プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月1日
体の外側をきれいにするために石鹸が必要なように、心(マインド)の内面をきれいにするためには、神の御名を繰り返し唱え、瞑想し、思い起こすこと(スマラナ)が必要です。体を丈夫に保つために食べ物と飲み物が必要なように、心(マインド)を強くするためには、神を黙想し、アートマ(真我)を瞑想することが必要です。この食べ物と飲み物がなかったら、心(マインド)はあちこちをふらふらするだけです。波が水面を揺らしている限り、水底は見えません。欲望という波が、心(マインド)という水をかき混ぜているのなら、その底であるアートマを見ることがどうしてできるでしょう?ふらふらするから波が生じるのです。ふらふらするのは食べ物や飲み物が足りないからです。ですから、神を黙想して心(マインド)をきれいにしなさい。アートマを瞑想して心(マインド)を養いなさい。瞑想と霊性修行(サーダナ)だけが、心(マインド)の奥底をきれいにし、強さをもたらすことができます。純粋性と強さがなかったら、アートマは遥か彼方へと後退し、平安は消えてしまいます。
– Dhyana Vahini, Ch 5.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月2日
人々は、新しい年が何か新しい恩恵を授けてくれるかのように、新年を迎えます。人々が経験する善や悪、損や得、名声や悪名は、年が変わったためではありません。それは、その人自身の行動の結果なのです。サームヴァトサラ(年)は、神の御名の一つです。なぜなら神は時間と関連しているからです。神はまた、カーラートマカ(時の精霊)としても知られています。ですから、時の精霊である主が、私たちに善や悪をもたらす可能性があると考えてはなりません。私たちの行動は、良いにしろ悪いにしろ、その性質と一致する実を結びます。新しい知らせをもたらすのに新年まで待つ必要はありません。すべての瞬間が新しいのです。多くの人が、新しい年にはどんな苦労や損失があるのだろうかと心配します。私たちの悩みや困難は、その年のせいではありません。その原因となっているのは私たちの行動だけです。私たちの行動が善良であれば、その結果は良いものとなるでしょう。
ー1997年4月7日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月3日
神はどこか遠いところに住んでいるわけではありません。神はフリダヤヴァーシ(あなたのハートの住人)です。ドラウパディーが「私のハートの中に宿るお方よ」と懇願した瞬間に、クリシュナ神は彼女の呼びかけに応じました。ある時、ナーラダ仙はヴィシュヌ神に、最も早く神を得るためにはどこに向けて懇願すればよいのですかと尋ねました。神は「私の帰依者が私を賛美する歌を歌うところならどこでも、私はそこにいます」と言いました。神は私たちのハートの内に宿っています。そのハートを純粋で神聖に保たれなければなりません。そうすれば、そのハートは喜びで満たされた天国そのものになります。天国と地獄は、どこか別のところにあるのではありません。あなたが幸せであれば、それは天国です。あなたが惨めに感じているなら、それは地獄です。喜びを感じたいのであれば、心(マインド)を神の思いで満たしなさい。神のいるところに至福があります。この神の至福はさまざまに表現されますが、同一のものです。同様に、神は文脈やその果たす役割によってさまざまな御名で呼ばれます。さまざまな御名で崇められているのは、唯一つの至高神です。
ー1991年3月17日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月4日
ラーマは、ハートという蓮の花から信愛という蜜を吸う蜂です。蜂は花の上に座り、その花びらを開きます。しかしラーマは、花の美しさと香りをさらに高めます。ラーマは太陽のようです。その光によって水を自らに引き寄せ、それを雲として蓄積し、大地の渇きを癒すために雨として送り返すのです! ラーマは神秘的で強力な音です。それは臍の中で生まれ、舌へと昇り、そこで喜びの舞を踊ります!「ラ」と「アー」と「マ」の3つの音から成る「ラーマ」の中には、タットワマシ(汝はそれである)というヴェーダの宣言が記されています。「ラ」はタット (それ、ブラフマン、神)の象徴であり、「マ」はトワム(汝、ジーヴィ、個人)の象徴です。そしてこの2つをつないでいる「アー」は、両者が同一であることを象徴しているのです!ラーマという言葉には、数秘術的な意味もあります。「ラ」は2、「アー」は0、「マ」は5と数えるので、ラーマを合計すると7という縁起の良い数字になります。音楽には7音あり、7聖賢がいますし、7日間続けてラーマの御名を唱えると、特に大きな実りがあると考えられています!
ー1968年5月16日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月5日
牛や鳥のような動物は、生まれながらに獲得した性質を変えることができません。例えば、ライオンは残虐な動物として生まれ、残酷な動物として生き、残酷な動物として死にます。ネコはネズミを捕らえ、殺すという性質を持って生まれ、その性質とともに生きます。どんなに努力しても、これらの動物がその悪い性質、残虐な性質を変えることはできません。ネコを変えようとして、椅子の上に座らせ、ミルクやヨーグルトなどの浄性の食べ物を与えても、ネズミが目に入った瞬間、ネコはネズミに飛びかかり、ネズミを殺します。このように、私たちがどんなに努力しても、生まれつき残虐な性質を持っている動物を変えることはできません。しかし、人間はそうではありません。人間は、生まれつき残虐な性質を持っていても、善良な人々と接し、善良な環境の中で、善良な人々とともに暮らすことによって、その性質を変えることができます。このような意味で、母親の胎内から生まれてくる生き物すべての中で、人間として生まれてくることが最も難しいと言われているのです。
ー1977年5月夏期講習
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月6日
ラーマーヤナは、一人の人間がたどった記録としてではなく、神の化身(アヴァター)の降臨と活動の物語として読まれなければなりません。人は、その物語の中で明らかにされている理想を、自らの体験を通して実現しようと決意し、努力しなければなりません。神はすべてを知っており、あらゆるところに浸透し、あらゆる力を持っています。神が人間の姿をしているときに発する言葉や地上にいる間に行おうとする行為を理解することはできません。しかしそれらは極めて重要です。神のメッセージという貴重な泉は、人類が解脱に至る道を容易にします。ラーマをダシャラタ王の息子、アヨーディヤー王国の君主、日種王朝の子孫と見なしてなりません。これらの関係は、補足的であり、本質的ではありません。このように誤ってとらえることが、現代読者の習慣になってしまいました。彼らは、読んだ物語に登場する人々の人間関係やどこに所属しているかにだけ注目し、彼らが表し、示している価値については深く考えていません!
– Ramakatha Rasavahini, Ch 1.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月7日
ラーマはすべての肉体の内在者です。このアートマ・ラーマは、すべての個人の中にある至福の源です。彼の祝福は、その内なる源泉から湧き上がり、平安と至福を授けることができます。彼は、ダルマという人類を愛と一体性でまとめ上げるあらゆる道徳規範を、まさに体現しています。ラーマの物語であるラーマーヤナは、無執着の価値と、すべての存在の中に神がいることを知る必要性、という二つの教訓を教えます。神を信じること、物を追いかけずに超然としていることが、人間が解脱を得る鍵となるのです。感覚の対象物を手放しなさい。そうすれば、あなたはラーマを得ます。シーターは、アヨーディヤ王国での贅沢な暮らしを手放して、「追放」期間中のラーマと一緒にいられるようにしました。彼女が黄金の鹿に憧れの目を向け、それを欲しがった時、彼女はラーマという存在を失ったのです。放棄は喜びにつながり、執着は悲しみをもたらします。この世界にいながら、世俗に染まらぬように生きなさい。
– Ramakatha Rasavahini
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月8日
ラーマの物語における甘露は、ラーマが誕生し、統治した都、アヨーディヤーのそばを静かに流れているサラユ川に似ています。この物語が心という湖から生まれたのと同じように、サラユ川の源はヒマラヤのマーナサローワル湖(心の湖)にあるのです!ラーマという水流には慈愛の甘さがあり、ラクシュマナ(ラーマの弟であり献身的な仲間)という水流には献身の甘さがあります。サラユ川がガンジス川に合流して、その水が混ざり合うように、ラーマーヤナでは優しい慈悲と献身という水流、すなわちラーマとラクシュマナの物語が混ざり合っています。それらの間にある慈愛(カルナ)と愛(プレーマ)が構成されて、ラーマの栄光の絵を作り上げるのです!その絵は、すべてのインド人のハートにある最も大切な熱望を満たします。それを達成することがすべての霊的努力の目的なのです!個人の努力はその探求の半分でしかありません。残りの半分は神の恩寵です。人は、自己努力と神の恵みによって、自分自身を成就させるのです。その成就は、二元性という暗黒の海を越えて、内在する超越者のもとへと彼らを連れて行きます!
– Ramakatha Rasavahini, Ch 1.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月9日
かつて、人々を信服させる力のある解放者として、ラーマ自身がラーマという御名を暗に示したことがありました。ラーマがシーターとラクシュマナと共に森を通過していた時、ラーマのことを神と認識した出家者たちが周囲に集まって来て、イニシエーション儀式を行って何かマントラを授けてくださいとラーマに祈りました。ラーマは「自分は国外追放中の王子であり、おこがましくも出家者たちにイニシエーションを授ける権限などありません」と答え、ジャングルの道を進んでいきました。ラーマが急いで歩き、シーターがすぐ後ろに、ラクシュマナがその後に続いているのを見て、年老いた出家者が叫びました。「友よ!見よ!ラーマは私たちにイニシエーションを授けてくださっている!私たちにマントラを授けてくださっている!神が先頭を歩き、大自然(常に神に寄り添う伴侶:プラクリティ)が続き、その後ろに、主の一部であり、大海の波の一つであるジーヴィ(個人)がいる。人を惑わす大自然と上手くやっていくか、あるいはそれをすり抜けるかして初めて、人は主を見ることができるのである。これはまさに、サーダナにおける無言のレッスンである!『ラ』は神、『�
�マ』はその後塵を拝す個人、『アー』はプラクリティ(大自然)である。『ラーマ・ラーマ』は、畏れ多くも神が授けてくださっているマントラよ。それを受け取り、自らを救え」
ー1968年5月17日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月10日
『ラーマーヤナ』は、母と子、夫と妻、兄弟、支配者と民衆、主人と使用人など、さまざまな人間関係の理想を示すガイドブックです。ラーマは、ラーヴァナがシーターをランカに連れ去った時に戦い瀕死となった鷲、ジャターユに慈悲を示しました。そして、ラクシュマナが危惧を表明したにもかかわらず、(ラーヴァナの弟であるがラーマを崇敬していた)ヴィビシャーナに庇護を与えました。
これらは、ラーマを敬い、その守護を求める者であれば誰に対しても、ラーマが最高の博愛と寛容を示した例です。ラーマはラクシュマナに「全託の精神で私のもとに来る者は、誰であろうと私のものであり、私はその人のものである。私は彼に庇護を与えるだろう。これは私の誓いである」と宣言しました。ラーマは一つの言葉に誓い、一人の妻に誓い、一本の矢に誓った男でした。アートマの至福を得るために、帰依者は己のハートの中にラーマを据え、ラーマナヴァミー祭を祝わなければなりません。叙事詩ラーマーヤナを読みながら、「アートマ・ラーマ」(普遍的魂と一つになること)の境地に到達しなければなりません。そのような境地に、アハムカーラ(エゴの感覚)はありません!
ー1987年4月7日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月11日
同一の神が与え、受け取るのです!神は、自分が望む時に、望むとおりのものを与え、受け取ります。すべては神のものです。ですから、神のものが神によって戻される時に嘆くのは、なんと愚かなことでしょう!ですから、賢明な人は、誰かを慕ったり、何かに過度な執着を感じたりはしません。すべての恋慕とすべての執着を神に向けなさい。神だけが永遠であり、すべての喜びの源です。それ以外は、物を物として愛し、それ以上には愛さないようにしなさい。人を人として愛し、それ以上には愛さないようにしなさい。もし、それ以上愛するなら、それはあなたが彼らの本性に惑わされているしるしです!借家が自分のものであるかのように振る舞うことができるのは、ほんの短い間だけです!期限が過ぎればすぐに、その家は別の入居者に引き渡されます!このように考えると、配偶者、子供、財産、親族が自分のものであるのは短い期間だけのことであり、長きに渡るわけではないとわかるでしょう。そうであるのなら、なぜこれらの非永続的な物事を心配しながら時間を浪費するのですか?
– Dhyana Vahini, Ch 6.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月12日
人はこれまで何度も生まれ、愛し、愛に浸り、他の人に愛着を持ちながら生きてきました。しかし今、そのすべての痕跡を残している人はいるのでしょうか?皆の行方を知っている人はいるのでしょうか?当時愛した人のことを心配する人はいるのでしょうか?少なくとも時々は思い出すという人はいるのでしょうか?いいえ、いません。当時も今と同じような愛情と愛着がありましたが、時が経つにつれてそれらは忘れられてしまいます。同様に、この世を去る時には、その人が持っていた他人への愛や、その愛を通して得た喜びや苦しみ、幸せも忘れ去られてしまうのです。子供の遊び場のように、人間の行動感覚も、ここからあそこへ、あそこからどこか別の場所へと変化します!変化する不安定な愛に心を奪われ、永続する神の至福をもたらすであろう霊性修行を忘れてしまうとは、なんという悲劇でしょう!
– Dhyana Vahini, Ch 6.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月13日
最高神が人々の周りに神に奉仕するための真新しい道具を置き、さまざまな形式で行われる神への礼拝を受け取ります。人々は幸せになり、さらに新しい機会を与えてくださいと祈り、その手にチャンスが与えられると大喜びします。この姿勢が計り知れない喜びをもたらすのです。このような喜びに満ちた人生を送ることは、まさに至福です。日の出から日没までの間に行われることは、それが何であろうとも、まるで神への礼拝であるかのように、捧げられなければなりません。細心の注意を払いながら、新鮮な花だけを摘み取り、それらを色褪せないようにきれいに保つのと同様に、純粋で汚れなき行為をするためには、絶えず努力しなくてはなりません。毎日、心の目の前にこのようなビジョンを据え、それに従って人生を送るのであれば、それは長く完全な神への奉仕となります。「私」と「あなた」という感覚はすぐに消え失せ、「自分」という痕跡はすべて破壊されるでしょう。その時、人生そのものが、神への真の祈り(ハリパーラーヤナ)へと変わります。
– Prema Vahini, Ch 8.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月14日
愛の化身である皆さん!皆さんは毎年、新しい年の初日を祝っています。しかし、新しい神聖な特質を培っていますか?いいえ、皆さんは悪い資質を手放すことができていません。新年を迎えるごとに、新しく高潔な資質が培われなければなりません。欲望をコントロールする必要があります。欲望が減れば減るほど、あなたの不幸も減るのです。過度の欲望は、意志の力(イッチャー・シャクティ)をダメにすることにつながります。意志の力の衰えは、行動の力(クリヤー・シャクティ)の喪失につながります。イッチャー・シャクティ、クリヤー・シャクティ、グニャーナ・シャクティ(英知の力)の統合を進めなさい。欲望が減った時に初めて、意志の力が増します。幸福が人間から遠ざかっているのは、無限の欲望のせいです。過剰な欲望は健康を損ない、心に憂鬱をもたらします。欲望を減らすということは、心の負担を減らすということです。荷物を減らし、快適になれば、旅行は楽しくなります。人生は長い旅です。重い荷物を抱えているなら、どうして旅を楽しめるでしょう?荷物を減らして、旅を続けなさい。
ー1999年4月14日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月15日
二十年、三十年と神の御名を唱え続けているにもかかわらず、何の御利益も得られないと言う人がいます。もし、心が不純なもので満たされていたら、神の御名を唱えても何の益ももたらされません。まず、自分の心を浄化し、肯定的な気持ちで満たしなさい。そうして初めて、神の御名を唱えることの恩恵を体験することができるのです。少なくとも今日から、高潔な気持ちを育みなさい。甘く優しく話しなさい。常に相手の願いを叶えることはできませんが、常に思いやりをもって話すことはできます。愛の化身である皆さん!正月には、甘いもの、酸っぱいもの、苦いものを混ぜて食べる習慣があります。これは、喜びと悲しみに対して平静に対処しなければならないことを意味します。美味を味わうのは舌であり、愛を味わうのはハートです。愛の味は天下一品です。それは甘露よりも甘いのです。愛に匹敵するのは愛だけです。神は愛、愛は神、愛の中で生きなさい。どんなバジャンを歌おうとも、愛を込めて歌いなさい。神はバーヴァプリヤ(心情を愛でるお方)です。神が見ているのは、リズムや調子ではなく、あなたの気持ちです。あなたの気持ちが純粋であれば、神はあらゆる�
�面倒を見てくれるでしょう!
ー1999年4月14日の御講話
訳注:南インドのアーンドラ・プラデーシュ州、テランガーナ州、カルナータカ州では3月後半から4月上旬の新月の日を元旦(ウガーディ)として祝い、酸味(タマリンド)・甘味(椰子糖または黒糖)・塩味(塩)・辛味(青唐辛子)・渋味(青マンゴー)の五味を合わせた副菜ウガディ・パチャディを食べる。ケーララ州では毎年4月15日を元旦(ヴィシュ祭)として、タミル・ナードゥ州では毎年4月14日をタミル正月として祝い、甘い椰子糖、渋いターメリック(または粉辛子)、酸っぱい青マンゴー、苦いニームの葉、辛い赤唐辛子の五味を合わせた副菜マンガイ・パチャディを食べる。
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月16日
他の人の中に見いだす欠点は、自分自身の欠点の反映です。他人の間違いを見つける人は、自分自身の間違いに気づきません。マンゴーを食べていないのなら、どうしてマンゴーのゲップが出るのですか?あなたが出すゲップは、あなたが食べた物によって決まります。あなたが見たり経験したりする良いことも悪いことも、あなた自身の思考の結果です!まず、自分自身の欠点を認識し、それを取り除きなさい。他人を批判するのは大きな罪です。すべての人の中に神がいます。ですから、他人を批判することは、神自身を批判することに等しいのです。誰をも批判したり、嘲笑したりしてはいけません。すべての人を尊敬しなさい。そうしてこそ、あなたも尊敬されるのです!自分が相手を尊敬していないのに、相手が自分を尊重してくれると期待するのは愚かなことです。もしあなたの気持ちが善良であれば、あなたはすべての人の中に善良さだけを見るでしょう。心は、あらゆる物事の根本原因です。人間は心なしには生きていけません。懐中電灯は電池がなければ機能しません。身体は懐中電灯、目は電球、知性はスイッチのようなものです。しかし、電池にあたる心がなかったら、身�
�体は機能できません。ですから心を良い状態に保つ必要があるのです!
ー1999年4月14日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月17日
利己主義のかけらもなく、どんな状況下にあっても常にあなたを助けてくれる真の友人は、神だけです。あなたが森にいても、空にいても、街や村にいても、丘の上にいても、川の中にいても、神はいつもあなたと一緒に、あなたの中に、あなたの周りにいます。世間一般の友人は、あなたにお金と権力がある時にだけ、あなたにハローと挨拶をします。あなたが金と権力の両方を失うと、ハロー(挨拶)はホーロウ(空虚なもの)となります。池に水がある限りは何千匹ものカエルがそこに集まってきます。ひとたび池が干上がれば、池の周囲には一匹のカエルさえも見あたらなくなくなります。世俗の友人の場合も同様です。しかし、神の友情はそのようなものではありません。神はどんな境地にあっても、どんな状況にいたとしても、あなたと一緒にいます。心の底から神を愛しなさい。神の庇護を求めなさい。神は必ずあなたを守ってくれるでしょう。完全に神に全託したプラフラーダを救うために、神が来たのではありませんでしたか?ヤッド・バーヴァム・タッド・バヴァニ(結果は、思いのとおりになる)。もしあなたが完全に神を信じれば、神はあなたを助けに来てくれるでしょ�
�う。
ー1999年4月14日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月18日
この世界に、堅忍よりも高度な苦行はありません。満足よりも大きな幸福はありません。慈悲よりも神聖な功徳はありません。忍耐よりも効果的な武器はありません。
帰依者は、肉体が畑であり、善行が種子であると見なして、神自身という収穫を得るために、ハートという農夫の助けを得て、神の御名を耕さなければなりません。耕すことなしに、どうやって作物を得ることができるのですか?ミルクの中にクリームがあり、燃料の中に火があるように、神はすべてのものの中にあります。このことを完全に信じなさい。クリームの品質はミルク次第です。火の質は燃料次第です。ですから、神を直接体験できるかどうかは霊性修行次第なのです!神の御名に取り組んだ結果、たとえ解脱に到達することが直接実現できなかったとしても、その体験を得た人々には、(1)偉大な魂の持ち主との交流、(2)真理、(3)満足、(4)感覚の制御、という四つの成果が間違いなく確実にもたらされるでしょう。これらのうち、どの門を通っても、世帯主であろうと、隠遁者であろうと、その他の階級に属していようとも、必ずや神のもとにたどり着くことができます。
– Prema Vahini, Ch 60.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月19日
身体と自分を同一視するのをやめたときに初めて、あなたは他の人に奉仕したいという真の促しとひらめきを得ます。強烈な胃痛に苦しんでいる人は、目から涙を流します。なぜでしょう?なぜなら、目や胃などのさまざまな器官はすべて、同じ体の一部であるからです。ですから、ある人が苦しんでいるとき、あなたの目は涙を流し、その苦しみを軽減してあげたいという思いに促されるはずです!もしあなたが、自分とその人は同じ神という体の手足であることを理解していれば、このようなことが起こるのです。真理に無知であるがために、ベダ・バーヴァ(違うという思い)が生じます。人は怒ると歯を食いしばりますが、舌は自分のものなので、自分の舌を噛まないように気をつけています!もし偶然に舌を噛んでしまったとしても、歯は自分のものなので、自分の歯を殴ったりはしません!ですから、病人、貧しい人、苦しんでいる人、無教養な人、不道徳な人なども、すべて同じ体の手足であり、私たちもその一部なのです!すべてのものを動かしているのは、同じ電流です。このことを悟り、その一体性へと合流することが、人生の目的なのです!
ー1965年9月26日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月20日
多くの人は、高齢になるまで霊性修行を先送りします。これは誤りです。若く生き生きとしている間に、貴重な褒美をもらいなさい。始めるのに早すぎるということは決してありません。悪を避けるため、舌、目、耳、手、心はすべて幼少期から訓練されるべきです。これらが清く神聖に保たれていれば、神の恩寵が得られます。肉体の衝動があなたを虚偽の世界に陥れようとするときには、それに屈することなく、やり過ごしなさい。個人が強く安定していれば、家は繁栄し、家が繁栄すれば、村は幸福になり、村が幸福になれば、国は安全で強くなり、国々が安全で強くなれば、世界は謙虚さと崇敬と慈善と平和に満たされます。神の栄光を声高らかに歌い、神への礼拝で大気を満たせば、雲がその神聖さを雨として田畑に注ぎ、それを吸い込んだ農作物が食物を聖化し、この食物が人間の中にある神聖な衝動を誘発します。これが進歩の連鎖です。
ー1968年7月8日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月21日
広い心を培い、狭量な心を捨てなさい。たとえ他人から迷惑をかけられたり、問題を起こされたりしても、自分にとっては良いことにしかならないと思って我慢しなさい。五大元素から成る肉体は、いつかは必ず衰え、滅びます。肉体の内在者は永遠で、生まれず、死なず、いかなる束縛にも縛られません!実は、この内在者こそが神そのものなのです!食べ物を懇願するとき、物乞いは「バヴァティ・ビクシャーム・デーヒ(施しをいただけませんか?)」と言います!本当は、彼はあなたにではなく「デーヒ」、つまり内在者に施しを求めているのです。彼は、あなたの中にいる神に対して施しを求めて祈っているのだという真理を認識しなさい。彼があなたに物乞いをしていると考えるのであれば、それはあなたの無知です。それは傲慢に他なりません。王子であるか貧乏人であるかにかかわらず、すべての人の中に神は宿っています。あなたは、すべての人の中にあるこの神性原理を崇拝し、愛します。しかし愛は無私でなければなりません。肉体への執着がない愛は、誰に対しても平等に流れるのです!肉体意識は狭量な心へと導きます。
ー2001年11月23日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月22日
私は、あなた方のハートに愛の光を灯し、その光の輝きが日ごとに増していくのを見届けるために来ました。私は、ヒンドゥー教のダルマといったような、特定のダルマを話すために来たのではありません。私はいかなる宗派、信条、主義を広める目的のために来たのでもなければ、いかなる教義の信奉者を集めに来たのでもありません。私は、信奉者や帰依者を自分の信者として引きつけようとはまったく思いません。私は、普遍的な唯一の信仰、アートマの原理、愛の道、愛のダルマ、愛の義務、愛の責務を、あなた方に教えるためにやって来たのです。どの人のハートもただ一つの神によって突き動かされているということを信じなさい。どの教義もただ一つの神の栄光を称えているということを信じなさい。どの言語のどの御名も、人が想い描くことのできるどの御姿も、ただ一つの神を指し示しているということを信じなさい。そして、ただ一つの神を礼拝する最高の方法は愛であるということを信じなさい。このエーカ バーヴァ(一つであるという姿勢)を、すべての宗派の人々、すべての国の人々、すべての大陸の人々の間に育みなさい。これが、私が携えてきた愛のメッァ
�察璽犬任后�海譴�△△覆進��蓮璽箸房茲蠧�譴襪海箸鮖笋�召爛瓮奪察璽犬任后��
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ー1968年7月4日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月23日
今、このカリユガで反論と論争の風潮が信仰と礼拝を蝕んでいる中で私に対面するという幸運は、多くの人生を経て勝ち取った功徳の賜物であると感謝しなければならないものです。これは並大抵の幸運ではありません。この化身は、あなたを慰め、励まし、癒すために、あなたに、そして、あなたの務めや悲しみに寄り添います。この関係は稀有のものです。ゴールに到達するまで、この関係が崩れないよう保たなければなりません。私には、人々を私の他の名前と姿への崇拝から離して私の方へ引き寄せようという望みはありません。皆さんは、私が人々を、私に、私だけに引き付けるため、執心させるために、皆さんが奇跡と呼んでいるものを私が行っているのだと憶測しているかもしれません。それらには宣伝や広告の意図などありません。それらはただ自然に起こるものであり、神の威光に付随する印にすぎません。これまでも、これから先もずっと、私は皆さんのものであり、皆さんは私のものです。魅了し、感銘を与えるには何が必要でしょうか、あなたの愛や私の慈悲を表現するためには何が必要でしょうか? 私はあなたの中にいます。あなたは私の中にいます。そこに機
��イ箒菠未呂△蠅泙擦鵝��
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�ー1968年11月23日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月24日
あなた方はすべて私の手足であり、私によって養われています。あなた方がサイの体を構成しているのです。美徳、信仰、規律、謙虚さなど、サイが甘美で望ましいと見なすものをサイに与えるのなら、どこにいようとも、どんな機能を果たしていようとも、サイはあなた方に栄養を送ります。自分がサイの体の一部であることを喜びなさい。自分は足であるから硬い地面を踏まなければならないと、不平不満を言ってはいけません。自分は頭であるから他よりも上だと自慢してはいけません。どちらにも同じ血流が、プレーマ(愛)の流れが循環しているのです。それぞれの機能は、他の機能と同じくらい重要です。それぞれの機能は唯一無二でもあります。覚えておきなさい。失望に入り込む余地を与えてはなりません。あなたの役割は、あなたにしかできない特別なものです。頭で歩くことはできないし、足で考えることもできません。どんな立場にいようとも、己の徳によって恩寵を勝ち取りなさい。それが主要な徳分なのです。
ー1967年3月29日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月25日
行いが悪かったり、考えが悪かったり、間違った考えを説いたりする人に、神の使いを名乗る資格はありません。そのような人は、悪魔の代人と呼ばれるだけです。今日から、あなたは「神の使い」として、神が象徴する清らかさと真実と愛を世界に示さなければなりません。あなたが清らかで道徳的な生活を送るとき、あなたは自分を「神の子」と見なす権利を得ます。神は愛の権化なのですから、あなたは神が象徴する愛に反することをすべきではありません。あなたは「神の子」にふさわしい資質を伸ばすべきです。聖書には、イエスが弟子たちの足を洗ったことが記されています。弟子たちがその理由を尋ねると、イエスは「私はあなた方のしもべとして、あなた方の足を洗っているのです。こうすれば、あなた方は世の人々に仕えることを学べるからです」と答えました。そもそも、人は神の使いなのです。使いとしての使命を果たすと、人は自分が神の子であることを悟り、それから、神との一体感を得ます。
ー1984年12月25日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月26日
あなたが養わなければならない最初の資質は、神への感謝の気持ちです。人々は自分のためになされた小さな奉仕の行為にさえ感謝します。であれば、自然と五大元素を通して多くの必要不可欠な恩恵を与えてくれた神に感謝する必要があるのではありませんか? あなたが吸う空気、飲む水、歩く大地はすべて、神からの贈り物です。世界中の電球を全部合わせても比べものにならないほどの光を与えてくれる太陽に、あなたはどのくらい感謝していますか? 世界中の井戸の水を全部合わせても、一度の雨で得られるのと同じくらいの水が得られるでしょうか? 世界中の扇風機を全部合わせても、風が吹いたときと同じくらいの風を与えることができるでしょうか?こうした神の贈り物に感謝することもなく、人間は取るに足らないものを追い求め、人生を無駄にしています。さまざまな方法で神を崇めた昔の大聖仙たちは、信愛を神への感謝を表現する一つの手段と見なしていました。
ー1989年1月14日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月27日
己の心から妬みが根絶されたときに初めて、人間は自分自身に満足するようになります。満ち足りている人は平安を享受します。妬みはどのようにして生じるのでしょうか?自分よりも裕福な人、高い地位にいる人、高得点を獲得した人、美形な人と自分を比較して、自分の方が劣っているという意識に苛まれるとき、妬みが生じます。自分に欠けているものに対する不満が、妬みを生み出すのです。この悪しき性質を取り除くためには、自分よりも悪い状況下にある人々に目を向けなければなりません。たとえば、自分より得点が低かった人に目を向ければ、自分は他の人よりもよくできたではないかと安堵します。同じように、自分よりも低い地位で働いている人々の状況を見れば、自分の地位に満足します。このように、妬みをなくすためには、自分よりも悪い状況にある人々と自分を比較する必要があります。そのようにしていくうちに、より恵まれている人々に対しても、より恵まれていない人々に対しても、平等な心が育まれていきます。このような平等心が神の特質です
ー1989年1月19日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月28日
純粋な行動を通して、心もまた浄化されます。しかし、単に心が純粋であるだけでは十分ではありません。心は集中力を養わなければなりません。集中力を養うためには、帰依心が有効です。バクティとは、バガヴァンから離れないことを意味します。神は遍在であり、神と自分を切り離すことはできない、という悟りがなければなりません。遍在する神を思い起こし、神の栄光を唱え、神を崇敬するためには舌(言葉の力)が必要です。ジャヤデーヴァは、神を讃えるために神から与えられた道具として、舌を賞賛しています。この神聖な道具を、他の人の悪口を言ったり、不愉快にしたりするために誤用してはなりません。ギータの中で命じられているように、不快な言葉を避け、真実で、心地よく、善良な言葉だけを使いなさい。辛辣な言葉遣いは避けなくてはなりません。このようにして使われたときにのみ、舌は純粋で神聖なものとなり得るのです。あなたの話す言葉が神聖になれば、あなたの人生そのものが神聖になります!
ー1989年1月19日の御講話
ジャヤデーヴァ:12世紀インドの詩人。クリシュナとラーダーを描いた12編の詩「ギータ・ゴーヴィンダ」(ゴーヴィンダの歌)の作者。
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月29日
真の信愛を育てるための五つの必要条件があります。最初の条件は「献身」(すべてを神にげること)です。エゴイズム(アハンカーラ、自我意識)は、献身の精神を養う上での障害となります。それは、さまざまな形式の慢心、たとえば、肉体的力への慢心、知性への慢心、富から来る傲慢さといったものに表れます。しかし、これらはすべて永続きせず、いつ消えてなくなるかわからないため、身体や心(マインド)や財産を己の自負心の根拠とするのは賢明ではありません。それゆえ、エゴイズムを神への最初の捧げ物として放棄すべきなのです。次に、信愛を、人が神の摂理によって受け取る一切のもの、たとえば、呼吸する空気、太陽から得る光と熱、飲む水、摂取する食物などに対する、「感謝」の表現と見なさなければなりません。生きていくのに欠かせない必需品のすべては神の恵みによって得られます。信愛によって感謝を表すことは第一の義務です。バジャンやジャパ(唱名)や瞑想や祈りといった方法を通じてなされるすべてのことは、感謝の気持ちで行われなければなりません!
ー1989年2月17日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年4月30日
三つ目の条件は「規律」です。人生におけるほとんどすべての行為において、容認された限度と規定を守らなくてはなりません。これは霊的分野においても同様に適用されます。皆さんは、服装に関する事柄、マンディールの外での振る舞い、マンディールでバジャンが行われているときの振る舞い、それから、話すことや食べ物に関する規律を守らなくてはなりません。皆さんの行動はすべて、神聖さと純粋さに満ちているべきです。四番目は「識別力」です。識別力は、あなたが見るもの、聞くこと、話すこと、食べるものにおいて、日常生活のあらゆる面で役立てなくてはなりません。見知らぬ場所で何でもかんでも食べることは避けなさい。最後は「決意」です。固い決意がなければ、人生において何一つ偉大なことは達成できません。決意は、皆さんがあらゆる困難や障害に直面したときそれを克服できるように、霊性分野においてますます必要なものとなっています。皆さんは、自分が善と見なすもの、神聖なものと見なすもの、真理と認識するものを、固守しなければなりません。それが真の苦行です。
ー1989年2月17日の御講話