プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月1日
シヴァラートリは、全人類に心(マインド)の制御という目標を思い起こさせます。聖賢によれば、月は心(マインド)を司る神です。現代科学も、心の変化と月の満ち欠けが精妙に関連していることを発見しています。月が欠けていく二週間には、月は日毎に小さく見えるようになります。これは象徴的に、心(マインド)も小さくなりつつあることを暗示しています。満月から十四目のこの日、地球や人間の心(マインド)に影響を及ぼす月はほとんど見えなくなります。このラートリ(夜)または無知の期間に、熱心に行われる徹夜の祈り、バジャン(グループでの詠唱)、断食などの霊性修行は、心(マインド)の消滅をもたらし、それによって人間に絡みついていた傾向や態度をすべて征服します。こうしてこのラートリ(夜)は、シヴァ神の天の輝きへと昇華されるのです。
ー1977年2月16日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月2日
努力しなさい-それがあなたの義務です。切望しなさい-それがあなたの役割です。奮闘しなさい-それがあなたの任務です。あなたがこれらのことを誠実に着実に実行しさえすれば、悟りという報酬を、神が長く待たせることはあり得ません。川は、元来た海と合流するために努力し、切望し、奮闘します。それを成就することが常に意識の中にあるのです。その源に歓迎してもらえるように、川は自らを純粋で清らかな存在にしようとします。その目的地に向かう旅を成功させるために、川はあらゆる地形の障害を乗り越えます。人間もまた、悟りという最終目的地に向かう旅をするために、神から与えられた肉体的、精神的、道徳的、知的才能や物質的恩恵をすべて活用しなければなりません。現世と来世、この世とあの世といった二つの世界の存在に惑わされてはなりません。この世であの世を実現しなさい。現世は来世に織り込まれています。世俗と霊性、神性と物質、天界と地上-これらの間に格差を見ているのなら、そこに真実はありません。
ー1977年2月16日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月3日
瞑想という目的が達成されるまでは、規律として確立された座る姿勢(アーサナ)を守らなければなりません。それまでは課程を忠実に実行する必要があります。目的を達成した後、つまり心(マナス)と知性(ブッディ)を克服し、制御できるようになった後は、ベッドの上、椅子の上、岩の上、荷車の上など、どこにいても瞑想に没頭できるようになります。オートバイの乗り方を習得すれば、どんな道でも、どんな状況でも走れるようになります。しかし、バイクの乗り方を学んでいる最中は、自分自身と周囲にいる人々の安全のために、広い場所を選ぶ必要があります。それから、一定のバランス原理に従わなけばなりません。これは必須です。同じように、瞑想(サーダナ)をする人は、一定の訓練課程に従わなければなりません。これは変えようがないことなのです。
– Dhyana Vahini, Ch 2.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月4日
「ソーハム」(我は神なり)は、私は彼)は、個人と神が同一であることを宣言しています。人が物質世界の触手に捕らわれている限り、この同一性が理解されることはないでしょう。これが神についての真理です。もし「その神はどこにいるのか」と尋ねる場合、その答えは『バガヴァッド・ギーター』18章61節で得られます。そこでクリシュナは「イーシュワラ・サルヴァブーターナーム・フリデーシェー」(神は生きとし生けるものすべてのハートの領域に宿っている)と宣言しています。私たちはギーターを学びます。私たちはギーターを崇拝しています。毎日ギーターの読誦が行われていますが、日常生活では実践されていません。神と自分は一つであると悟る人は、誰一人として傷つけないでしょう。一般の人々に奉仕することが、本当の神への礼拝です。神の力はすべてにあまねく浸透しています。私たちの旅は、個から普遍へ、「スワム」(私のもの)から「ソーハム」(神と一つ)へ、「私」から「私たち」へと向かうのです。
ー1983年2月11日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月5日
何事も言葉で説明するのは難しいものです。ともすれば、退屈させてしまうかもしれません。しかし、行動で示せば、より簡単で、より楽しくなります!瞑想について語るよりも、瞑想を行なって人々に理解させる方がよいのです!私が瞑想について書き、あなた方がそれを読んでも、そう簡単にはいきません。瞑想を通じて、人々は己の中にあるアートマ(真我)を悟る神聖体験に到達します。瞑想を通じて、霊性志願者はいくつも重なっている無知という鞘を少しずつ脱ぎ捨てることができるのです。彼らは、己の知覚感覚を世俗的な外界体験と接触することから引き離します。この神聖な成就を目指すプロセスが、瞑想と呼ばれるにふさわしいのです。このプロセスのために、人は良い習慣と規律と高い理想を身につけなければなりません。世俗的な物事とその魅力に対する離欲に満ちていなければなりません。どんな状況であっても、人は熱意と喜びをもって行動すべきです。何を行おうとも、それは生計を立てるためではなく、アートマの至福(アートマ・アーナンダ)を得るために捧げられなければなりません。
– Dhyana Vahini, Ch 2
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月6日
平安は最高の宝物であり、それがなくしては権力も権威も名声も富もすべて無味乾燥な重荷です。ティヤーガラージャは、内なる平安なくして幸福はあり得ないと歌っています。この平安を獲得し、それを揺るぎなく確立するためには、アビヤーサ(着実な修行)とヴァイラーギャ(完全なる無執着)を身につけなければなりません。人は生まれてから死ぬまで、習慣と慣例の奴隷です。それらを吟味し、客観的な喜びではなく主観的な喜びへと導くものにもっともっと頼らなければなりません。主観的な喜びは、家庭内の調和や家族や地域社会のメンバーとの相互協力、他者への奉仕活動や自分が生きている社会の福祉と繁栄に関与することによって得られます。
ー1975年4月20日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月7日
いつも気持ちよくいられるように心(マインド)を訓練することは、大いに必要です。川の水は、山から湧き出し、谷に落ち、渓谷を流れ、さまざまな段階で支流と合流します。そして濁り、汚れます。人生という洪水の中でも同様に、スピードやパワーが増えたり減ったりします。このような浮き沈みは、人生においていつでも起こり得ます。誰もそれらから逃れることはできません。それらが来るのは、人生の始めかもしれないし、最期かもしれません。おそらくは人生の中頃に来るのかもしれません。ですから、人生には必ず浮き沈みがあるのだと自分にしっかり言い聞かせて、それらを過剰に心配したり恐れたりせずに、己の経験の足しになるのだと歓迎すべきなのです。そう思うだけでなく、どんなことが起こっても、それを喜び、幸せであるべきです!そうすれば、どのような性質のトラブルがあろうとも、すべては軽く済み、早く過ぎ去るでしょう。そのためには、心の平静が必要不可欠です。
– Dhyana Vahini, Ch 3.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月8日
愛の化身である皆さん!この果てしない宇宙において、多種多様な生物の中で、優れているのは人間です。人類の中で、女性として生まれることは特権です。女性の卓越性を証明するたくさんの例があります。ラーマはカウサリヤー妃の胎内から神の化身として生まれたのではありませんか?クシャとラヴァという双子〔ラーマの息子〕が偉大になったのは、シーター妃のもとに生まれたからではありませんか?シヴァージーが偉大になったのは、母親のジージャバーイーの愛情深く世話をしたからではありませんか?ガンディーをマハートマ(偉大な魂)にしたのは、母親のプタリーバーイーの信仰心だったのではありませんか?偉大な聖賢、聖者、英雄、武将たちはすべて「彼らを偉大にした」女性のもとに生まれました。女性は自然の女神です。女性として生まれることが崇高で、魅力的で、賞賛すべきであるのは明白です。ヴェーダ聖典もまた、さまざまな表現で女性原理に敬意を表しています。
ー1995年11月19日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月9日
息をするたびにソーハム(私は神である)を繰り返しなさい。息を吸うときに「ソー」、吐くときに「ハム」です。「ソー」は「神」、「ハム」は「私」を意味します。吸って吐くを終えるときに、「ソー」(神)と「ハム」(私)は一つであると感じなさい。それから、長い実践を経て、神と私が二つの別々の存在であるという考えは消え、「ソー」と「ハム」はもはや存在しなくなるでしょう。それらの音は「オー」と「ム」に集約されて「オーム」(原初音)となります。あとは、呼吸するたびにその音を繰り返しなさい。それは生死の束縛からあなたを救い出すでしょう。これがヴェーダで推奨されているプラナヴォーパーサナ(プラナヴァ瞑想)です。このソーハム暗唱は、あなたを駆り立てている心(マインド)を抑制する良い手段です。心を常に神と結合させましょう。そうすれば、心が気まぐれに四方八方に逃げ出すことはなくなるでしょう。それが「サルヴァダルマーンパリティヤジャ・マーメーカム・シャラナム・ヴラジャSarvadharman parityajya mam ekam sharanam vraja 一切の義務(ダルマ)を放棄して、ただ私のみに庇護を求めよ*」とクリシュナが薦めた意�
�味なのです。心を完全に神の奉仕のもとに置きなさい。そうすれば、神があなたを転落から救うでしょう!
ー1965年5月22日の御講話
*バガヴァッド・ギーター第18章66節(上村勝彦訳、岩波文庫)から引用
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月10日
ある対象に意図的に注意を向け、そこに固定するとき、そこには一点集中(エーカグラタ)があります。これは、心(マインド)の状態でもあります。集中力と一点集中は、選択した課題に努力を集中させるのに役立ちます。すべての人に集中力は不可欠です。それは努力を成功させる基盤です。それは、瞑想だけでなく、世俗的な事柄や普通の生活にも必要です。どのような仕事に携わろうとも、集中してそれを行うことで、自信と自尊心の両方が育まれるでしょう。なぜなら、それらはその人の心(マインド)のありようの結果であるからです。心(マインド)は善にも悪にも傾く可能性があります。そのため、良い促しのみに心(マインド)が関わるよう注意を集中させなければなりません。良い仕事が成功するか否かは、一点集中にかかっています。一点集中が力と技量を高めるでしょう。しかし、心(マインド)を乱す世俗的な欲望に打ち勝たなければ、一点集中を勝ち取ることはできません。この一点集中、この心(マインド)の征服は、瞑想の訓練によって得られます。
– Dhyana Vahini, Ch 3.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月11日
先程、大臣が皆さんにギーターの講話に出席するようにと述べました。しかし皆さんが会場の柱に寄りかかって居眠りするのなら、意味がありません。大切なのは音ではなく、意味です。耳ではなく、ハートでギーターに聞き入らなければなりません。大臣は皆さんに、サットサンガム(善良な仲間)を求め、楽しんで欲しいと言いました。皆さんはサンガム(仲間)と共に、自分がどれだけ感覚から逃れ、神に近づくことに成功したかを自己検証しなければなりません。マナ エーヴァ マヌッシャーナーム カーラナム バンダ モークシャヨー (Mana eva manushyanam karanam bandha mokshayoh)、心(マインド)は人を束縛する原因であり、解脱させる原因でもあります。ですから心を鍛錬して勝利しなさい。それは野生の象であり、ソーハムという鞭で従わせることができます。うぬぼれ、憎しみ、妬み、貪欲という餌を与えてはなりません。常に主の御名を耳の中に響かせれば、心(マインド)は飼い慣らされるでしょう。
ー1965年5月22日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月12日
現代人は幸せに暮らしたいと思っていますが、理想的な生活を送ってはいません。例えば、親たちは子供たちに良い手本を示していません。今の時代は、父親が子どもをきちんと指導せず、子どもは母親の言葉に耳を傾けません。現代の父親の大半は、ドリタラーシュトラのように振る舞っています。敬虔な生活を送っている善良な子供がいても、父親たちは「気でも狂ったのか?バジャンや社会奉仕には参加するな!」と叱責するのです。このような振る舞いをする親は、息子がハリ(神)を礼拝するのを許せなかったヒランニャカシプのようなものです。今日、ドリタラーシュトラやヒランニャカシプのような親はたくさんいますが、自分の子供に正義を守るよう励ます親はほとんどいません。現代の子供たちは、『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』、『バーガヴァタム』のような道徳心を培う著作を喜びません。彼らはくだらない本を読んで時間を浪費しています。親は子供たちが悪書を読まないように配慮すべきです。もし国家が繁栄しなければならないのであれば、親たちから改善が始まらなければなりません。
ー1995年11月19日の御講話
*ドリタラーシュトラ:マハーバーラタに登場する盲目の王。主人公であるパーンダヴァ五人兄弟を苦しめたカウラヴァ百人兄弟の父。
*ヒランニャカシプ:インド神話に登場する魔王。神を信仰する息子のプラフラーダに力づくで改宗を迫り、ヴィシュヌ神の化身であるナラシンハ(人獅子)に滅ぼされた。
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月13日
人には二つのタイプがあります。一つは私は罪人だと自分で自分を責める人です。もう一つは私は偉いと自分で自分を誉めそやす人です。どちらのタイプも、自分自身の心が常軌を逸しているため、苦しみます!両者共に必要なのは、心の満足です。これは瞑想によって得ることができます。瞑想によって理解は深まり、英知が育まれるでしょう。このため人は、瞑想への関心を高め、瞑想を好きになるべきです。それは他の手段は一切認めず、いかなる障害物をも容認しないという切望です。もちろん、音楽を聴いて喜びを得たいと切望することもあれば、亡くなった近親者の遺体を見て悲しむこともあるでしょう!切望は、嬉しい結果をもたらすかもしれませんし、嫌な結果をもたらすかもしれません!切望には、努力を促す力がなければなりません。実のところ、切望するとは、まだ努力を始めていないということです。切望を行動に移すことが努力です。切望が弱いと努力をしなくなります。一方が強ければ、もう一方も能動的になるのです!
– Dhyana Vahini, Ch 3.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月14日
生きているということは、全存在を活性化させる生命原理が個人の中で働いていることを意味します。属性(グナ)のない神は、神の性質である特定の属性をまとい、サグナ(属性のあるもの)となります。このようにして形成された個人は、その心(マインド)と知覚感覚に触れたさまざまな名と姿を知り、体験しようとします。つまり、これが生きるプロセスであり、「知る」プロジェクトであり、己の意識を拡大することなのです。そのプロセスには始まりと終わりがあり、成功と失敗、善と悪が含まれます。「私はジーヴィ(個我)であり、生きた個です」「私は神性意識の火花です」「私はアートマ(真我)の化身です」ーーこのように宣言しても、生命原理の完全な知識は明らかになりません。ジーヴィは神性意識そのものであり、戦車に乗せられています。それは、ある姿に形成されて、ある名前を付けられた、不活性物質の塊ではありません。そこにあるのはすべてに行き渡っている一つの神性意識だけです。しかし人間はそれを断片的に経験して、たくさんあると勘違いし、自分自身の無知が引き起こした混乱の中で模索しています。
ー1985年3月22日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月15日
識別の道(ヴィチャーラ ・マールガ)をあきらめない人々は、主の恩寵を受けます。そしてアートマを悟ることにもなるのです。彼らは常に、この世界という夢のような幻影の背後にある永遠の真理を探し求め続けます。無秩序に動く感覚を制御しなさい。そうすれば、病気の原因はなくなります。その訓練を心(マインド)に監督させ続けなさい。思考や計画や構想という狂気の洪水を堰き止めなさい。そうすれば、心(マインド)の中に心配や不安の入り込む余地はなくなるでしょう。あなたの想念がさまようのを減らすために、神の御名を繰り返し唱えなさい。そうすれば、あなたの悲しみと悩みを追い出すことができるでしょう。心(マインド)が消失しなければ、霊的叡智 の夜明けはありません。完全者とは、このことに成功した人のことです。霊性志願者は、まず「内面を見る力」と「内に向かうビジョン」の秘訣を学び、外観から注意を逸らさなければなりません。
– Dhyana Vahini, Ch 3.
訳注:ヴィチャーラマールガは探求の道、と訳されることもあります。
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月16日
体に腫れ物(おでき)があれば、そこに軟膏を塗り、すべて治るまで包帯で覆います。もしこの腫れ物に軟膏を塗らず包帯を巻かなかったら、感染症となり、あとで大きなダメージを引き起こす可能性があります。時々、きれいな水で腫れ物を洗い、また軟膏を塗って、新しい包帯を巻く必要があるでしょう。それと同じように、私たちの人生には「私が」「私が」「私が」という形で体の中に現れる特有の腫れ物があるのです。この「私が」という腫れ物を本当に治したいのであれば、毎日、愛という水で洗い、信仰という軟膏を塗り、謙虚さという包帯を巻かなければなりません。謙虚さという包帯、信仰という軟膏、愛という水が、「私が」という腫れ物が噴出するこの病気を治すことができるのです。
ー1985年2月17日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月17日
赤ん坊が、見て学び、理解した後、家の中のあちこちでよちよち歩きをしようとするのと同じように、霊性志願者も、内面世界でのよちよち歩きを学び、それを理解するのです。ゆりかごの中にいる健康な赤ん坊は、手足を振っては喜び、壁のランプを見ては楽しそうな声を上げます。同様に、身体と心と魂が健全な霊性志願者も、人生というゆりかごに横たわりながら、内面世界を眺め、その内なる喜びに大喜びして、絶え間なく拍手します。このことが行われなければなりません。その上で、叡智という完全意識から、すべての思い、すべての言葉、すべての行いが始まらなければなりません。さまよい歩くことなく、常に内なる世界に住むよう、己の知性に指示しなさい!これが内なる探求です。このために必要な最も重要な道具が瞑想です。霊性志願者は、自省という門から内なる探求に入ることができます。その門は、謙虚さと帰依を授けられたすべての霊性志願者を、人生において可能な限り高く神聖な地位へと迎え入れます。
– Dhyana Vahini, Ch 3.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月18日
瞑想者は、アートマ的至福の実現を重視しますが、世界の安寧を促進することも等しく重要な目的です。その目的を達成するためには、特定の身体的傾向、言語的傾向、心理的傾向を制御しなければなりません。三つの身体的罪悪、四つの言語的罪悪、三つの心理的罪悪は、通常「十悪」として知られています。身体による罪悪は、
生命を傷つけること、不倫、窃盗です。言葉による罪悪は、間違った警報を鳴らすこと、残酷なことを口にすること、嫉妬しながら話すこと、嘘をつくことです。心による罪悪は、欲張り、妬み、神の否定です。瞑想の道を歩もうと志す人は、この十の敵が近づくことさえないように、あらゆる注意を払わなければなりません。これらは完全に排除されなければならないのです。人には、進歩を助ける傾向のみが必要であり、それを引きずり戻すような傾向は不要です。善のみが吉祥(マンガラ)であり、吉祥のみがシヴァなのですから、人は、善(シュバ)のみを口にし、行わなければなりません。
– Dhyana Vahini, Ch 4
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月23日
古代の人々は、話し言葉の節約を実践していました。現代の学生はおしゃべりになりがちです。話し過ぎは心(マインド)に害を及ぼします。「話を減らせば、幸福が増える」のです。古代人は、話し言葉を制御するために、三種類の沈黙苦行を実践しました。一つ目は「ヴァーク・モーナム(舌の沈黙)」、二つ目は「マノー・モーナム(心の沈黙)」、三つ目は「マハー・モーナム(至高の沈黙)」です。ヴァーク・モーナム、すなわち話し言葉における沈黙とは、その場の必要性や制限に応じて、自分が口にする言葉を一定限度内に留めることです。この修行によってしゃべり過ぎが回避された結果、彼らの話す言葉の力が保たれ、強化されました。そしてまた、言葉の修行の結果、真実に満たされることにもなったのです。真実のみを語ることは、彼らの想念を浄化するのに役立ちました。それによって、彼らはスィッディ(真理の悟り)とグニャーナ・スィッディ(最高叡知の獲得)を得ました。ですから、話す言葉が清らかであることは極めて重要なのです。それは、言葉を慎むことによって達成するしかありません。
ー1994年2月3日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月24日
舌の沈黙(ヴァーク・モーナム)を達成したら、次は心(マインド)の沈黙(マノー・モーナム)です。心(マインド)とは、思考や空想の束です。これらの思考は、徐々に減らしていかなければなりません。思考が減ると、巻き戻された時計のように、必然的に心(マインド)が制御されるようになります。心(マインド)の活動が減ると、アートマ(真我)の力が現れるようになります。その結果、感覚よりもブッディ(知性)がより活発になります。言葉の制御と心の制御が達成されれば、容易にマハー・モーナム(至高の沈黙)の境地に達します。学生たちは、最初の二つの段階を訓練することによって、第三の境地に達するよう努力しなければなりません。私はよく皆さんに「おしゃべりを減らして、もっと勉強しなさい」と言ってきました。「勉強」とはどういう意味でしょうか?勉強や教育は、己の真我を神我とするためのプロセスです。そのためには、教育において価値を育むことが肝要です。
ー1994年2月3日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月25日
アートマを実感認識するためには、善良な性格が不可欠です。別の言葉で言うと、すべての悪い性向を根こそぎ取り除かなければなりません。指揮官が倒れると、その軍隊は意気消沈して降伏します。それと同じように、利己主義(アハムカーラ)が滅ぼされるとすぐに、邪悪な性質という軍隊は武器を捨てて降伏します。あらゆる邪悪な性質は怒りという王国から生まれたのですから、その王国を壊滅させれば、兵士たちは二度と頭を上げられなくなります。これを達成するには、それだけで十分です。利己主義という司令官の命令に従って行進する兵士が一人もいないのなら、いったい彼に何ができるというのでしょう?ですから、軍犬を放とうとする司令官が一人も現れないように、怒りという王国を壊滅させることにすべての努力を向けなければなりません。この司令官とその兵士たちの台頭を阻止することによって、霊性志願者一人ひとりに己の心(マインド)という王国の平和を守らせなさい。アートマという王の微笑みの下で、霊性志願者一人ひとりに絶えず恩恵を受けさせなさい。
– Dhyana Vahini, Ch 5.
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月26日
国家は世界の一部です。世界の人々は平和のために努力すべきです。それが祈りの言葉「オーム・シャーンティ・シャーンティ・シャーンティ」が意味するところです。なぜ、このシャーンティ(平和・平安)は三回だけ唱えられて、それ以上でもそれ以下でもないのでしょうか?これは、平安の三つの側面、すなわちアーディバウティカ(肉体的)、アーディヤートミカ(心的)、アーディダイヴィカ(霊的)に言及しています。この祈りによって、体と心と真我に関連する平安が引き起こされます。バーラタ(インド)の賢者たちの言葉には、このような深淵なる意味が込められているのです。これらは、私たちに神を思い起こさせ、神我実現を求めさせるためにあります。人々は、神は人間の概念や把握をはるかに超えた存在であると想像しています。それは真実ではありません。神性はこの世にあるどんなものよりも身近な存在です。もしあなたが遠くにあると思えば、それは遠くに見えるでしょうが、近くにあると思えば、それは近くにあるのです!肉体を意識している限り、人は無相の神性を理解できません。それゆえ人は、人間の姿をした神を崇めざるを得ないのです。
ー1994年2月3日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月27日
人間は、穏やかで清らかな生活を送るために、ひたむきに努力を重ねなければなりません。悩みや混乱は過ぎ行く雲のように一時的なものであるという真理を理解しなければなりません。この真理を悟れば、煩悩が生じる余地はなくなります。情熱は一時的な満足をもたらすだけで、深刻な感情の乱れを引き起こします。そのため、食事中にいかなる不適切な情熱をも生じさせないことが、人間として必要不可欠です。三つのP、すなわち、純粋性(purity)、忍耐 (patience)、不屈の努力(perseverance)を遵守すれば、永続する幸福と、病気とは無縁の健康がもたらされます。人間の健康を害するのは、抑えの効かない情熱だけではありません。不正に得たお金で生活することも、ある程度は健康を害する原因となります。「心は食べる物のとおりになる。思考は心のあり方のとおりになる。日頃の行いは思考のとおりになる。健康は日頃の行いのとおりになる」と言われています。
ー1994年1月21日の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月28日
「寒さ」も「暑さ」も神の計画の中にあります。あなたにできるのは、それを知り、両方を価値あるものとして扱うことだけです。自然界には、棘のある植物と棘のない植物の両方が存在しており、賢い人はどちらの価値も知っています。彼は棘のない植物を植え、その周りを棘のある植物で囲みます。そうすれば、自分が育てた植物を傷つけずに済みます。人は神に引き寄せられます。両者の本質にはこの親和性があります。なぜなら両者は同じであるからです。それは鉄と磁石のようなものです。しかし、鉄が錆びていたり、汚れの層に覆われたりすると、磁石に引き付けられません。その障害物を取り除きなさい。それがあなたのすべきことの全てです。試練や苦難は、この洗浄が行われるための手段です。クンティーが「あなたを決して忘れないように、私たちにいつも悲しみを与えてください」とクリシュナに祈ったのはそのためです。それらは、神を思い起こすナーマスマラナという薬の効果を補うために医師が指示する食事制限やその他の制限事項のようなものです。
-1953年10月21日、ヴィジャヤダシャミー祭での御講話
クンティー:叙事詩『マハーバーラタ』の登場人物。パーンドゥ王の妃で、カルナ、ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナの母。ナクラ、サハデーヴァの育ての親。
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月29日
主は万人の父であり、すべての人がその財産の分け前を請求することができます。しかし、それを得るためには、知性と識別心が一定の水準に達していなければなりません。意志薄弱で不謹慎な人物は、この財産を受け取るのにふさわしくないとみなされるかもしれません。主の財産は神の愛、純粋な愛です。もし識別心と離欲を備えているならば、あなたは自分の分け前を権利として主張することができます !帰依心を持参して、ここに置きなさい。そしてここから霊的な強さを受け取りなさい!このようなビジネスが行われれば行われるほど、私は嬉しくなるのです!あなたの持っているもの、あなたの悲しみや嘆き、心配や不安を持参し、私から喜びと平安、勇気と自信を受け取りなさい。私の見解では、帰依者の間には先輩も後輩もありません。母親は、病気の子供の世話に多くの時間を費やします。母親は、年長の子供たちには自分で自分の世話をするよう頼みますが、幼い子供たちには自分の手で食事をさせます。だからといって、彼女が成長した子供たちに対する愛情を持っていないわけではありません!同じように、私がある人に注意を払っていないように見えたとしてぁ
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ー1955年3月6日、マハーシヴァラートリ祭の御講話
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月30日
現代は、カリユガの影響により、二種類の病気が増えています。一つは飽くなき富への渇望です。あらゆる都市に、お金を儲けるための狂奔があります。誰もがこの流行に巻き込まれているのです。確かにお金は必要です。しかしそれは、その人の必要を満たす範囲までです。過剰な欲望のために、人々はバランス感覚を失っています。富を追い求めるうちに、人間は魔物となります。どちらにせよ、彼らはその莫大な富を有効活用しているのでは?と問われるかもしれません。いいえ。そのお金は最終的に強盗などの手に渡る可能性もあります。社会から得たものは、社会に返しなさい。それが、誰もが大切にすべき第一の価値です。第二の病は、権力への渇望です。これら二つの病に冒された人間が、全世界を狂気の館へと変えているのです。富や権力を望むこと、それ自体は間違いではありません。しかし、富と権力は正しい目的のために使われるべきなのです。あなたがどのような地位にあろうとも、それが価値あるものとして使われるように気をつけなさい。
ー1997年4月7日の御講話
カリユガ:悪魔カリの時代(ユガ)。古代インド哲学では、四つのユガが循環すると考えていた。その一つがカリユガ。末世。末法。
プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年3月31日
自然界にあるすべての物は、その特定の機能を果たしています。太陽と月は絶え間なくその務めを果たしています。神もまた、休んだり中断したりすることなく、その務めを果たしています。川は海に向かって流れることで、目的地にたどり着くまで努力をあきらめてはならないという教訓を伝えます。人は、落ち着いた精神で正しい行いに関わるべきです。人生には、良いことも悪いことも、浮き沈みもあります。悪いことは無視し、良いことを楽しみなさい。かご一杯分のマンゴーを買うと、熟しすぎて腐った実が混ざっていることもあります。皆さんは痛んだものを放置して、良いものを消費します。同じように、人生においても、悪い経験は忘れ、良い経験は生かすべきです。人間は、そうしようとはせず、悪かった経験についてくよくよと考え込み、ようやく巡って来た良い経験も台無しにしています。これは弱さの表れです。人間の一生は、良い経験、悪い経験、喜び、悲しみの連続です。時間と場所という変化しやすい条件が、それらの経験を左右しているのです!
ー1991年3月17日の御講話