Japanese, 2022年2月

プラシャーンティ・ニラヤムからの今日の御言葉 (2022年2月1日)

教育とは、空の袋に詰め物をし、その中身を出して、また空の袋を作るようなものと考えてはいけません。教育によって満たされなければならないのは、頭脳ではありません。教育によって浄化され、拡大され、照らされなければならないのは心(ハート)なのです。教育は 「人生」のためのものであり、「生計を立てる」ためのものではありません。教育を受けた人間の証は、まだ探求されていない広大な未知の世界について、自分がほとんど知らないという謙虚さです。教育を受けた人間は、自分には特権よりも義務があり、権利よりも義務があることを自覚しなければなりません。自分が置かれている社会と、先祖から受け継いだ遺産に奉仕しなければなりません。奉仕することを喜びとすべきであり、支配することを望んではなりません。奉仕は神であり、奉仕が人生を価値あるものにするからです。奉仕は、己の技術、知性、力、資源を活用する最良の方法なのです。

– 1973年4月1日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 (2022年2月2日)

束縛をもたらす行動には、外側にある物に関連した行動すべてが含まれます。このような行動は、通常、成果を求めて行われます。この成果への渇望が人を「私が」「私のもの」という泥沼と、欲望と貪欲という悪魔へと導くのです。このような道をたどるなら、清澄なバター(ギー)を供犠の火に注いだときのように、突然の炎に見舞われることになるでしょう。感覚の対象(ヴィシャヤ)を優先することは、毒(ヴィーシャ)を優先することと同じです!しかし、そのような活動や感覚器官の対象物に没頭している間に、成果や結果に関心を抱かないのであれば、「私が」「私のもの」という意識や貪欲や欲望を克服できるだけでなく、そうした特性から遠く離れることができます! そのような特性に悩まされることは決してありません。解脱をもたらす行動は、純粋で、欠点がなく、無欲で、揺るぎないものです。ギーターの中で詳細に説明されている、成果を求めない行為(ニシュカーマ・カルマ)という考えを重視しているのが、その特徴です。

– Dhyana Vahini, Ch 1.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 (2022年2月3日)

あなたは疑いやプライド、偏見によって視野が狭くなっているので、自分の中にも外にもいる神を見ることができないでいます。あなたはないものに憧れ、自分の手の届くところにある宝物を無視しています。あなたは、自分の手には鳥がいないと誓い、藪の中で自分を待っていると信じる鳥を探すのに必死です。藪の中の鳥は、あなたが既に手にしている鳥のイメージに過ぎないのですが、あなたはこの真実に気づいていません。あなたは、感覚とそれによって得られる知識を信じ、自分の心(マインド)が生み出す空想や想像を信じ、自分の理性による結論を信じています。しかし、これらに束縛されることなく、これらによって見出すことのできない神を信じていません。だからあなたは恐れ、嘆き、疑うのです。『神を思う』という蚊帳をあなたの周囲に張り巡らせなさい。そうすれば欲望や不信という致命傷をもたらす蚊に襲われることはありません。その蚊帳があれば、あなたは病気を免れ、健康を得ることができるでしょう。何かに恋焦がれたり、何かを恐れたりすることがなくなり、乱されることのない安心感を覚えるでしょう。

ー1973年4月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 (2022年2月4日)

ニシュカーマ カルマ(結果を望むことなく行為を行う)という修行の実践は、真理、正義、平安、愛を発展させることにつながります。この道を歩んでいる間に、主の御名を繰り返し思い起こす修行にも取り組むのであれば、それ以上の喜びと至福を与えるものが何か他にあるでしょうか?それは完全なる満足感をもたらすでしょう。この神聖な道を歩むならば、必要なもの、ふさわしいもの、心の平安をもたらすものをすべて、主が自ら授けるでしょう。結果を一切求めることなく、すべてのものを主に捧げなさい。まさにそれが完全な喜びをもたらすでしょう。そして実際に、それが最も簡単なのです。真実を語らず、ダルマに反する行為をすることは非常に困難です。しかし一方で、真実を語り、ダルマの道を歩むことは非常に簡単です。物事をありのままに述べるのは心地よい作業です。それについて一瞬たりとも考える必要はありません。ですから、このようなあらゆる悩みや複雑な問題をもたらす感覚的行為に従うのではなく、解脱へと導く行為、つまり真実で永遠で神聖なる真我至福の道(アートマ アーナンダ マールガ)に従いなさい。

– Dhyana Vahini, Ch 1

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月5日

神は喜びと嘆きの両方の創始者です。神の意志がなければ、草の一本たりとも風の中で揺れることはできません。この真理がハートにしっかりと定着すれば、人は解脱という唯一無二の至福を手に入れることができます。神はすべてを与えます。私たちが得るものはすべて神の恩寵です。あなたには、自分が得たものが良いか悪いかを判断する権利はありません。あなたの中に神をしっかりと定着させるためには、神の像や絵(写真)を礼拝したり、神の栄光を瞑想したり、神の御名を唱えたりすることすべてが、サーダナ(霊性修行)の準備段階として役に立ちます。私は、神を求めて崇拝される寺院や礼拝所、祭壇、神社が必要ないと言っているのではありません。文字を習得するまでは、入門書に絵が必要です。『A』という文字は、その上に印刷されているリンゴ(Apple)の絵と関連づけて学習します。だからといって『A』を考えるたびに、そのリンゴを思い出さなければならないと強制されているわけではありません。
                                                                  – 1973年4月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月6日

心は一つの方向に集中させなければなりません。人々は自分に定められた目標や成就のためにあらゆる努力をしながら、確固たる決意をもって歩まねばなりません。これが為されれば、どんな力も人々を引き戻すことはできず、本来の地位を獲得できるのです。四方八方に逃げていく気まぐれな心に、主の御名を黙想させなさい。それは、虫眼鏡で太陽光を集中させるような効果をもたらすでしょう。散らばっていた光線たちは、炎の力を得て、燃やし尽くします。それと同じように、知性の高まりと心(マインド)が感じる気持ちが、アートマという収束レンズを通して一点に集中すると、それらは悪を焼き尽くし、喜びを照らすことのできる普遍的な神の輝きとして顕現します。一点集中がありさえすれば、誰でも自分の職業や職場で成功を得ることができます。どんなに些細な仕事であっても、それを達成させるには上質の集中が必要です。どんなに困難な問題であっても、揺るぎない努力の前ではすべて押し流されます。

– Dhyana Vahini, Ch 1.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月7日

神に執着しなさい。神の存在を感じ、神の栄光を喜びなさい。神が認めない行為や言葉によって、神を落胆させたり、嘆かせないようにしなさい。神にわずかでも『煩わしさ』や『心配』を与えてはいけません。神は何も持っていませんが、もしあなたが神を深く愛し、神は自分の主であり愛であると思うなら、あなたは神のことに気を配るようになるでしょう。ジャターユは、絶え間なくラーマのことを思い続け、ラーマによって報われました。ラーマは彼の最期の瞬間にやってきて、彼の最後の儀式を自ら執り行いました。それはラーマが自分の父親に対してさえも直接行わなかった義務だったのです。パーンダヴァ兄弟の代理として和平交渉に赴いたクリシュナがドゥルヨーダナの宮廷から戻ると、サハーデーヴァがクリシュナに言いました。「主よ、お許しください。悪党どもが耳を貸さないのはわかっていたので、悪の巣窟へと向かおうとするあなたを私は自ら進んで止めましたが、あなたはとても親切にしてくださいました。」神はあなたに仕えます。あなたが己の人格を培い、内面を磨いて、そこに神が反映されるようにすれば、神はあなたを救い、永遠にあなたの味方になるでし�
�ょう。

– 1967年1月14日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月8日

人は無限の力を授けられています。それがない人は一人もいません。しかし、この真理を知らないでいると、道を踏み外すことになります。この力に気づくためには、聖なる人々の仲間に加わり、霊性修行(サーダナ)に励み、神の御名を繰り返し唱え、瞑想しなければなりません。たとえ、あなたがたくさんの食材をふんだんに持っていたとしても、それらを美味しく料理する方法を知らなかったら、いったい何の役に立つのでしょう?同じように、人々は己を良い状態に保ち、進歩するために必要なすべてを備えているのに、それらを役立てるプロセスを知らないため、それらを安易に放棄し、使わないままにしています。人々は、この世に存在する名と姿を持った多種多様なすべてのものの基礎である唯一無二の普遍的力(シャクティ)を見、理解しようと努めなければなりません。心(マインド)はいつも揺れ動きます。瞑想は、集中力を身につけるために心(マインド)を訓練するプロセスです。

– Dhyana Vahini, Ch 1

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月9日

神の御心のままにーこれがあなた方の指針であるべきです。チョーラ朝の皇帝が、かねがね評判を聞いていたスリランガム・ゴープラム寺院を訪れようとしました。彼は馬車を用意し、六ヶ月の間に何度も行こうとしましたが、そのたびに黄土色の衣をまとい、首にロザリオをかけ、頭に光輪をつけた出家者に遮られてしまいました。出家者に敬意を表するため、皇帝は馬車を下りました。出家者と話し始めると、その話はあまりにも魅力的で、皇帝は自分が旅をしていることも、どこに向かっているのかも忘れてしまいました。ある日、スリランガムの栄光を目に焼き付けられなかったことを皇帝が嘆いていると、彼の前に主が現れて言いました。「あなたはなぜ嘆くのか。あなたがスリランガムを目指して出発した途端、何度もあなたのところに来た師は私である。すべての中に私がいると認識しなさい。それこそがスリランガムへの真の巡礼である。」あなたが出会うすべての人は、スリランガムの主、あなたの師であると思いなさい。あなたのもとへ来る人すべてに対して、汚れなき愛を示しなさい。

ー1967年1月14日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月10日

至高のアートマ(パラマートマ)を瞑想した結果、心は感覚や物、感覚的な世界から退きます。まさにその時、知性(ブッディ)がその権威を主張し、基本的原理を思う以外の感情を抱かないよう、心に命じなければなりません。その基本的な真理がわかれば、心は儚いもの、真実でないもの、至福でないものに惑わされなくなるでしょう。それよりむしろ、喜び、幸福、真理の開花を受け入れて、悲しみや嘆きには影響されなくなるでしょう。瞑想によって浄化され変容した心(マナス)と知性(ブッディ)を通じて、至高の実在(サッチダーナンダ)に覚醒した状態で、至福をイメージし、実感認識すると、その人の命は新たな輝きを帯びます。果物の味が明らかになるのは、一部を残さずに丸ごと全部を食べた時です!同じように、瞑想を体験すれば、それに関する疑念や議論をすべて放棄して、人は完全に瞑想に没頭するようになるでしょう。

– Dhyana Vahini, Ch 1

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月11日

あるところに、娘の結婚式で行われる祭列のために、年老いた象を借りた男がいました。結婚式が終わって、祭列が家に戻り、花嫁が象から降りた瞬間、その象は倒れて死んでしまいました。象の飼い主は、この知らせにショックを受け、不可抗力の不運であったと認めることを拒絶し、同じ象を生きたまま返せと主張しました。飼い主は裁判所にこの問題を訴え出ました。裁判官は、強欲な飼い主が通らなければならないドアの背後に、素焼きの壺をいくつか置いておきました。飼い主がドアを開けると、それらは全部割れてしまいました。裁判官は飼い主に、それらの壺を元に戻すよう求めました!その結果、飼い主は分別をわきまえるようになりました。このような狂信的な愚かさを抱いてはなりません。わずかなりとも残っている識別心を使って、その厳しさを緩和しなさい。道理をわきまえ、他者を思いやり、共感し、他の視点に対して寛容でありなさい!これらのことについて、日ごとに自分自身を向上させなさい。

ー1967年1月14日の御講話

プラシャーンティニラヤムからの御言葉 – 2022年2月12日

瞑想は、熱心に、十分な信仰と配慮をもって、定められた規律に厳密に従いながら行われるべきです。そうすれば、あらゆる幸福やあらゆる勝利だけでなく、主のビジョンさえも授かることができるでしょう。これは、至高の霊性科学(ヴェーダーンタ)と結びついており、自然(プラクリティ)科学とも結びついているのです。この二つの違いはただ一点だけです。自然(プラクリティ)を研究する人々はこの世にある物体に夢中で、ヴェーダーンタを研究する人々は人生の根本をなす真理に夢中になっています。そして、すべての人はその両方に縛られているのです!自然は感覚の対象(ヴィシャヤ)に関係し、ヴェーダーンタは己の実在(スワールパ)に関係しています。もし人々が、己の人生を内面的にも外面的にも素晴らしいものに変えたいと願うのであれば、彼らが取り入れられる中で最高の霊性修行(サーダナ)は瞑想です!

– Dhyana Vahini, Ch 1

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月13日

人間は常に、官能的快楽の毒水を飲みたいという、別種の渇きに悩まされています。あなた方それぞれが、己を脅かす六つの敵、カーマ(欲望)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)、モーハ(迷妄)、マダ(高慢)、マーッサリヤ(嫉妬)を完全に手放した全託の後に、戴冠する資格を得ます。これらの手強い敵がまだ己の中にいる状態で王冠をかぶると、眉の上に宝石ではなく石を載せることになります。真の戴冠式は、ラーマの仲介で行われたヴィビーシャナの戴冠式です。その地位は全託と犠牲によって得られました。自転車のタイヤのチューブは、路上に釘があるとパンクします。「私が」と「私のもの」は、人間の進歩をパンクさせる二本の釘です。人間の側近は、ヴィヴェーカ(識別心)とヴァイラーギャ(無執着)の二人です。彼らの強さを保ち、全面的に従いなさい。なぜなら彼らは、あなたが傷つくことなく、喜びに満ちて生きるよう助けてくれるからです!

ー1967年1月14日の御講話

プラシャーンティニラヤムからの御言葉 – 2022年2月14日

ジャパ(御名を繰り返し唱えること)や瞑想の目的について、人ははっきりと知っておかなければなりません。この知識がない人々は、自分は客観的世界と結びついていて世俗的な欲望を満たすことができると信じ、感覚的なメリットという手段を用いて己の価値を実証したいと望みます。これは重大な誤りです。ジャパと瞑想は、神への一点集中を身につけ、感覚的執着を捨て、感覚的な事物すべての基盤である「それ」から得られる喜びを獲得するためのものなのです。心(マインド)がハエのように分別なくあらゆる方向にさまようべきではありません。ハエは、菓子店にいたかと思えば、ゴミ収集車を追いかけたりします。そんな知恵足らずのハエには、第一の場所の甘さと第二の場所の不潔さが理解できるよう教えなければなりません。そうすれば、菓子店から抜け出してゴミ収集車を追いかけることはなくなるでしょう。このような教えが心(マインド)に伝わる時、それが瞑想なのです

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月15日

あなたが神に献身するのはあなた自身のためです。あなたがどんな御名や御姿の主を礼拝しようとも、主は応えてくれるでしょう。主はすべてを提供し、あらゆる願いをかなえます。帰依者が窮地にあろうと、何らかの物を切望しようとも、求道者であろうとも、グニャーニ(叡智者)であろうとも、神はその人の帰依の度合いに応じた対応をします。神性の化身である皆さん!神を実感認識するためには、愛が最も簡単な道です。月の光があって初めて月を見ることができるように、愛の化身である神には愛を通じて到達できます。愛をあなたの生命の息吹とみなしなさい。愛は、創造のプロセスにおいて最初に出現した性質です。他のすべての性質は愛の後に現れました。ですから、あなたのハートを愛で満たし、あなたの人生の基盤を愛としなさい。

ー1986年11月23日の御講話

プラシャーンティニラヤムからの御言葉 – 2022年2月16日

主は神の財産と力をすべてあなた方に授けています。あなた方はこの財産の相続人であり、その財産が何であるかを見出さなければなりません。サイの財産は、純粋で無私で限りなき愛です。あなた方が目にしている建造物は、サイの財産ではありません。あなた方はこの愛を継承し、それで自分自身を満たし、それを世界に示さなければなりません。これが、サイの帰依者としてのあなた方の最高の責任です。全能で遍在で全知の主に、あなた方が捧げることができるものは何でしょう?あなた方が神に捧げるさまざまな物事は、迷妄によって与えられています。宇宙に遍満する主が一寺院の中に閉じ込められるでしょうか?十億個の太陽の輝きを持つお方のために、あなた方がどんな灯りをともすことができるというのですか?主の真理は、ブラフマーやハラ(シヴァ神)の理解をも超えています。どうして他の人が主を理解することができるでしょう?万物であるお方にどんなお名前をつけることができるのでしょう?胃の中に宇宙を保持するお方に、あなた方がどんな食べ物を捧げることができるというのでしょうか?

ー1986年11月23日の御講話

プラシャーンティニラヤムからの御言葉 – 2022年2月17日

ミツバチを見なさい。ミツバチは甘さだけに触れ、蜜をもつ花のみに近寄ります。他の場所に引き寄せられることはなく、そのようなところにはまったく行きません。同様に人は、感覚を魅了するもののへ向かおうとする傾向、真実ではなく永続することもないガラクタに向かおうとする傾向を、すべて手放さなければなりません。できる限り、主と関連した甘さと喜びをもたらす、聖なるものすべてに心を向けなければなりません。もちろん、これらを達成するには時間が必要です。その時間がどのくらいになるかは、思いと言葉と行動という活動、それらの行為を促す動機によります。自我という考えを捨て去ることができたかどうかを深く検討すれば、自分がどれだけ進歩したか判断することができます!そのようにせず、勘定をして、費やした時間とかかった費用を合計しているようであれば、そのような瞑想は客観的な世界にだけ属しています。それが主観的・霊的な領域に入ることは決してあり得ません!

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月18日

人間の思考は、さまざまな種類の執着(ラーガ)と憎悪(ドウェーシャ)に満ちています。執着と憎悪は、人間の中で優勢な性質です。それらは人間の生活に取り憑く凶星です。あるとき、シュリ・シャンカラーチャーリヤの弟子のトータカが師に尋ねました。「師よ、この世で最も偉大な征服者とみなされるのは誰ですか?」シュリ・シャンカラーチャーリヤは答えました。「数々の王国を征服した者や、ヒマラヤに登頂した者、あらゆる知識を習得した者ではなく、己の感覚の制御を達成した者こそが最も偉大な征服者なのです。」プラフラーダは父であるヒランニャカシプに「父上は三界を征服したいとお考えですが、ご自身の感覚を制御することには失敗なさっておいでです」と告げました。怒りや憎しみなどの内なる敵を制圧してない者が、どうして外敵を征服することを望めるでしょう?内なる敵は、ただ一つの手段、愛によってのみ制圧することができます。愛を実践し、六つの内なる敵を制し、すべての行動を神に捧げることによって、人生を価値あるものにすることが大切です。

ー1986年11月23日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月19日

ジャパ(神の御名を繰り返し唱えること)やディヤーナ(瞑想)を、単なる外的基準で判断してはなりません。それらの本質は、アートマとの関係です。不滅のアートマ体験が、現世の低俗な活動と混同されてはなりません。このような活動は避けるべきです。それらに機会を与え、焦りと怠惰の間で揺れ動き、「なぜまだ来ないのか?なぜまだ遠いのか?」と常に気にしているようであれば、それは成果が念頭にあり、獲得しようという意図をもって行われる単なるジャパとディヤーナとなります。ジャパとディヤーナの唯一の成果は、外向きから内向きへの転換であり、己の目を内面に向けることであり、内面に向かう目がアートマ的至福という実在を経験することです。この変容が起こるためには、時間がかかろうとも、困難に遭遇しようとも、常に活動的で希望に満ちていなければなりません。費用や時間や困りごとを数え上げずに、主の恩寵が降り注ぐのを待つべきです。この忍耐強く待つことが、瞑想という苦行(タパス)そのものなのです。

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月20日

人間は本質的には神です。さまざまな要因のために、人間は己が本来持っている神性(サット・チット・アーナンダ)を忘れる傾向にあります。人間の中にある神性を覆い隠している無知というベールは、簡単には取り除けません。富も地位も学問も、このもやもやを取り除くことはできません。アートマ・グニャーナ(真我の知識)だけが、その治療薬を提供することができます。あなた方は、財産や地位や繁栄から得られる快楽に惑わされてはなりません。これらは一過性のものであり、来ては去っていきます。人間の生活には、親類縁者のように、苦楽がついて回ります。人間は、己の本性を悟り、生来の神性を体験するよう努め、その時々の誘惑に屈しないようにしなければなりません。苦しみも喜びも偽者です。それらに迷わされてはなりません。真我は時間と空間を超越しています。それは永遠で不変です。古来永遠の哲学のメッセージは、真我の本質の探究です。それは人間の第一の義務でもあります。

ー1986年11月23日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月21日

人間は、己の真の本性に目覚め、それを確立しなければなりません。さもなければ、その名を名乗る資格はなくなります。火が燃えなかったり、水が流れなかったりしたら、その名を名乗ることができますか?真正であるということは、最も深いところにある中心のとおりであるということです。人間は己の本性として真理をもっています。つまり、人間の行動は常に真実であるべきなのです。彼は、心からの言葉だけを口にするでしょう。同様に、人間は己の言葉のとおりに行動すべきです。彼の思いと言葉と行動は首尾一貫しており、互いを相補うものであるべきです。もし、このような一貫性がない場合は、その人は見た目だけの人間です。というのは、獣は思いや言葉という責任に縛られないからです。天地創造の万物は変化の法則に従うものであり、人間もまたその法則に従うことになっています。しかし人間は、進歩のためにその法則を使うべきであり、下位に滑り落ちるために使うべきではありません。ダルマ(正義)は、人間が遵守しなければならない規範であり、それによって人間は良い存在からより良い存在へ、より良い存在から最高の存在へと変わります。

ー1975年4月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月22日

霊性志願者が瞑想の道に入ろうとする場合、三つの道があります。純粋で穏やかなサトウィック(浄性)の道においては、ジャパ(唱名)と瞑想を義務として考え、そのためならどんな苦労にも耐えます。すべては迷妄であると確信し、どんな状況下にあっても、いついかなる時にも、善だけを行います。万人の幸福だけを望み、常に皆に愛情を注ぎます。絶えず主を思い、瞑想しながら時を過ごします。唱名や瞑想の成果さえも求めず、すべてを主に委ねます。情熱的で落ち着きのないラジャスィック(激性)の道では、あらゆる段階において己の行動の成果を渇望します。もしその成果が得られなかった場合、霊性志願者は次第に気の緩みと嫌気に押し切られるようになり、唱名と瞑想のことを徐々に忘れていきます。もっと悪いのは、無知なタマスィック(鈍性)の道で、主を思い出すのは、危機に陥った時や激痛に苦しんでいる時、あるいは損失や苦痛の犠牲となっている時だけです!

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月23日

ブッディ(知性)は、賢く清らかで正しい状態に保たれなければなりません。知性が人間を導く四つの傾向があります。(一)スワールタ・スカ・ブッディ(Swartha-sukha-buddhi)は、完全に自分本位な性質を意味します。個人は妻子でさえも気にかけず、何よりもまず自分自身の欲求を満たすことに熱心になるのです。(二)スワールタ・パラールタ・スカ・ブッディ(Swartha-parartha-sukha-buddhi )は、他の人の幸福もある程度考慮することができます。(三)パラールタ・ブッディ(Parartha-buddhi)がある人々は、自分自身が求める幸福と同程度の幸福を、他の人のためにも探し求めます。自分に幸福をもたらすと感じているものを、他の人にも確保するためなら、どんな苦労も厭いません。(四)アーディヤートミック・ブッディ(Adhyatmic-buddhi)である霊的知性は、人間を放棄と奉仕の道へと導きます。その二つだけが霊性向上へと導くからです。霊的知性は、創造の一体性を認識しており、他の人が感じていることを自分も同じ程度に感じるのです。

ー1975年4月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月24日

今はほとんどの人が、神の御名を唱え瞑想する時に、情熱的で落ち着きのないラジャス(激性)の道と、退屈で無知蒙昧なタマス(鈍性)の道だけをたどっています。しかし、神の御名を唱え瞑想する目的は、心(マインド)と知性の浄化に他なりません。これを成し遂げるためには、最初に純粋で穏やかなサトワ(浄性)の瞑想の道に入ることが最も良いのです。心(マインド)と知性が純粋になると、その人々は真我(アートマ)の理解という輝きを放つようになります。この理解が完全に輝いている人は賢者(リシ)と呼ばれます。「ブラフマヴィッド・ブラフメーヴァ・バヴァティ(Brahmavid Brahmaiva bhavati)アートマを知る者はアートマそのものになる。」人生の目標、すなわち人生を価値あるものにするのは、アートマ(真我)の理解です。もしくは別の言葉で言うならば、個我(ジーヴァ)の基盤の理解です。

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月25日

あなたが神の愛を勝ち得たとき、神の慈悲があなたの中に流れ込むでしょう。愛は与え、許します。エゴは獲得し、忘れます。息子が家からお金を盗んだとしても、あなたは彼を警察に引き渡したりはしません。しかし使用人がスプーンを盗んだら、ためらわずにそうするでしょう。なぜなら、あなたにはその使用人に対する愛がないからです。他人を憎むことなく、他人を非難することなく、他人の欠点をあら探しすることなく生きなさい。十八の膨大なプラーナ(古潭集)を著したヴィヤーサ仙は、すべてのプラーナを一篇の二行句にまとめました。「他人に善を行うことは唯一の功徳ある行為であり、悪を行うことは最も悪質な罪である。」自分には善行はできない、と感じるのなら、少なくとも悪い行いをやめなさい。それ自体が賞賛に値する奉仕です!差異を見つけ出そうとしてはなりません。一体性を見出しなさい。人生の目的は、愛を介して愛の化身である神を知り、神を知ったことを自分の愛を通して示すことなのだと理解しなさい。

ー1975年4月4日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月26日

体の姿勢と心の姿勢には密接な相互関係があります。ですから肉体を見れば、その人の内面にある気分が明らかになります。その気分に気づく手助けとなるのは、肉体の姿勢や外見です。一例を挙げましょう。身構え、シャツの袖を捲り上げ、拳を握り締めていたら、愛や帰依心を示すことはできません。ひざまずき、目を半分閉じ、合掌した手を頭上に上げながら、怒りや憎しみや残酷さを示すことできるでしょうか?それゆえ、古の賢人は霊性志願者に、祈りと瞑想においては適切な身体姿勢を取ることが必須であると指導したのです。彼らは、この方法によって心の迷いを制御することが可能になると考えていました。         

– Dhyana Vahini, Ch 2.

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月27日

皆さんは、私たちが通り過ぎているこのカリの時代の特徴に完全に気づいています。皆さんの周囲には不正、不法行為、不道徳、虚偽など、ありとあらゆる悪魔的属性や残虐行為があります。しかし、これらすべてがあったとしても、私たちは生きとし生けるものに対して静かで寛容で温和な態度を示しながら前に進まなければなりません。人生のあらゆる分野と部門はこうした有害な感情で汚染されていますが、教育の分野においてはそれが最も顕著であり、私たちの特別な注意が必要です。私たちはまず、親や生徒や教師がなぜ反学問的な活動に積極的に参加しているのか、その原因を探ってみる必要があります。その主な理由は、人間の心が、利己心と野心という二つの悪魔的な汚れに取り憑かれ、支配されているからです。これらの力が、人間性を培うために必要な人間的価値の実現を阻んでいます。一粒の石炭ほどしか価値のない世俗的欲望や野望のために、宝石のように貴重な価値ある人生を差し出すことは、人間としてあるまじきことです。
                                                                                                                                       ー1975年4月10日の御講話

プラシャーンティ ニラヤムからの御言葉 – 2022年2月28日

プルシャ スークタム〔プルシャ讃歌〕は、「チャンドラマー マナソー ジャータハ」(心は月から生じた)と謳っています。月には16の相があります。それと同じく、心にも16の相があります。シヴァラートリの夜には、月の16相のうち15の相は目に見えず、一つの相が見えるだけです。心もそれと同じ状態にあります。もしシヴァラートリの間に神を瞑想するなら、神に近づくことができます。シヴァラートリのこの上ない神聖さは、神を瞑想することによって神と一つになることにあります。あなたが否定していることは真実であり、神だけが存在しているのです。世界は実際には存在しません。その真実を忘れて、人はつかの間のものを追い求めることに没頭しています。世界は神の映しとして見なければいけません。あらゆる行いを神への捧げものとして行わなければなりません。本物の神の信者は、宗教やカーストや宗派の違いを重視してこだわるようなことはすべきではありません。そういったものは、ただの名と姿の違いにすぎません。帰依者は、神聖なるシヴァの本質が万人の中に存在していることを悟り、何人も見下さず、何人も傷つけてはなりぁ
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ー1983年2月11日の御講話