対して、私は、「行きます、行きます」と答えました。その間にイーシュワランマは息を引き取りました。
善良さを示す、これより偉大なしるしがあるでしょうか? イーシュワランマは世話も看護も必要としませんでした。死に際にスワミが記憶の中に現れるのは、ごくわずかな人だけです。通常、心は、宝石や高価な物など、何らかの物品その他を求め、その対象物の上に留まります。イーシュワランマは一階から「スワミ! スワミ!」と私を呼び、私は「行きます、行きます」と答えました。それから、イーシュワランマは息を引き取ったのです。それは、象(鰐に捕らわれていたガジェーンドラ)が神(ヴィシュヌ神)を呼び求め、祝福を与えるために神が象のもとへと向かったかのように、二本の電線がつながるや、瞬時に解き放たれるのです。これが、生涯かけて得ようと努力すべき、真正な最期です。それは理想的で尊崇に値する生涯のしるしです。そのような態度は、何か外からの力によってではなく、自ずと生じなければなりません。
ー1983年5月6日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月7日
もし自分の本性を理解したいと望むなら、あなたは三つのことをしなければなりません。それは、身をかがめ、五感を正し、心を終わらせることです。最初のステップは「身をかがめる」ことです。つまり、自分の体の中にエゴ〔自我意識、我執〕が生じるのを許してはならないということです。謙虚さを育て、真心込めて自分の義務を果たしなさい。これが「身をかがめ」という言葉に含まれている意味です。「五感を正し」は、五感はどう振る舞っているか、五感は堕落しやすくなっているかどうかを調べ、必要であればそれらを矯正すること、抑制することを呼びかけています。「心を終わらせる」は、心の気まぐれを静めることを呼びかけています。これはどうすればよいのでしょうか? 心を別の方向に向ければよいのです。たとえば、錠と鍵があります。鍵を左に回せば錠がかかります。鍵を右に回せば錠は開きます。このように、鍵は錠の開閉の両方の役割を果たしているのです。人間においては、ハートが錠です。心〔マインド、思考〕が鍵です。心が神のほうに向けられると、ハートは無執着を持つようになります。心がこの世界のほうに向けられると、ハートは執着を察
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ー1988年5月6日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月8日
あなた方のゴールは、生来の神性を顕現させることにほかなりません。このような機会を手に入れるのは、誰にとっても難しいことです。世界中の何十億もの人々の中で、いったい何人が神を体験するためにここへ来ることができるでしょう? あなた方は、祝福された、幸運な数少ない人たちなのです。この至高の幸運を最大限にかして、自分を神のごとき人へと変容させ、それから他の人々が変容するのを助けなさい。常に幸せでいなさい。あなたの喜びを他の人々に分け与えなさい。これが真の霊性です。覚えておきなさい。愛は神です。愛の中で生きなさい。真理は神です。真理の中で生きなさい。至福は神です。至福の中で生きなさい。恐れてはなりません。神はあなたと共にいます。「神は私と共にいる。私は神の中にいる」という確信を抱いて生きるなら、あなたには何の恐れもないでしょう。このように行動することによって、皆さんがそれぞれの国で平安と調和を広めることを、私は望んでいます。
ー1989年2月17日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月9日
私たちが日常的に体験していることから一例を挙げましょう。バザールで泣いている人を見かけたら、誰かが「どうして泣いているのですか?」と質問します。他の通行人もまた、その人に質問します。同じバザールで別の人が楽しそうに歩いていても、その人のところに行って幸せな理由を尋ねたりする人はいません。幸福は、人間の自然な状態であると見なされています。人間は常に幸福を探し求めます。人間にとって不幸は忌むべきものなのです。不幸が入り込む隙を作り出すのは、人間の弱さです。多くの人生において悲嘆の餌食になったことが、人を絶え間ず不幸へと押しやります。神を固く信じる人には、不幸になる原因がありません。不幸に心乱される人は、神性原理を理解していません。肉体に関係するものは、すべて一時的ではかないものです。人が追い求めるべきものは、永続する至福です。幸福とは神と一つになることです。
ー1988年5月11日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月10日
ある晩、クリシュナはアルジュナをドワーラカーの都から遠く離れた所に連れて行き、二人きりになったとき、頭上を飛んでいく鳥を指差して尋ねました。「アルジュナ、あれは鳩ではないか?」アルジュナは、それに同意して「あれは鳩です」と言いました。するとクリシュナは、さっとアルジュナの方を向き「いや、あれはカラスだ」と言いました。アルジュナはそれに賛成して「すみません、確かにカラスです」と言いました。即座にクリシュナは「カラス?いや、違う。あれは凧に違いない。そうではないか?」とアルジュナに尋ねました。アルジュナはすぐに同意して「そうです、凧です」と答えました。するとクリシュナは微笑みながら、アルジュナにこう尋ねました。「あなたは正気ですか?一体あなたには何が見えているのですか?どうして同じ鳥が鳩になったり、カラスになったり、凧になったりするのですか?」。アルジュナは言いました。「あなたの発言に異議を唱える私は何様でしょう?たとえそれがカラスでなくとも、あなたはそれをカラスにすることができますし、凧に変えることもできます。私は、完全にそれを信じてあなたに同意することが最も安全だというこ�
�とがわかったのです。これ以外の道を私は知りません」。この揺るぎない信仰を試すテストの後、初めてクリシュナは、アルジュナに聖なるギーターの助言を受ける資格があるということを確信したのです。
ー1967年11月22日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月11日
ラーマは、引き寄せる力の最高の象徴です。このラーマはダシャラタの息子ではなく、アートマ・ラーマ(すべてのハートの中に宿るお方)である霊的なラーマです。アートマは、あらゆるものを引き寄せる普遍的な磁石です。あなたがここで花を持っていると、遠くからミツバチが引き寄せられてきます。彼らは、花の中に甘い蜜があるがゆえに引き寄せられるのです。プラスチックの花に引き寄せられるミツバチは一匹もいないでしょう。人を引き寄せる甘さは、プレーマ(愛)です。この愛は、母性愛、子の親に対する愛、兄弟愛、夫婦愛、友愛など、さまざまな形で現われる可能性があります。神の愛は、これらのあらゆる形式の引き寄せる力の基盤です。それは強力な磁石です。それはあらゆるところに存在し、すべての人間の中にも存在します。すべての子供には、それぞれの両親の面影があります。すべての人間は神から来たのですから、創造主の特徴を備えているはずです。人間は、自分の中にある神聖なものを顕現させるために誕生したのです。
ー1997年7月20日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月12日
ラーヴァナは5音節のシヴァ・マントラ 「ナマ・シヴァーヤ」を絶えず繰り返し唱えていました。しかし機械的に暗唱していたため、彼の悪魔的な資質が放棄されることはありませんでした。一方、プラフラーダは阿修羅の息子でありながら、「オーム・ナモー・ナーラーヤナ」というナーラーヤナ・マントラを心を込めて絶えず繰り返し唱えました。父ヒランニャカシプから与えられた恐ろしい試練からプラフラーダを救うのに、これが役立ちました。父はプラフラーダを断崖絶壁から投げ捨て、象に踏み潰させ、毒蛇に噛ませ、海に突き落とすなどしました。しかし、心から主の御名を唱えることにより、プラフラーダはこれらの試練に遭遇しても無傷でやり過ごしました。あらゆる拷問道具が主の御姿に変わったのです!全身全霊で主の御名を唱えることが、本当のスマラナです。他人の称賛を得たり、見せびらかしたりするために、御名を唱えるべきではなりません。主を喜ばせることができれば、それで十分です。その過程において、人は神と一体となるのです!
ー1997年9月14日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月13日
マーナヴァ・セーヴァはマーダヴァ・セーヴァ、つまり人への奉仕は神への奉仕です。しかし、いつそうなるのでしょう?奉仕をする相手は海の波の一つであり、あなたの個性、好み、名前、姿はその同じ海から生じたのだということをハートの奥深くであなたが感じた時、初めて人への奉仕が神への奉仕となるのです!私は今日、あなた方を呼んで、あなた方を「ボランティア」と名付けました。それはあなた方に、人への奉仕を通じて神への奉仕をするというサーダナを実践する機会を与えるためです。ですから、これをあなたに与えられた新たな権威だとか、自分の肩に載せられた重荷であるなどと解釈してはなりません。神の意志を受け入れることには、それなりの利点があります。それは豊かな果報をもたらします。ラーマがきわめて重要な南方の捜索のためにハヌマーンを選んだ時も、ラーマがシーターに渡すための指輪を手渡した時も、ハヌマーンは自惚れず、驕ることはなく、責任の重さを恐れることもありませんでした!(ラーマは、ハヌマーンが必ずシーターを見つけると確信していたので、ハヌマーンがラーマの使いであることがシーターにわかるように、自分の指輪をハ�
�ヌマーンに持たせた。)ハヌマーンは喜びも嫌がりもせず、ただそれを引き受けました。ハヌマーンは「ラーマはすべてをご存じの主なのだから、自分の義務はただそれに従うことだ」と思ったのです。
ー1967年11月22日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月14日
人間は、神から与えられた才能を悪用しています。人間は欲望、怒り、貪欲などの六つの悪徳を自由に発散しています。それらは神からの贈り物ではありません。それらは、人々が食べるものによって育まれたものです。それらは動物の性質であり、取り除かなければなりません。人は真実を語るべきです。たとえ真実であっても、不愉快なことを語るのは避けなければなりません。人間の生活の全領域は真実に基づいているべきです。バーラティヤ(インドの)文化は、「真実を語り、正しく行動する」ことを最も重視しています。真実を語ることは、どこの誰にとっても最高の美徳です。どのような状況にあっても、人は真実に忠実であるべきです。真理は神の化身です。人には影のように正義が付き添っていなければなりません。真理と正義を指針とすれば、人生においてどんなことでも達成することができます。すべての力は、この二つの美徳の内にあるのです。
ー1998年5月11日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月15日
人々は霊性修行について語り、己の人生を無為に過ごしています。これらの探求はすべて時間の浪費です。あなたが神聖な気持ちを育むならば、それで十分なのです。悪い考えを取り除くことと、良い資質を培うことが、最も重要なサーダナ(霊性修行)です。どんな巡礼地を訪れても、自分の悪い傾向を減らすよう努めなさい。その代わりに、良い資質を育みなさい。あなたを傷つけた人々に対して善を行うよう努めなさい。あなたは、他人があなたに対して行った悪行も、自分が他人に対して行った善行も忘れなければなりません。つまり、忘れるべきことは忘れ、覚えておくべきことは覚えておくべきなのです。覚えておくべきこととは何でしょう?他人があなたに対して行った善のことです。あなたに対して行われた善行は、神聖なものとして覚えておかなければなりません。相手に感謝の気持ちを伝えなければなりません。あなたのすべての行動を、正義(ダルマ)に沿ったものとしなさい。あなたが神を思い起こしながら行う行為は、それがどのようなものであろうとも神聖なものとなるでしょう。
ー1998年5月11日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月16日
ブッダは、苦行や祈りや禁欲生活を通じて自己実現に至ることはできないと悟りました。ブッダは、善良な見方(サムヤク・ドリシュティ)を育む重要性を強調しました。善良な見方は、善良な考え、善良な言葉、善良な行いへと導きます。ブッダは、善良な人々と付き合うことを強調しました。善良な仲間は善良な行いへと導きます。守るべき4つのルールとは、善良な仲間との関係を深めること、悪人との交際を避けること、常に功徳を積むこと、そして、何が儚く何が永遠であるかを忘れないことです。善良な仲間(サットサング)とは、単なる善人という意味ではありません。サットは神を意味します。必要なのは、すべての至福の源である神との交わりを求めることです。思考が神に集中している時、その人の感情、言葉、行動は神聖化されます。 (サムヤク バーヴァム、サムヤク シラヴァナム、サムヤク クリヤー)これは、内なる感覚器官の純化へと導きます。思いと言葉と行動の純粋性は、神を経験するための必要条件です。
ー1998年5月11日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月17日
花輪を手に持ちながら、神聖な場所でくだらない会話に耽ることが、帰依なのではありません。私は誰かが私の前に花や果物を持ってくることを望んでいませんし、それを評価することもありません。純粋なハートという香り高い花と、霊性修行によって柔らかくなった心という果実を、私のところに持って来なさい。それが私の最も好むものです。それは、意識を高める努力をしないで、お金を払って外部から入手できるような代物ではありません。そのような類の努力を好むようになるためには、偉大かつ善良な人々と付き合い、善良な思考の中に喜びを見出さなければなりません。どんな手段を使ってでも、自分の至福(アーナンダ)の備蓄を増やし、識別心の質を高めなさい。そしてこれら二つをできるだけ多く蓄えるよう努めなさい。そうすれば、必要が生じた時にいつでも、その備蓄分を利用することができるのです!
ー1958年9月1日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月18日
すべての人の中には真理という火花があります。何人たりともその火花なしには生きることはできません。すべての人の中には愛という炎があります。それがなければ、人生は暗く空虚なものとなります。その火花、その炎こそが神なのです。なぜなら、神はすべての真理とすべての愛の源であるからです。人は真理を求め、実在を知ろうとします。なぜなら、真理である神から人の本質が生じているからです。与え、分け合うために、人は愛を求めます。なぜなら、人の本性は神のものであり、神は愛であるからです。中に米がある種もみのように、もみ殻は中にある種子を覆う迷妄(マーヤー)なのです。米は個我です。その米の本質であり、支える要素であり、糧であるのが至高のアートマです。ですから、他の人のことや、彼らの失敗について心配するのではなく、自分の内面を見つめなさい。少し自分自身のことを調べなさい。ウパニシャッドや霊的書物を学びなさい。それらが少し助けになるかもしれません。覚えておきなさい!それはほんの少しの助けにしかなりません!それらは地図や道しるべに過ぎません。あなたはそれらを実践に移し、行動し、体験しなければならないので�
�す。
ー1958年9月1日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月19日
主とその御名はどちらも一つです。しかしその御名の甘さが御姿に現れることはめったにありません!バラという花の名前を思い出すと、その香り、柔らかな花びら、深い色合いが思い出されますが、棘があることや、その花を手に入れるための苦労はすべて忘れられてしまいます。しかし、その花の由来や歴史に思いを馳せ、植物、葉、枝などを考慮に入れるならば、最も重要で、最も美しく、最も魅力的な部分である「花」は忘れられて、「植物」だけが議論されかねません。別の角度から見てみましょう。マンゴーの名前を聞いたとたん、人は比類ない甘さを思い浮かべます。しかし、実際のマンゴーを手に取ると、まずそれが甘いのか酸っぱいのかが頭に浮かびます。それから皮、繊維、果汁、実、種などを区別するのです。名前だけを繰り返している時には、これらの事柄が頭に浮かぶことはありません。ただ甘さだけが思い出されるのです。
ーディヤーナ・ヴァヒニー第7章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月20日
主は、一つひとつの行いの背後にある、心の姿勢を評価します。ヤッド・バーヴァム・タッド・バヴァティ(人は自分が思っているものになる)!ですから、すべての行為を供養礼拝の供物へと変え、そうすることで最大の喜びを引き出しなさい。サイはあらゆる存在の中にいます。ですから、誰のことも軽視してはなりません。ああなたの能力の最善を尽くして、すべての人を敬い、すべての人に奉仕しなさい。誰かが喉の渇きを癒したいとあなたに水を求めたら、一杯の水をその人に手渡し、私に捧げているのだと思いなさい。そうすれば、その行為があなたをさらに浄化して、あなたをきれいにしてくれます。あなたが奉仕する相手は、困っている人ではありません。あなたは、あなたと相手の中にいる神に奉仕することになるのです。カルマ(行為)は花で、グニャーナ(英知)は果実です。時が満ちれば、花は果物になります。ただし、人はそれを害虫から守らなければなりません。木炭は、火の洗礼の一部を受けた木です。その洗礼を完全に受けさせなさい。そうすればそれは、風と共に四方へ飛んでいく白くて軽い灰となります。激情が湧き起こる心(マインド)の浄化は、グニャ�
�ーナ(英知)という火を使って、それが成功するまで徹底的に行わなければなりません!
ー1967年11月22日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月21日
人間は神の反映です。人間は神に非常に近い存在です。しかし人間がこの近さに気付くことはほとんどありません。人間は、自分の心(マインド)が動物レベルにまで下がるのを許し、そこから這い上がるために多くの人生を経ながら悪戦苦闘しています。ダイヤモンドがガラスのかけらのように見えることがあります。その価値を知らない人は、それを文鎮として使い、事務室のテーブルの上に置きっぱなしにします。賢い人なら、それを鉄の金庫に入れ、施錠して保管するでしょう。人間はダイヤモンドであり、ガラスのかけらではありません。カッティング、もしくは浄化(サムスカーラ)というプロセスを経た後、人は燦然と輝かずにはいられません。サムスカーラは人間を神に、つまりマーナヴァをマーダヴァに変容させます。あなた方の腕には五百ルピーや六百ルピー、あるいは千ルピーもする時計があります。一つの腕時計を作るに必要な鉄の原価はたったの四アンナ(四分の一ルピー)ですが、人間の技術と知性によるサムスカーラによって、その価値と有用性が高まります。人間もまた、己の心と知性を適切に使うことによって、神我顕現の貴重な道具へと自分自身を変容させ�
�ることができるのです。
ー1967年11月6日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月22日
衣食住を提供しさえすればこの国の人々は幸せになれると、私たちは思っています。彼らはこれらのものが十分に得られていないために苦しんでいるのだと、私たちは思っています。それは幻想です。なぜなら、満足と幸福は心(マインド)の属性であるからです。平安に到達し、喜びを得るためには、心を鍛えなければなりません。そのような心がなかったら、どんなに豊かな状況下にあったとしても、人間は無力です。強く、魅力的な人間であっても、視力を失えば、喜びを失ってしまいます。物質文明の絶頂にある国はたくさんあり、自分たちが到達した高みを非常に誇りに思っています。しかし、彼らは心の平安を手に入れているのでしょうか?恐怖や憎しみ、貪欲や慢心を克服したのでしょうか?もちろん、人間にはある程度の肉体的、精神的な安らぎがなければなりません。しかし、快適さをもたらす物事を得ることが生きる目的になってはいけません。
ー1967年11月6日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月23日
この世界では、どんな物を手に入れるにも財産が必要です。財産があれば物が手に入ります。ですから、財産によって手に入れた物よりも、財産の方が優位にあるということになりますね?財産があれば、いつでも、どんな物でも手に入れることができます!同様に、神の御姿(ルーパ)は、御名(ナーマ)という財産によって得られます。ナーマという財産が着実に蓄積されれば、簡単に、何の苦労もなく、瞑想を通じて、神を実感認識することができます。もう一つ、ナーマ・スマラナには特別な点があります。ヨーガや苦行を通じて、さまざまな超自然的力を獲得する場合があります。そして、そのような力が得られると、神を忘れてしまう可能性があるのです!この自負心によって正しい判断ができなくなった人は、その基盤となる勝利を霊性修行によって得たことすらも忘れてしまうかもしれません。しかし、御名を思い出し、繰り返し唱え、瞑想するなら、そうはなりません!これらの道には、そのような危険はありません。これら三つの道は、人々の中にある愛をもっともっと成長させます。愛によって、平安が得られます。心の平安が得られれば、他のすべての状況は自然と整っ�
�ていくのです。
ーディヤーナ・ヴァーヒニー第7章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月24日
勇気とは、身体と心の健康と強さを得るための強壮剤です。疑いと躊躇と恐れを手放しなさい。これらがあなたの心の中に根を下ろす機会を与えてはなりません。人は、どんなことでも成し遂げることができます。その人に備わっている内なる神聖な力によって、マーダヴァ(神)になることさえもできるのです。恐れや疑いを手放すために、あなたの舌の上と心の中に主の御名を常に置きなさい。御名を唱えている間は、永遠なる主の御姿とその無限の栄光に深く思いを馳せなさい。自分自身を神に執着させなさい。そうすれば、このような一過性の対象物に対する執着はなくなります。あるいは少なくとも、相対的事実を理解し、正しいバランス感覚で、それらを見るようになります。つまらない小さなエゴがとてつもない重大事項になってしまうと、このような厄介事になってしまうのです。それが、すべての苦の根源です!
ー1958年9月2日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月25日
世俗的進歩と霊性の進歩に必要な資質や学識は、それぞれ異なっている、と語るのは誤りです。霊性は、世俗性を浄化したものにすぎません。どちらも、成功するか否かは、一点集中(エーカーグラター)ができるかどうかによります!どんな仕事をするにしても、一点集中が非常に重要です。これもまた霊性修行に他なりません。この霊性修行には、無集中と多集中という二つの道があります!無集中は睡眠の段階であり、無知の性質(タモーグナ)とも呼ばれます。多集中は、開いた目の視線が被造物やその光景に向かっている状態で、落ち着きのない性質(ラジョーグナ)の結果です。これら二つを避け、これらの両極端に陥ることなく、目は睡眠中のように完全に閉じず、覚醒時のように大きく開かず、半開きにして鼻の先に向けるならば、清浄な性質(サトワグナ)が自分の気質となり、心を集中させることが容易にできるようになるでしょう。
ーディヤーナ・ヴァーヒニー第8章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月26日
世俗の義務を放棄してはなりません。神の御名を口にして、神の恩寵を頭に招き入れながら、それを行いなさい。隣人や他人のことに首を突っ込み、絡め取られて抜け出せなくならないようにしなさい。あなたが育てた作物の緑、満足と喜びを運んでくる涼風、色とりどりの雲のパノラマ、鳥たちの奏でる音楽など、あなたの前に広がる大地と空の美しさに思いを馳せながら時を過ごしなさい。田んぼのあぜ道や運河のほとりを歩く時には、神の栄光を歌いなさい。このような愛の証の中にいる時に憎まれ口を叩いてはなりません。このような穏やかな環境の中で怒ってはなりません。あなたの叫び声や罵声で天空を乱してはなりません。復讐心に満ちた大言壮語をして、大気を汚してはなりません。
ー1958年9月2日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月27日
あなたがジャパや坐禅(ディヤーナ)をしている時、最初のうちは別の想念が入ってくるかもしれませんが、心配は要りません。そのせいで大きな危険があることはないからです。ナーマ スマラナ(御名の憶念)を始める時には、熱意を持って座りなさい。どんなことを行う場合であれ、もし固い決意を持って着手するなら、不浄なものがあなたに影響を及ぼすことはできません。唯一あなたが気をつけなければならないことは、ジャパなどを始める時にあなたが完全に清らかであるかどうかを確かめることです。形式について心配することはありません。あなたの好きな御名と、その御名の持つ御姿を選びなさい。その御名それ自体がマントラです。そのマントラは、つねに清く、つねに効力があり、すべてです。しかし、今日はこの御名、次は別の御名というように、心の気まぐれに合わせて御名と御姿を変えてはなりません。何であれ、最初にあなたに満たされた気持ちを与えてくれた御名と御姿にしっかりとしがみつき、脱線せずにいなさい。そうすれば、その御名と御姿は必ずあなたのハートに根を張るでしょう。それから先は、すべてが神の恩寵によって起こりまぁ
�后��
―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月28日
心(マインド)を波立たせる衝動を変容させることによってのみ、真の至福は得られます。財産の中に至福はありません。あなた方は、お金持ちは幸福であると考えています。私に聞いてごらんなさい。教えてあげましょう。お金持ちは悲嘆に満ちています。そのためたくさんのお金持ちが救いを求めて私の所に来るのです!彼らにはまったく平安がありません。強健な身体があるだけでは平安は得られません。学識も苦行も儀式も平安をもたらしません。常に神の御名に浸ることによってのみ、人生の浮き沈みに影響されることのない揺るぎなき平安が得られるのです。それが人間を英雄とします!あなた方にとってサイババは、姿のない御名だけの存在でした。しかしサイババは今ここに姿を現しました。この姿を常にあなたの心の中に置きなさい。同じように「ラーマ」の御名には御姿があります。ラーマの御名を繰り返し唱える時には、その御姿をイメージしなければなりません。そうすればその御名が具体的になり、御名を繰り返し唱えることがより容易になります。常に御名と御姿と共に生きなさい。そうすれば人生は途切れることのない神への礼拝となります!
―1958年9月2日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月29日
御名と御姿の価値は、それらが心(マナス)に与える訓練にあります。すでに調教された馬を調教することに何の必要がありますか?さまざまな工夫を凝らして「馴らされる」のは調教されていない馬です。同様に、手に負えない心を手なずけるために、私たちに祈りやバジャン(神への讃歌(さんか))、ジャパやスマラナ(憶念)があるのです。初めの段階では、馬はいろいろな方向へと走っていきますが、調教師は心配しません。調教師はしっかりと手綱を握っているようにします。心も同じで、あなたがナーマ スマラナやジャパを始めたばかりの時には、当然、心はいろいろな方向へと走っていきますが、落胆や不安や優柔不断に屈してはなりません。御名という手綱をしっかりと握り締めていなさい! そうすれば、短期間のうちに、あなたの語る言葉と想念はあなたに握られるようになるでしょう。ただ、あなたに主の御名を忘れさせるかもしれないものを、あなたに近づけさえしなければよいのです。あなたはやがて、御名の御利益に気づくでしょう。
―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月30日
暴力的になり、誰かに対して怒りを覚えたら、それを静めるために静かに神の御名を唱えるか、一杯の冷たい水を飲むか、布団を広げて怒りが収まるまで横になりなさい!怒っている時に、あなたは相手をののしり、相手もあなたをののしります。怒りが激しくなると、頭に血が上り、最後には傷つけてしまいます!覚えておきなさい。五分間の怒りが、五世代にわたる交友関係を台無しにするのです。このアスティパッジャラ(骨でできた籠、つまり肉体)は、ハスティナープラ王国です。そこには無知の象徴であるドリタラーシュトラ盲目王や、英知の象徴であるユディシュティラ(ダルマラージャ)王子がいます。シュリ・クリシュナの助けを得て、ユディシュティラ軍を勝たせなさい。世俗の勝利と災難という苦いマルゴサ(ニーム:インドセンダン)の実に慣れた舌に、ナーマスマラナという甘いハチミツを食べさせなさい。しばらく実験してみれば、その効果に驚嘆するでしょう!あなたは、自分の内面に、自分の周囲に、大きな平安と安定が広がっていくことに気付くことができます。この容易な学びを習得し、喜びに浸り、その喜びを他の人とも分かち合いなさい。
―1958年9月2日の御講話 プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年5月31日
若木を植えた瞬間に果実を欲しがってはなりません! 果実の味が味わえるのではないかと思って、若木の葉や枝を折ってかじってはいけません! そんなことをしても、あなたが果実の甘さを味わう助けにはなりません。その上、若木そのものも枯れてしまうでしょう。同様に、あなたの仕事は、ただ神の御名という若木を育てることです。あなたがそれをしている最中に、その若木が持つとされる栄光が実際にあるかどうかを疑ったり調べたりしてはなりません。必ずや、若木は大木に成長し、あなたが食べたいと望んでいる果実をあなたに与えてくれるでしょう。あなたはそれを勝ち取ることができます。御名にはその果実を生じさせる力があるのです。ですから、一意専心(エーカーグラター)の目的は、あなたが御名を変えずに一つの御名に専心するようにさせること、そして、その御名の御姿から目を離さないようにさせることです。「ナーマ スマラナ」(御名の憶念)という網に、破れた穴があってはなりません。つまり、休みなく、いつもそれをしていなければなりません。もし切れ目があったら、その網の上に落ちてきた果実が穴から逃げてしまぁ
�Δ�發靴譴泙擦鵝� あなたの心がしっかりとあなたの管理下に置かれるまで、坐禅(ディヤーナ)をしなさい。これが第一の仕事です。
―『坐禅の源流 ディヤーナ ヴァーヒニー ~修行としての瞑想』第8章